最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●マガジン(6-25)

2010-06-25 08:43:15 | 日記
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      6月   25日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【新・胡蝶の夢】(人生、夢のごとし)
Life is but an empty dream.

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時として、現実が夢なのか、
それとも、夢が現実なのか、
それがわからなくなる。

そこに(現実)があるはずなのに、
日々はまるで夢のように過ぎていく。
そこに(過去)があるはずなのに、
どれも色あせて、つかみどころがない。

「人生、夢のごとし」とだれかに言われても、
今の私は、「そうだな」と、
すなおにそれに従うことができる。

++++++++++++++++++++

●マイ・S

 医院で、(マイ・S)という睡眠薬を、処方してもらっている。
睡眠薬にもいろいろあって、(マイ・S)というのは、言うなれば朝方に効く、睡眠持続剤
のようなもの。……らしい。
「朝早く目が覚めてしまう」と訴えたら、医師は、それを処方してくれた。
 
 以来、もう10年以上になる。
といっても、毎晩のむわけではない。
週に1、2度、それも4分の1から8分の1に割ってのむ。
1錠ものんだら、気がへんになってしまう。
朝方、現実と区別のつかない、幻覚作用が起こる。
一度、そういうことがあって、こわくなった。
だからそのときの状態に応じて、割ってのむ。
そのことを医師に告げると、「それでは効かない」というようなことを言った。
しかし私には、それでじゅうぶん。
多くて4分の1。
たいていは8分の1。
舌の下で溶かしながら、のむ。

●幻覚

 (マイ・S)をのむと、それでも、朝方、幻覚作用が起きることがある。
超リアルな夢であったり、夢の中で、それが夢とわかったりする。
数日前の朝も、そうだった。
私はどこかの駅のプラットフォームに立っていた。
そこで一度ローカル線に乗り、近くの大きな駅で長距離列車に乗り換えるつもりだった。

 その前に少し、海岸沿いの細い道を歩いていたように思う。
舗装のない、茶色の道だった。
眼下に豊かな森が見え、その向こうに海が見えた。
たぶんそんなわけで、その駅までは、バスか何かでやってきたのだと思う。
私は長距離列車に乗って、自宅のある浜松市まで帰るつもりでいた。

●床屋

 駅の前には坂道があった。
以前、見覚えのある坂道だった。
……というより、別の道から、坂の上にある、みやげ屋まで来たことがある。
そのときは、つまり反対コースを、下から見たことになる。
急な坂道で、歩いては登れるが、車では無理。
そう思いながら、私は坂道を登った。
駅のことは、忘れていた。
たぶんローカル線に乗り遅れて、つぎの電車を待っていたのだと思う。
坂道の途中には、いくつかの店があった。
民宿、菓子屋、それに床屋。

 私は床屋へ入った。
大正時代にできたような木造の古い家だった。

●2人の男

 そのころだったと思う。
私は「ああ、これは夢だな」と気がついた。
ふつうなら、そう思ったとたん、目が覚める。
が、目は覚めなかった。
私は夢を見つづけた。

 床屋には、2人の人がいた。
1人は男で、年齢は50歳くらい。
もう1人は女で、年齢は40歳くらい。
ひまそうに客を待ちながら、テレビを見あげていた。
私は声をかけた。
男が返事をした。
女も返事をした。
しかしそこはもう床屋ではなかった。
旅館だった。
古い、木造の旅館だった。
長い板間の廊下が、奥へとつづいていた。

●幻覚

 男が言った。
「奥の部屋があいています」「温泉は、12時までです」と。
女が部屋へ案内してくれた。
私はワイフの姿が見えなくなって、かなり不安になっていた。
電車で先に行ってしまったのかもしれない。
もしそうなら、つぎの駅で私を待っているはず。 
……と思った瞬間、私はみやげ屋の中にいて、そこから駅をながめていた。

 「これは夢だ」と、私はまた思った。
「私は今、夢を見ている」と。

 こんなにクルクルと場面が変わることは、おかしい。
おかしいから、「夢だ」と。

●男

 先ほどの男が、話しかけてきた。
「あなたは、どこから来たのか」と。
私は、「旅行中だ」と答えた。

男「どこへ行くのか」
私「電車に乗って、家に帰る」
男「家は、どこだ?」
私「なぜ、そんなことを聞くのか?」
男「なぜって、それはあなたが、この世の人間とは思えないからだ」
私「この世? ハハハ、ここはぼくの夢の中の世界だよ」と。

