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子育て最前線の育児論byはやし浩司 10年 6月 2日号
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6月2日……1367号
━━━━━━━━━━━━━━━━━━¬¬¬¬¬――――――――――――――
★★★★★★★★★★HTML版★★★★★★★★★★★心の壊れた人たち
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●心の壊れた人
++++++++++++++++++++
世の中には、心の壊れた人がいる。
他人の不幸を興味本位でのぞいて、
それを酒の肴(さかな)にして、楽しんで
いる人がいる。
さらに進んで、「他人の不幸話ほど、おもしろい
ものはない」と言ったバカさえいる。
A氏(65歳)は、私にこう言った。
「あいつ(A氏の従兄)が、パーキンソン病に
なったそうだ。
今度見に行ってやろう」と。
A氏とA氏の従兄は、仲が悪かった。
10年にわたって、いがみあったこともある。
そのためA氏の従兄がパーキンソン病に
なったことが、うれしくてしかたないと
いったふうだった。
が、A氏には、それがわからない。
つまり自分の心が、すでに壊れていることが
わからない。
不幸にして不幸な乳幼児期を過ごしている。
それが直接的な原因ではないにしても、
「見に行こう」はない。
まさに、悪魔。
悪魔の言葉。
で、何と、そのあとしばらくしてから、A氏は
こう言った。
何でも妹氏(6歳下)を連れて、見舞いに
行ってきた、と。
もちろん「見舞い」ではない。
「見物」である。
一見、同情するフリをしていたが、その言葉には、
心がこもっていない。
口先だけで、「かわいそう」という言葉を
繰り返していた。
++++++++++++++++++++
●他人の不幸をのぞく人
他人の不幸を、興味本位でのぞける人というのは、そうはいない。
いないが、少なくないことも事実。
が、のぞくのはその人の勝手としても、のぞかれる人は、たまらない。
そのとたん、苦しみや悲しみが倍加する。
(倍加程度では、すまない。)
友人のT氏(63歳)が、こんな話をしてくれた。
T氏が、兄や母の介護問題で苦しんでいたとき、同じようにして、のぞかれた
ことがあるという。
そういう人たちは、いかにも心配していますというフリをしながら、近づいて
くる。
が、その実、何も心配などしていない。
こんなことがあったという。
T氏の兄が胃潰瘍がこじれて入院したときのこと。
見舞いに行ったら、T氏の兄は家の商売のことを心配していたという。
そこでT氏は、またその翌日、再び、今度は、小遣いをもって、兄を見舞った。
で、その数日後のこと。
T氏の親類のB氏(従兄)から、電話があった。
皮肉たっぷりの言い方だったという。
いわく、「おまえの兄さん、入院したぞ。入院したぞ。知っているか?」と。
間延びした、どこかネチネチした言い方だった。
そこでT氏が、「知っています。おととい見舞ってきましたから」と。
その言葉に驚いて、B氏は、「えっ、……見舞っ……た?」と。
以後、T氏はB氏とは、関係を断ったという。
●自己認識
心の壊れた人には、奇妙な一貫性がある。
一事が万事。
万事が一事。
脳のCPU(中央演算装置)が壊れているため、自分の心が壊れていることに
気づくことはない。
ないばかりか、自己中心性が強いため、他人もまた自分と同じと考える。
あるいは自分を基準として、ものを考える。
他人を見る。
つまりどこまでも心のさみしい人ということになる。
●他人の不幸はのぞかない
生きていくことには、いくつかの大原則がある。
そのひとつ。
『他人の不幸はのぞかない』。
それとわかっていても、あるいが気がついていても、そっとしておいてやる。
もちろん相手から相談でもあれば、話は別。
そうでなければ、そっとしておいてやる。
見舞いにしても、一度、家人に相談してから行くのが、常識。
いきなり相手の家に押しかけて、「見舞いに来ました」はない。
来られたほうも、困る。
ばあいによっては、(多くのばあいそうなのだが……)、かえって不愉快。
が、そういう常識の備わっていない人が多いから、困る。
もしそれがわからなければ、自分のこととして考えてみればよい。
どこのだれが、自分の無様(ぶざま)な姿を、人前にさらけ出したいか?
