最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●仲間に入れない子ども(1)

2010-06-09 09:55:24 | 日記
【仲間に入れない子ども】(ある母親からの相談より)

●スランプ

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学生時代、「スランプ」という言葉を
よく使った。
要するに心身の調子が悪く、思うように
勉強や活動ができない状態をいった。

今が、そのとき。
しかし「スランプ」というのは、どういう
意味なのか。

英語では「slump」と書く。
(1)暴落する。
(2)ドスンと落ち込む
(3)うなだれる
(4)不振、不調
(5)運動選手のスランプ(以上、ジーニアス英和辞典)とある。

 が、私のばあい、一度こういう精神状態になると、何かにつけて、グチぽくなる。
(アメリカの精神医学によれば、「愚痴(Complainment)」は、精神病の診断項目のひとつになっている。要注意!)

++++++++++++++++++

●発端

 ことの発端は、ある読者からの相談だった。
メールで、それが届いた。
こうあった。

『はじめまして、こんにちは、今はじめてホームページを拝見し相談させていただきます
6歳の長男にていて相談なのですが、年少の秋から幼稚園に入り今年長になりますが、年中、年長と上がるたび、お友達の輪に入られなくなり、お友達が出来ないようです。
個人ではしゃべれるのですが、二人以上になると入っていけず、一人でいることが多いようです。
先生にもしゃべることができません。
近所で遊ぶお友達とは自分を出せよくしゃべります。また年長になって指しゃぶりや爪噛みが多くなり、はじめは不安なときだけだったのが、暇なときは常に指が口に入ります。
小さい頃から大人しく、私も主人も同じく輪に入られなかったので、遺伝なのでしょうか。
切迫早産にもなり下の子が出来たときは長く実家に預けたこともあり、赤ちゃん帰りも酷かったのですが、上の子は何でも一番に優先させ甘えさせてきたつもりですが、育て方が悪かったのでしょうか。

たまに感情的に怒ったり、神経質になりすぎるのが良くないのでしょうか』(愛知県にお住まいのKさんより)。

●スランプ状態

 この相談に返事を書こうとしたが、一向に筆が進まない。
それぞれの母親にしてみれば、はじめての子育て。
何かと戸惑うことも、多いだろう。
しかし相談を受ける方は、そうでない。
毎年、毎月、同じ相談を受ける。
そのたびに同じことを書く。
それがめんどうというか、とても苦痛に感ずるようになった。
で、心理的には、過大な宿題を背負ったような状態になった。
「返事を書かねば」という思いと、「書きたくない」という思いのはざまで、心が行き来した。
その結果、「スランプ状態」になってしまった。

●一方的な見方

 この母親は、自分の子どもが「友だちの輪に入れない」という。
「(自分の子どもに)友だちができない」という。
たぶん母親の目から見ると、その子どもは集団の中で、孤立しているのだろう。
みながワイワイと何か作業をしているようなときでも、少し離れたところに立って、それを見ている……。
そういう子どもは多い。
7~8人に1人はいる。
それがその母親には、気になったらしい。

 理由はいろいろ考えられる。
第一に思いつくのは、「社会性の欠落」。
乳幼児期から、(ものわかりのいい環境)の中だけで、育てられると、子どもはそうなる。
俗にこう言う。
『温室育ち、すぐ風邪をひく』と。

 それが高じて、対人恐怖症、回避性障害、さらには場面かん黙症を引き起こしたのかもしれない。
あるいは親の過関心、過干渉、神経質な育児姿勢が、子どもを萎縮させているのかもしれない。
親の強圧的、あるいは威圧的な育児姿勢が日常的につづいても、そうなる。

つまり子どもは、家族の「代表」にすぎない。
この母親は、自分の子どもだけを見ている。
自分見ていない。
ふつうこういうケースでは、(相談のKさんがそうというのではない。誤解のないように!)、疑ってみるべきは、母親の育児姿勢。
そういった視点が、どこにもない。
一読して、それが気になった。

●限界

 Kさんも含めて、親たちは、自分の子どもがどうであると満足するのか。
優等生で、問題がなく、何でもテキパキとやりこなし、性格も明るい……。
さらに言えば、クラスの中でも、人気者。
「~~障害」と診断名がつくようなケースは別として、親たちは、子どものささいな弱点を目ざとく見つけては、それを問題にする。

 「友だちができない」?
「友だちの輪に入れない」?
しかしそれがどうしたと言うのか?
6歳ともなれば、幼児期後期。
児童期への移行期に入る。
この時期、すでに人格の「核(コア)」は、完成している。
あれこれと「核」をいじれば、子どもはかえって自身を喪失し、混乱する。
自己評価力も低下する。

 私にしても、うわべの友だちなら、いくらでもいる。
適当に会って、適当に話す。
そういう友だちなら、いくらでもいる。
はじめて行ったような店の店員とでも、友だちになれる。
しかし本当の友だちは、数えるほどしかいない。

 Kさんの心配も理解できないわけではない。
しかし私がKさんなら、「あなたは、それでいいのよ」と、子どもに言う。
あるいは友だちを家に呼んで、パーティでも開いてやる。
ほかの母親たちと、交流を多くし、その中に子どもを巻き込んでいく。
が、それでKさんの子どもが、Kさんの望み通りの子どもになるとは、かぎらない。
親のできることには、いつも限界がある。

●遠い距離

 さらに症状がつづく。
一読すれば、下の子が生まれたことによる、赤ちゃん返りが起きていることがわかる。
愛情飢餓、あるいは嫉妬が、その原因と考える。
メールには、「長く実家に預けたこともあり……」とある。
子どもにとって、それがいかに辛(つら)いことであったことか……。
たった半日、遊園地で迷子になっただけで、赤ちゃん返りを起こした子どもだっている。

 子どもの心をあまりにも安易に考えすぎている。
とくに赤ちゃん返りを、軽く考えてはいけない。
ばあいによっては、精神障害も引き起こす。
その結果、「どうしたらいいか?」と。
さらに言えば、「……私も主人も同じく輪に入られなかったので、遺伝なのでしょうか」と。

 この問題を説明するためには、母親自身の基本的信頼関係の問題にまで、踏み込まねばならない。
わかりやすく言えば、Kさん自身が、心の開けない人である可能性が高い。
親が心を開けないのに、どうして子どもが心を開けるか?
その前に、「心を開く」の意味がわかっていない(?)。
そういう疑問も残る。

 説明してやりたいのだが、Kさんとの間に、遠い距離を覚える。
たとえて言うなら、(Kさんにはたいへん失礼な言い方になるかもしれないが)、パソコンをはじめて買ってきたような人と、接しているような感じがする。
そういう人に、BIOS(バイオス)の設定の仕方を話しても、はたして理解できるだろうか?

