カロカンノート

へぼチェス日記

ピノー ジャック・マリー(かけはしアーカイブズ - 将棋を世界に広める会より転載)

2017年10月20日 | 気になるニュース

人物紹介コーナー(49号、2010年2月20日発行)
 今回は、Pineau Jacques-Marie (ピノー ジャック・マリー)氏を紹介します。と言いましてもピノー氏を知らないISPSの会員は、あまりいないのではないかと思います。本会発足以来、理事を務め られ、海外普及に大きく貢献されてきました。いつも近くにおられますが、実は、じっくりとピノー氏の想いを聞く機会はありませんでした。インタビューをし てみると、驚くことばかり。つくづくお聞きして良かったと思っています。(松岡信行)

ピノー氏と言えば、チェスの大家として誰でも知っていることでしょう。日本チャンピオンに輝くこと2回。羽生名人、森内元名人のチェスの先生。将棋も中々の指し手。このようなことは、以前から知ってはいたのですが、ある時、目隠し将棋ならぬ、目隠しチェスを6人相手にしているところに遭遇。しかも、次々と打ち負かしている。以前に、12人相手に指したことがあると聞いたときの驚きは、今も鮮明に蘇ります。今回は、池袋の椿屋珈琲店の一角を会場としました。
コーヒーの薫りの向こうに、いつもながらの優しいまなざしに迎えられ、席に着き、あいさつもそこそこに、早速、インタビューに入りました。
フランス、ツーレヌ出身、48歳。ツーレヌは大河、ロワール川のほとりの都市で、温暖な気候は歴代のフランス王にも愛され、ルネサンスの頃には、王自らが住んだそうです。歴史的建造物も多く、恵まれた環境だったと、透明な光の下で客観的な精神が培われたと、懐かしそうに語ります。
「24歳のころ日本に来ましたから、フランスと日本。丁度、同じ年月、住んだことになります」
「日本に来た切っ掛けは、どういうことだったのですか?」
「小学校の頃です。フランス人の父とベトナム人の母を持つ友達がいまして、家族ぐるみで、とても暖かく迎えられたのです。絶えず黒白を付けたがる北ヨーロッパの文化との違いを感じ、いつかアジアに、と思っていたのです。学生の時、妻に会い、日本に来ることを決めました」
何時、チェスの力を身につけたのかを尋ねた時です。
「中学生のときでした。国語の先生が、私の応答はどこかおかしいと、母に告げたのです」
全く違う話しが始まったのには驚きました。
「実は、先生の言っている事がよく分からなかったのです。原因を調べると、耳がよく聞こえていなかったことが分かりました。慢性の中耳炎だったのですね。2年ほど、夏休みを利用して、ピレーネ山脈にある療養所で集中的に治療を受けました。その時、一人の先生が私にチェスを教えてくれたのです。耳が駄目な分、目に頼ったのでしょうか、すっかりチェスに取り付かれました」
「直ぐに強くなったのですか」
「治療を受けている時、すでに教えてくれた先生とほぼ対等というか、弱点を見つけ、少し優位になっていたと思います。地元に戻ると、チェスクラブを見つけ入会しました。地方では一番強いクラブでしたが、一年もしないうちに、代表チームのメンバーとなり、翌年、地元のチャンピオンにチャレンジ。フランスのトップのジュニアになりました。ですが、高校、大学は、勉強が忙しく、数多くの大会に参加することはできませんでした」
 続いて、日本に来てからの、チェスとの関わりを尋ねました。
「ベルフォーレで行われた、世界ジュニアチャンピオンシップで知り合った小林さんに、日本チェス連盟を紹介され、権田さんと何度か対戦しました。初年度で、日本チャンピオンになったのですが、日本に来た大きな目標、『チェスを通じて、沢山の友人を』、との願いは中々進みませんでした。日本語の不足はどうしようもなかったのです。それでも、1988年、テサロニキでのオリンピック、1992年のマニラでのオリンピックで日本チームのメンバーとして貢献できたことは嬉しいことでした。やがて、自分が強くなることより、日本にチェスを普及する方が重要だと思えてきました。そこで、1989年に朝霞チェスクラブを立ち上げたのです。作家の湯川博士さんの協力を得て、随分と大きくすることができましたし、チェスの雑誌を発行できるようにもなりました。最大の目標はどうにか実現できました。今の夢は、国際大会で活躍する多くの日本人選手を誕生させる事です」
 「ところで」、と、前置きをして、「羽生先生、森内先生にチェスを教える切っ掛けは、どのようなことからですか?」と尋ねると、嬉しそうに次のように答えてくれました。
「15年ほど前のことです。朝霞のチェスクラブでは、メンバーはいつも30分ほど遅れて来るものですから、のんびりと準備をしていました。その日、ほぼ定刻に背の高い青年が尋ねてきたのです。慌てて用事を済ませ、対局しました。青年は、定跡は知らないものの集中力は素晴らしい。やがてメンバーが集まり始めました。皆の緊張の様子から、今、指している青年は特別な方だと分かりました。森内さんとの最初の出会いです。フランス人の私としては、森内さんは、とても尊敬できる方です。一つは、彼の謙虚な態度です。フランス人は謙虚さを大切にします。友人となった後、ご夫婦で、3度ほどフランスに尋ねてきてくれました。私としてこれほど嬉しいことはありません。
