最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●10月2日(3)

2009-10-02 06:51:31 | 日記


●やるべきことを見つけよう!

 老人たちよ、けっして今の立場に安住してはいけない。
安住したまま、若い人たちを、上から見下ろしてはいけない。
老人たちだけの別世界を作り、自分たちをその中に隔離してはいけない。
たとえばこんな光景を想像してみるとよい。

 あるみやげものセンターに、一台の大型のバスが止まった。
見ると、60歳以上の老人たちが、ゾロゾロとバスを降りてくる。
どこかの観光地を回ってきた団体である。

 一方、みやげものセンターでは、20代、30代の若い人たちが、声を張り上げて、
こう連呼する。
「いらっしゃいませ!」と。
せわしく動き回りながら、老人たちの落とすお金を、ねらっている……。

 こういう光景が、ごく日常的なものになったとき、はたして私たちは、それを
望ましい社会の姿と言ってよいのだろうか。
もちろん老人には老人の言い分がある。
それはよくわかる。
わかるが、しかしそうした言い分だけでは、若い人たちが感じ始めている矛盾を、
溶かすことはできない。

 老人は老人で、自分たちが生きてきた人生を、若い人たちに還元していかねば
ならない。
「命」を、還元していかねばならない。
「還元」という言葉は、藤沢市に住むI先生が教えてくれた言葉である。
すばらしい言葉だ。
知恵や知識を伝え、人生の先輩として、どう生きるべきかを伝えていく。
それをしてはじめて、私たちは、「老人」と胸を張ることできる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 命の還元 老人問題 はやし浩司 老害)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●分かっていないのは、だれ?

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NIKKEI NEWSは、
つぎのように伝える。

『麻生太郎首相は25日、宮城県多賀城市で街頭演説し「政治はばくちじゃない。(民主党
に)ちょっとやらせてみようか、というのは違う話だ。全く優先順位が分かっていない人
が多すぎる」と、いら立ちを見せた。報道各社が衆院選情勢調査で自民党の劣勢を伝えて
いることが背景にあるとみられる』(Nikkei NEWS 09年8月26日)

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●方向音痴

 「もう、いやだ」「たくさん」というのが、浮動票層の本音。
選挙もせず、政権をたらい回しにし、あれこれと理由にもならない理由をこじつけて、
政権の座に居座りつづけている……。
そういうAS首相に、生理的嫌悪感すら覚える。

 むしろ浮動票層の私にしてみれば、いまだにAS内閣の支持率が、20%前後も
あるということのほうが、驚き。
だれが、いつ、どこで、AS首相を支持した?
裏工作に裏工作を重ね、自分で勝手に総理大臣の椅子を手にしただけではないのか?

 まったく分かっていないのは、AS首相本人。
「この怒り、どこに向かうべきか」(尾崎豊「卒業」)。
本来なら、行き過ぎた民主党支持に対して、ブレーキをかけるのが、私たち浮動票層
の役目。
ふつうなら、「民主党のひとり勝ちはよくないぞ!」と。
しかし今度ばかりは、そのブレーキが働かない。
理由の第一は、AS首相自身にある。

 民主党は300議席以上を確保するだろうと言われている。
が、このままでは、300議席ではなく、320議席以上。
そういう数字も視野に入ってきた。

 ところで、私とワイフは、年間、49万円近い国民健康保険料を支払っている。
7回に分けて支払っているので、1~2か月ごとに7万円!
もうすぐ国民年金が手に入る年齢になるが、国民年金は、月額6万3000円。
わかるか?
たったの6万3000円。
2人で、13万円弱!

 国民年金など、国民健康保険料だけで、吹っ飛んでしまう。
こんなバカげた国が、どこにある。
……と、みなが、思い始めている。
今に、自営業を営む人は、ひとりもいなくなるぞ!
この怒り、どこに向かうべきか!

