最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

(3)

2010-10-27 08:49:09 | 日記

●受容体

 先ほどから、朝日が窓越しに、力強く部屋の中を照らしている。
窓枠の影がはっきりと畳の上に映っている。
多分、今日はよい天気。
まだ外は見ていないが、それがよくわかる。

 で、このところまたまた私のビョーキが始まった。
今度は、「時計」。
このところ時計のカタログばかり、見ている。
とくに必要というわけではないが、機能がごちゃごちゃとついているのが、
ほしい。
気圧計、温度計、コンパス、月の満ち欠け、潮の干満表示などなど。
取り扱い説明書が、ズシンと重く、分厚いものほどよい。
カシオでそういう時計を出している。
が、値段が高い。
ネットでも、3~4万円。

 脳の線条体に、「デジモノ」に対する受容体ができてしまっている。
つまり条件反射。
そのモノが欲しいというよりは、その受容体を満たすために、そのモノが欲しい。
アルコール中毒者やニコチン中毒者が見せる反応と同じ。

 だから手に入れてしまえば、満足する。
そのあと、それを使うということは、あまりない。

●北朝鮮

 さて一段落。
パンをかじって、薬をのむかどうか、迷っている。
逆流性食道炎かどうか、本当のところ、はっきりしていない。
痛みはほとんど、ない。
ゲップだけ。
もうしばらく様子をみてみよう。

 で、話をつづける。

 北朝鮮では、どうやら三代目独裁者が決まりつつある。
それについて、韓国や中国につづいて、アメリカまでもが、「おかしい」と
言い出している。
「世襲で指導者を決めるのは、おかしい」と。
(中国は「認める」というような発言を繰り返しているが・・・。)
が、この日本は、ただひたすら沈黙。
何しろこの日本には、天皇制という制度がある。
へたに「おかしい」と言おうものなら、世界中から、「じゃあ、お前の
ところは何だ!」とやり返される。
だから沈黙。
沈黙あるのみ。

 ただこういうことを書いても、この日本では公開処刑になることはない。
一応の言論の自由は、保障されている。
が、北朝鮮でこんなことを書けば、即、公開処刑。
しかしたった65年前には、そうでなかった。
天皇制を批判しただけで、即、投獄。
獄死する人も、少なくなかった。
ひょっとしたら、つぎの65年後には、またそうなるかもしれない。
それを忘れてはいけない。

●天皇制について

 もう少し、自分のことを書く。

 田舎の小さな自転車屋だったが、3代つづいた「本家」。
そのせいもあって、昔から、私の家は、「林家」と、「家(け)」がつけられていた。
大正時代の昔のことは知らない。
しかし私が中学生のころには、斜陽の一途。
家計はあってないようなもの。

 最近になって私の実家が、伝統的建造物に指定されたとか。
しかし何も好き好んで、伝統的建造物として残したわけではない。
改築したくても、その資金がなかった。

 が、その社会的負担感には、相当なものがある。
「お前は、林家の跡取りだから、しっかりと責任を果たせ」と。
だから結婚する前から、収入の約半分を、実家へ送り続けてきた。
当時はまだ、そういう時代だった。

 で、この話と天皇制とどう関係があるか?

 つまり天皇もたいへんだろうな、ということ。
まわりの人たちは、「天皇だから幸福なはず」という『ハズ論』だけで
片づけてしまう。
しかし当の天皇自身はどうなのか。
皇族の人たちは、どうなのか。
その社会的負担感には、相当なものがあるはず。
街の中を、ひとりで自由に歩くこともできない。

 「生まれながらにして天皇」というのは、かわいそうというより、酷。
自分の人生を自分の意思で生きることができない。
つまり私が書きたいのは、こういうこと。

一度は、天皇や皇族の人たちにこう問うてみる。
「たいへんな重責とは思いますが、引き受けていただけますか?」と。
そのとき天皇が、「いいですよ」と言えば、それでよし。
しかしそうでなければ、別の生き方をみなで、用意する。
私は何も、天皇制に反対しているわけではない。
天皇個人の人格と人権に、もっと配慮してもよいのではと考えている。