いきなり来られたのでは、かえってそのままそれをさらけ出すことになる。
そういう見舞いが平気でできる人というのは、相手の気持ちが理解できない。
「見舞いに来てやったから、喜んでいるはず」という、きわめて自己中心的な
『ハズ論』だけで、自分の行為を正当化してしまう。
これが先に書いた、「一貫性」ということになる。
●さらに……!
さらにこんな話も聞いた。
その人、Kさん(75歳女性)は、1年近く、うつ病で家の中に閉じこもっていた。
家の中でもいちばん暗いところに、身を横たえていた。
そんな女性のところへ、ある日、親類の女性(70歳)が見舞いにやってきた。
Kさんは、最初、面会を拒否した。
「だれにも会いたくない」と言った。
が、見舞いに来た親類の女性は、強引に部屋の奥まで入っていき、Kさんの枕元に
ひざまづいたという。
そして何と、あろうことか、お経を読み始めた……!
その親類の女性というのは、どこかの宗教団体に属していた。
そこで覚えたお経を、Kさんの前で唱えたというのだ。
狂信性もここまでくると、怒れるより先に、笑えてくる。
(もちろんKさんの病気を笑っているのではない。
見舞いに来た親類の、その女性の頭(おつむ)のほうを笑う。)
無神経な人は、どこにでもいる。
そんなバカなことで鬱病が治るくらいなら、医者などいらない。
もっともその女性のばあいは、本気で(?)、Kさんのことを心配していたのかも
しれないが……。
●精進(しょうじん)
あなたの周りにも、ここに書いたような人がいるかもしれない。
しかしそういう人とは、できるだけ早く、離れたほうがよい。
長くつきあって、よいことは何もない。
ないばかりか、その人の毒気に染まってしまうことすら、ある。
一方、あなたはあなたで、もしそういう傾向があるなら、あとは「精進」あるのみ。
そういう自分と闘う。
闘って、そういう自分を自分の中から、追い出す。
方法は簡単。
いくつかの原則論を定め、それに従って生きる。
(1)ウソはつかない。
(2)約束は守る。
(3)人の悪口は言わない。
(4)グチは言わない。
(5)他人の不幸には干渉しない。
(6)他人の不幸は、自分のものと考える。
(7)他人の不幸を望まない。
(8)他人の不幸を笑わない。
そして何よりも大切なことは、(9)心の壊れた人とは、つきあわない。
●奇妙な一貫性
奇妙な一貫性について、補記する。
ここに書いたB氏(T氏の従兄)に、直接会ったことはない。
ないが、その周辺の人から、こんな話を聞いた。
B氏には2人の息子がいる。
そのうちの1人が、D症という、生まれながらの病気にかかっている。
現在は、35歳前後とか。
B氏は、その息子のことを、隠している。
ぜったいに表(外)には、出さないという。
最近、もう1人の息子が結婚式をあげたが、その結婚式にも列席させなかったという。
「インフルエンザで急に熱を出しまして……」と、結婚式の場では、そう言って、
弁解していたという。
これが私が言う「奇妙な一貫性」である。
(他人の不幸を笑う)→(自分の不幸も、他人に笑われると思う)、と。
つまり他人の不幸を笑った分だけ、今度は、その人自身が苦しむということ。
だから私はあえて(6)の「他人の不幸は、自分のものと考える」という原則を並べた。
それが日常的にできるようになると、その分だけ、心が広くなる。
その心で、自分の不幸まで、包み込むことができるようになる。
(付記)
先日、近くのショッピングセンターの食堂へ行ったら、家族で食事をしている
人たちを見かけた。
6~7人のグループだった。
祖父母、若い父母、それに2~3人の子ども。
その子どもの中の1人(6歳くらい)が、ここに書いたD症の子どもだった。
が、そのグループの人たちは、まったく平然と、楽しそうにみなで食事をしていた。
それを見た私の方まで、楽しくなるような雰囲気だった。
その子どもは、D症だったが、家族の暖かい愛情に包まれていた。
その温もりが、私のほうまで伝わってきた。
私の心まで暖かくした。
よい家族というのは、そういう家族をいう。
よい人たちというのは、そういう人たちをいう。
ここに書いた、「他人の不幸を笑う人」というのは、その(よい人)と、ちょうど反対の
位置にいる人と考えると、わかりやすい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 他人の不幸 他人の不幸を笑う人 他人の不幸論 不幸をのぞく人
よい人たち 愚かな人たち。はやし浩司 よい人 心の暖かい人 心の温もり)
Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司
●その人の基本
++++++++++++++++++
その人とは、何か?