 ついでに言うなら、「遺伝」ということなら、「障害」の問題を考えなければならない。
しかし「世代連鎖」ということなら、基本的不信関係は、世代連鎖しやすい。
このばあいも、ただすべきは、子どものほうではなく、親のほうということになる。

●親の身勝手

 が、スランプに陥ったのは、それが理由ではない。
私自身も、仮面をかぶって、聖職者ぶることに、疲れを覚え始めている。
本来なら、「たいへんですね。でも、何も問題はありませんよ。自信をもって、がんばってください」式のことを書くべきなのかもしれない。

 しかし本音を言えば、そうでない。
「親なら親として、少しは勉強しろ!」と言いたい。
「子どもを産むことと、育てることは、別!」と言いたい。
「子どもの問題を考える前に、自分の問題を解決してみろ!」と言いたい。
(今のKさんには、きびしい言葉かもしれないが、ここを第一歩として、「育児」の世界に飛び込んでみてほしい。
そこはあなたが考えているよりは、はるかに深く、広い世界。
いつかあなたもその深遠さに、驚き、おののくはず。)

 でないと、この種の問題には、際限がない。
ことあるごとに親は、子どもの中に、つぎつぎとささいな問題を見つけては、それをおおげさに騒ぐ。
それが解決すると、さらに「もっと……」「もっと……」と言い出す。
Kさんがそうというわけではないが、親の身勝手さには、もううんざり!

「……たまに感情的に怒ったり、神経質になりすぎるのが良くないのでしょうか」とか?
そんなことは、わかりきったことではないか!

●子育ての深遠さ

 心配なのは、わかる。
不安なのも、わかる。
が、その心配や不安を、子どもにぶつけてはいけない。
この連鎖を、いつかどこかで断ち切らないと、心配や不安は、いつまでもつづく。
おそらくKさんが、老齢者になってもつづく。
が、その「連鎖」を断ち切るのは、容易なことではない。
私がここでこう書いたからといって、「はい、そうします」というわけにはいかない。
「根」は深い。

 おそらく妊娠したときから、あるいは結婚当初から、さらには、Kさん自身が子どものときから、すでに始まっている。
だから「根」が深い。
そんな深刻な問題を、「どうしたらいいですか?」と聞かれても、私は困る。
というのも、この私だって、この年齢になっても、まだその問題で悩んでいる。

 子育てというのは、ただ子どもを大きくすればよいという問題ではない。
そこには、その人の哲学や人生観、さらには死生観が凝縮される。
またそれがないと、子育てなど、できない!
若い女性が、ペットショップでペットを買ってきて、「かわいい」「かわいい」と頬ずりをする。
それとは、訳がちがう。

 ……とまあ、グチはここまで。

【はやし浩司よりKさんへ】

 きびしい話は別として、また私の今のスランプ状態を抜け出すためにも、Kさんの問題を、いっしょに考えてみます。

(1)「友だちの輪」に入れない

 子どもに何かの問題点を見つけたら、反対にほめてみます。
「あなたは、今日、友だちと仲よくできたわね」と。
「あなたはダメな子」的な言い方が日常化すると、かえって逆効果になります。
そして先にも書いたように、あなた自身が、相手の子どもたちと仲間になるつもりで、「輪」の中に入っていきます。
あなた自身の問題と考え、その「輪」の中に飛び込んでいきます。

 すでに子どもは、6歳です。
人格の「核(コア)」は完成しているとみます。
今のあなたがあなたであるように、すでにあなたの子どもは、1人の人間なのです。
あるがままを認め、「うちの子は、まあ、こんなもの」と、割り切ること。
あきらめるべきところは、あきらめる。
集団活動は苦手になるかもしれませんが、だれにでも、そうした弱点はあります。
私にも、ある。
あなたにも、ある。
だったら、あとは居直るしかないのです。

 ただしそれが「発達障害」によるもの(?)と心配なら、専門機関で、育児相談を受けてみてみてください。
症状の程度が、メールだけかからはわかりません。
「先生とも話せない」ということですから……。

(2)赤ちゃん返り

 赤ちゃん返りについては、たびたび書いてきました。
一度、検索エンジンを使って、「はやし浩司 赤ちゃん返り」を検索してみてください。
私のHP(http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)の「子育て・あいうえお」の中にも、いくつか収録してあります。

 先にも書きましたが、赤ちゃん返りは、けっして安易に考えてはいけません。


(3)基本的信頼関係

 これについては、たびたび書いてきましたので、その中からひとつを選んで、ここに再収録します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【基本的信頼関係】


信頼関係は、母子の間で、はぐくまれる。


絶対的な(さらけ出し)と、絶対的な(受け入れ)。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味である。こうした相互の関係が、その子ども(人)の、信頼関係の基本となる。


 つまり子ども(人)は、母親との間でつくりあげた信頼関係を基本に、その関係を、先生、友人、さらには夫(妻)、子どもへと応用していくことができる。だから母親との間で構築される信頼関係を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。


 が、母子との間で、信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、その反対に、「基本的不信関係」に陥(おちい)る。いわゆる「不安」を基底とした、生きザマになる。そしてこうして生まれた不安を、「基底不安」という。


 こういう状態になると、その子ども(人)は、何をしても不安だという状態になる。遊んでいても、仕事をしていても、その不安感から逃れることができない。その不安感は、生活のあらゆる部分に、およぶ。おとなになり、結婚してからも、消えることはない。夫婦関係はもちろんのこと、親子関係においても、である。


 こうして、たとえば母親について言うなら、いわゆる不安先行型、心配先行型の子育てをしやすくなる。


●基底不安


 親が子育てをしてい不安になるのは、親の勝手だが、ほとんどのばあい、親は、その不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。


 しかし問題は、そのぶつけることというより、親にその自覚がないことである。ほとんどの親は、不安であることや、心配していることを、「ふつうのこと」と思い、そして不安や心配になっても、「それは子どものため」と思いこむ。


 が、本当の問題は、そのつぎに起こる。


 こうした母子との間で、基本的信頼関係の構築に失敗した子どももまた、不安を基底とした生きザマをするようになるということ。


 こうして親から子どもへと、生きざまが連鎖するが、こうした連鎖を、「世代連鎖」、あるいは「世代伝播(でんぱ)」という。


 ある中学生(女子)は、夏休み前に、夏休み後の、実力テストの心配をしていた。私は、「そんな先のことは心配しなくていい」と言ったが、もちろんそう言ったところで、その中学生には、説得力はない。その中学生にしてみれば、そうして心配するのは、ごく自然なことなのである。

(はやし浩司 基本的信頼関係 基底不安)


●人間関係を結べない子ども(人)


人間関係をうまく結ぶことができない子どもは、自分の孤独を解消し、自分にとって居心地のよい世界をつくろうとする。その結果、大きく分けて、つぎの四つのタイプに分かれる。


(1)攻撃型……威圧や暴力によって、相手を威嚇(いかく)したりして、自分にとって、居心地のよい環境をつくろうとする。

(2)依存型……ベタベタと甘えることによって、自分にとって居心地のよい環境をつくろうとする。

(3)服従型……だれかに徹底的に服従することによって、自分にとって居心地のよい環境をつくろうとする。

(4)同情型……か弱い自分を演ずることにより、みなから「どうしたの?」「だいじょうぶ?」と同情してもらうことにより、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。


それぞれに(プラス型)と、(マイナス型)がある。たとえば攻撃型の子どもも、プラス型(他人に対して攻撃的になる)と、マイナス型(自虐的に勉強したり、運動をしたりするなど、自分に対して攻撃的になる)に分けられる。


 スポーツ選手の中にも、子どものころ、自虐的な練習をして、有名になった人は多い。このタイプの人は、「スポーツを楽しむ」というより、メチャメチャな練習をすることで、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとしたと考えられる。