●新聞

 ここではインターネットは使えない。
だから今朝のニュースは、まったく入ってこない。
新聞もない。

 ところで最近は、テレビでニュースを見ることが、少なくなった。
ネットが浸透してくる前は、定時のニュースの時間になると、5分前には
テレビの前に座った。
が、今は、ニュースの時間さえ、気にしない。

 同じように新聞。
新聞に目を通しても、すでに読んだ記事ばかり。
若い人たちから、新聞離れが進んでいる。
すでに10年ほど前、「ぼくは新聞を取っていません」という若者がいた。
どこかのパソコンショップの店員だった。
それを聞いたとき、私は少なからず、驚いた。
「新聞を取っていないとは、どういうことだ!」と。
が、今ではそれが常識になりつつある。

 もっとも私個人は、新聞派。
いくらネットでニュースを読んでも、そのあと新聞で内容を確認しないと、
どうも落ち着かない。
電子の文字と印刷された文字。
安心感がちがう。
そのちがいは、大きい。

 何でもそうだが、私は「言葉」というのを信用しない。
「書かれた文字」を信用する。
これは元法科の学生だったという、その名残かもしれない。
だから生徒たちへの連絡事項も、すべて、一度文書にして渡すように
している。

●禁断症状

 ネット中毒という言葉がある。
私のその中毒者の1人だが、こういうとき軽い禁断症状に襲われる。
ニュースのみならず、ネットから遮断された世界。
そこにポツンとひとりでいると、不安でならない。

 携帯電話を片時も放さないで持ち歩く人の心理状態が、よくわかる。
ある人は、弁当を忘れても、携帯電話だけは忘れないと言っていた。
私もどこへ行くにも、パソコンだけは、忘れない。
それさえあれば、どこにいても、こうして時間をつぶすことができる。
が、ネットは、どうか?

 半日も放置しておくと、メールだけでも100通前後、入ってくる。
大半はSPAMメールだが、そのあとの処理も、めんどう。
丸1日も放っておいたら・・・、ゾーッ!

 それにニュースに触れられないのは、つらい。
今、世界で何が起きているのか。
それを知りたい。
このイライラ感。
この焦燥感。
それこそが、まさに禁断症状。

●パソコン

 で、今日のお供は、TOSHIBAのUX(11インチ)。
ミニ・ノートである。
が、キー幅は、19ミリの通常サイズ。
このところ、これが打ちやすい。
ほかに、同じくTOSHIBAのMX(12インチ)とTX(16インチ)。
もう一台、台湾製のパソコン。
そのつど状況に応じて、使い分けている。

 で、今、ほしいのは、同じくTOSHIBAのMX。
表面がザラザラしているのが、気に入った。
指先が受ける感触がよい。
しかし今は、がまんのとき。
私の予想では、1、2年後には、ノートパソコンはみなこうなる。

(1)キーボードは、セパレート式になる。(キーとキーの間に、
5ミリ前後の隙間がある。)
(2)表面がツルツルパソコンから、ザラザラパソコンになる。
(ツルツルパソコンは、どうも使い勝手が悪い。指先がすべって
しまう。初期のHPのミニノートがそうだった。)
(3)タッチパネル式のキーボードは、普及しない。
   iPadのキーボードがそうだ。
ペタペタと画面を押すような感触では、文章は打ちにくい。
   これも「慣れ」の問題かもしれないが、私のばあい、キーピッチは
   深いほど、打ちやすい。
   2ミリだと、打ちにくい。
   3ミリだと、打ちやすい。
   たった1ミリの差だが、その「差」は大きい。
   タッチパネル式では、0ミリになる。

