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6-12-4 色目人の登用

2023-08-16 02:21:36 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
12 元朝の支配
4 色目人の登用

 元朝のもとにおいて、西方系の人々は「色目」とよばれた。
 これは“諸色目”すなわち、さまざまの種類の人、という意味であったと解される。
 そのなかでも、もっとも多数を占め、かつ大きな活躍をしめしたのは、ウイグル人をはじめとするトルコ族の人々であった。
 いち早くカトリックに帰依したオングート部は、トルコ族に属した。
 よって色目人のなかにはいる。
 ペルシア人やアラブ人も、もちろん色目人であった。
 マルコ・ポーロのようなヨーロッパ人も、また色目人である。
 こうした色目人を、元朝は優遇し、重く用いた。彼らは古くから、東西をむすぶ貿易に従事してきた。
 モンゴル人が大遠征をおこなうにあたっては、これに協力し、補給を受けもった。
 大帝国の建設に、彼らの果たした役割は大きい。さらに、彼らはすぐれた文化をもっていた。
 モンゴル文字も、ウイグル文字をもとにして、つくられたものである。
 やがてモンゴルは中国を征服し、これを支配するにいたる。
 しかし征服された中国の人々にくらべると、支配者たるモンゴル人の数は、一パーセントにも達しないほど少なかった。
 文化の程度といったら、比較にもならない。
 これでは満足な統治も、おぼつかないであろう。
 中国人をおさえつけるためにも、色目人は有用であった。
 さて世祖フビライの一代は、戦争に明け暮れた。それも勝った戦争ばかりではない。
 国費をついやすこと、おびただしく、財政は苦しくなった。
 さらに元朝は、モンゴル人の諸王や功臣たちのために、経済的援助をおこなっていた。
 何としてもモンゴル人は、国家の中核である。その勢力を弱めるようなことが、あってはならない。
 それやこれやで、歳出はふえるばかりであった。
 このため元朝は、とくに財政に通じた者を起用し、歳入の増加をはかる。
 まず財政を担当したのは、アーマド(阿合馬)である。
 その名のしめすようにウイグル人、すなわち色目人であった。
 アーマドは、フビライの信任をえて財政にたずさわること、じつに二十一年(一二六二~八二)、増税をはかって歳入をふやし、戸口の調査にも力をそそいで、脱税をふせいだ。
 もちろん、税として取りたてる額には限度がある。そこで専売制を強化した。
 塩や茶をはじめ、鉄や銀も薬剤も、かたはしから専売にして、利潤をおさめた。
 ただ売るだけでなく、鉄などは農器具をつくって売りさばいたように、企業までも国家が独占した。
 こうして、アーマドは、大いに辣腕(らつわん)をふるったのである。
 財政家としてはすぐれていたが、それだけに人々のうらみを買った。モンゴル人からも、中国人からも、色目人からさえも、にくまれた。
 きびしい政策によって豪農も豪商も、また官僚も、私腹をこやすことができないのである。
 反対がつよくなると、彼は自分に同調する者を用いて、周囲をかためた。
 そこでますます国政をほしいままにするものと、みられた。
 ちょうどマルコ・ポーロが、フビライに仕えていたころであった。
 マルコにも、悪評ばかり聞こえていた。そこで語っている。
 アーマドは、ぬけ目なく、しかも才能のある男であった。
 大汗には心から寵愛され、どんなわがままでもゆるされた。
 これはアーマドが魔術をもって大汗をまどわし、大汗が絶対の信頼をおいて、何の注意もはらわぬように、しむけたからであった。
 こうして、すきなことを思うままにふるまった。
 自分がにくんでいる者を殺そうと思うと、大汗のもとにいって、その男の罪は死にあたると申しあげる。
 大汗は「よきにはからえ」と申される。その男は、たちまち処刑されてしまうのである。
 こうして大勢の人が、不当に殺されていった。
 そのうえアーマドは、美しい女に思いをかけると、かならず手に入れた。
 相手が未婚ならば妻にしてしまう。
 そうでなくとも、何とか手をつくして、自分の意にしたがわせてしまう。
 娘の場合には、その父親を役職につけてやると約束した。
 娘をさしだすと、アーマドは大汗に申しあげる。
 これこれの官職に、その男が適任であります。すると大汗は「よきにはからえ」と申される。
 その男は、さっそく官職にありついた。
 ついにアーマドは、至元十九年(一二八二)、中国人のために暗殺された。
 その状況も、マルコはくわしく伝えている。
 アーマドのあとをうけて財政を担当したのは、盧世栄(中国人)であった。
 通貨の整理や、塩価の引きあげなど、次々に手をうって、国庫の充実に力をつくした。
 しかも、たちまち周囲から反撃をうける。
 私服をこやしていると弾劾され、フビライの信任をうしなって、翌年には死刑に処せられた。
 事にあたろこと、わずかに半年であった。
 ついで登用されたのが、ウイグル人のサンガ(桑哥)である。
 至元二十四年から、財政の全権をにぎった。

 まず手をつけたのが、おりから高まりつつあったインフレの抑制であった。
 元朝の通貨といえば紙幣である。「交紗(こうしょう)」とよばれた。
 紙幣の発行は宋代におこり、金国でも行われた。これを元朝が引きついだわけである。
 すでにオゴタイの代から、交紗は発行されている(一二三六)。木版印刷によるものであった。
 フビライが即位すると、中統元年(一二六〇)に「中統元宝交紗」を発行した。
 額面は十文から二貫文までの九種類で、銅銭の代用ということであった。
 さらに二貫文は銀一両にあたるとされ、発行額に見あうだけの銀が国庫に用意された。
 すなわち、いつでも兌換できるわけで、通貨としてはきわめて安定したものであった。
 税にしても、交鈔でおさめることができる。
 ヨーロッパでは、まだ紙幣は用いられていない(その使用は、十七世紀以後)。
 そこでマルコ・ポーロも、驚きの目をもって、元朝の紙幣制度をくわしく語っている。

 「大汗こそ、まさに申しぶんのない錬金術師」というわけであった。
 紙片が金銀とかわるのである。すべての支払いを、紙ですませることができるのである。
 しかし国家の財政が膨張してゆくと、交鈔の発行も年ごとに多くなった。
 ついには国庫にたくわえられている銀よりも、はるかに上まわった。
 そうなると、交鈔の価値が下落する。悪性のインフレがおこってくる。
 これに盧世栄も取りくんだが、失敗した。インフレは進むばかりであった。
 そうしたときに、サンガが乗りだしたのである。
 サンガは、あらたに「至元通行宝紗」を発行し、通貨の切下げを断行した。
 いままでの中統紗五に対して、至元紗一の比率で通用させたのである。その発行額も制限した。
 こうしてインフレは、ひとまずおさえられた。
 しかも歳出は増大するばかりである。
 サンガも、専売品の値上げと、増税にふみきらざるをえなかった。
 またしても世間の非難は高まる。
 そこでサンガも、反対派をしりぞけ、要職を自派でかためる。反撥はいよいよ強くなった。
 ついに至元二十八年(一二九一)には、罷免され、ついで処刑されてしまったのである。
 三人の財政家は、いずれも終わりをまっとうすることができなかった。




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