●仲間に入れない子ども(2)

2010-06-09 09:54:33 | 日記



●子どもの仮面


 人間関係をうまく結べない子ども(人)は、(孤立)と、(密着)を繰りかえすようになる。


 孤独だから、集団の中に入っていく。しかしその集団の中では、キズつきやすく、また相手をキズつけるのではないかと、不安になる。自分をさらけ出すことが、できない。できないから、相手が、自分をさらけ出してくると、それを受入れることができない。


 たとえば自分にとって、いやなことがあっても、はっきりと、「イヤ!」と言うことができない。一方、だれかが冗談で、その子ども(人)に、「バカ!」と言ったとする。しかしそういう言葉を、冗談と、割り切ることができない。


 そこでこのタイプの子どもは、集団の中で、仮面をかぶるようになる。いわゆる、いい子ぶるようになる。これを心理学では、「防衛機制」という。自分の心がキズつくのを防衛するために、独特の心理状態になったり、独特の行動を繰りかえすことをいう。


 子ども(人)は、一度、こういう仮面をかぶるようになると、「何を考えているかわからない子ども」という印象を与えるようになる。さらに進行すると、心の状態と、表情が、遊離するようになる。うれしいはずなのに、むずかしい顔をしてみせたり、悲しいはずなのに、ニンマリと笑ってみせるなど。


 この状態になると、一人の子ども(人)の中に、二重人格性が見られるようになることもある。さらに何か、大きなショックが加わると、人格障害に進むこともある。


●すなおな子ども論


 従順で、おとなしく、親や先生の言うことを、ハイハイと聞く子どものことを、「すなおな子ども」とは、言わない。すなおな子どもというときには、二つの意味がある。


一つは情意(心)と表情が一致しているということ。うれしいときには、うれしそうな顔をする。いやなときはいやな顔をする。


たとえば先生が、プリントを一枚渡したとする。そのとき、「またプリント! いやだな」と言う子どもがいる。一見教えにくい子どもに見えるかもしれないが、このタイプの子どものほうが「裏」がなく、実際には教えやすい。


いやなのに、ニッコリ笑って、黙って従う子どもは、その分、どこかで心をゆがめやすく、またその分、心がつかみにくい。つまり教えにくい。


 もう一つの意味は、「ゆがみ」がないということ。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。


ゆがみというのは、その子どもであって、その子どもでない部分をいう。たとえば分離不安の子どもがいる。親の姿が見えるときには、静かに落ちついているが、親の姿が見えなくなったとたん、ギャーとものすごい声をはりあげて、親のあとを追いかけたりする。その追いかけている様子を観察すると、その子どもは子ども自身の意思というよりは、もっと別の作用によって動かされているのがわかる。それがここでいう「その子どもであって、その子どもでない部分」ということになる。


 仮面をかぶる子どもは、ここでいうすなおな子どもの、反対側の位置にいる子どもと考えるとわかりやすい。


●仮面をかぶる子どもたち


 たとえばここでいう服従型の子どもは、相手に取り入ることで、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。


 先生が、「スリッパを並べてください」と声をかけると、静かにそれに従ったりする。あるいは、いつも、どうすれば、自分がいい子に見られるかを、気にする。行動も、また先生との受け答えのしかたも、優等生的、あるいは模範的であることが多い。


先生「道路に、サイフが落ちていました。どうしますか?」

子ども「警察に届けます」

先生「ブランコを取りあって、二人の子どもがけんかをしています。どうしますか?」

子ども「そういうことをしては、ダメと言ってあげます」と。


 こうした仮面は、服従型のみならず、攻撃型の子どもにも見られる。


先生「君、今度のスポーツ大会に選手で、出てみないか?」

子ども「うっセーナア。オレは、そんなのに、興味ネーヨ」

先生「しかし、君は、そのスポーツが得意なんだろ?」

子ども「やったこと、ネーヨ」と。


 こうした仮面性は、依存型、同情型にも見られる。


●心の葛藤


 基本的信頼関係の構築に失敗した子ども(人)は、集団の中で、(孤立)と(密着)を繰りかえすようになる。


 それをうまく説明したのが、「二匹のヤマアラシ」(ショーペンハウエル)である。


 「寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつきすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけてしまう。しかし離れすぎると、体が温まらない。そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体を温めあった」と。


 しかし孤立するにせよ、密着するにせよ、それから発生するストレス(生理的ひずみ)は、相当なものである。それ自体が、子ども(人)の心を、ゆがめることがある。


一時的には、多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが多い。たとえば急激に緊張すると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキドキし、さらにその結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発になる。


が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康允氏)という。


こうしたストレスが日常的に重なると、脳の機能そのものが変調するというのだ。たとえば子どものおねしょがある。このおねしょについても、最近では、大脳生理学の分野で、脳の機能変調説が常識になっている。つまり子どもの意思ではどうにもならない問題という前提で考える。


 こうした一連の心理的、身体的反応を、神経症と呼ぶ。慢性的なストレス状態は、さまざまな神経症による症状を、引き起こす。


●神経症から、心の問題


ここにも書いたように、心理的反応が、心身の状態に影響し、それが身体的な反応として現れた状態を、「神経症」という。



子どもの神経症、つまり、心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害)は、まさに千差万別。「どこかおかしい」と感じたら、この神経症を疑ってみる。


(1)精神面の神経症…恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩む)など。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号ととらえて警戒する。

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面に現れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。

●たとえば不登校


こうした子どもの心理的過反応の中で、とくに問題となっているのが、不登校の問題である。


しかし同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい花粉症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。


が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を

「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが、つぎである。

(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜になると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。

学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつど移動するのが特徴。

(3)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂ったように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、一転、症状が消滅する。


ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」と思うことが多い。


(4)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピリした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすることはある(感情障害)。


この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わからなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。


(4)回復期(この回復期は、筆者が加筆した)……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やがて登校できるようになる。日に一~二時間、週に一日~二日、月に一週~二週登校できるようになり、序々にその期間が長くなる。


●前兆をいかにとらえるか


 この不登校について言えば、要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たいていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無理が症状を悪化させ、(2)のパニック期を招く。


この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪化する。 


Hiroshi Hayashi++++++++はやし浩司

●終わりに

 どこかに書きましたが、これをきっかけに、『育児は哲学』と考え、Kさんも、どんどんと勉強してみてください。
そしてKさんはKさんで、母親ではなく、妻でもなく、女でもない。
1人の人間として、自分の哲学を追求します。
生き様を模索します。
その結果として、あなたの子どもは、あなたを「親」とみるようになります。
1人の人間として、いつか評価するようになります。

 親になること程度なら、子どもを産めばできます(失礼!)。
しかし真の親になるのは、まだまだこの先、遠い道のりがあります。
さらにきびしい山を越え、谷を越えなければなりません。
現在、あなたが悩んだりしていることなど、何でもありません。

 忘れていけないことは、親が子どもを育てるのではないということ。
子どもが親を育てます。
あなたがあなたの子どもに育てられるのです。
また育てられることを、恐れてはいけません。
親の方が一歩、退き、謙虚になるのです。
子育てというのは、そういうものです。

 幸いにも、あなたはその第一歩を踏み出した。
わかりますか?
第一歩を踏み出したのです。
どうか恐れず、また第二の人生を子どもといっしょに歩むつもりで、前に進んでみてください。