 もちろんハードディスクは、消える。
すべてSD方式になる。
3Dは、それほど普及しないのでは?
その必要もないし、かえってわずらわしい。
映画にしても、そうだ。

●夫婦

 たった今、庭先で鳥が鳴いた。
ヒヨドリの声?
何か危険が迫ったときに出す声。
何があったのだろう?
少し心配。
光の影が、先ほどよりも弱くなっている。
どうやら雲ってきたらしい。
それに寒い。

 この山荘の電話線は、先日は解約した。
携帯電話もない。
もってくるのを忘れた。
今ごろワイフはワイフで、のんびりと土曜日の朝を過ごしているはず。
基本的には、ワイフは私がいないほうが、のんびりできる。
深層のその奥深い脳の部分では、私を嫌っている。・・・と思う。
昨夜も、「これから山(=山荘)へ行ってくるよ」と声をかけたら、
「どうぞ!」と。
ワイフはめったに、「私も行きたい」とか、「連れてって」とか言わない。
若いときから独立心が旺盛。
男まさり。
ふつうの女性のように(?)、男に甘えるということを知らない。・・・しない。
マリリンモンローのような女性を見るたびに、「バカみたい!」と言って、
吐き捨てる。
つまりかわいげがない。
だからこちらから連絡しなければ、迎えにくるということもない。
私も期待していない。

 考えてみれば、さみしい夫婦だが、夫婦に定型はない。
みな、それぞれ。
よい面もあれば、悪い面もある。
夫婦円満のコツは、要するに求めすぎないこと。

●山荘を売る
 
 先週、この山荘を手放すことにした。
今すぐというわけではないが、加齢とともに通うことが少なくなった。
息子は3人いるが、アメリカにいる息子をのぞいて、都会派。
田舎生活には、見向きもしない。
むしろ嫌っている。
同じように育てたつもりだが、志向性がまったくちがう。

 一方、私は子どものころから田舎派。
都会生活が肌に合わない。
人ごみの中を半日も歩くと、それだけで頭が痛くなる。

 ということで、売ることにした。
もちろん愛着はある。
さみしい。
土地づくりには、6年もかけた。
毎週、終末にはユンボを借りてきて、それで土地を平らにした。
そういう思い出が、ここにはぎっしりと詰まっている。
私の「命」の一部といってもよい。
若いからできた。
そう、あのころの私は若かった。

 いくらで売れるかはわからない。
この先、「ほしい」という人が現れたら、相談して決める。

●UFO

 昨夜は眠る前に、10~15ページほど、UFOについての本を読んだ。
コンビニで買ってきた本である。
寝る前はいつもその種の本と、決めている。
地球を宇宙からながめているような気分になれる。
それがよい。

 学生時代には、たしか早川書房(今でもあるかな?)というところが
出していたSF小説を読みあさった。
当時は、ほかの惑星へ出かけていき、そこで宇宙人と戦うという、たわいも
ない内容のものが多かった。
それを一新させたのが、「2001年・宇宙の旅」。
これは映画だったが、私に与えた衝撃は大きかった。
それにテレビでは、「スタートレック」とか、「サンダーバード」など。

 言い忘れたが、地球を宇宙的な規模からながめなおすということは、
悪いことではない。
それを信ずるかどうかは別にして、視野が広くなる。
またUFOを信ずるかどうかは、私たち個々の問題。
信じたからといって、害はない。
カルト教団のように、組織があるわけではない。
あくまでもロマン。
空想ロマン。

 で、そのUFOだが、そうした本によれば、最近ではさまざまなタイプのもの
があるようだ。
私のいちばん興味をひいたのは、「異型UFOドローンズ」。
まるで針金細工か何かで作ったようなUFO。
YOUTUBEでも紹介されているが、そんなUFOが、スーッと
空を自由に飛びまわっているという。
「どんな原理で飛んでいるのだろう」と、そんなことを考えているうちに
いつも眠ってしまう。

