最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●官僚の給料(1)

2010-05-14 09:10:19 | 日記
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   
.QQ ∩ ∩ QQ         
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      
.  /~~~\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β       
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 5月 14日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page008.html

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●固定観念

++++++++++++++++

固定観念。
その固定観念というのは、一度できると
それを打ち破るのは、容易なことではない。
その人の「常識」となって、脳の中で
固定化してしまう。
(だから、「固定観念」という。)
固定化してしまうのみならず、新しい観念の流入を
阻止してしまう。

「私はだいじょうぶ」と思っている人も
いるかもしれない。
「私はいつもものごとをフレキシブルに
考えている」と。

しかし私たちは、無意識のまま、その
固定観念に縛られている。
そしてそれが当たり前と思うあまり、
もっと大切なことを、置き去りにしてしまう。
たとえば……。

+++++++++++++++++

●寸又峡へ

 今日は寸又峡(すまたきょう)という温泉地へ、
やってきた。
静岡県ではよく知られた温泉地である。
JR東海の金谷(かなや)駅から千頭(せんず)へ。
大井川鉄道に乗り換え、そこから寸又峡へ。
(金谷から千頭まで、1時間30分。)

 その寸又峡へは、今回で3度目。
今回は、『翠紅苑(すいこうえん)』という旅館に、一泊することにした。
5つ星の、★★★★★。
寸又峡イチ……というか、「これだけの旅館は、静岡県にも、そうはない」と
言われるほど、評価の高い旅館。
以前からうわさには聞いていたが、そのとおりだった。
玄関を入ったとたん、それがわかった。

都会にある大きな洗練された旅館とは、ちがう。
田舎の小さな旅館である。
が、ズシリとした重みが伝わってきた。
慣れ親しんだ田舎の家を訪れたような、そんななつかしささえ、私は感じた。
 
 で、その途中でのこと。
ここからが「固定観念」の話。

千頭から寸又峡温泉までバスに乗った。
その車内で、またまたあのガイド。
日本独特の、あのガイド。
録音テープによる、あのガイド。

「当地は、江戸時代は○○藩のxxの領地で……何とか何とか」
「中部電力が……何とか何とか」
「発電電力は、十数万キロワット……何とか何とか」
「右手奥に見ます山が……何とか何とか」
「前方に見えてきます山が……何とか何とか」
「ここが峠で、右下の谷は……何とか何とか」と。

 うるさいのなんのと言ったらない。
そういうのが旅のサービスと、バス会社は思い込んでいる。
聞いても、すぐ忘れる。
意味のない情報。
それがなんと40分もつづいた。
こういうのを「固定観念」という。
わかるかな?

 では、外国ではどうか?
……というより、旅には旅の、もっとふさわしいガイドというのがあるはず。
たとえば「このあたりには、ニホンザルやニホンカモシカが出没します。
運がよければ、山の肌にそれを見ることができます。
また木の種類も多く、数百種が生育しています。
春には、20種類以上の野鳥が観察されます。
珍しい鳥にxxがいます」とか、など。

 私たちは静かな旅を楽しむためにやってきた。
自然を楽しむためにやってきた。
社会科の勉強にやってきたのではない。
が、話すほうも、聞くほうも、何も疑問をもたない。
車内ガイドというのは、そういうものと、それぞれが勝手に思い込んでいる。
それが固定観念ということになる。

(ついでに言うと、この時期、ふだんは観光客も少なく、静かな旅になるはずだった。
しかしたまたまどこかの歩く会の人たち、15、6人と乗り合わせた。
その人たちのおしゃべりの、うるさいことといったらなかった。
車内ガイドなど、何も聞いていない。
音声に負けじと、みながさらに大声で話し合っていた。)

●流転

 で、少しまじめな話。

 ますます世の中の動きが速くなってきた。
こうまで動きが速くなってくると、ついていくだけでたいへん。
昨日の常識が、今日は、非常識となる。
が、もっともそれに気づいている間はよい。
動きに合わせて、自分を変えていくことができる。
しかし時として、固定観念にしばられ、世の中の動きを見失うことがある。

 たとえば私たちが子どものころは、「出世」という言葉が、もてはやされた。
「末は博士か、大臣か」と。
そんな言葉もあった。
しかし今は、時代も変わった。
権威主義そのものが、崩壊した。
価値観も変った。
出世主義に替わって、家族主義が台頭した。
ちょうど2000年ごろを境に、この2つが逆転した。

それまでは「仕事のためなら、家族は犠牲になって当然」と、みなが
考えていた。
しかし2000年を境に、仕事より家族を優先する人のほうが、多くなった。
「家族主義」を唱える人も現れた。
(この私のことだが……。)