 最後になりますが、あとは、「心を開く」、です。
「心を開け、体はあとからついてくる」(アメリカの格言)です。
言いたいことを言い、したいことをする。
いやだったら、「いや!」と言う。
あなたはあなたらしく、「私」をしっかりともって生きる。
あなたが心を開かないで、どうしてあなたの子どもが心を開けるでしょうか。

 以上ですが、メール、ありがとうございました。
私は冒頭に書いたように、まだスランプ状態ですが、何とかなるでしょう。
今は、休養のときかもしれません。

 では、失礼します。


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Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司





(1)老齢期の心理

2010-06-09 06:50:55 | 日記
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      6月   9日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●Active Learning(生きた教育)vs Silent People(もの言わぬ民)

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バートランド・ラッセルは、つぎのように述べている。

Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls.
教師の知恵をそのまま受け入れることは、生徒たちにとっては楽なこと。

It involves no effort of independent thought, and seems rational because the teacher
knows more than his pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher
unless he is a very exceptional man.
自分で考えるという努力を必要としないし、それに教師は生徒たちよりもよく知っている
という点で、教師のもつ知恵は、より道理的である。

Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later life.
が、ものごとを受動的に受け入れるという習慣は、あとになって、たいへんなことだとわ
かる。

It causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that
position...
受動的であると、リーダーを求めるようになり、その地位にある人ならだれであっても、
その人をリーダーと受け入れてしまうようになる。

It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there are few who can
appreciate it, and that ordinary education can take no account of so aristocratic a good.
精神的な冒険による喜びというのは、稀なことであり、それゆえにそれを楽しむ人はほと
んどいない。そのためふつうの教育というのは、規律正しく貴族主義的であればあるほど、
よいと言われる。

I do not believe this.
しかし私は、こんなことを信じない。

The joy of mental adventure is far commoner in the young than in grown men and
women.
若い人たちのほうが、成人した人たちより、ずっとしばしば、精神的な冒険の喜びを経験
している。

Among children it is very common, and grows naturally out of the period of
make-believe and fancy.
幼い子どもたちほどそうで、成長とともに、空想の世界から自然と抜け出ていく。

It is rare in later life because everything is done to kill it during education...
むしろ歳をとればとるほど、教育を通して、それをつぶされてしまうため、そういうこと
が稀になる。

The wish to preserve the past rather than the hope of creating the future dominates the
minds of those who control the teaching of the young.
未来を創造するという希望よりも、過去を保全するという願いのほうが、若い人たちを教
育する教師の心を、より強く支配する。

Education should not aim at passive awareness of dead facts, but at an activity
directed towards the world that our efforts are to create.
教育というのは、死んだ事実を、生徒たちに押しつけることを目的としてはいけない。そ
うではなくて、私たちの努力が創りあげる世界に向かって、生徒たちを活動的にすること
を目的としなければならない。

++++++++++++++++++++

●死んだ教育vs生きた教育

 教師はどうしても、保守主義に陥りやすい。
「教育」本来のシステムそのものが、そういう趣旨から出発している。
とくに日本のばあい、明治以来、「教え、育てる」が、教育の基本になっている。
最初に「教科書」を用意し、それを子どもたちに植えつける。
それが教育の基本になっている。

 しかしオーストラリアでは、(当時は批判的な声も多く聞かれたが)、すでに小学3年生
まで、教科書を使っていなかった(南オーストラリア州)。
それも私が直接確認したのは、25年以上も前のことである。
(最近のことは、知らない。)
また「教科書」という概念ではなく、彼らが使っているのは、「テキスト」である。
テキストブック、イコール、教科書ではない。

 つまり世界的にみれば、日本の教育はバートランド・ラッセル風に言えば、「死んだ教育」
ということになっている。
それが、基本になっている。
「創りあげる教育」ではなく、「上から下へ、押しつける教育」。
だからおもそろくない。
つまらない。
だから子どもたちは、よくこう言う。

「まだ、習っていない!」と。
何か新しい漢字を書かせようとしたり、新しい問題を解かせようとしたとき、など。
決まって、そう言う。
教育の受け方そのものが、受動的。
わかりやすく言えば、小学低学年時においてすら、すでにそう飼い慣らされてしまってい
る!

●では、どうするか?

 教科書の廃止は当然としても、それに代わるシステムを創りあげなければならない。
「指針」のようなものでよい。
また教育現場にダイナミズムをもたらすために、EUのように大学の単位を共通化する。
同時に教育のクラブ化を進める。
重要な必須科目は、「学校」という場で教える。
しかしそうでない科目は、学校を離れたクラブで教える。
クラブを選ぶのは、子どもたちの自由。

 フランスに住んでいるSさんは、最近、こんなメールをくれた。
「(2人)の子どもたちは、自転車クラブに夢中です」と。
まだ小学生である。
そういう子どもたちが、クラブを通して、夢中になれるものをもっている。
それをすばらしいと言わずして、何という。

 もちろんその前に、やるべきことがひとつある。
職業の公平化である。

 親たちは日々の生活を通して、社会の「格差」「差別」「不公平」を、いやというほど、
感じ取っている。
こうした問題を解決しないまま、今、教育を自由化すれば、いわゆる受験産業だけが「ク
ラブ」になってしまう。
それでは元の木阿弥。

 が、皮肉なことに、この日本では、そうした格差、差別、不公平の恩恵を受けているの
が、官僚たち、なかんずく文部科学省。
天下り先として機能している外郭団体にしても、ダントツに多い。
1800団体近くもある。
中には、ほとんど意味のない団体もある。
こうした団体が、日本の教育をがんじがらめにし、硬直化させている。
1500年もつづいた日本の官僚制度の壁は、あなたが考えているより、はるかに厚い。

 その結果、どんな子どもが生まれるか?
それはあなた自身が、いちばんよく知っている。
「もの言わぬ、従順な民」。
あるいは、「もの考えぬ、従順な民」でもよい。
それがあなた自身ということになる。

 日本の教育を真正面から批判してみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 生きた教育 バートランド・ラッセル もの言わぬ従順な民 格差 差
別 自由な教育論)


Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●子育ての山と谷(子育ての限度)

++++++++++++++++++

「山」だからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。
「谷」だからといって、取り越し苦労をしてはいけない。

子育てには、山もあれば、谷もある。
山がすべてではないし、谷がすべてでもない。
山を基準に子育てを見てはいけない。
谷を基準に子育てを見てもいけない。

子育ては、常に平常心。
「限度」をよくわきまえ、動揺しない。
親は親で、マイペースで進む。

ここでは、その「限度」について。

+++++++++++++++++++

●限度

 あのバートランド・ラッセルは、「限度」という言葉を使った。
「限度をわきまえている親のみが、真の家族の喜びを与えられる」と。

 それはその通りで、仮にあなたが長男に、新車をプレゼントしたとしよう。
結婚祝いでも何でもよい。
すると、二男は、それを見て、「自分も買ってもらって当然」と思うようになる。
だから買ってあげても、二男は、「ありがとう」とは言うかもしれないが、そこまで。
で、その話を聞いた三男は、今度は、あなたに、車を買ってくれと請求するかも
しれない。
「兄たちが買ってもらったんだから、ぼくも、買ってほしい」と。
買ってあげても、もちろん、感謝などしない。
「当然」と考える。

 これが「限度」である。
わかるかな?
子育てには、その限度がある。
やるべきことは、やる。
しかしそれ以上のことは、しない。
したら最後、限度がなくなる。
「その限度をわきまえている親のみが、真の家族の喜びを与えられる」(バートランド・
ラッセル)と。

 つまり子どもに車など、買ってやってはいけない。
それは親のすべきことではない。

●親孝行

 はっきり言おう。
最近の若者に、親孝行を説いても無駄。
その意識すらない。
「親孝行」の意味すら、知らない。

 親は自分の意識を基準に、子どもにもそれがあると思うかもしれない。
しかしどんな調査結果をみても、今、日本人(成人男女)で、「将来、
親のめんどうをみる」と考えている若者は、20%前後しかいない。
多くは、「経済的に余裕があれば」という条件をつけている。
つまり「みない」と。
(この世の中に、経済的に余裕のある若者は、いない!)