 男は一瞬驚いた顔をしてみせたが、今度は怒ったような声で言った。
「バカなことを言うな。ここがあなたの夢の中の世界なら、私は何だ?」と。

私「……あなたは、ぼくが勝手に創りあげた人間だ」
男「あなたが、ぼくを創ったって? とんでもないこと言うね、あなたは」
私「だって、これはぼくが見ている夢なんだから、しかたないだろ」と。

●やり取り

 男の顔はよく覚えていない。
が、夢の中では、その場にいる人のように、輪郭がはっきりしていた。
印象としては、陰険な顔つきをしていた。
暗い表情で、私をにらみつけていた。

男「あなたの頭は、おかしい。見ろ、あそこに海が見えるだろ。あなたはあの海まで、自
分で創ったというのか?」
私「創ったわけではないが、この世界では、ぼくが想像した通りの世界になる」
男「だったら、あなたはこの世界の神か?」
私「少なくとも、あなたに関しては、そうだ。ぼくが目を覚ましたら、あなたは消える」
男「……消える! とんでもないことを言うな。君は。ぼくは消えない。夢だかなんだか
知らないが、あなたが目をさましても、ぼくは、ここにいる。この世界に、だ」と。

 かなりはげしいやり取りだった。
私もその男も、同じように興奮状態になっていた。

●荘子の『胡蝶の夢』

 荘子と言えば、『胡蝶の夢』。
荘子の思想を表す逸話に、こんな話がある。

 ある日荘子は夢を見る。
荘子が蝶になり、あちこちを舞ったあと、そこで目が覚める。
そこで荘子はこう考える。
「荘子が夢を見て蝶になったのか。それとも蝶が夢を見て荘子になったのか」と。

 もちろん夢の中で、私が荘子のことを思い出したわけではない。
ただその男というのが、はたして夢の中に出てきた男なのか、それとも私自身だったのか、
今、こうして夢の中の私を思い出しながら書いていると、それがよくわからない。
会話をしているのは、私と1人の男。
しかし私がその1人の男になったり、その男が、私になったりする。
あるいは夢の中で、私は、もう1人の「私」と対話をしていたのかもしれない。
「私が夢を見て、その男と話したのか。それとも、私がその男となって、私と話したのか」
と。

●目を覚ます

 ……このあたりで、夢が覚め始めた。
というより、思い切って目を開いた。
とたん、目の前にいた、その男は消えた。
どこか生意気そうな男だった。
目を覚ます前、かなり強い反感を私は覚えていた。
だからふと、「ザマーミロ!」と思った。
その男が消えたことが、楽しかった。

 「あの男は今ごろ、自分が消されて、悔しい思いをしているかもしれないな」と。
しかしすぐ私は現実に戻った。
横を見ると、ワイフが朝の薄日の中で、軽いいびきをかいて眠っていた。
私はそれまで見ていた夢のことを、しばらく考えた。
時刻は午前5時を過ぎていた。
遠くで、スズメが鳴いたような気がした。

●夢判断

 私は夢を見た。
私が見た夢だから、自分の姿は見えなかった。
が、男の顔や姿は、よく見えた。
しかしその男が、私でなかったとは、とても思えない。
私が見た夢なら、私自身ということになる。
私の一部が、その男となって、夢の中に出てきた。
不愉快そうな顔をしていた。

 その男は、私が、「あなたは、ぼくが勝手に創りあげた人間だ」と言ったとき、本気にな
って怒った。
それがおかしかった。
私は、自分の夢の中では、神以上の神だった。
すべての創造主。
その気になれば、(もちろん夢と気づいているときの間だけだが)、自分の思い通りの世界
を創ることができる。
別の夢で、「これは夢」とわかったようなとき、私はわざと高い山から飛び降りて、空を飛
ぶこともある。
そういう神業(わざ)的なことも、可能。
つまり何でもできる。

●逆転

 が、ここでおもしろいことに気づく。
もし、仮に今、この世界が、だれかの夢の中の世界だったとしたら……ということ。
そこに1人の男が立っていて、「ここは私の夢の中の世界だ。あなたは私によって創られた
人間だ」と言ったとしたら……。