その人の基本とは、何か?
それが60歳を過ぎると、「輪郭」として
わかるようになる。
おおざっぱに、わかるようになる。
自分のことでもよい。
配偶者のことでもよい。
親類のことでもよい。
「あの人は、こういう人」と。
その「輪郭」は、実は乳幼児期に作られる。
乳幼児期に作られたまま、それが原型となって、
みな、おとなになっていく。
四角い人は、四角い人のまま、。おとなになっていく。
丸い人は、丸い人のまま、おとなになっていく。
+++++++++++++++++
●オオカミ姉妹
ここ数日、オオカミ姉妹の話が気になる。
もう一度、昨日書いた原稿を、ここに書き出してみる。
●オオカミに育てられた姉妹
++++++++++++++++++
オオカミ姉妹(カマラとアマラ)について、
たびたび書いてきた。
「野生児」とも呼ばれる。
1920年10月に、インドで見つかった
2人の姉妹をいう。
この2人の姉妹について、私はあちこちで
書いてきたし、講演会でも、よく話してきた。
が、正確でない部分も多々、あった。
いろいろな資料をもとに、もう一度、
オオカミ姉妹について、整理しておきたい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(1)1920年10月、カルカッタの南、ゴダムリという村で見つかった。
(2)オオカミが住んでいた、シロアリの塚の中から、見つかった。
(3)2人の少女は、そのまま孤児院に入れられた。
(4)名前を、カマラ(姉、推定年齢8歳)、アマラ(推定年齢1歳)と名づけられた。
(5)A.L.シング夫妻らによって、養育された。
(6)当初、2人の姉妹は、オオカミのようにひざまづいてものを食べた。
(7)4つ足で走り、オオカミのような叫び声をあげた。
(8)アマラは約1年後に死亡。
(9)カマラは推定年齢17歳まで、生きた。
(10)その過程で、衣食住の生活習慣を身につけた。
(11)6年後には直立して歩行した。(推定年齢、14歳。)
(12)7年後には、45語を話せるようになった。
(13)中枢神経系に、器質的な異常は認められなかった。
(以上、「心理学とは何だろうか」(無藤!)・新曜社)より)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
この中でとくに注意しなければならないことは、(10)~(12)。
年齢を追って、もう一度、整理してみる。
姉のカマラは、推定年齢8歳で見つかっている。
その姉は、「6年後」、つまり推定年齢、14歳で、やっと直立して歩行するようになった。
「7年後」、つまり推定年齢、15歳で、45語の言葉を話せるようになった。
もしカマラが、ごくふつうの家庭で生まれ育ったなら、満1歳前後には、直立して歩き、
満2歳前後には、ある程度の会話ができるようになっていただろう。
しかしカマラのばあい、直立して歩けるようになるまでに、見つかってから6年も
かかっている!
45語の言葉を話せるようになるまでに、7年もかかっている!
