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9-5-6 スペイン王位をめぐって

2024-06-16 01:20:58 | 世界史

(挿絵はフェリペ5世)

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
6 スペイン王位をめぐって

 ハブスブルク家のスペイン王カルロス二世(在位一六六五~一七〇〇)は、二度結婚したが、子供がなかった。
 当時のスペインは十六世紀以来、衰えたりとはいえ、本国のほかにイタリア、ネーデルラント方面に領土をもち、また中南米の植民地、フィリピンなどをも領有していた。
 このスペインの王位相続はヨーロッパ諸国の関心の的である。
 そこでフランス、イギリス、オランダのあいだに、スペイン領を分割してそれぞれ統治者をたてることがきめられた。               

 しかしこれを不満とするカルロス二世は、スペインの領土保全を目的として、血統上関係があるルイ十四世の孫、十八歳のアンジュー公フィリップを王位継承者と遺言した。
 それは死の三週間前のことであり、一七〇〇年十一月一日、王は最後の息をひきとった。
 スペイン領分割協定によれば、このアンジュー公フィリップと、オーストリアのハブスブルク家のカール大公が領土を分けることになっていた。
 ところがオーストリア側はこの協定に同意せず、全スペイン領をカールにあたえたいと望んでいた。
 マントノン夫人も出席した会議では、遺言受諾へ反対論もあったが、もし拒否すれば、カール大公にスペイン主位がまわる恐れもある。
 一時は決定を保留したルイ十四世は、ついに断を下して、分割協定を破棄した。
 ベルサイユ宮廷で、ルイ十四世から返答をえたスペイン大使は、アンジュー公の前にひざまずき、その手に接吻していった。
 「もはやピレネーは存在しなくなりました。」
 あいにくアンジュー公はスペイン語ができなかったので、これに代わってルイ十四世は、流暢なこの言葉で謝辞を述べた。
 それから王は群がる廷臣たちに、声高らかに披露した。
 「ここにスペイン王がいる。亡き王の遺志によるものであり、また天のおぼし召しによるものである。
 余は喜んでこれに従った。」
 こうしてブルボン家からスペイン王フェリペ五世(在位一七〇〇~四六)がうまれた。

              

 それはフランスのすばらしい成功であった。そしてこれだけであったならば、戦争にはならなかったかもしれない。
 しかしここでルイ十四世は調子にのったのか、拙(まず)い手をうってしまった。
 たとえば王はフェリペ五世とその子孫に、フランス王位継承権を保留した。
 これは将来、フランス、スペイン両王家が合併される可能性をうむものとして、諸国を刺激する。
 またルイはフェリペ五世のために、スペイン領ネーデルラントに出兵したりした。
 すでにルイの侵略的な戦争は、たびたび諸国を敵にまわしていた。陸相にあたるミシェル・ル・テリエ(一六〇三~八五)とその子ルーボア(一六四一~九一)によって、「貴族の私物的な軍隊」から、「国王の統帥(とうすい)下におかれた軍隊」への改革が、長い年月をかけて行なわれた。兵力も増大し、フランス陸軍はヨーロッパ最強のものとなる……。
 この「強兵」はコルベールによる「富国」とあいまって、フランスを領土拡大欲や他国との経済的対立にかりたてた。
 それはスペインに対するフランドル戦争(一六六七~六八)、オランダ戦争(一六七一~七八)とつづき、商業貿易上で対立するオランダを苦しめ、フランスの領土を拡大したが、一方ではヨーロッパ諸国を刺激した。
 とくにイギリスは伝統的にヨーロッパ大陸の勢力均衡を、その外交政策の基本としている。
 そこでフランスの強大化を恐れたイギリスやオランダは、同盟をむすんだ神望ローマ皇帝やドイツ諸侯、スペイン王、スエーデン王などと協力して、フランスに対抗するようになった。
 このアウクスブルク同盟は一六八六年に成立し、諸国はファルツ問題に始まるアウクスブルク同盟戦争(一六八九~九七)のすえ、ライスワイク条約(一六九七)によってフランスの領土拡大をくいとめた。
 一七〇一年九月、前イギリス王ジェームズ二世が世を去った。
 名誉革命(一六八八)で位を追われ、フランスに亡命中の人物である。
 ルイ十四世はジェームズを歓待し、対英政策に利用していたが、ライスワイク条約によって宿敵ウィリアム三世を、すなわち名誉革命でオランダから招かれたこの人物をイギリス王とみとめた。
 それにもかかわらず、いまルイは一貫性を欠き、ジェームズの長子をイギリス王として、ウィリアムに挑戦的な態度をとった。
 一七〇一年九月、イギリス、オランダ、神聖ローア皇帝はフランスに対抗するため、いわゆるパーク同盟をかすんだ。
 そして、フランス、スペインに対するスペイン継承戦争が始まり、参戦する国々もふえていった。
 フランスはまず神聖ローマ皇帝を戦線から離脱させようと、一七〇三年名将ビラール(一六五三~一七三四)指揮のもとに攻勢に出た。
 皇帝は一時ウィーン退去を考えるまでに事態は切迫したが、いま一歩のところで、攻撃は成功しなかった。
 一七〇四年フランス軍はふたたびウィーンを攻めたが、同盟側はこんどは防衛を固めており、皇帝軍のオイゲン(一六六三~一七三六)と英軍のマールバラ公ジーン・チャーチル(一六五〇~一七二二、ウィンストン・チャーチルの祖先)は、一七〇四年八月ブレンハイムで大勝利をえ、フランス軍五万中、三万が失われたという。
 ブレンハイムの戦いの結果、神聖ローマ皇帝を負かそうというプラタスの作戦は失敗したが、歴史的にみればこの戦いよりも、同じころ、英軍がジブラルタルを占領したことのほうが重要であった。
 イギリスの地中海における制海権が確立したからである。
 一七〇六年、皇帝軍はスペインを攻め、マドリードは陥落、フェリペ五世は一時追われるありさま、さらにフランスはウーデナルド(一七〇八年六月)、マルプラケー(一七〇九年九月)の戦いに敗れた。
 一七〇九年秋、マントノン夫人によれば、
 「王はときどき押えきれない叫びをあげられます。そうかと思うと、まったく口をおききになりません。」
 しかし二つの事態が情勢をかえた。
 一七一〇年、イギリスの政界で主戦派が退いた。
 一七一一年、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ一世が世を去り、嗣子がないため、スペイン王位継承者に目されている弟のカールが皇帝となった。
 これは場合によっては、ハブスブルク家の大帝国をつくることとなろう。
 さすがに諸国はこれをきらった。
 一方、フランスのビラールは一七一二年七月、ズナンにおいて起死回生の勝利をえて、敵軍のフランス侵入の危機をくいとめた。
 こうしてようやく妥協的な講和となる。一七一三年成立したユトレヒト条約は、将来フランス、スペイン両王室が合併しないことを条件に、フェリペ五世を承認した。
 一方、イギリスはジブラルタル、北アメリカの仏領の一部などをえた。
 フランスの大陸制圧の野心はくじけ、イギリス優位の時代が訪れることとなった。




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