 が、固定観念というのは、恐ろしい。
60代になっても、70代になっても、さらに80代になっても、
出世主義に毒されている人は多い。
毒されるならまだしも、「私は正しい」と、自分の価値観を他人に押しつけてくる。
言葉に出して言うことはないが、雰囲気でそれがわかる。
そういう人に出会うと、どう話を合わせてよいか、困ってしまう。
またどう話したところで、理解してもらえないだろう。
こんなことがあった。

●ある男性
 
 その人(男性・75歳)はある都市銀行の部長職を最後に、銀行を退職した。
そのあとしばらく子会社の金融調査会社に籍を置いた。
現役時代は、それこそ名刺一枚で、どこの会社でも社長室まで、素通りできた。
輝かしいキャリアである。 
が、退職と同時に悲劇が始まった。

「オレは偉い」といくら叫んでも、だれも相手にしない。
しないばかりか、「あいつはつきあいにくい」と、みながその人を敬遠し始めた。
本来ならここで世の流れの変化に気づき、それに自分を合わせるべきだった。
退職と同時に、自分を変えるべきだった。
しかしそれを認めることは、その人にとっては、自己否定につながってしまう。
出世だけを目標に、家族を犠牲にしてきた。
友人を犠牲にしてきた。
「一社懸命」でがんばってきた。
その結果が「今」ということになる。
まわりの人にしても、「あなたは、もっと大切なものを犠牲にしてきましたね」とは、
とても言えない。

 だからその人は、75歳になった今でも、過去の亡霊にしがみついている。
20歳になった孫娘が2人いるが、そのうちの1人が、工場勤務の工員と結婚することに
なったときのこと。
その人は、孫娘に、こう言って反対したという。
「まともな仕事をしている男と結婚しなさい!」と。

●偏見

 まともな仕事?

 私も・・・と書くのは、今でも気が引けるが、私もこうした偏見に、かなり
苦しんだ。
仕事にまともな仕事も、まともでない仕事もない。
もちろん犯罪がらみの仕事は別だが、稼ぐ金(=マネー)に、名前はつかない。

が、40年前の日本には、「まともな仕事論」というのがあった。
今でも、残っている。
どこかの企業(大きければ大きいほどよい)に勤めて、その年齢にふさわしい地位
で仕事をするのが、「まともな仕事」と考えられていた。
が、それこそまさに士農工商時代の亡霊!

 で、今は私のような仕事をしている人を、「フリーター」という。

フリーターねえ……?
この言葉を考えた人は、相当のセンスの持ち主と考えてよい。
「フリーマン(自由人)」でもない。
「フリー」に「ター」をつけて、ややバカにしたニュアンスを加味した。

が、当時は、風来坊とか無頼(ぶらい)とか、無宿者とか呼ばれた。
そういうレッテルを張られて、社会のワクの外に置かれた。
私もそうだった。
たとえば大手の銀行で、カードを発行してもらおうとしたことがある。
カードがやっと流通し始めたころのこと。
が、「審査の結果・・・」というような返事が来て、拒否されてしまった。
銀行の預金残高を示すコピーをつけて申し込んだが、だめだった。

(念のため申し添えるなら、フリーターが不利なのは、職業的に問題があるからではない。
社会制度上、不利になるようにできている。
日本という国は、どこかの組織に属する労働者については、手厚く保護する。
組織に属さない個人は、保護しない。
公務員とフリーターの(差)を見れば、それがわかる。

しかしこれだけは忘れてはいけない。
むしろ社会の活力、エネルギー、それにダイナミズムは、フリーターと呼ばれる
人たちの間から生まれる。
豊田佐吉も本田宗一郎も、日本を背負って立った人は、みんなフリーターだった!)

 こうした偏見もまた、それぞれの人の固定観念によって生まれる。
その固定観念が集合されて、その時代の社会通念となっていく。
が、それは同時に社会を硬直化させる原因となる。

●これからの日本
 
 話が大上段になるが、これからの日本が、これからの未来を生き残るには、
こうした固定観念を、ひとつひとつ、ていねいに打ち砕いていく以外に、道はない。
何度も書くが、2050年には、このままでは、日本はアジアの中だけでも、
ごくふつうの小さな国になってしまう。
2050年というと、40年後である。
現在の小学生たちが、50歳前後になるころである。

 が、さらに心配されるのは、そこで日本の衰退が止まるわけではないということ。
60年後・・・、80年後・・・。
それを思うと、ぞっとする。
そのときのことを考えて、日本がどうあるべきかを考える。