さらに別の記録によれば、カマラにしても、また同じころフランスで見つかった
ビクトールという少年にしても、最後まで、人間らしい感情や心を取り戻すことは
なかったという。
●三つ子の魂
この野生児の例は、乳幼児期における(親子のふれあい)がいかに重要なもので
あるかを説明するために、よく取り上げられる。
と、同時に、そのころその人の「輪郭」ができるということも、明確に示している。
ほとんどの人は、「私は私」と思っている。
しかしその実、その「私」は、乳幼児期にその「輪郭」ができあがったとみてよい。
その結果が今であり、今の「私」は、その結果に過ぎない。
心のやさしい人、心の冷たい人。
穏やかな性質の人、はげしい気性の人。
何ごともやる気満々の人、いつも逃げ腰の人。
ものごとをよく考える人、考えない人。
他人に感動しやすい人、感動しない人などなど。
わかりやすい例としては、ケチ(ためこみ屋)と呼ばれる人がいる。
発達心理学的に説明すれば、肛門期(フロイト)に、愛情飢餓を経験すると、内へ内へと、
ものをためやすくなる。
それがケチになったり、ためこみ屋になったりする。
長男、長女のこのタイプの人が多いのは、下の子(弟、妹)が生まれたことにより、
愛情飢餓の状態に陥ったためと考えられている。
まさに『三つ子の魂、百まで』ということになる。
●自己診断法
そこで「自分探し」ということになる。
が、言い替えると、「自分の輪郭探し」ということになる。
つまり自分で自分の輪郭を知る。
それは可能なのか。
またその方法は、あるのか。
「私」という人間の輪郭が、乳幼児期に作られたことはわかる。
が、その輪郭といったものは、どういうものなのか。
ひとつの診断法として、こんなものがある。
「私は子どものころから……」という文章につなげて、自分のことを書いてみる。
あまり深く考えないで、思いついたままを書くのがコツ。
あなたも一度、この診断をしてみるとよい。
===============
「私」を知る、自己診断法
===============
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
===============
以上、20問用意してみた。
その結果を見ながら、自己分析をしていく。
彡彡人ミミ 彡彡彡彡彡
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 10年 6月 2日号
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●心の壊れた人
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世の中には、心の壊れた人がいる。
他人の不幸を興味本位でのぞいて、
それを酒の肴(さかな)にして、楽しんで
いる人がいる。
さらに進んで、「他人の不幸話ほど、おもしろい
ものはない」と言ったバカさえいる。
A氏(65歳)は、私にこう言った。
「あいつ(A氏の従兄)が、パーキンソン病に
なったそうだ。
今度見に行ってやろう」と。
A氏とA氏の従兄は、仲が悪かった。
10年にわたって、いがみあったこともある。
そのためA氏の従兄がパーキンソン病に
なったことが、うれしくてしかたないと
いったふうだった。
が、A氏には、それがわからない。
つまり自分の心が、すでに壊れていることが
わからない。
不幸にして不幸な乳幼児期を過ごしている。
それが直接的な原因ではないにしても、
「見に行こう」はない。
まさに、悪魔。
悪魔の言葉。
で、何と、そのあとしばらくしてから、A氏は
こう言った。
何でも妹氏(6歳下)を連れて、見舞いに
