カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

預金をするのは正しいことなのか?

2024-06-14 11:13:41 | 時事
 まどろっこしい説明を避けるため、答えだけを書きますと、かつては正しかったのですが、今は間違っています。

 30~40年前までは、定期預金の金利は6-8%ありました。一方で、インフレ率は、非常に低い値に抑えられてきました。預金をしておけば、ひとりでに額は増えていくのに、物価はそんなには変わらないのですから、預金は正しい選択でした。

(20世紀末の日本の定期預金の金利推移)

 今は、その真逆の状態になっています。預金をしても金利は0%です。全く増えません。他方で、物価は上がる一方です。だから、預金をしておくと、自分の財産の実質的な価値は、年々、減ってしまうのです。

 どうして、そんなことになっているのかを説明すると、長く、まどろっこしくなるので、今回は避けようと思います。これまでに、何度も説明をしてきたと思います。そのメカニズムを説明するには、①政府や日銀の、国債や日本円の無限発行、②日銀が買い上げた日本国債の額 ③金利を下げた理由、金利を上げられない理由 ④各国との金利差 ⑤コロナ後に各国政府がやったこと 等々を延々と書かなくてはいけません。

 きっと退屈でしょうから、今回は割愛しようと思います。というか、ある程度書いたのですが、あまりに説明がまどろっこしいので、公開は見送ることにしました。これまでに、何度も説明をしてきましたよね。

 とにかく、今はある程度の額以上を預金するのは、間違っています。預金が正しかった時代とは、条件が逆だからです。預金をすると、毎年、毎年、実質価値が減ってしまうからです。預金では、インフレに対応できないからです。

 では、どうすればいいのか。金銀を買って、地金業者か銀行の貸金庫に預けておくか、ビットコインを買うか、米国の防衛企業株を買うか、いずれにしても、インフレ抵抗性のあるアセットで資産を保管する他、ありません。

 数種類の物の価格が上がるなら、それは物価が上がっているのです。でも、全ての物の価格が同時に上がるなら、それは実は物価が上がっているのではありません。日本円の価値が落ちているだけなのです。価値が下落中の日本円から見ると、物価が上がって見えるのです。では、資産を日本円で持つのは正しいことなのですか?という話になってきます。


9ー5ー4 誇り高き侯妃

2024-06-14 10:59:36 | 世界史

(ローマ神話をイメージした仮装をしたルイ14世と后妃たち)

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
4 誇り高き侯妃

 宮廷がベルサイユに移るまえのことである。
 前述のルイ十四世の愛人ルイーズ・ド・ラ・バリエールは口数も少なく、王を喜ばすようなウィットにとんだ言葉を、考えだすことは苦手であった。
 そこでルイーズは友人たちを側近においておく必要があった。
 なかでも機知縦横というべきは、モンテスパン侯妃アテナイスであろう。アテナイス・ド・モルトマール(一六四一~一七〇七)はフランスでも屈指の名門の出であり、それだけに遠慮がちなルイーズにくらべて誇り高く、威厳にみち、それらは情熱的な性格とあいまって、生来の美貌をさらに輝かせていた。
 彼女はルイが王妃を迎えた一六六〇年宮廷に出仕し、三年後モンテスパン候と結婚し、やがて二児をもうける。夫は宮廷に不在がちだったので、言いよる貴族たちも少なくなかった。
 彼女は、王がルイーズ・ド・ラ・バリエールを見そめたことについて、内心おだやかでなかったであろう。
 しかし賢明なモンテスパン夫人はルイーズの友人となって、チャンスを待った。          