 あとはささいなきっかけを理由に、「縁を切る」と言って、親を捨てる。
ある男性(40歳)は、「息子(=孫)の運動会に来てくれなかった」という理由だけで、
父親との縁を切っている。
「だからそんな親のめんどうは、みない」と。
つまり(めんどうをみたくない)という思いが先にあり、その口実として、「運動会
に来てくれなかった」という理由にもならない理由を、こじつける。

こういう現状を、いったい、どれだけの人が知っているだろうか。

●きびしくなる老後

 あなたが40代、50代の人なら、こうアドバイスしたい。
「無駄な教育費など、子どもにかけるな!」と。
よほどの余裕があるなら、話は別。
そうでなければ、自分の老後をしっかりと見据え、あまったお金は、自分の
老後の資金に回す。
「息子(娘)に、学資をかけておけば、その見返りはあるだろう」などと考えるのは、
幻想以外の、何ものでもない。
子どもも幸福になり、感謝されるはずというのも、幻想以外の、何ものでもない。

 冷たいことを書いているようだが、これがそこにある「現実」であり、それから
生まれる悲劇が、今、いたるところで起きている。
そうでなくても、やがて人口の3分の1が、高齢者になる。
2人の働き手が、1人の老人を支えることなど、不可能。
むずかしい経済学を知らなくても、そんなことは、だれにでもわかる。
それが「現実」。

 で、学資をかけた分だけ、子どもが親に感謝しているかと言えば、それはない。
よほどの子どもでも、それはない。
今、親に感謝しながら、高校に通っている子どもは、ゼロ!
大学生でも、ほぼゼロ!
親の金で遊びまくったとしても、子どもには、罪の意識はない。
「ぼくたちは、子どものころから、やりたくもない勉強をさせられた」と。

●毒された社会

 どうして、日本は、こうなってしまったか?
そのひとつのヒントが、中国にある。
あの国では、すべてが、マネー、マネー、マネー。
ちょうど30年遅れで、日本を追いかけている。
その結果、中国人は、「心」を見失ってしまった。
ありとあらゆることを、金儲けにつなげて考える。
道徳も倫理も、あったものではない。
そうした中国人たちを見ていると、30年前の日本を思い出す。

 さらにこのことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。
私は、幼児期の子どもから、高校3年生まで教えている。
1日というサイクルの中で、教えている。
だから子どもたちの「心」が、どのように変化していくかが、よくわかる。
そのひとつが、受験期の子ども。

 受験期にかかると、子どもは、急速に暖かい「心」を見失っていく。
ものの考え方が功利的、打算的になる。
人間関係も殺伐したものになる。
親子関係、教師との関係も、無難というわけにはいかない。

 が、最大の悲劇は、そうした「心」を見失いながらも、子ども自身がそれに気づかない
ということ。
さらに悲劇は、そういう子どもほど、親は、「できのいい子」と言って、喜ぶ。
言うまでもなく、親自身が、すでに暖かい「心」を見失っている。

●私の時代

 私の時代には、まだ温もりがあった。
今の若い人たちに、こんなことを言っても理解されないだろう。
しかし私たちの時代には、親への仕送りは、当然のことだった。
私も、結婚する前から、収入の半分を、岐阜の実家へ毎月、送っていた。
ワイフと結婚するときも、それが条件だった。
だから、ワイフは、何も迷わず、結婚してからも、実家へ毎月、お金を送っていた。

(ただし経済的負担感というより、その社会的負担感には、相当なものがあった。
けっして楽しくて、仕送りしていたわけではない。……念のため!)

 が、今はちがう。
私の息子たちにしても、懸命に働かざるをえなかった私を、むしろ反対に責める。
「パパは、家庭を顧(かえり)みなかった」と。
そういう言葉を聞くたびに、私はこう思う。
「貧しさを知らない世代は、かわいそう」と。
そう、私たちは、いつも(貧しさ)というよりは、(ひもじさ)と闘っていた。
毎日、空腹だった。
毎日が、その闘いだった。

(2)

2010-06-09 06:50:33 | 日記


 ワイフにしても、生まれたとき(昭和24年生まれだが)、やせ細り、いつ死んでも
おかしくない子どもだったという。
私も、ひざの骨が変形している。
成長期の栄養不足(カルシウム不足)が、原因という。

 が、若い人たちには、それが理解できない。
豊かさがあることについても、「当たり前」と考える。
だからこんな会話をしたことがある。

「ぼくらは、戦後、きびしい時代を生きてきた」と、こぼしたときのこと。
その青年(25歳くらい)は、こう言った。
「そんなの、あんたたちの責任だろ。あんたたちが、勝手に起こした戦争だから」と。

 そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
どうであれ、私はこう言いたい。

 子どもの学費も結構。
子どもの教育も結構。
しかし自分の老後を見ながら、お金は大切に使え、と。
車なんか買ってやるのは、もってのほか。
「ありがとう」と言うのは、そのときだけ。
私が経験者だから、それをよく知っている。

●再び限度

 かなり否定的なことを書いた。
もちろん親子仲よく、むつまじく過ごしている人たちも多い。
しかしそういう人たちほど、「競争」とは無縁の世界で、子ども時代を送っている。
受験競争を経験していない。
「心」を見失っていない。
つまりその分だけ、お金に毒されていない。

 しかしこれだけは、最後に言える。

 こうして「心」を見失った若者たちにせよ、結局は、被害者ということ。
そのツケは、その子ども自身に回っていく。
今は、わからない。
しかし今度は自分が老後を迎えたとき、その悲惨さを、自ら体験する。
「私はだいじょうぶ」と、高をくくっている若い親ほど、あぶない。
「私たちは、良好な親子関係を築いている」と、うぬぼれている親ほど、あぶない。
すでにその時点で、子どもの心を見失っている。
それもそのはず。

 「心」というのは、外から見えている部分よりも、見えていない部分のほうが、
はるかに大きい。
自分の「心」にしてもそうだ。
ましてや肉体を別にした、子どもの心など、親がいくら想像力を働かせても、わかる
はずはない。