行ってきた、と。
もちろん「見舞い」ではない。
「見物」である。
一見、同情するフリをしていたが、その言葉には、
心がこもっていない。
口先だけで、「かわいそう」という言葉を
繰り返していた。
++++++++++++++++++++
●他人の不幸をのぞく人
他人の不幸を、興味本位でのぞける人というのは、そうはいない。
いないが、少なくないことも事実。
が、のぞくのはその人の勝手としても、のぞかれる人は、たまらない。
そのとたん、苦しみや悲しみが倍加する。
(倍加程度では、すまない。)
友人のT氏(63歳)が、こんな話をしてくれた。
T氏が、兄や母の介護問題で苦しんでいたとき、同じようにして、のぞかれた
ことがあるという。
そういう人たちは、いかにも心配していますというフリをしながら、近づいて
くる。
が、その実、何も心配などしていない。
こんなことがあったという。
T氏の兄が胃潰瘍がこじれて入院したときのこと。
見舞いに行ったら、T氏の兄は家の商売のことを心配していたという。
そこでT氏は、またその翌日、再び、今度は、小遣いをもって、兄を見舞った。
で、その数日後のこと。
T氏の親類のB氏(従兄)から、電話があった。
皮肉たっぷりの言い方だったという。
いわく、「おまえの兄さん、入院したぞ。入院したぞ。知っているか?」と。
間延びした、どこかネチネチした言い方だった。
そこでT氏が、「知っています。おととい見舞ってきましたから」と。
その言葉に驚いて、B氏は、「えっ、……見舞っ……た?」と。
以後、T氏はB氏とは、関係を断ったという。
●自己認識
心の壊れた人には、奇妙な一貫性がある。
一事が万事。
万事が一事。
脳のCPU(中央演算装置)が壊れているため、自分の心が壊れていることに
気づくことはない。
ないばかりか、自己中心性が強いため、他人もまた自分と同じと考える。
あるいは自分を基準として、ものを考える。
他人を見る。
つまりどこまでも心のさみしい人ということになる。
●他人の不幸はのぞかない
生きていくことには、いくつかの大原則がある。
そのひとつ。
『他人の不幸はのぞかない』。
それとわかっていても、あるいが気がついていても、そっとしておいてやる。
もちろん相手から相談でもあれば、話は別。
そうでなければ、そっとしておいてやる。
見舞いにしても、一度、家人に相談してから行くのが、常識。
いきなり相手の家に押しかけて、「見舞いに来ました」はない。
来られたほうも、困る。
ばあいによっては、(多くのばあいそうなのだが……)、かえって不愉快。
が、そういう常識の備わっていない人が多いから、困る。
もしそれがわからなければ、自分のこととして考えてみればよい。
どこのだれが、自分の無様(ぶざま)な姿を、人前にさらけ出したいか?
いきなり来られたのでは、かえってそのままそれをさらけ出すことになる。
そういう見舞いが平気でできる人というのは、相手の気持ちが理解できない。
「見舞いに来てやったから、喜んでいるはず」という、きわめて自己中心的な
『ハズ論』だけで、自分の行為を正当化してしまう。
これが先に書いた、「一貫性」ということになる。
●さらに……!
さらにこんな話も聞いた。
その人、Kさん(75歳女性)は、1年近く、うつ病で家の中に閉じこもっていた。
家の中でもいちばん暗いところに、身を横たえていた。
そんな女性のところへ、ある日、親類の女性(70歳)が見舞いにやってきた。
Kさんは、最初、面会を拒否した。
「だれにも会いたくない」と言った。
が、見舞いに来た親類の女性は、強引に部屋の奥まで入っていき、Kさんの枕元に
ひざまづいたという。
そして何と、あろうことか、お経を読み始めた……!
