「天狗の中国四方山話」

~中国に関する耳寄りな話~

No.323 ★ 中国農村住民の過酷な老後、わずかな年金で死ぬまで働く現実

2024年05月13日 | 日記

ロイター (By Tingshu Wang Laurie Chen Kevin Yao Farah Master)

2024年5月12日

中国陝西省西安の路上で30年にわたって路上で自家製パンを販売していた67歳のフー・デジさんは、できることならそろそろ楽な生活を送りたかった。写真は4月、北京のショッピングモールで清掃業務に従事するフーさん(2024年 ロイター/Tingshu Wang)

[北京/香港 8日 ロイター] - 中国陝西省西安の路上で30年にわたって路上で自家製パンを販売していた67歳のフー・デジさんは、できることならそろそろ楽な生活を送りたかった。

ところが、実際には今、年上の妻とともに北京の外れまで出向いて午前4時から毎日、弁当調理の仕事をこなした後、1時間以上かけて市内中心部のショッピングモールに移動。13時間も清掃業務に従事している。そこでの収入は毎月4000元(552ドル)だ。

フーさん夫妻や、この先10年で退職年齢に達する農村からの出稼ぎ労働者1億人の多くにとって、こうした激務が嫌ならば田舎に戻り、小さな畑と毎月たった123元(17ドル)の年金で暮らすしかない。

モップがけをしながら取材に応じてくれたフーさんは「誰も私たちの面倒を見られない。二人の子どもに負担はかけたくないし、国は(少額の年金以外)ビタ一文も恵んでくれない」と明かした。

フーさんたちは、前世紀末に農村から都市に大挙やってきてインフラ建設や工場労働に携わって中国を世界最大の輸出国にした世代だ。だが、人生の終盤になって生活水準が大幅に低下するリスクにさらされている。

ロイターが出稼ぎ労働者や人口統計学者、エコノミスト、政府アドバイザーら十数人に話を聞いたところでは、中国の社会保障制度は悪化する一方の少子高齢化に適応できなくなっていることが分かる。

産業近代化を通じた成長を追い求めようとしてきた政府は、この制度を抜本的に見直さないまま、場当たり的な対策しか講じてこなかった。同時に社会保障サービスの需要は、高齢化の進展とともに急拡大しつつある。

人口統計学者でウィスコンシン大学マディソン校のシニアサイエンティストを務めるフージャン・イー氏は「中国の高齢者は長く惨めな生活を送ることになる。故郷に戻る出稼ぎ労働者が次々に増えており、一部は生き延びるために低賃金で働いている」と指摘した。

これらの出稼ぎ労働者が引退して基本的な年金だけに頼ろうとすると、世界銀行が定める1日当たり3.65ドルという貧困ライン未満での生活を強いられる。そのため多くの人は都市で引き続き働いたり、家の畑で収穫した農産物を売ったりして生計の足しにしているのだ。

中央政府の関係各省庁からは、この問題についてのコメント要請に回答がなかった。

中国の最新統計によると、2022年時点で全労働力人口7億3400万人のうち、約9400万人は60歳を超えており、その比率は20年の8.8%から12.8%に高まった。

まだ、日本や韓国を下回っているが、今後10年間でさらに3億人が60代に突入するため、労働力人口に占める比率は跳ね上がるだろう。

そうした60歳超の労働者の3分の1は農村からの出稼ぎ勢で、専門的な技能を持っていない。

Reuters Graphics Reuters Graphics

彼らのために中国がもっと強固なセイフティーネット(安全網)を整備できなかった一番の理由は、経済が「中所得国のわな」に陥るのを恐れた政策担当者が、パイの共有よりもパイ自体を膨らませることを優先し、資源配分にゆがみが生じた結果だ、と政府アドバイザーの一人はロイターに解説した。

ひたすら成長しようとする中国は、経済的資源や金融機関の資金を「新たな生産力」に振り向けている。つまり目下の習近平政権の下でも追求されているのは、グリーンエネルギーや高性能半導体、量子技術などの先端産業における技術革新と発展だ。