それが今度の総選挙ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●意識vs無意識

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 簡単に説明してみよう。
まず、意識を、(意識)と(無意識)に分ける。
今どき、こんな単純な分け方をする人はいないが、ここではそうする。

 つまり(今、意識している意識)を、(意識)という。
それに対して、意識できない意識、それを(無意識)という。
(意識)というのは、わかりやすい。
今、あなたは考えたり、思ったりしていることが、(意識)ということになる。
では、無意識とは何か。
それがわかりにくい。
平たく言えば、それ以外の、表に出てこない意識を、(無意識)という。

 これを簡単に図示すると、つぎのようになる。

――――
意識
====
無意識
――――

意思として自覚する(意識)。
意識として自覚しない(無意識)。
今は、そう考えて、話を先に進める。

ここで、それぞれの強弱を、仮に3段階に分けてみる。

するとそれぞれの組み合わせは、9通りになる。
(意識が強くて、無意識が強い人)、(意識が強くて、無意識が中くらいの人)、
(意識が強くて、無意識が弱い人)……、と。

その中でもわかりやすいのを、3通り、ここに書き出してみる。

(1)(意識・強)-(無意識・強)……精神力の強固な人
(2)(意識・中)-(無意識・中)
(3)(意識・弱)-(無意識・弱)……精神力の軟弱な人

そこでさらに一歩、話を進めてみる。
たとえば(意識が強くて、無意識が弱い人)と、反対に(意識が弱くて、
無意識が強い人)を考えてみる。

(4)(意識・強)-(無意識・弱)……臨機応変に自由に行動できる人
(5)(意識・弱)-(無意識・強)……がんこで、融通がきかない陽と

 たとえば、たいへんがんこな子どもがいる。……いたとする。
一度、こうと言い出したら、テコでも動かなくなるタイプである。
たとえばこんな子ども(年中児)がいた。

 幼稚園でも、自分の座る席が決まっていた。
それ以外の席には、座らなかった。
先生がいくらていねいに指導しても、「ぼくは、この席!」と譲らなかった。

 ズボンもそうだった。
毎日、幼稚園へはいていくズボンが決まっていた。
「青いズボン」と決めると、毎日、そればかりをはいて、幼稚園へ出かけた。
母親が、いくらほかのずぼんを勧めても、それは、はかなかった。

 こうした(こだわり)は、自閉傾向(自閉症児のことではない)のある子どもに、
共通して見られる症状である。
いわゆる(根性)とちがうところは、(理由)がないということ。
理由もなく、「この席でないといやだ」とか、「青いずぼんでないといやだ」とか言って、
カラにこもる。

 このタイプの子どもは、(意思の力)というよりも、その子どもを裏から操る、
(無意識の力)のほうが、強いということになる。
先の分類法によれば、(5)の(意思・弱)-(無意識・強)というのが、それに当たる。

●(意識・強)-(無意識・弱)

 反対に、意識が強く、無意識の力が弱いばあいは、どうか。

 このばあいは、意識できる意思が強く、無意識の世界からの影響を受けないので、
臨機応変に、自分で考えて、自由に行動する。
無意識の世界から、いろいろな命令があがってきたとしても、それすらも、自分の
意思でコントロールしてしまう。

 ただ誤解していけないことは、無意識の力が弱いからといって、それだけ無意識の
世界が狭いということではない。
脳のもつキャパシティは、同じと考えてよい。

●発達段階

 これらのことは、子どもの発達段階を観察してみると、納得がいく。

 いわゆる3~4歳期の、幼児期前期の子どもを観察すると、(言われたことをきちん
と守る)という習性があるのがわかる。
何か母親が言ったりすると、「幼稚園の先生がこう言ったから」と、かたくなに
言い張ったりする。
最初にきちんとした形で入った情報を、絶対的と思い込む。

 そのため、この時期は、(しつけ)がしやすい。
エリクソンは、「自律期」と呼んでいるが、それはそういう理由による。

 しかしその幼児でも、満4・5歳を過ぎると、なにごとにつけ、急に反抗的に
なってくる。
母親が、「新聞をもってきて!」などと言うと、「自分のことは自分でしな」などと
言い返したりする。

 つまり(決められたこと)を、自由な意思で、コントロールするようになる。
上記の分類法によれば、(4)の(意識の力が強くなり)-(無意識の力が弱くなった)
状態を考えればよい。