その親類の女性というのは、どこかの宗教団体に属していた。
そこで覚えたお経を、Kさんの前で唱えたというのだ。
狂信性もここまでくると、怒れるより先に、笑えてくる。
(もちろんKさんの病気を笑っているのではない。
見舞いに来た親類の、その女性の頭(おつむ)のほうを笑う。)
無神経な人は、どこにでもいる。
そんなバカなことで鬱病が治るくらいなら、医者などいらない。
もっともその女性のばあいは、本気で(?)、Kさんのことを心配していたのかも
しれないが……。
●精進(しょうじん)
あなたの周りにも、ここに書いたような人がいるかもしれない。
しかしそういう人とは、できるだけ早く、離れたほうがよい。
長くつきあって、よいことは何もない。
ないばかりか、その人の毒気に染まってしまうことすら、ある。
一方、あなたはあなたで、もしそういう傾向があるなら、あとは「精進」あるのみ。
そういう自分と闘う。
闘って、そういう自分を自分の中から、追い出す。
方法は簡単。
いくつかの原則論を定め、それに従って生きる。
(1)ウソはつかない。
(2)約束は守る。
(3)人の悪口は言わない。
(4)グチは言わない。
(5)他人の不幸には干渉しない。
(6)他人の不幸は、自分のものと考える。
(7)他人の不幸を望まない。
(8)他人の不幸を笑わない。
そして何よりも大切なことは、(9)心の壊れた人とは、つきあわない。
●奇妙な一貫性
奇妙な一貫性について、補記する。
ここに書いたB氏(T氏の従兄)に、直接会ったことはない。
ないが、その周辺の人から、こんな話を聞いた。
B氏には2人の息子がいる。
そのうちの1人が、D症という、生まれながらの病気にかかっている。
現在は、35歳前後とか。
B氏は、その息子のことを、隠している。
ぜったいに表(外)には、出さないという。
最近、もう1人の息子が結婚式をあげたが、その結婚式にも列席させなかったという。
「インフルエンザで急に熱を出しまして……」と、結婚式の場では、そう言って、
弁解していたという。
これが私が言う「奇妙な一貫性」である。
(他人の不幸を笑う)→(自分の不幸も、他人に笑われると思う)、と。
つまり他人の不幸を笑った分だけ、今度は、その人自身が苦しむということ。
だから私はあえて(6)の「他人の不幸は、自分のものと考える」という原則を並べた。
それが日常的にできるようになると、その分だけ、心が広くなる。
その心で、自分の不幸まで、包み込むことができるようになる。
(付記)
先日、近くのショッピングセンターの食堂へ行ったら、家族で食事をしている
人たちを見かけた。
6~7人のグループだった。
祖父母、若い父母、それに2~3人の子ども。
その子どもの中の1人(6歳くらい)が、ここに書いたD症の子どもだった。
が、そのグループの人たちは、まったく平然と、楽しそうにみなで食事をしていた。
それを見た私の方まで、楽しくなるような雰囲気だった。
その子どもは、D症だったが、家族の暖かい愛情に包まれていた。
その温もりが、私のほうまで伝わってきた。
私の心まで暖かくした。
よい家族というのは、そういう家族をいう。
よい人たちというのは、そういう人たちをいう。
ここに書いた、「他人の不幸を笑う人」というのは、その(よい人)と、ちょうど反対の
位置にいる人と考えると、わかりやすい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 他人の不幸 他人の不幸を笑う人 他人の不幸論 不幸をのぞく人
よい人たち 愚かな人たち。はやし浩司 よい人 心の暖かい人 心の温もり)
Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司
●その人の基本
++++++++++++++++++
その人とは、何か?
その人の基本とは、何か?