 その一例として、冒頭に、車の話を書いた。
親は、「息子たちは感謝しているはず」と思うかもしれない。
しかしそれはまさに幻想。
わかりやすく言えば、「意識のズレ」。
学費にしても、結婚費用にしても、また新居費用にしても、そこには「限度」がある。
その「限度」をしっかりと守りつつ、子育てをする。
これは、子育ての第一の基本と考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 子育ての限度 ラッセル 親のすべきこと してはいけないこと)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●脳と健康(私の推論)

++++++++++++++++++

うつ病の最大の敵は、「こだわり」。
うつ病イコール、こだわり。
こだわりイコール、うつ病。
うつ病とこだわりは、紙でいえば
表と裏の関係。
両者は、いつも同時進行の形で始まり、
そして同時進行の形で終わる。
言い換えると、ひとつのことにこだわり
始めたら、要注意。
それがうつ病の始まり。

・・・と、私は勝手に解釈している。
が、大筋では、それほどまちがっていない
と思う。
書店で、「サイエンス」の最新号を読んだとき、
それを確信した。

+++++++++++++++++++

●エネルギー

 脳細胞は、ものすごい量のエネルギーを消耗している。
脳とコンピュータを直接比較することはできないが、コンピュータが消費する
電力を思い浮かべればよい。
一説によると、人体の消費するエネルギーの3分の1とか、あるいは80%とか、
その程度を消費している。

が、昨日、面白い論文を読んだ。
「サイエンス」(最新号)に載っていた論文だが、人間の脳というのは、常時、
ものすごい量のエネルギーを消費しているという。
何かを考えているときも、反対に何も考えず、リラックスしているときも、
同じように消費しているという。
むしろ何かを懸命に考えているときのほうが、その部分の脳は活発に活動するが、
全体としてみると、かえってエネルギーの消費量が少なくなる、とも。

 従来は、使用される脳細胞をみて、脳の働きをみたが、最近は、消費する
エネルギーの量をみながら、脳の働きをみるそうだ。
(以上、立ち読みで得た知識なので、内容は不正確。)

●こだわり

 サイエンスという雑誌で得た知識を、「こだわり」に当てはめて考えてみる。
つまり人が何かのことに、強いこだわりをもったとする。
するとそのこだわりをもった部分については、脳は活発にエネルギーを消費する。
そればかりを懸命に考えるために、そうなる。

 しかし全体としてみると、ほかの部分が、休止状態になるため、エネルギーの
消費は低下する(?)。
「リラックスしているときのほうが、エネルギーの消費量が多くなる」というのは、
そういう意味と考えられる。
が、このことは、実生活に当てはめてみると、納得できる。

●こだわりとボケ症状

 私の実兄は、晩年、ものごとに対するこだわりが、たいへん強くなった。
たとえば見知らぬ人が、私の家の前に無断駐車をしたりする。
すると、実兄はその車が気になってしかたなかったらしい。
車のことでブツブツ言いながら、車のことばかり気にした。
ときにそのまま、精神状態がおかしくなったりした。

 同時に、実兄のボケ症状は、進んだ。
うつ病とボケ。
専門家でも、その区別がむずかしいという。
つまり、うつ病からボケ症状を併発する人もいれば、反対に、ボケ症状から、うつ病を
併発する人もいる。
どちらが先で、どちらが後か。
あるいはどちらが本病で、どちらが表病か。
専門家でも、その区別がむずかしいという。

 つまりものごとに対するこだわりが強ければ強いほど、一方でうつ病を引き起こし、
他方で、脳全体の働きを鈍らせる。
うつ病とボケ症状は、いわばペアの関係にあるということになる。
(注:ボケ症状イコール、認知症ではない。)

●私の推論

 ずいぶんと乱暴な推論なので、このあたりは適当に読んでもらえばよい。
しかしこう考えると、「こだわり」「うつ病」「ボケ症状」の関係が、スッキリと
頭の中で整理できる。
それにサイエンスに載っていた記事を重ね合わせてみる。
全体がひとつの論理で、さらにうまく説明ができる。
もう一度、復習すると、こうなる。

 脳全体は、常時、大量のエネルギーを消費している。
リラックスしているときも、そうでないときも、だ。
が、ひとつのことにこだわると、その部分でのエネルギーの消費は増大するが、
脳のほかの部分でのエネルギーの消費量は、低下する。
その一例として、「こだわり」がある。
こだわりが強ければ強いほど、脳のその部分でのエネルギーの消費は増大する。
が、脳のほかの部分でのエネルギーの消費量は低下する。
それがボケ症状につながる。
「こだわり」と「ボケ症状」との関係は、こうしてうまく説明できる。

●研究バカ(失礼!)

 似たような体験は、日常的によくする。
たとえば「研究バカ」(失礼!)と呼ばれる人たちがいる。
その分野では、特異にすぐれた業績を残すが、ほかの部分では、まるで常識ハズレ、
というような人のことをいう。
子どもの世界にも、ときどき、このタイプの子どもがいる。
印象に残っているのに、S君(当時、高校生)という子どもがいた。

 私が予備校でアルバイト講師していたときのことだった。
私はS君に出会った。
成績だけはメチャメチャよかった。
難解な数学の問題を、スラスラと解いた。
が、どこからどう見ても、おかしい。
どうおかしかったかということは、ここには書けない。
しかしおかしい。
まともではない。

そのS君が、ある日、こう言った。
「先生、この世の中のことは、すべて数学で説明できる」と。
私は彼に意見に首をかしげたが、S君は真顔だった。

●ボケ防止

 つまりS君は、「勉強」という脳の中でも一部の分野では、特異な能力を見せた。
が、それ以外の分野では、むしろ眠ったような状態になっていた。
おそらく「醤油」と「ソース」の使い分けも知らなかったのでは?
またそう考えると、当時のS君が、よりよく理解できる。
「刺身に、ソースをかけて食べる」と言ったこともある。

 が、この推論は、そのまま我ら老人族にも、重要な意味をもつ。
結論を先に言えば、こだわりは、ボケの始まり、ということ。
うつ病は、ボケの初期症状と言い換えてもよい。
つまりある特定のことだけに、悶々と悩んだりするのは、脳の健康のためによくない。
むしろ脳の健康のためには、脳をリラックスさせ、四方八方、あらゆることに
興味をもつようにする。
そのための努力を怠らない。

・・・そう言えば、亡母が入居していた特別擁護老人ホームに、こんな女性がいた。
朝起きてから、夜眠るまで、「飯(めし)はまだかア!」と叫んでいた女性である。
年齢は90歳を過ぎていたと思う。
若いころの美しさをそのまま残したような女性で、それだけによけいに気になった。
その女性のばあい、「食べ物」に対して、異常なこだわりをもっていた。
つまりその分だけ、脳のほかの部分が、空白になっていた。

●リラックスさせる

 最近の脳科学の進歩には、目を見張るものがある。
ポジティブMRIができてから、さらに進歩した。
今では、脳の働きを、リアルタイムで観察することができる。
サイエンスの中の、その記事の中にも、それが書いてあった。
つまりその人の思考程度、内容に応じて、脳のどの部分がどのように機能するか、
それをまるでレーダーに映して見るかのように、わかる。
「リラックスしているときも、脳は活発に活動している」ということも、それで
わかるようになったらしい。
(以前は、脳波の動きによって、それが推察されてはいたが・・・。)

