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1ドル160円を突破!円安が止まらない!

2024-06-28 01:12:26 | 時事
 今回は今までの円安とは、趣きが異なります。為替介入がしにくいのです。ないとは断言しませんが、以前よりもかなり困難になっています。昨年、為替介入をしまくったせいか、数日前に日本は為替操作国監視リストに載ってしまいました。今後は、二重の意味で(もう一つは動かせるドル残高の問題。米国債を売らない限り、限度がある)為替介入は控えめになるでしょう。

 そうなれば、金利差からも、債務残高がトップクラスの日銀の健全性の問題からも、今後は円安が進む一方です。既に相当に以前から、このブログに書いてきたことですが、準備をしましょう。自分の資産は守りましょう。あなたの資産は、あなたの今までの労働の正当な対価であり、あならにはそれを守る権利があります。資産防衛はカトリック的に罪などではなく、むしろ今の局面では義務に属します。

 先進国通貨の中で日本円だけが極端に下がっています。楽観論に胡坐をかくのはやめましょう。日本円と通貨政策に固有の原因があると疑いましょう。



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9-6-5 ロマノフ朝の成立

2024-06-28 00:35:35 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
6 雷帝後の動乱のロシア
5 ロマノフ朝の成立 

 それから四ヵ月たった一六一三年二月、モスクワには各地からの代表、約六百名が集まり、ロシアで空前絶後といわれる大がかりな全国会議(ゼムスキー・ソボー=イワン四世時代につくられた)が開かれた。
 この身分制議会では、「動乱」の厄払いとして三日間の斎戒(さいかい)がおこなわれたのち、議事にはいり、新しいツァーリの選出がおこなわれた。
 しかし、ツァーリの立候補者はたくさんいた。
 すなわちポーランド王子、スエーデン太子、偽ディミートリーの遺児(マリーナの息子)、コリーツイン公、ムスチスラウスキー公、ツルベツコイ公などである。
 そこでまず、外国の王室から、ツァーリを招へいすることは、コサック代表のつよい反対にあって否決された。
 つぎにロシア人のうち、だれを選ぶかになると議論百出し、遺族たちが対立した。
 その間には買収、抱きこみ工作もおこなわれたというが、容易には決しなかった。
 しかし会議の途中から、下層貴族の士族やコサックのあいたで、「ミハイル・ロマノフ」という呼び声がしだいに高くなってきた。
 このロマノフ家は、イワン雷帝の最初の妻アナスターシァをだした由緒ある大貴族である。
 しかしボリス・ゴズノフの政敵となってからは、つねに逆境におかれ、それがかえって世間の同情をよんでいた。
 動乱中には、ツァーリ・シュイスキーに反対して、偽ディミートリーの側についたことも、のちにコサックの信望をえるもととなった。
 その当主はツシノの総主教フィラレートで、そのころポーランド軍の捕虜となっており、ミハイルはその長子であった。
 しかもまだ十六歳の少年で、「これといったとりえはなく、ツァーリにふさわしいとも見えなかった」というが、全員会議では、犬猿のあいだがらであった士族とコサックの二大勢力が、ふしぎにも「この人選にだけは一致した」という。
 また、つぎのようなエピソードもある。議論が紛糾して決しなかったので、民意をたしかめるために、数名の聖職者と大貴族が赤の広場に出かけて、「だれをツァーリにしてほしいか?」とたずねると、群衆は口ぐちに「ミハイル!」「ミハイル!」と叫んだという。
 このようにして、ロシアに新しい王朝、ロマノフ朝が誕生する。
 それは一九一七年のロシア革命でたおれるまで、約三百年間、この国に君臨することになる。
 しかもイワン雷帝のような帝王神権説による「専制君主」としてではなく、「人民から選ばれた」ツァーリとしてであった。
 しかし動乱の貴重な産物であるこの新しい政治原理は不幸にも、ロシアでは長つづきしなかった。          

