最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●輪形彷徨(2)

2009-07-09 07:00:50 | 日記


私もよく(うつ状態)になる。
何かのことでそれにこだわると、それについて、悶々と悩んだりする。
毎日、そのことばかりを考えるようになる。
考えるといっても、堂々めぐり。
思考そのものが、ループ状態になる。
とたん、ほかの情報が脳みその中に、入ってこなくなる。
肉体の健康にたとえるなら、これは腕の運動ばかりしていて、体全体の運動を
忘れるようなもの。

うつ状態が長期になればなるほど、そのため、頭はボケていく。
だから……、といっても、もう結論は出ているが、うつ状態は、ボケの敵。
50歳を過ぎたら、とくに注意したほうがよい。

(付記)
認知症から(うつ状態)になる人もいれば、(うつ状態)から認知症になる人も
いる。
その見分けは、専門家でもたいへんむずかしいという。
が、こう考えてはどうだろうか。
どちらであるにせよ、脳の一部しか機能しなくなるために、そうなる、と。
とくに50代以上になると、それまでの知識や経験が、穴のあいたバケツから
水がこぼれ出るように、外へと漏れ出ていく。
そうでなくても補充しなければいけないときに、特定のことにこだわり、
それについて悶々と悩むのは、それだけでバカになっていく。
それが認知症につながっていくということも、じゅうぶん考えられる。
少し前まで、「損得論」についていろいろ考えてきたが、損か得かという
ことになれば、脳みその機能が悪くなることほど、損なことはない。
まさに「私」の一部を、失うことになる。

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思考のループについて、
以前書いた原稿を、添付します。
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●無限ループの世界

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題
を解くようなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思
い」ではないか。

 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大
さをなす」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。
知識や情報の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。

 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「そ
の年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。二〇歳でループに入る
人もいれば、五〇歳や六〇歳になっても入らない人もいる。「ループ状態」というのは、そ
こで進歩を止め、同じ思考を繰り返すことをいう。こういう状態になると、思考力はさら
に低下する。私はこのことを講演活動をつづけていて発見した。

 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすれ
ばよい。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が
子どもたちに接するときもそうだ。

毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」というのを、モットーに
している。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)で、ある日のこと。た
しか過保護児の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中で、それをさか
のぼること二〇年程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗北感を
感じた。「私はこの二〇年間、何をしてきたのだろう」と。

 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、一〇年前より進歩しただろうか。二〇年
前より進歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考
えてみてほしい。さらにあなたはこの一〇年間で何か新しい発見をしただろうか。それと
もしなかっただろうか。

こわいのは、思考のループに入ってしまい、一〇年一律のごとく、同じ話を繰り返すこと
だ。もうこうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよ
い(失礼!)。犬は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもって
いる。しかし犬が犬なのは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってし
まうことだ。だから犬は犬のまま、その思考を進歩させることができない。

 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、
あなたはすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日
からでも遅くないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。何かテーマを決
めて、そのテーマについて考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんどん繰り返し
ていく。どんどん繰り返して、それを積み重ねていく。それで脱出できる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●ノーブレイン

 英語に「ノーブレイン(脳がない)」という言い方がある。「愚か」という意味ではない。
ふつう「考える力のない人」という意味で使う。「賢い(ワイズ)」の反対の位置にある言
葉だと思えばよい。「ヒー・ハズ・ノー・ブレイン(彼は脳がない)」というような使い方
をする。

 そのノーブレインだが、このところ日本人全体が、そのノーブレインになりつつあるの
ではないか。たとえばテレビ番組に、バラエィ番組というのがある。チャラチャラしたタ
レントたちが、これまたチャラチャラとした会話を繰り返している。どのタレントも思い
ついたままを口にしているだけ。一見、考えてしゃべっているように見えるが、その実、
何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して口にしてい
るだけ。

考える力というのは、みながみな、もっているわけではない。仮にもっていたとしても、
考えることにはいつも、ある種の苦痛がともなう。それは難しい数学の方程式を解くよう
な苦痛に似ている。しかも考えて解ければそれでよし。「解いた」という喜びが快感になる。
しかしたいていは答そのものがない。考えたところで、どうにもならないことが多い。そ
のためほとんどの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。

言いかえると、「考える人」は、少ない。「考える習慣のある人」と言いかえたほうが正し
いかもしれない。その習慣のある人は少ない。私が何か問いかけても、「そんなめんどうな
こと考えたくない」とか、反対に、「もうそんなめんどうなこと、考えるのをやめろ」とか
言う人さえいる。