●思考の融通性

 思考の融通性は、(意識の力)と(無意識の力)の強弱によって決まる。
意識の力が強く、無意識の力が弱ければ、融通性があるということになる。
これを(a)の人と呼ぶ。

 反対に、意識の力が弱く、無意識の力が強ければ、融通性がきかなくなる。
ものごとに、よりこだわりやすくなる。
これを(b)の人と呼ぶ。

 が、それはあくまでも相対的な力関係に過ぎない。
意識の力が弱い人でも、さらに無意識の力が弱ければ、融通性のある人ということに
なる。
このばあいは、軟弱な印象を、人を与える。
覇気がない。
何か指示すると、だまってそれに従ったりする。
同じ融通性がある人といっても、(a)の人のような、強い意識の力を感ずることはない。

●応用

 この分類法を使うと、子どもの様態が、より明確に区分できるようになる。

 たとえば、かん黙児の子どもについて言えば、(意識の力が弱く)-(無意識の力
が強い)ということから、上記(5)のタイプの子どもと位置づけられる。

 反対に、AD・HD(注意力欠陥型多動性児)のばあいは、(意識の力が強く)-
(無意識の力が弱い)ということから、上記(4)のタイプの子どもと位置づけられる。

 このことは年齢を追いかけながら、子どもを観察してみると、よくわかる。
たとえばかん黙児の子どもにしても、AD・HD児にしても、加齢とともに、症状が
緩和されてくる。
自己管理能力が発達し、自分で自分をコントロールするようになるためである。

 で、そのとき、かん黙児の子どもにしても、(がんこさ)はそのまま残ることは多い。
一方AD・HD児のばあいは、もちまえのバイタリティが、よいほうに作用して、
自由奔放な子どもになることが多い。
モーツアルト、チャーチル、エジソン、さらには最近では、あのアインシュタインも、
子どものころ、AD・HD児だったと言われている。

●無意識の世界

 話はぐんと変わるが、ダメ押し的な補足として、こんなことを書いておきたい。

 催眠術という「術」がある。
あの催眠術を使って、被験者に、たとえば「あなたはキツネになった」と暗示をかけると、
あたかもキツネになったかのように、ピョンピョンとはねたりする。
こうした現象は、(意識の世界)が、(無意識の力)に支配されたことによって起こると
考えると、わかりやすい。

 意識の世界で、いくら「私はキツネではない」と思っても、無意識の力の前では、
無力でしかない。
それだけ無意識の世界の力が強力であるとも考えられるが、言い換えると私たちは、
意識の力と、無意識の力の、絶妙なバランスの上で行動しているということになる。

 意識の力だけで行動していると思っても、常に無意識の力の影響を受けている。
しかし意識の力だけで行動しているわけではない。
無意識の力だけで行動しているのでもない。

 それをわかりやすくするために、上記(1)~(5)の仮説を立ててみた。
「私」をよりよく知るための、ひとつのヒントにはなる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 無意識 意識 意識vs無意識論 意識の強弱)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++はやし浩司

●学問のすすめ(福沢諭吉)

(未完成原稿)

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いまだに学問を否定する人が多い。
それには、驚かされる。
本当に驚かされる。
学問無用論すらある。
(「学歴無用論」ではない。「学問無用論」である。)

「学問」という言葉に問題があるなら、「学識」
でもよい。
重要なのは、学識。
いくら学歴や学問を否定しても、学識まで
否定してはいけない。

++++++++++++++++++++++

●福沢諭吉

 あの福沢諭吉は、こう書いた(『学問ノススメ』)

『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるに
は、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心と
の働きをもって天地の間にあるよろずの者を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、
互いに人の妨げをなさずして、おのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されど
も今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、
富めるものあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは、
何ぞや。その次第甚だ明らかなり』と。

 『学問のすすめ』については、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『・・・原則的にそれぞれ独立した17つのテーマからなる、初編から十七編の17の分
冊であった。 1872年(明治5年2月)初編出版。以降、1876年(明治9年11月
25日)十七編出版を以って一応の完成をみた。その後1880年(明治13年)に「合
本學問之勸序」という前書きを加え、一冊の本に合本された。その前書きによると初出版
以来8年間で、合計約70万冊が売れたとの事である』(ウィキペディア百科事典より抜粋)
と。