米欧当局者は、この政策が中国の生産者と競合する西側企業にとって不公平だと主張。これが貿易摩擦を引き起こし、中国の家計から資源が奪われ、中国国内の消費が抑制されて潜在成長力も低下していると指摘している。

中国はこうした見方を拒否し、繁栄に進む道として消費ではなく、生産の引き上げに重点を置いている。

先のアドバイザーは、こうした資源配分のゆがみがまず是正できていれば、安全網の拡充を含めた格差問題の解決はもっと簡単だっただろうとの見方を示した。

<戸籍で格差>

中国の年金制度は「戸口(戸籍制度)」が基礎になっており、都市戸籍と農村戸籍の取得者で支給額や社会福祉サービスに大きな差が生まれている。

例えば、都市戸籍の年金月額は、それほど発展していない省でも毎月約3000元、北京や上海なら約6000元となっている。

これに対し、1億7000万人に達する農村戸籍の年金月額は、今年3月に政府が最低支給額を引き上げても、ようやく20元から123元になったに過ぎない。

野村のエコノミストチームは、最貧困世帯に資源を回すことこそが国内消費を押し上げる最も効率的な措置だと提言する。

ところが、農村戸籍向けの年金引き上げ額は、国内総生産(GDP)の0.001%弱という規模にとどまっている。

Stacked bar chart and dot plot showing the projected population in 2024 and 2034

<家族にも頼れず>

中国社会科学院の調査によると、公的医療予算の配分でも都市戸籍の労働者が受ける水準が農村戸籍の約4倍に上るケースがある。

ハンセン銀行のチーフ中国エコノミスト、ダン・ワン氏は、貧困に沈もうとする人々の問題を解決するための十分な社会福祉サービスが存在しないと批判した。

社会科学院のエコノミストで人民銀行アドバイザーを務めたカイ・ファン氏が執筆した論文からは、農村部では60歳超の住民の16%余りが「不健康」で、都市部の9.9%よりずっと多い。

60歳のヤン・チェンロンさんと夫で58歳のウー・ヨンホウさんは毎日、北京のリサイクル施設で段ボールやプラチチックを回収し、1キロ当たり1元弱の収入を得て暮らしている。

ヤンさんは心臓に持病があり、ウーさんは痛風持ちだが、治療を受ける余裕はない。消費や廃棄物が減っている中で、毎月4000元の収入がいつまで続くか分からないと不安に思っているからだ。

「私たちのような農村出身者は死ぬほど働き続けなければならない」とヤンさんは話す。

その隣でウーさんも引退するつもりはないと強調。「働いている限り、それが汚れ仕事であっても、安心できる」と語った。

中国では伝統的に子どもが老いた両親を支えることが期待されてきた。

ただ、米国の全人口に匹敵する規模となる向こう10年間で定年を迎える世代の大半は、1980年から2015年まで実施された「一人っ子政策」のために子どもが一人しかいない。

そこに追い打ちをかけているのが若者の高失業率で、カイ氏は「高齢者の世話で家族を頼りにすることはもはや非現実的になっている」と記した。

*左横の「ブックマーク」から他のブログへ移動

 


No.322 ★ 中国随一の海鮮都市・大連の思い出が蘇る、池袋「逸品火鍋 四季海岸」の紅焼鱸魚 進撃の「ガチ中華」#8

2024年05月13日 | 日記

現代ビジネス (近藤 大介:『現代ビジネス』編集次長)
2024/5/11

現代ビジネス「北京のランダムウォーカー」でお馴染みの中国ウォッチャー・近藤大介が、このたび新著『進撃の「ガチ中華」』を上梓しました。その発売を記念して、2022年10月からマネー現代で連載され、本書に収録された「快食エッセイ」の数々を、再掲載してご紹介します。食文化から民族的考察まで書き連ねた、近藤的激ウマ中華料理店探訪記をお楽しみください。
第8回は、池袋「逸品火鍋 四季海岸」の紅焼鱸魚に覚えた、ささやかな幸福感ーー。