一説によれば、「アジアもEUのように連合化される」と説く人もいる。
それもそのひとつの選択肢かもしれない。
あるいはアジア大陸を飛び越えて、日本がEUの一員になることも考えられる。
しかし今の日本を思うと、中国や韓国と、連合するということは、ありえない。
その間に横たわる民族的な溝(みぞ)は、あまりにも深い。

 で、固定観念を破る。
たとえば現在、アジアの経済の中心地は、シンガポールである。
東京でもないし、北京でもない。
シンガポールである。
たとえばアジアの経済ニュースは、一度シンガポールに集約され、そこから世界に
発信される。
そのシンガポールは、ありとあらゆる制度を、世界に向けて自由化してきた。
アメリカ人の医師だって、シンガポールでは、自由に開業できる。
アメリカやオーストラリアで取得した資格を、そのまま生かして仕事ができる。
もちろん使用する第一言語は、英語。

 今からでも遅くない。
日本も40年後を見据えながら、これからの日本がどうあるべきかを考える。
そのために私たち1人ひとりがもっている固定観念を、打ち破る。
シンガポールは、40年をかけて、ここまでの地位を築いた。
日本だって、その気になれば、つぎの40年で、現在の地位を取り返すことが
できる。

●具体的に・・・

 言うまでもなく、日本の資産は、「人」。
その人を育てる。
その要(かなめ)となるのが、「教育」。
そこで教育の世界では、こうする。

(1)主要教科以外のクラブ化。
  主要教科は、学校での単位制にする。
  そのほかの科目(語学、絵画、音楽、体育、技術など)は、クラブ制にする。
 「民活」を導入する。

(2)教科書検定制度の廃止と教科書の廃止
 「教科書」ではなく、「テキスト」という感覚にする。
  テキストの選択は、学校単位、教師単位の自由裁量に任せる。
  学力は、各種の検定制度を使って、学外で判断する。

(3)無学年制の採用とカリキュラムの多様化
 「単位制」というのは、無学年制を意味する。
  同時に、カリキュラムはその子どもの能力、才能、やる気に応じて、多様化
  する。
  数学の得意な子どもは、毎日数学の授業を受けられるようにする。
  さらに「電子テキスト」ができれば、学校の外でも、授業は可能になる。
「学校」というワクの中の教育に、こだわらなければならない理由はない。
  これからはそういう時代になる。

 「電子テキスト」というのは、最近アップル社から発売になった、i-Pad
  のようなものをいう。
  それ1台をもっていれば、1台の中に、数百冊分の教科書を保存できる。
  もちろん毎年、更新することもできる。

 少し乱暴な書き方をしたが、ショックを感じてほしかったから、そうした。
ともかくも今の日本の教育に欠けるのは、「活力」。
「教育の活力」ではない。
「子どもたちの活力」。
教師も生徒も、固定観念にしばられ、身動きができないでいる。
子どもたちが窒息してしまっている。
これでは日本の未来は、お先真っ暗!
たとえばここに書いた電子テキストにしても、韓国では2011年から、
すべての学校で採用するという。
が、この日本では、そういう話すら、出てこない。

「予算がない」(つまり、予算的な余裕がない。)
「教科書会社がYESと言わない」(文科省の天下り先になっている。)と。

考え方のひとつとして、参考にしてほしい。

●再び、固定観念

 ただ誤解しないでほしい。
固定観念がすべて悪いというのではない。
それがあるからこそ、日々の生活はスムーズに流れる。
たとえば冒頭に書いた、車内ガイド。
あのガイドにしてもそうだ。
バス会社も、またそのバスに乗る客も、それがガイドというのは、そういうものと
思っている。
だからこそ、問題なく、……というより、それほど深く考えることなく、ガイドを流し、
また客も安心して、それを聞く。
「無難」という言葉は、そういうときのためにある。

 そういうこともあるが、一方で、私たちがもつ固定観念を一度、疑ってみる。
それによって、ひょっとしたら、そこに潜む「真理」に、一歩近づくことができる
かもしれない。
たとえば先のガイドも、20年後には、こう変わるかもしれない。

「……このあたりの開発は、自然保護のため、きびしく規制されています。
野生のニホンザル、ニホンカモシカの保護のため、保護区も制定されました。
保護区の制定のために、地元の人たちが闘ってきた様子は、映画にもなり、
みなさんご存知の通りです……」と。

(はやし浩司 固定観念 固定観念論 こだわり 教育のこだわり 常識 硬直した教育
行政 教育のクラブ化 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 固定観念 常識論)

コメントを投稿