 羽生さんとの出会いは、少し後になります。羽生さんは熱心でよくいらっしゃいました。一ヶ月に何度も指すことがありましたが、しばらくはチェスと将棋の違いが分からなかったようです。でも、分かったとたんに私の域に達していました。1999年、女流ヨーロッパチャンピオンのアルミラ・ロティエさんに圧勝しています。羽生さんも森内さんも、数週間チェスに没頭できれば、強いIM(インターナショナル・マスター)に、数ヶ月行えば強いGM(グラン・マスター)レベルになると思います。ですが、世界チャンピオンは無理でしょう。チェス界はチェス界で、天才がいますし、天才が育つ環境を用意していますから。これはさておき、日本のチェス界にとっても、将棋の国際化にとっても、2人の存在が大きなことは確かです」
「チェスプレーヤから見て、将棋にはどんな印象がありますか」
「発祥は共通したゲームですが、育った文化的な土壌はかなり違っていますので、それが、二つのゲームに特性を与えています。北ヨーロッパの伝統である透明性を求める精神の影響で、駒にパワーを与え、最終的に綺麗に駒が消えて、局面の基本しか残らない唯一のゲームがチェスですし、日本の将棋は、仏教の影響か、無駄遣いを嫌う国民性か、取った駒が生き返ってくることに特徴があります。私は、島国である日本の感覚を表現したものだと思っています。強い人の棋譜を並べると、将棋は、海辺の、引いては打ち寄せる波のように見えます」
 最後の、『波のよう』との将棋に対する表現に、思わず「では、チェスはどのようなものですか」と聞いていました。『光のよう』だ、との答え。チェスが分からない私は、「もう少し詳しく」と迫ると、「透明で、残るのは線だけのような」感じだという。どうも明確にイメージできないのが残念ですが、一応、「打ち寄せる波と、吹き抜ける風の違い」と私なりに理解しました。
 最後に、ISPSのこれまでの活動の内容と、今後の方向性について聞きました。
「将棋を楽しむ多くの外国人は、日本の文化に興味があるか、チェスから少し離れて、違う味を楽しみたいと思って将棋に接触します。私の場合は、義理の父がチェス好きの私に将棋を教えてくれたことから始まります。しかしながら、私はあくまでもチェスプレーヤです。ISPSとは、1997年に眞田さんに出会ったことに始まります。1998年にフランスで行った日本年の前の年でした。私はこの大きなイベントのスタッフの一人として、日本将棋連盟やフランスチェス連盟との接触、羽生さんやロティエさんへの協力の要請、フランス大使館との協力関係などを図っていました。日本大使館は、凱旋門近くに大きな建物を手に入れていたのです。会場に一歩足を踏み入れた時の感動は今も忘れません。この時、眞田さんはじめ、鈴木さん、池谷さんたちが、全面的に協力してくれたのです。お蔭様で成功裏に終わることができました。改めて、感謝の意を表したいと思います。
 以後、理事のメンバーとして、1999年・フランス大使館、2002年・NECのチェス&将棋のイベント、カンヌの国際ゲームフェスティバルなどを通じ、日本の将棋とISPSの紹介に努めて来ました。その後、本間先生のヨーロッパへの将棋の普及活動のため、友人のエリック・シェイモルを紹介し、フランス将棋連盟へのコンタクトを図り、ドイツの総領事、丸尾氏を介してヨーロッパへの将棋の普及を行って来ました。今、将棋はヨーロッパに相当に広がっています。嬉しい限りです」
「今後の方向性としては、道具として、インターネットを活用すべきだと思います。外国人に将棋を紹介する。歴史、ゲームの基本や定跡、名人の試合へのコメントなどを、なるべく分かりやすく、それぞれのサイトを活用し、英語・中国語・ロシア語・スペイン語、そしてもちろんフランス語での伝達を行っていくべきだと思います。この際留意すべきは、ゲームのルール以外の難しさを減らすことだと思います。駒や形などで役割さえ分かれば良しとし、先ずは将棋の本質を伝えることに全力を上げるべきです。その後、漢字を学び、棋譜を読めばいいのです」
 一呼吸置いて、再び、ゆっくりと語り出しました。
「私は、チェスを通じて、違う文化に育ったもの同士が良い関係を創れるよう努力しています。きっと眞田さんも同じ気持ちでISPSを誕生させたのでしょう。戦争や争いは、相手の文化に対する不安や恐れが引き起こすのです。自分の文化を良く知るものは相手の文化を恐れませんし、相手の文化を知るものは不安に陥ることはありません。将棋を通じて外国人とコミュニケーションを取る、日本の文化を伝える。やがて不安や恐れの壁はどんどん低くなってくると思います」
 静かな語り口の中に、ほとばしる情熱が伝わってきます。
「私は、チェスを通じて文化を伝えようとしています。全く同じ基盤に立って将棋を通じて行おうとしている人々がいる。素晴らしいことです。哲学をなくしてはだめです。人間との関係を見失ってはならないのです。将棋は素晴らしい。将棋の本当の素晴らしさは、生まれながらに身近にあった人たちには判らないのかもしれません。世界に広める重要性を改めて確認して欲しいものです」。

 次第に強まる語気に、胸の奥が次第に熱くなって来るのを抑えることができなくなっていました。
いつも控えめに話すピノーさんの内にある、自己の役割、存在意義に対する確固とした支柱の一端に触れる場となったことの喜びと、皆に、うまく伝えられるかどうかの不安が交錯する心のままに、席を立ちました。

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