 

⇒前回の店【#7】池袋「薩斐蘭州牛肉麺」

40年以上日本の統治下に置かれていた大連

中国はおしなべて「反日」というイメージがあるかもしれないが、全国で1ヵ所だけ、これまで一度も「抗日デモ」が起きていない都市がある。いわば中国一の「親日都市」。それが、渤海(ぼっかい)に面した遼寧(りょうねい)省遼東半島の先端に位置する750万都市、大連だ。

PHOTO:iStock

大連(ダーリエン)という名前は、「ダリエ」(遠くの場所)というロシア語に由来している。日清戦争(1894年~1895年)で大勝した日本は、伊藤博文首相が故郷・下関の行きつけの料亭「春帆楼(しゅんぱんろう)」に、李鴻章(り・こうしょう)清国(中国)全権代表を呼びつけ、台湾や遼東半島の割譲を呑ませた。それが下関条約だ。

私は、下関条約の原版を、東京の外交史料館で見たことがあるが、李鴻章代表が押した巨大な黄色い押印が、ひときわ印象的だった。せめて判子の大きさだけは日本に負けないぞ、という意地を感じさせる条約文書だ。

実際、この時の日本は、さすがにやりすぎだろうという声が、国際社会で上がった。その代表格であるフランス・ドイツ・ロシアが、「遼東半島は清国に返還しなさい」と、日本に迫った。いわゆる三国干渉だ。

列強3ヵ国からの圧力に、日本はやむなく、遼東半島を返還した。そうしたらロシアは、清国に向かって、「功績の見返り」を要求した。それで得たのが、遼東半島の先端の地域だった。ロシア人はその土地を「ダリエ」と呼び、ロシア風の都市建設を始めた。

関連記事進撃の「ガチ中華」#6…爆買い元年、池袋東口に上陸した中国…

 

こうした動きに怒りを強めた日本は、1904年、ついに大国ロシアと一戦を交える。それが日露戦争で、翌年にポーツマス条約を結んで終結した。日本は、日本海海戦勝利の勢いを見せつけるかのように、ダリエをロシアから譲り受けた。そしてダリエに漢字を当てて、「大連」とした。

日本は大連を起点として、大陸横断鉄道を敷く壮大な計画を立てた。それが南満州鉄道(満鉄)だ。後の東海道新幹線の原点となる「アジア号」も走った。私は、いまも一輛だけ大連に保管されているアジア号を見せてもらったことがあるが、その規格外の巨大列車に、当時の様子が偲(しの)ばれた。

Gettyimages

1906年、満鉄の初代総裁に就任したのが、いまの東京の道路網の原型を創った後藤新平だった。気宇壮大な発想の持ち主だった後藤総裁は、ロシア風だったダリエの街並みを、日本風の大連に変えた。

日本の統治は、日本が太平洋戦争で敗戦する1945年まで、40年も続いた。日本時代の大連は、60万都市となって大いに繁栄した。それで1949年の新中国建国後も、大連人は日本時代の建造物や家屋をそのまま使用し、いまに遺している。

遼東半島に位置する中国最大の「海鮮都市」

大連人が日本時代から引き継いだものが、もう一つあった。それは、豊富な海産物に囲まれた、魚介類を中心とした食生活だ。

大連には、豊洲の海鮮市場のような魚河岸が何ヵ所もあり、早朝から夕刻まで、大いに賑わっている。大連はまさに、中国最大の「海鮮都市」なのだ。

そんな大連にあって、いまから30年ほど前の1992年、大連外国語大学の正門近くに、一軒の小さな海鮮料理店がオープンした。「天天漁港」(ティエンティエンユイガン)という店名は、「毎日漁港のように海鮮が溢れている」という意味で付けた。