 このことは、ひとつの教訓を私たちに与えている。
つまり、リラックスすることは、脳の健康を維持するためには、大切なこと、と。
音楽を聴いたり、旅をしたり、あるいはぼんやりと窓の外をながめたりするだけでもよい。
それによって、(こだわり)を弱くし、脳のほかの部分を活発化させることができる。

私の印象では、とくに「笑う」ということがよいのではと考える。
子どもでも、大声で笑う子どもほど、心がまっすぐ伸びる。
思考も柔軟になり、常識的になる。
反対にボケ症状が進んでくると、人は笑うことさえ忘れてしまう。
もちろんユーモアは通じない。

 以上、推論に推論を重ねて、持論を展開してみた。
仮にまちがっているとしても、ダメもと。
害はない。
脳の健康のために、ここに書いたことが、何らかの役に立てば、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 脳の健康 エネルギー こだわり うつ病 鬱病 ボケ ボケ症状 
こだわりとボケ症状 うつ病とこだわり 認知症)


Hiroshi Hayashi++++++May.2010++++++はやし浩司

●老齢期の性格特性

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「心理学のすべて」(日本実業出版社)の
中で、深堀氏は、老齢期の性格について、
興味深い分類をしている。
称して、「老齢期の性格特性」(P133)。

それによれば老齢期になると、人は、つぎの
5つのタイプに分類されるという。

(1)円熟型
(2)依存型
(3)自己防衛型
(4)外罰型
(5)自責型

+++++++++++++++++

●5つのタイプ

(1)円熟型

過去の自分を後悔することなく、未来に対しても現実的で、建設的な展望をもっているタ
イプ。

(2)依存型

受け身、消極的な態度で現実を受け入れ、引退後は家族や子どもに頼って安楽に暮らそう
とするタイプ。

(3)自己防衛型

老化への不安から、若いときの活動水準をできるだけ維持しようとするタイプ。

(4)外罰型

自分の過去や老化への現実をなかなか受け入れられず、その態度が他人への非難や攻撃と
いう行動にあらわれてしまうタイプ。

(5)自責型

外罰型とは反対に、自分の過去の人生を失敗だと考え、自分を責めてふさぎ込んでしまう
タイプ。
(以上、同書よりそのまま転載。)

(3)

2010-06-09 06:50:06 | 日記


●安定

 どれでもよい。
ひとつのタイプに安定すること。
依存型なら依存型でよい。
自己防衛型なら自己防衛型でよい。
それが老後を、安定的に(?)暮らす、ひとつのコツということになる。

 まずいのは、その途中で、タイプの変更を余儀なくさせられること。
老齢期になると、その転換が、たいへんむずかしい。
思考の柔軟性が失われ、そのため、行動の柔軟性も弱くなる。
たとえばそれまで依存型で生きてきた老人が、何らかの事情で、自立を迫られるようなケ
ース。
老人にはそれを処理するだけのじゅうぶんな能力はない。
たいていは、混乱し、狼狽する。
体力のある老人なら、泣き叫んで、それに抵抗する。
あるいはそのショックから、急に老け込んでしまったり、そのままボケてしまう人もいる。

●私のばあい

 私、つまりはやし浩司のばあいは、どうか?

 実は、ごく最近まで、自分では気づかなかったが、依存型だった。
「いつかは息子たちが……」という淡い期待を、心のどこかで抱いていた。
だからいつも息子たちには、媚(こび)を売るようなところがあった。
が、その期待は、この正月に、粉々に破壊された。
で、それからの混乱が、たいへんだった。
心臓の調子がおかしくなるほどだった。
そのため正月早々から、病院通いをするハメに!

 しかし私は基本的には、自責型。
息子たちを責める前に、親バカだった、自分を責めた。
はげしい自己嫌悪も覚えた。
理想としては円熟型を求めるが、目の前につり下げられたニンジンのようなもの。
行けども行けども、いつもニンジンは、私の目の前につり下げられたまま。

 で、現実的には、深堀氏が説く、「自己防衛型」ということになる。
今は、老化に強い不安感を覚える。
何とか現状維持をしたいと、いつも願っている。

●はやし浩司説

 このまま深堀氏の説を引用しただけでは、はやし浩司が泣く。
私流に、「老齢期の性格特性」を考えてみたい。
とりあえず、つぎの5つのタイプを考えてみた。

(1)攻撃、能動型
(2)厭世、引退型
(3)隔離、自己愛型
(4)悲嘆、失望型
(5)過去、執着型
(6)還元、博愛型

●各論

(1)攻撃、能動型

年齢、体力を気にせず、ものごとを前向きにとらえて、それに向かって積極的かつ攻撃的
に取り組んでいくタイプ。

(2)厭世、引退型

「コンパクトに生きる」を目標に、現実世界から遠ざかり、自分の小さな世界だけで、こ
じんまりと生きるタイプ。

(3)隔離、自己愛型

徹底した自己中心型。自分さえよければ、それでよいと考え、趣味三昧、道楽三昧の生活
に没頭するタイプ。

(4)悲嘆、失望型

自分の人生を悲嘆し、毎日嘆き悲しみながら過ごすタイプ。ときに「オレの人生は何だっ
たのか!」と、過去を悔やむことも多い。

(5)過去、執着型

現職時代の肩書きや地位、名誉にしがみつきながら生きるタイプ。「オレはすばらしい人間
だった」と。それを認める相手には尊大ぶり、そうでな相手には憤慨してみせる。

(6)還元、博愛型

自分の「生命」を、後世に残したいと願うタイプ。そのため広く人類愛にめざめ、無私無
欲で、他人のために命を燃やすことをいとわない。

●若々しく過ごす

 どれがよくて、悪いかなどということは、とてもおこがましくて書けない。
で、深堀氏は、こう書いている。

「……大川らは、老齢期を若々しく過ごすためのポイントとして、つぎのような項目をあ
げています。

・学びつづける姿勢をもつ。
・責任ある仕事をする。
・本を読む、新聞を読む、文化系的な活動をする。
・現状維持に満足しない。
・くよくよしない」(同書、P132)と。

 どれもたいへん重要なことである。
その上での「老後」ということになる。

この年齢(60代)になると、知恵や知識は、向こうの方からどんどんと逃げていく。
だから「学びつづける」ということは、重要。
現状維持を願ったとたん、そこを頂点にして、知恵や知識は、どんどんと失われていく。

 また「仕事をする」という緊張感は、失ってはいけない。
緊張感を失ったとたん、糸の切れた凧のようになってしまう。
それに重要なのは、「社会」との接点。

私のばあい、基底不安型人間ということもあって、「休暇」になったとたん、かえって不安
になってしまう。
自分でも損な性格とはわかるが、ここまできたら、居直るしかない。
今さら「私」を変えることなど不可能。

 「くよくよしない」については、精神の健康を守るために、重要。
「こだわり」は、うつ病の初期症状。
初老性のうつ病は、何よりも警戒しなければならない。
へたをすれば、そのまま自殺へと、突っ走ってしまう。

 ただ「若々しく過ごす」という言い方には、やや抵抗を覚える。
私たちは何も、若々しく過ごしたいのではない。
他人の目など、気にしたくない。
また「若い」ということに、それほど、興味はない。
(この点、男性と女性とでは、基本的に、ものの考え方がちがうのかもしれない。)
反対に、若々しく見せるために、化粧をしたり、カツラをかぶっている男性を見かけたり
すると、私のばあい、大きな違和感を覚える。
一方、若いのに、ジジ臭い考え方をしている人はいくらでもいる……。