 西欧の議会制度に発展するかに見えた全国会議も、歴史上のたんなる一エピソードにおわり、動乱がおさまり、国内に平和が回復するにつれて、新王朝はしだいにこれを必要としなくなった。
 その結果、初代ミハイル帝(在位一六一三~四五)のときには十回、二代アレクセイ帝(在位一六四五~七六)の治世には五回ひらかれた全国会議が、三代フョードル三世(在位一六七六~八二)からつぎのピョートル一世(在位一六八一~一七二五)にかけて、わずか三回召集されただけで、それ以上後はまったく姿を消してしまう。
 このことは中世ロシアの身分制議会である全国会議が、イギリスの「パーラメント」のように王権を制限する方向に発展しないで、かえって逆にこれを強化する役割を果たしたこと、したがってその役目がおわると、自然消滅するのがむしろ当然であったことを示している。
 ロマノフ朝のツァ-リたちも、側近や寵臣にあやつられるロボッ卜にすぎなかった。
 ミハイルがツァーリに選出された当日、大貴族のひとりは語っていた。
 「ロマノフ家のミーシヤ (ミハイルの愛称)はまだ若僧で、その分別といっても知れたものだ。
 それが、おれたちにはもっけのさいわいだ」と。
 ミハイルは十六歳、アレクセイも十六歳、フョードルは十四歳で即位しているが、このように歴代のツァーリが「若僧」で、おまけにそろいもそろって「意志薄弱者」であったことから、寵臣のばっこを容易にした。
 すなわちミハイル帝のときのサルチコフ家、アレクセイ帝のときのモローゾフ家、フョードル帝のときのリバーチェア家がそれで、これからロシア社会には「権勢家」とよばれる新しいタイプの人間が登場する。
 彼らは官金の着服、土地の横領をほしいままにし、一般庶民の恨みを買った。
 モスクワ市民は、共有地がとりあげられたため、家畜を放牧することも、薪をとりに行くこともできなくなり、
 「こんなことは、これまでのどのツァーリのときにもなかった」とこぼし、
 「ツァーリはバカで、大貴族モローゾフのいいなりになっている。……脳みそを悪魔にもっていかれたのだ」
 とうわさした。



聖イレネオ司教殉教者    St. Irenaeus E. M.  

2024-06-28 00:11:53 | 聖人伝
聖イレネオ司教殉教者    St. Irenaeus E. M.        記念日 6月 28日


 使徒聖ヨハネの愛弟子聖ポリカルポは156年の1月末小アジアのスミルナで栄えある殉教の死を遂げたが、炎々と燃え上がる火中に立ったこの老人の胸は「恩師ヨハネより受けた信仰はこれをことごとく我が弟子イレネオに伝えたからもはや思い置く事は更にない」という安堵の思いにほのぼのと明るんでいた。そして実際イレネオはその期待を裏切らず、使徒聖ヨハネの温かい愛の心と金剛不壊の信仰とをポリカルポを経て立派に継承したのであった。それは彼の生涯が明らかに看取されるのである。

 聖イレネオの両親は若い時の事に就いてはほとんど何も知られていない。知られているのは僅かに彼が青年の頃スミルナの司教聖ポリカルポの弟子の一人に加わって、その聖師から一生忘れ得ぬ程偉大な感化を受けたという事である。彼は白髪の聖ポリカルポが、なお青春の血の沸き立つ思いで語る若き日の追憶、イエズスと使徒達、わけても主の御寵愛の深かった聖ヨハネに就いての話を、深く深く記憶に刻みつけた。どの話はどこで、師がどんな様子で語られたかというような微細なことまで彼は決して忘れなかったのである。