1995年、初めて大連を訪れた私を案内してくれたのも、大連外大日本語学部のOBだった。私の父親とほぼ同い年の彼とは、もともと日本で知り合ったが、ヤマトホテル(現・大連賓館)を始めとする市内の日本時代の足跡を、一日かけてガイドしてくれた。その間、自分の親族が大連日赤病院(現・大連医科大学)で一命をとりとめた話など、いかに日本の貢献が大きかったかを説いた。

夕刻、母校を案内された。

「ここは1964年、周恩来総理の呼びかけで、中国共産党と日本共産党が共同で設立した日本語学校だった。私が入学した時分は、日本語教師はすべて日共の日本人だったよ……」

彼は正門前に立って、そんな思い出話をしてくれた。だが、空腹だった私は、正門とは逆側が気になって仕方なかった。

中国全土に鮮魚の味を知らしめた「天天漁港」

「天天漁港」と書かれた看板が掛かった店の前に、所狭しと新鮮な魚介類が並んでいた。奥には活魚用の水槽もあった。まるで「ミニ海鮮市場」だ。

「夕食はここで食べませんか? 今日のお礼にご馳走しますから」

私が提案すると、彼は「以前はこんな店、なかったけどなあ」と、首をかしげながら中へ入った。

「一生に一度でいいから、『海胆』(ハイダン=ウニ)を腹が痛くなるくらい食べたいと思っていたんですよ。それが20代のうちに実現するとは……」

私はテーブルに置かれたウニの木箱を前に、ホクホク顔である。何せ1ケース注文して、1000円にも満たなかった。他にもエビやらカニやら、海鮮尽くしの夜だった。

私は翌日のランチもディナーも、迷わず「天天漁港」に通い詰めた。その翌日は、昼12時の飛行機で、留学先の北京へ戻らなければならない。

そのことを二日目の晩に、女性店長に愚痴ったら、「あなたのために、明日は午前10時に開けてあげるわ」と言ってくれた。そこでまた午前中に訪れ、大量の「打包」(ダーバオ=持ち帰り)までして、北京へ戻ったのだった。

それが「天天漁港」との邂逅(かいこう)だった。以後、大連を10回ほど訪れているが、「天天漁港」の勢いは、すさまじいものがあった。今世紀に入って中国人は急速に豊かになり、それまで「大連人の特権」だった鮮魚の味に目覚めたのだ。

大連で「天天漁港」の支店は20店舗近くに増え、北京、アモイ、深圳、成都……と全国で計200店舗を超えるまでに成長した。2006年には中国調理協会から、「中華餐飲名店」の称号を授与された。

私自身、大連で最後に「天天漁港」のチェーン店に行ってから、すでに10年近くが経つ。その頃には店舗は巨大化し、その店だけで100人以上の従業員を雇っていた。もはや「ウニ1ケース」など、とても注文できない値段に変わっていた。

それでも、私にとって渤海の爽風香しい大連グルメと言えば、「天天漁港」の海鮮類なのである。

鮮魚に溢れる「大連グルメ店」を発見!

東京で、あのような贅沢な「大連グルメ」など望むべくもないというのは、重々承知している。だがそれでも、大連人が開いた「四季海岸」という店が、池袋のガチ中華街の一角にあると耳にした。

「四季海岸」というネーミングに惹かれて、春の日の夕刻、ぶらっと足を運んだ。
エレベーターで4階まで上がり、店の扉を開ける。正面に大きな水槽群が、目に飛び込んできた。

水槽内には活きた水槽の前で、男性店員が魚を仕込んでいた。「どんな魚が入っているんですか?」――中国語で尋ねると、立ち上がって指さしながら答えた。

「黒魚、石斑魚、石雕魚、鯉魚、鲫魚、甲魚、基囲蝦……」

「へえーっ」

すっかり見とれていると、ダメ押しのように告げた。

「今日だけですがね、鱸魚(ルーユイ=スズキ)も2匹だけ入っています。実はね、常連の中国人客が、今朝、海で釣り上げたものなんですよ。自慢げに持って来たので、店で買い取りました」