 私は私らしく生きる。
それが基本であって、「若々しい」という言葉は、あくまでも結果として追いかけてくるも
の。

……深堀氏の「心理学のすべて」を読んで、そんなことを考えた。

(補記)

 理想としては、(6)還元、博愛型がよい。
しかしそれには経済的な裏づけが必要。
だから(1)攻撃、能動型を併用する。
そのためには、私のばあい、つぎのことに心がけている。

・やりたいことは、即、実行。あとに回さない。
・生活にリズム感をもたせる。曜日ごとに、やることを決めている。
・運動を欠かさない。日課運動に併せて、週4単位(1単位=40分)以上のランニング
を自分に課す。
・若い人たちとの接触を怠らない。これは仕事上、毎日、否応なしに実行している。
・常に新しいことに興味をもつ。月に1~2度は、1泊旅行をする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 老齢期の性格特性 性格分類 老齢期の過ごし方 性格特性 老人の
心理 老人の性格)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●浜松・凧揚げ祭り(通称、「凧祭り」)

+++++++++++++++++

昨日、運動もかねて、入野町(自宅)から、
凧揚げ会場(中田島砂丘)まで、歩いた。
片道、3時間、約25キロ。
一度、遠州浜まで出て、海岸沿いに中田島
まで。

+++++++++++++++++

●凧揚げ祭り

 当地方最大の祭りと言えば、浜松の凧祭り。
浜松市は、名古屋市に次いで、東海地方最大の都市。
その浜松市でも、最重要の祭りと言えば、「凧祭り」。
1年を通して、浜松市民は、この日を目標に、
祭りの準備をする。

会場へ着いたのが、午後3時ごろ。
祭りは、4時までということだったので、みなさん、ほぼ疲れ切ったころの時刻。
「勇壮な」というほど、活気はなかった。
残念!

いちばんの見頃は、5月5日の最終日。
やはり開始から昼頃までが見ごろ、とか。

浜松駅からは会場まで、シャトルバスが往復していた。
料金は、片道250円。
往復500円。

私たちは会場を出たところで、体力が消えた。
タクシーで、自宅まで。

疲れた。
しかし楽しかった。

(批評)

浜松の凧祭りは、「見る祭り」ではない。
「参加して楽しむ祭り」。
つまり参加型の祭り。
だから機会があれば、かつ知り合いがいれば、祭りに参加させてもらうのがよい。
凧揚げ会場でも、観客は、遠くから、指をくわえて(?)、見ているだけ。
これといった見物席もなく、みな、それぞれが隅のほうに座って見ているだけ。

参加できれば、楽しい。
あの連帯感、あの一体感は、ほかでは味わえない。
町の人たち、近所の人たち、それに親類が、一体化する。
それを傍から見ているだけでも、楽しい。
が、やはりその連帯感、一体感の中に入ってこそ、浜松祭り。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
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Hiroshi Hayashi+教育評論++May.2010++幼児教育+はやし浩司

●人の心

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円柱がある。
上方向から見れば、「円」。
真横から見れば、「長方形」。
見る角度によって、まったくちがった形に見える。

人の心も、また同じ。

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●60数人のいとこ

 私には60数人のいとこがいる。
たいへんな数である。
その中でも、親密に交際しているのは、現在では、3~4人に過ぎない。
が、最近、おもしろいことに気づいた。

 数人のいとこを、A、B、C、Dとする。
で、そのいとこたちの話を聞いていると、同一人物、たとえば同じXさんについて、まっ
たく別の評価をする
ことがある。

Aさんは、「あのXさん(=いとこ)は、すばらしい人だ」と言う。
Bさんは、「あのXさんは、ひどい男だ」と言う。
Cさんは、「あのXさんは、鼻つまみ者だ」と言う。
Dさんは、「あのXさんは、人間のカガミだ」と言う。

 ときに、評価が、180度ちがうから、おもしろい。
……というより、驚く。
そういうとき私は、どう返事してよいかわからなくなる。
というのも、私は私なりに、Xさんに対して、私の印象をもっている。
「はあ……」「はあ……」と答えるだけで、精一杯。

●白と黒

 どうして人によって、同じ人の評価が、180度もちがうのか。
その理由の第一が、ときとして人は、(好き・嫌い)を、(白・黒)に置き換えて
考える傾向がある。
中間的な「灰色」の状態にしておくよりは、白・黒をはっきりさせながら、自分の
心を整理する。
わかりやすくする。
「Xさんは悪人」と決めつけて、遠ざかる。
「Xさんは善人」と決めつけて、交際をつづける。

 若いときは、あいまいなままでも、自分の心をごまかすことができる。
しかし歳を取ると、そういうあいまいな評価をすることに、疲れを覚えるようになる。
つきあうべき人と、そうでない人を、区別するようになる。
結果として評価の仕方が、極端化する。

●上下意識

 つきあうといっても、今では、たがいにあいさつ程度。
みな、遠い昔の人たちである。
それに当時は、私も、ただの子どもだった。
それほど深いつきあいがあったわけではない。
心を通わせたこともない。
「血のつながり」とはよく言うが、捕らえ方は、人、それぞれ。
私のように、それを何でもないと思う人もいれば、反対に、何よりも大切と思う人も
いる。

 私のばあいは、親戚づきあいというのは、あまり得意ではない。
とくの私の家系の人たちは、上下意識が強く、それに何かにつけて、浪曲調。
演歌調と言うべきか。
サラサラと流れる清流というよりは、どこかドロドロしている。
その上、江戸時代そのままの封建意識を引きずっている人も多い。
最近になっては、法事だとか、墓参りだとか、葬儀だとか、何かにつけて、ものの
考え方が、うしろ向き。
それに暗い。

●印象

 話を戻す。

 いとこたちの話で興味深いのは、それぞれについて家庭環境がよくわかっていること。
どうしてそういう考え方をするのか、またするようになったのか、その背景がよくわかる。
話を聞きながら、「相続問題がこじれたから」とか、「生活問題がからんでいるから」とか、
その向こうに隠された問題まで、よくわかる。

 が、いとこたちについて書くのは、ここまで。
「みんないい人たちです」という書き方で、ここでは、終わりたい。
ただこと私自身について言うなら、私のことを悪人と思っている人もいる。
善人と思っている人もいる。
悪い印象をいだいている人もいる。
よい印象をいだいている人もいる。
それがときとして、間接的だが、わかるときがある。

 で、そういうとき、私のばあい、「なるほどなあ」で終わる。
弁解もしない。
喜ぶこともない。
何しろその背景には、半世紀近い、時の流れというものがある。
その(流れ)の中で、熟成されている。
聞いたからといって、自分の印象が変わるわけではない。
話したからといって、相手の印象を変えられるわけではない。
一方、残された時間は、短い。
はっきり言えば、どうでもよい。
どう思われたところで、どうということはない。

 だからこの「私」についても、人によっては、印象が180度ちがうこともある
だろう。
私という人間は、1人の人間なのだが、上から見れば「円」。
横から見れば「長方形」。
どれも正しい。


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