 彼の生年はもとより確かではないけれども約130年頃と推定される。その篤信の故にポリカルポから厚く愛された彼は155年ある問題に関し教皇ヴィクトルの意見を求めにはるばるローマに上り、そこから更にポリカルポの命で当時ガリアと呼ばれていたフランスの、リオン市に赴いた。リオン市には小アジアの人が少なからず、その司教フォチノもまた小アジアの生まれである所から、同郷のイレネオを喜んで迎え、彼の学徳に秀でているのに感服して間もなくこれに司祭の資格を授けた。
 177年ローマ皇帝マルコ・アウレリオが全国に聖教弾圧を命ずるや、リオン市にも大迫害が起こり、たちまち90歳の老司教フォチノを始め数多の信者が捕縛拘引され、遂に殉教の栄冠を受けた。その時からイレネオはフォチノの遺言によって彼の後任司教となったのである。
 マルコ・アウレリオの次に帝位に登ったコモドの御代は、別に迫害もなく聖会は比較的平和を楽しむ事が出来た。イレネオはこれ幸いと盛んに布教に活躍し、リオン市の大半を改宗させる事に成功した。しかし外患こそなかったものの、内憂はないわけでもなかった。それは信仰の至純い流れをけがそうとする異端の発生台頭である。中でも危険を極めたのはグノーシスの邪説とカトリックとを折衷妥協させようとする一派であった。イレネオはかような異端に対しその豊富な学識と堅固な信仰とを以て闘い、主に託された子羊の群を、羊の皮着た荒き狼の毒牙から救って、よく牧者の責任を果たしたのである。
 彼がその為著した数々の護教書は、残念にも大方失われて、今に伝わっているのは僅かに「異端者に対する弁駁」という一冊しかない。が、兎に角それら彼の名著は、当時の各教会の指導者達にこの上なき破邪降魔の利剣となり、異端の毒蜘蛛の吐く謬説の網をずたずたに切り破るに役立ったのである。
 その論戦の間に彼はまた、ローマ教皇が使徒の首長聖ペトロの後継者である事を否定する教敵に対し、徹底的に反駁し、そのしかる所以を明らかに立証した。
 「ローマ教会は他に冠絶する特権を有している。その祭壇は使徒の首長聖ペトロ、及び大使徒聖パウロに護られ、かつ伝えられたものである。されば他の教会は常にローマ教会と一致を保たねばならぬ」これは中でも最も注目すべき彼の言葉である。
 さてこのイレネオのたゆまぬ活動によって、リオン市の教会はその後も益々盛んになるばかりであったが、その内に青天のへきれきの如く再び猛烈な迫害が聖会の上に落ちかかって来た。皇帝セプチミオ・セヴェロは最初こそ聖教を黙許していたものの侵々として停止する所を知らぬその教勢の発展を見ては、晏如たり得ず遂に全国に聖教の禁止を命じたのであった。
 かくてリオン市の教会からもまたまた数多の殉教者が出る事となった。その中にはもう老齢のイレネオ司教も加わっていた。彼の殉教振りに就いては不幸にして何事も伝わっていない。しかし彼の生涯がそうであったように、その最期も聖ヨハネ聖ポリカルポから受け継いだ信仰を恥ずかしめぬ立派なものであり、彼も恩師と均しく光輝ある永遠の勝利を獲得したであろうことは疑う余地がないのである。

教訓

 我等は聖主や使徒達の時代をさる事甚だ遠いが、なお御聖体の秘蹟によって常に聖主に親しむ恵みを与えられている上に、聖書によって使徒達の精神を汲む事も出来るから。ふるって主に倣い使徒達にあやかって聖教を実行しよう。そうすれば我等も必ずや彼等が永福をうけ楽しんでいる主の御許に招かれるに相違ないのである。

父なる神よ、初心者に完全さを、
小さい者に知恵を与えてください。
自分の道を走る人々を助け、
怠ける者には悲しみを、
なまぬるい者には熱意を与えてください。
完全な者には終わりまで
耐え忍ぶ恵みを与えてください。
わたしたちの主イエズス・キリストによって。アーメン

聖イレネオの祈り