 はじめ彼女に関心をもたなかったルイ十四世も、いままで経験しなかったタイプの女性に、しだいに心をひかれるようになった。
 それは一六六六年ごろからである。
 翌年夏、王がネーデルラントの国境方面に出むいたとき、王妃とモンテスパン夫人たちは同行したが、宿舎におけるモンテスパン夫人の部屋は、王の近くであった。
 まもなく王の部屋の衛兵はほかへうつされ、王は「すばらしく陽気に」みうけられた。
 王妃マリー・テレーズは侍女の一人にいった。
 「昨夜、陛下がベッドにはいられたのは四時で、もう夜が明けそめるころでした。
 いったい何をなさっていたのかしら。」
 もれきいた王は弁解した。
 「いそぎの文書を読み、その返事を書いていたのです。」
 一年後の一六六八年夏から、ルイとモンテスパン夫人との関係ははっきりしてきた。
 それは王にとってルイーズに対する牧歌的な愛とはちがい、成熟した男の官能的なものであった。
 娘が王に愛されていることを知った父モルトマール公は、「ありがたい、いよいよ福の神の到来だ」と喜んだが、夫のモンテスパン侯は宮廷に現われていやがらせをしたり、仲間の助力をえて妻をスペインにつれてゆくつもりだなどとうわさされた。
 しかしけっきょく、妻が王の子をうんだときくと、侯は「妻は媚態(びたい)と野心がもとで死んだ」と称して、友人たちを模擬の葬儀に招き、うわべだけの喪に服した。
 ルイーズの純愛に対して、モンテスパン夫人の愛は、王の権勢や財力がめあてであったともみられる。
 彼女は王から金や宝石をえたり、父を要職につけたり、親戚に良縁をあてがったりすることに成功した。
 彼女は宮廷でもっとも羨望(せんぼう)される女性となった。
 しかしルイーズとともに生活し、六年間も王は両手に花をたのしんだのである。
 あるとき国外に出かけた王の一行に、王妃のほかにこの二人の女性が加わったが、現地の人びとは、馬車に同乗する彼女たちを「三人の王妃」とよんだという。
 当時、王は正妻、寵妾、嫡子、庶子とともに全部が一大家族のように住まっていたのだから、現代感覚からすれば妙なものである。
 しかしルイーズはしだいにこうした生活に耐えられなくなり、信仰を深めて修道院にはいることを望み、一六七四年春、宮廷を去っていった。
 彼女は最後に王妃の足もとにひざまずき、その心を長らく苦しめたことを詫びた。
 あとはモンテスパン夫人の天下である。いまや王の心を独占しているこの気性はげしい女性に対して、その怒りにふれることを恐れる廷臣たちは、彼女の部屋の前を足音をしのぼせて通るありさまであった。
 ところがこのモンテスパンも、ルイーズと同じような運命をたどるのである。




天の都   聖アウグスティヌス

2024-06-14 10:43:30 | 格言・みことば
天の都は、ローマとは比較にならないほど素晴らしい。そこには勝利の代わりに真理が、高い地位の代わりに聖性が、平和の代わりに幸福が、生命の代わりに永遠がある。

聖アウグスティヌス




コンスタンチノープルの聖メトディオ総大司教

2024-06-14 04:25:55 | 聖人伝
コンスタンチノープルの聖メトディオ総大司教             記念日 6月14日


 メトディオがシラクサで生まれた頃は、東方教会の人々がイエズスや諸聖人の絵画を破棄していた時代であったが、メドティオは美しいイコンを描いて信者達を励まそうと努めた画家達を、力を尽くして支持したのであった。

 メドティオは若い時に皇帝の廷臣になるつもりでコンスタンチノープルに行ったが、聖人のような一人の修道士に出会って、その感化を受け、現世から退くことを決心したのだった。そして、キオス島に修道院を建てて一生とどまるつもりであった。
 しかし、コンスタンチノープルの総大司教聖ニセフィロに呼ばれて、二人でイコンを破壊する人々に大反対したが、ニセフィロは退位させられて追放の憂き目にあった。メトディオも逃亡しなければならなかった。
 
 821年ニセフィロの復職を命じる教皇の手紙を持ってコンスタンチノープルへ帰って来た。ところが皇帝はメトディオをむち打ちの刑に処して追放した。メトディオは7年間3人の盗賊と共に地下牢に入れられ、3人の中のひとりが死んだ時には、その死体は生存者といっしょに捨ておかれて、腐敗していった。

 842年、皇帝は死去し、皇后テオドラが幼い皇子の摂政として国を統治したが、幸いなことに彼女はイコンを守った人々を支持した。

 843年にメトディオは、コンスタンチノープルの総大司教となった。まもなく彼は司教会議を招集してイコンの正当性を宣言した。東方教会では、年毎に「正統信仰の祝日」が守られて、この勝利を記念している。聖メトディオは847年6月14日に水腫症で亡くなった。