●ダラダラ話

 意味のないダラダラ話がつづいた。
ここまで読んでくれた人に、申し訳ない。
少しまともな話をしてみたい。

先日、ローカル電車の中で、こんな広告を見た。
どこかの大学が出している広告である。
こうした広告がおかしいと言うには、それなりの覚悟が必要。
その大学を敵に回すことになる。
しかしおかしいものは、おかしい。
考えれば考えるほど、おかしい。
その広告は、「多元心理学を(私たちの大学で)
いっしょに学びましょう」という言葉で
結んでいた。
「多元心理学ねえ・・・?」。

●やる気

記憶によるものなので、内容は不正確。
あらかじめ、それを断わっておく。
しかし主旨は、できるだけ正確にここに書く。
わかりやすくするため、箇条書きにする。

(1)「勉強をさあ、やろう」と思っていた。
(2)ところが母親が、そのとき、「勉強しなさい」と言った。
(3)とたん、勉強をしようという意欲がそがれた。
(4)みなさんにも、そんな経験があるだろう。
(5)これは「Rxxxx」と呼ばれる心理現象である。
(6)勉強をすることで、「自由になりたい」と思っている。
(7)その意欲が、母親の言葉で、押しつぶされた。
(8)そこで猛烈な反発が働く。
(9)人間は自由を制限されると、自由を取り戻そうとする。
(10)が、それが思うようにできない。
(11)そのため、やる気を失う。
(12)だからそういうときは、「勉強しなさい」ではなく、「無理をしないでね」
    と言ったほうがよい。
(13)そういう勉強を、あなたもいっしょにしてみないか。
(14)KJ大学。

●やる気論

 「やる気論」については、たびたび書いてきた。
が、一般的には、やる気は、「オペラント(自発的行動)」という言葉を
使って説明する。

自分が好きなことを、自分の意思でしていると、脳内は、カテコールアミン※
というホルモンで満たされる。
そのホルモンが、脳内を陶酔感で満たす。
それが「やる気」につながっていく。

 が、今度は、その反対の場合を考えてみよう。
たとえばいやなことを無理強いされると、それがストレッサーとなる。
ストレッサーとなって、今度はサイトカインという脳内ホルモンを分泌する。
このサイトカインが、心身にもろもろの変調をもたらす。
頭痛、肩こり、吐き気などなど。
当然、やる気をなくす。

・・・おおざっぱに言えば、そういうことになる。

●疑問

 せっかくやる気になっていた。
ところがそのとき母親が、「勉強しなさい」と言った。
とたん、やる気をなくした。
私にもそういう経験がある。
あなたにもあるだろう。

 そういうことは、よくある。
が、ここで重大な事実の誤謬(ごびゅう=取り違い)がある。
前提として、「やる気が起きていた」ということになっている。
しかし勉強を例にあげるなら、勉強が好きな子どもは、まずいない。
勉強には常に、ある種の苦痛がともなう。
その苦痛を乗り越える力を、「忍耐力」という。
平たく言えば、「いやなことをする力」。

 この段階で、その子どもがもし勉強をすることが好きなら、母親に
そう言われたくらいでは、影響を受けない。
「はい、わかりました」で終わるはず。
が、母親に「勉強しなさい」と言われたとたん、やる気をなくした(?)。
つまりここがおかしい。
もともと「やる気」など、ないと考えるのが自然。
「いやな勉強だが、しかたないからやってやるか」と思っていた。
そのとき母親が、「勉強しなさい」と言った。
その言葉でやる気をなくしたというのなら、私も納得する。
しかしそれは、自由を求める意思とは、本質的に異質なものである。

●自由への葛藤

 人間というのは、身勝手な動物である。
自由であるときは、それが自由であると気がつかない。
またその自由を、使うわけでもない。
が、その自由が抑圧されたと感じたとたん、猛烈な反発心がわいてくる。
それはたしかに、ある。
たとえばこんなケースで考えてみよう。

 もしある日突然、政府がこんな命令を出したとする。
「旅行で隣の県へ行くのを禁止する」と。
とたん、だれしもそれに反発するだろう。
旅行をするつもりがなかった人でも反発する。
「どうしてだめなのか」と。