●1872年(明治5年2月)

1872年(明治5年2月)というから、2009-1872=137年前ということ
になる。

 遠い昔に思う人もいるかもしれないが、137年というのは、私の年齢(61歳)に
してみれば、たったの2倍強にすぎない。
で、この137年の間に、教育、教育を取り巻く環境、人々の教育観は大きく変わった。
といっても、明治の昔にはどうであったか。
それについては、ただ想像するだけでしかない。
が、手掛かりがまったくないかというと、そうではない。
私のばあい、子どものころを思い出せば、その片鱗をかぎ取ることができる。

●学歴時代

 学問を鼓舞するために、学歴が利用された。
あるいは江戸時代の身分制度を、別の形で温存させるために、学歴が利用された。
明治の終わりですら、東大生のほとんどが、華族、士族、豪商の子弟たちで占められた。
(詳しくは、別のところで……。)
そういういきさつはあるが、結果として、世界に名だたる学歴制度というの
が、日本に生まれた。

 私が子どものころには、「学卒」、つまり大学卒と言われる人たちは、
それだけで一目置かれた。
ところが身近にいる人というと、学校の教師か、医者くらいなもの。
そのため学校の教師や、医者は、飛びぬけた存在だった。
「学校の先生がこう言った」と言うだけで、親たちですら、黙った。

●高学歴時代

 それが今では、さらに一歩進んで、大学などというのは、当り前。
修士号か博士号をもっていないと、一人前に扱われないという時代になった。
それがさらに一歩進んで、今はもう、学歴をぶらさげて生きる時代ではない。
「学歴より中身」というわけである。

 この意見には異論はない。
まさにそうあるべきだし、またそれが正しい方向ということになる。
が、こうした(流れ)に対して、その一方で、学問そのものを否定する人が多いのには
驚かされる。

 (学歴の否定)が、一足飛びに、(学問の否定)につながっている(?)。
若い人を中心に、しかも中高校生あたりにも、そのように考える子どもは多い。
これには驚かされる。

●勉強より部活

 たとえばこの浜松市あたりでも、約60%前後の中学生は、受験勉強すらしていない。
たいはんは、「部活でがんばって、推薦で高校へ入る」などと考えている。
「有名進学校なんか入ると、勉強でしごかれるから、いや」などと言う子どもも多い。
つまり頭から、勉強、つまり学問を否定してしまっている。

 が、このことと、(学歴の否定)とは、まったく別問題である。
学歴というのは、あくまでも結果。
しかしいくら学歴を否定しても、学問、つまり学識まで否定してはいけない。
またそういう考え方は、まちがっている。

●50歳
 
 満50歳前後になると、その人のそれまでの生きざまが、そのまま集約され、表に
出てくる。
それまでにどんな生き方をしてきたかが、大きな(ちがい)となって表に出てくる。

 こんなことがあった。

 それまでにほぼ20年ぶりに、X氏という名前の男性(私と同年齢)と会った。
通りで会って、そのまま喫茶店に入った。
しばらくは会話がはずんだが、そのあとがつづかない。
どんなことをしているのかと聞くと、X氏は、こう言った。

「趣味は、プロ野球の実況中継を見ること。
天気のよい日は魚釣り。
雨の日は、パチンコ・・・」と。

 そういう生活が積み重なって、X氏は、X氏のような人物になった。

●学識

学識のある人からは、学識のない人がよくわかる。
が、学識のない人からは、学識のある人がわからない。
それはちょうど山登りに似ている。
どんな小さな山でも登ってみると、意外と視野が広いのがわかる。
下から見上げているときは、それがわからない。

 だから学識のない人は、自分に学識がないことに気づかない。
「私も平均的だ」とか、「ふつうだ」とか、思ったりする。
だからといって、私には、学識がある。
X氏には学識がないと言っているのではない。

 学識のあるなしは、相対的なもの。
学識のある人でも、さらに学識の高い人から見れば、学識の低い人ということになる。
恩師のTK先生から見たら、私など、いまだにヒヨコ以下かもしれない。

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