それが60歳を過ぎると、「輪郭」として
わかるようになる。
おおざっぱに、わかるようになる。
自分のことでもよい。
配偶者のことでもよい。
親類のことでもよい。
「あの人は、こういう人」と。
その「輪郭」は、実は乳幼児期に作られる。
乳幼児期に作られたまま、それが原型となって、
みな、おとなになっていく。
四角い人は、四角い人のまま、。おとなになっていく。
丸い人は、丸い人のまま、おとなになっていく。
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●オオカミ姉妹
ここ数日、オオカミ姉妹の話が気になる。
もう一度、昨日書いた原稿を、ここに書き出してみる。
●オオカミに育てられた姉妹
++++++++++++++++++
オオカミ姉妹(カマラとアマラ)について、
たびたび書いてきた。
「野生児」とも呼ばれる。
1920年10月に、インドで見つかった
2人の姉妹をいう。
この2人の姉妹について、私はあちこちで
書いてきたし、講演会でも、よく話してきた。
が、正確でない部分も多々、あった。
いろいろな資料をもとに、もう一度、
オオカミ姉妹について、整理しておきたい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(1)1920年10月、カルカッタの南、ゴダムリという村で見つかった。
(2)オオカミが住んでいた、シロアリの塚の中から、見つかった。
(3)2人の少女は、そのまま孤児院に入れられた。
(4)名前を、カマラ(姉、推定年齢8歳)、アマラ(推定年齢1歳)と名づけられた。
(5)A.L.シング夫妻らによって、養育された。
(6)当初、2人の姉妹は、オオカミのようにひざまづいてものを食べた。
(7)4つ足で走り、オオカミのような叫び声をあげた。
(8)アマラは約1年後に死亡。
(9)カマラは推定年齢17歳まで、生きた。
(10)その過程で、衣食住の生活習慣を身につけた。
(11)6年後には直立して歩行した。(推定年齢、14歳。)
(12)7年後には、45語を話せるようになった。
(13)中枢神経系に、器質的な異常は認められなかった。
(以上、「心理学とは何だろうか」(無藤!)・新曜社)より)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
この中でとくに注意しなければならないことは、(10)~(12)。
年齢を追って、もう一度、整理してみる。
姉のカマラは、推定年齢8歳で見つかっている。
その姉は、「6年後」、つまり推定年齢、14歳で、やっと直立して歩行するようになった。
「7年後」、つまり推定年齢、15歳で、45語の言葉を話せるようになった。
もしカマラが、ごくふつうの家庭で生まれ育ったなら、満1歳前後には、直立して歩き、
満2歳前後には、ある程度の会話ができるようになっていただろう。
しかしカマラのばあい、直立して歩けるようになるまでに、見つかってから6年も
かかっている!
45語の言葉を話せるようになるまでに、7年もかかっている!
さらに別の記録によれば、カマラにしても、また同じころフランスで見つかった
ビクトールという少年にしても、最後まで、人間らしい感情や心を取り戻すことは
なかったという。
●三つ子の魂
この野生児の例は、乳幼児期における(親子のふれあい)がいかに重要なもので
あるかを説明するために、よく取り上げられる。
と、同時に、そのころその人の「輪郭」ができるということも、明確に示している。
ほとんどの人は、「私は私」と思っている。
しかしその実、その「私」は、乳幼児期にその「輪郭」ができあがったとみてよい。
その結果が今であり、今の「私」は、その結果に過ぎない。
心のやさしい人、心の冷たい人。
穏やかな性質の人、はげしい気性の人。
何ごともやる気満々の人、いつも逃げ腰の人。
ものごとをよく考える人、考えない人。
他人に感動しやすい人、感動しない人などなど。
わかりやすい例としては、ケチ(ためこみ屋)と呼ばれる人がいる。
発達心理学的に説明すれば、肛門期(フロイト)に、愛情飢餓を経験すると、内へ内へと、
ものをためやすくなる。
それがケチになったり、ためこみ屋になったりする。
長男、長女のこのタイプの人が多いのは、下の子(弟、妹)が生まれたことにより、
愛情飢餓の状態に陥ったためと考えられている。
まさに『三つ子の魂、百まで』ということになる。
●自己診断法
そこで「自分探し」ということになる。
が、言い替えると、「自分の輪郭探し」ということになる。
つまり自分で自分の輪郭を知る。
それは可能なのか。
またその方法は、あるのか。
「私」という人間の輪郭が、乳幼児期に作られたことはわかる。
が、その輪郭といったものは、どういうものなのか。
ひとつの診断法として、こんなものがある。
「私は子どものころから……」という文章につなげて、自分のことを書いてみる。
あまり深く考えないで、思いついたままを書くのがコツ。
あなたも一度、この診断をしてみるとよい。
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「私」を知る、自己診断法
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○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
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以上、20問用意してみた。
その結果を見ながら、自己分析をしていく。