 それなりの合理的な理由、たとえば戦争が起きたとか、伝染性の病気
が発生したとか、そういう理由があればまだ納得できる。
しかしそういう理由もないまま禁止されると、簡単にはそれに従うこと
はできない。

●相手の問題

 が、そのことと「やる気」は、どこでどうつながるのか。
逆のケースだって、考えられる。
「ようし、がんばろう」と思っていたところ、恋人が、「勉強、がんばってね」と
言ったとする。
そういうときひょっとしたら、その子どもはますますやる気を出すかもしれない。
たまたま相手が母親だったのがまずかった。
となると、それは言葉の問題ではなく、相手の問題ということになる。
さらに言えば、相手との人間関係の問題ということになる。
「自由がどうのこうの」という問題とは、次元がちがう。

●抑圧

 さらに言えば、親子関係には、長い過去というものがある。
その過去の中で、よい関係を築いている親子もいれば、そうでない親子も
いる。
いつも「勉強しなさい」と追い立てられてばかりいた子どももいる。
そういう子どものばあい、親がそう言っただけで、それに猛烈に反発
するだろう。
しかしそれは心理学的には、「抑圧」という言葉を使って説明される。
それまで心の隅に抑圧していたうっ憤(不満や不平)が、そこで爆発する。
ドカーン、と。

●タイプ
 
 が、このとき子どもは、(おとなもそうだが)、2つのタイプに分かれる。
ひとつはそのまま抑えつけられてしまうタイプ。
もうひとつは、暴力的にそれに反発するタイプ。
もちろんその中間型もあるだろう。
ほかにも依存型、同情型、服従型もある。
しかしそのままやる気をなくしてしまうタイプは、あくまでもその中の
ひとつに過ぎない。

 「自由を抑圧されたから」「やる気をなくした」と結びつけるのは、短絡的。
無理がある。
先にも書いたように、某大学の大学案内に書かれた文章である。
当然その道のプロたちが、知恵をしぼり、かつ専門的な知識を総動員
して書いたにちがいない。
が、おかしいものは、おかしい。
またどうしてそれが「多元心理学」なのか?
「多元」というほど、大げさなものではない。

●「無理をしないでね」

 英語では、「がんばれ」に相当する言葉がない。
「Do your best(最善を尽くせ)」が近いが、実際には、
こういうケースのばあい、「Take it easy(気楽に構えよ)」
と言う。

 今、何かのことでがんばっている子どもがいたとする。
歯を食いしばってがんばっている。
しかし思うように成果が出ない。
苦しい。
そんなときだれかに、「がんばれ!」と言われることほど、つらいことはない。
「これ以上、何を、どうがんばればいいのだ!」と。

 そういうときは、たしかに反発する。
が、それとて「自由を求めて・・・」というのとは、異質のものである。

●オペラント

 「やる気論」については、すでにオペラント(自発的行動)論によって
常識的に定説化している。
たとえばここに漢字の得意な子ども(小4)がいる。
自分でも「漢字が得意」と自負している。
そんな子どもに、小6の漢字を10個、書かせてみる。
とたん、「知らない」「書けない」「わからない」といって、瞬間的に
パニック症状を示したあと、急速にやる気をなくす。
もちろんプライドにも、大きなヒビが入る。
中にはふてくされてしまい、不遜な態度を示す子どももいる。

 つまり「やる気論」は、むしろそちら側から攻めるべきであって、
自由論とは、本来、関係ないものと考えるのが正しい。

・・・ということで、この話は、おしまい。
ついでに今日の日誌も、これでおしまい。
これからもう一眠りするつもり。
頭は重くないが、耳鳴りがする。
風邪の前兆かもしれない。
これからうがいをし、葛根湯をのむ。

 2010年10月2日、朝。
午後から行動開始!
ではみなさん、今日もがんばろう!

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