 つまり夢の中の「私」が、ちょうど反対の立場になったとする。
するとこの世界の見方が、一変する。
私はその男に向かって、こう言い返すだろう。

私「あなたの頭は、おかしい。見ろ、あそこに海が見えるだろ。あなたはあの海まで、自
分で創ったというのか?」
男「創ったわけではないが、ぼくが想像した通りの世界になる」
私「だったら、あなたはこの世の神か?」
男「少なくとも、あなたに関しては、そうだ。ぼくが目を覚ましたら、あなたは消える」
私「……消えるだと! とんでもないことを言うね、君は。ぼくは消えないよ。夢だかな
んだか知らないが、あなたが目をさましても、ぼくは、ここにいる。この世界に、ね」と。

●現実

 実のところ、私は今、私が生きているこの世界そのものが、よくわからない。
そこに見えるのは、光と分子の織りなす世界。
それを見て、(もちろん音も聞いて)、そこにモノがあることを知る。
しかし目を閉じれば、一瞬にして、それらのモノは、視界から消える。
そこにモノが見えるのは、たまたまそれが見えるように目ができているからにほかならな
い。

 たとえば暗い闇の世界を泳ぐイルカは、音波探知機のような機能を鼻先にもっていて、
それでモノがあることを知るという。
一方、土の中に生きるミミズは、目が退化してしまっていて、モノを見ることができない。
(現実)といっても、それは人間にとっての現実であり、その(現実)は、動物によって
みなちがう。

 で、死ねば、どうなるか?
モノを見る「私」自身が消えるわけだから、モノを見ることはもうない。
その時点で、私たちが「現実」と呼んでいるものすべてが、消える。
この大宇宙もろとも、消える。

●すべてが夢の中

 もちろん(現実)は(現実)。
(夢)は(夢)。
しかし私の年齢になると、どちらがどちらでも、もう構わないという心境になる。
「夢の中の方が現実」とだれかが言っても、「そうだな」と思う。
「現実は夢のようなもの」とまただれかが言っても、「そうだな」と思う。
自分の過去を振り返っても、それが(現実)というよりは、すべてが(夢)の中のできご
とだったような気がする。
少なくとも「今」という時点から振り返ると、数日前に見た夢も、50年前に経験したこ
とも、同じように見える。
夢の中で見た床屋も、どこか知らない土地で見かけた床屋も、同じように見える。
頭の中で区別するのが、むずかしい。

 だから荘子のように……というふうに考えるのは危険なことかもしれないが、この世の
中のモノすべてが、ナッシング(Nothing)のように思えてくる。
もっとわかりやすく言えば、私たちは、だれかが見ている夢の中で、それがそのだれかの
夢とも気づかず、踊らされているだけ(?)。
そのだれかが目を覚ませば、私もろとも、この世の中のモノすべてが、消える。

●現実主義者

 ……といっても、私は現実主義者。
今までもずっとそうだった。
これからも、死ぬまでそうだろう。
霊的な世界の存在を信じていない。
が、冷酷な現実主義者ではない。
ちょうど子どもがサンタクロースの存在を信ずるように、「この世は、ひょっとしたら夢の
ようなものかもしれない」と思うことはある。
やがて私もあの世へ行くわけだが、その程度、つまりサンタクロース程度には死後の世界
を信じている。

 ……とまあ、自分でも何を書いているか、よくわからなくなってきた。
ただ私がここに書きたいことは、現実だけがけっしてすべてではないということ。
現実にとらわれすぎると、かえって自分を見失ってしまうこともある。
ときには、そこに見える(現実)を疑ってみる必要もある。
そこにある世界がけっしてすべてではない。
同時に、そこにないからといって、別の世界を否定してはいけない。

 窓の外から注ぎ込む白い光を見ながら、私はそんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 夢と現実 現実と夢 荘子 胡蝶の夢 荘周 新胡蝶の夢 夢論)

(補記)

 私自身の過去を振り返っても、すべて夢の中のできごとだったように思うことは、よく
ある。
ただ(過去)といっても、それぞれの人や場所と、つながりがある。
そういった人に出会うと、それが現実だったことを知る。
しかしもしそういう人もいなくなってしまったら……。
そういう場所もなくなってしまったとしたら……。
そのとき私は、現実と夢を区別できるだろうか。
加齢とともに、だんだんとその自信が薄らいできた。

人生は夢のように短くはかないものである(李白「春夜宴従弟桃李園序」)。


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

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