人間は考えるから人間であって、もし考えることをやめてしまったら、人間は人間でなく
なってしまう。少なくとも、人間と、他の動物を分けるカベがなくなってしまう。「考える」
ということには、そういう意味が含まれる。ただここで注意しなければならないのは、考
えるといっても、(1)その方法と、(2)内容である。

これについてはまた別のところで結論を出すが、私のばあい、自分の考えが、ループ状態
(堂々巡り)にならないように注意している。またそれだけは避けたいと思っている。一
度そのループ状態になると、一見考えているように見えるが、そこで思考が停止してしま
う。

それに私のばあい、これは私の思考能力の欠陥と言ってよいのだろうが、大きな問題と小
さな問題を同時に考えたりすると、その区別がつかなくなってしまう。ときとしてどうで
もよいような問題にかかりきりになり、自分を見失ってしまう。「考える」ということには、
そういうさまざまな問題が隠されてはいる。しかしやはり「人間は考えるから人間」であ
る。それは人間が人間であることの大前提といってもよい。つまり「ノーブレイン」であ
ることは、つまりその人間であることの放棄といってもよい。

人間を育てるということは、その「考える子ども」にすることである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●考えない子ども

 「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小4レベル)。その前
の段階として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。
そのあと、「では1分間で、何度進むか」と問いかける。

 この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることがで
きる。が、そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できな
い子どもにも、ふたつのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考え
ることそのものから逃げてしまうタイプである。

 懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいてい
その途中で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプ
の子どもは、いくらヒントを出しても、それに食いついてこない。「15分で、長い針はど
こまでくるかな?」「15分で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90度回るとす
ると、1分では何度かな?」と。

そこまでヒントを出しても、まだ理解できない。もともと理解しようという意欲すらない。
どうでもよいといった様子で、ただぼんやりしている。さらに考えることをうながすと、「先
生、これは掛け算の問題?」と聞いてくる。

決して特別な子どもではない。今、このタイプの、つまり自分で考える力そのものが弱い
子どもは、約二五%はいる。四人に一人とみてよい。無気力児とも違う。友だちどうしで
遊ぶときは、それなりに活発に遊ぶし、会話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊富だ
し、ぼんやり型の子ども(愚鈍児)特有の、ぼんやりとした様子も見られない。

ただ「考える」ということだけができない。……できないというより、さらによく観察す
ると、考えるという習慣そのものがないといったふう。考え方そのものがつかめないとい
った様子を見せる。

 そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たい
へん浅いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。
待てば待ったで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。

 結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、
以後なおすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。
やっとできるようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる
……。あとはこの繰り返し。

 そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで
考えるが、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身
に、考えるという習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。
勉強ができないというのは、決して子どもだけの問題ではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
思考のループ ループ性 ループ状態)


【子どもの思考力】

●考える子どもvs考えない子ども

 勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んで
いる。この言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、
活発型(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。

しかしこの分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生まれ
てこない。さらに特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基準を
つくり、こうした子どもにラベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対策が生
まれてこない。つまりこうした見方は、教育的には、まったく意味がない。言うまでもな
く、子どもの教育で重要なのは、診断ではなく、また診断名をつけることでもなく、「どう
すれば、子どもが生き生きと学ぶ力を養うことができるか」である。

 そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。

(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ
 
この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えることが
できるという点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっ
ているときというのは、考えるのもおっくうなものだ。そういう状態がここでいう(1)
の状態。

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけて
よいかわからなくなることがある。それが(2)の状態。

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられ、何が
なんだかさっぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。

歳をとってから、ドイツ語を学びはじめたとする。単語を覚えるのだが、覚えられるのは
その場だけ。つぎの週には、きれいに忘れてしまう。それが(4)の状態。

 勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)~(4)の状態が、日常的に起こる
と考えるとわかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわ
かると、「ではどうすればよいか」という部分が浮かびあがってくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
勉強が苦手 勉強が苦手な子供)

(1) 思考力そのものが散漫なタイプ

思考力そのものが、散漫なタイプの子どもを理解するためには、たとえばあなたが一日の
仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているようなときを想像してみればよい。
そういうときというのは、考えるのもおっくうなものだ。ひょっとしたら、不注意で、そ
のあたりにあるコーヒーカップを、手で倒してしまうかもしれない。だれからか電話がか
かってきても、話の内容は上の空。「アウー」とか答えるだけで精一杯。あれこれ集中的に
指示されても、そのすべてがどうでもよくなってしまう。明日の予定など、とても立てら
れない……。

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