店員はわざわざ、そのうちの一匹を氷箱に入れて、見せてくれた。

その日の朝に海で釣り上げた鱸魚(スズキ)。目玉が黒々としている

「ほうーっ」。2度目のため息が出た。

「天天漁港」で、「魚は目を見ろ」と教えられたものだ。黒々としていたら、つい先ほどまで活きていた証拠だ。これはもう、注文するしかない。

「時価ですがね、5880円でお出しします。『紅焼鱸魚』(ホンシャオルーユイ=スズキのしょう油焼き)にすると、最高に旨いですよ」

早くも気分は、「天天漁港」である。「四季海岸」は100席以上ある大型店だが、中国人客でほぼ満席だった。

100席以上あるが中国人客でほぼ満席状態

鱸魚だけでは少し物足りないので、「水煮魚」(シュイジューユイ 1680円)も頼んだ。四川風ピリ辛の白身魚の煮込みだ。それに水餃子(6個入り680円)と青島ビール(495円)、以上である。

先に運ばれてきたのは、水煮魚だった。

水煮魚は中国の若者たちの人気メニュー

水煮魚には多く、巴沙魚(バーシャーユイ=バサ)の白身が使われる。日本人には、フィッシュバーガーでおなじみの淡水魚だ。これにタラ、ネギ、モヤシ、赤トウガラシなどを混ぜて煮込む。

大連風ではなく、四川風だが、今時の中国の若者たちは、この料理に目がない。この日の店内でも、そこかしこのテーブルで見かけたので、「入郷随俗」(ルーシアンスイスー=郷に入りては郷に従え)で頼んだのだ。

「辛み」と「絡み」――ピリ辛スープを含んだ柔らかな白身魚が、ネギやモヤシと絶妙に絡まり、美味に仕上がっていた。若者たちが「水煮魚を食べると元気が湧いてくる」と言うのも肯ける。

さて、「前座」に舌鼓を打ってしばらく経つと、おごそかに雰囲気を異にする「真打ち」が登場した。「紅焼鱸魚」である。

大皿の中に、先ほどの鱸魚が、土気色に姿を変えて横たわっていた。上に、香菜(シアンツァイ=パクチー)が添えてある。

見事な「紅焼鱸魚」

身はホクホクして、中国しょう油のスープと絶妙のハーモニーを醸し出している。
特に、尾に近い部分が美味だった。中国の美食家の中には、尾ひれの運動によって身が引き締まった下半身しか食さない人もいるほどだ。

「紅焼」のスープは、大連風のやや薄味である。それだけに、大皿料理でも途中で飽きがこない。

もう一つ発見があった。水餃子をこのスープに浸して食べても旨いのだ。

さらに爽快な青島ビールが加われば、鬼に金棒だった。青島は大連のある遼寧省ではなく隣の山東省だが、海岸線上では近い距離にある。実際、大連には大連ビールもあるが、青島ビールが人気だ。

考え起こせば、「歌は世につれ」と言うが、「魚も世につれ」である。あの1995年の衝撃的な「天天漁港」は、もはや存在しない。いま大連にあるのは、前述のように巨大なチェーン店と化した高級海鮮レストランだ。

そして私が舌鼓を打っているのは、渤海、黄海、東シナ海、そして日本海を越えた先にある東京にある「四季海岸」の鱸魚である。それでも、ささやかな幸福感を覚えることに違いはない。

近藤 大介:『現代ビジネス』編集次長)

1965年生まれ、埼玉県出身。東京大学卒業、国際情報学修士。講談社『現代ビジネス』編集次長。明治大学国際日本学部講師(東アジア国際関係論)。2009年から2012年まで、講談社(北京)文化有限公司副社長。新著に『日本人が知らない! 中国・ロシアの秘めた野望』(ビジネス社)、『ふしぎな中国』(講談社現代新書)など、中国を始めとする東アジアの関連図書は34冊に上る。

*左横の「ブックマーク」から他のブログへ移動