最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

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2011-07-26 06:53:59 | 日記

●出世主義から家族主義へ

戦時中から戦後へ。
日本は敗戦により、大きく変わった。
が、そう見えるのは、表面的な部分だけ。
つまり包装紙が変わっただけ。

「お国のため」が、「会社のため」になった。
「兵士」は、「企業戦士」になった。
それまでの「神国日本」は、「金権日本」になった。

 こうして戦後生まれの世代、つまり団塊の世代と言われる私たちの世代は、会社人間とし
て、社会へと巣立っていった。
だから当時の学校では、卒業式などには、決まってこう言われた。
「社会で役立つ人間になってください」と。
耳にタコができるほど、私たちはそれを聞かされた。

 が、これではいけない。
個人が組織の犠牲になってはいけない。
個人が家族の犠牲になってはいけない。

 たとえば私などは、「親孝行」という言葉も、それこそ耳にタコができるほど、聞かされて育っ
た。
それを如実に表す言葉が、「産んでやった」「育ててやった」という、あの言葉である。
あの言葉ほど、恩着せがましく、同時に、真綿で首をしめるような言葉はない。
だからこそ、それが私の常識となり、給料を手にするようになってからも、収入の半分を実家
へ送るということにつながっていった。

●反動

だから私は3人の息子たちを育てながらも、そういう言葉は、絶対に口にしないと誓った。
事実、言ったことはない。
反対に、こう言った。
「お前たちの人生は、お前たちのもの。お前たちはお前たちの人生を、自分の好きなように生
きろ」と。

が、変革は、若者たちのほうから始まった。
その象徴的な人物が、尾崎豊である。

●尾崎豊の『卒業』

「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った……」という、あの歌である。
私ははじめてあの歌を聴いたとき、ふつうでない衝撃を受けた。
「ああいう歌を歌うから、学校の窓ガラスが割られるのだ」と。

 が、それはまさに若者たちの、世代闘争の始まりだった。
少し時代が逆行するが、私たちの時代は、60年安保、70年安保を経験した。
それは権力との闘いだった。
何かわからない。
わからないが、自分たちの体をがんじがらめにしているものと闘った。
よくイデオロギー(政治的信条)が問題になったが、イデオロギーをもっているのは、学生の中
でもほんの一部。
大部分の学生たちは、言うなれば、祭り騒ぎのひとつとして、闘争に参加した。
「祭り騒ぎ」というのは、少し言い過ぎかもしれない。
しかし今、振り返ってみると、そういう印象をもつ。

 で、私たちの時代を、反権力闘争の時代とするなら、尾崎豊らが提起した闘争は、反世代闘
争ということになる。
旧態の価値観を打ち破り、自分たちの時代を確立しようとした。
わかりやすく言えば、自分たちの世代を、それまでの世代と、切り離そうとした。

 が、これはその世代の人たちにとっては、不幸なことでもあった。

●世代闘争

 知恵や知識は、世代から世代へと、受け継がれていく、
が、それを自ら断ち切ってしまう。
切るだけならまだしも、古い世代の知恵や知識を、意味のないもの、価値のないものとして、排
斥してしまう。
事実、排斥した。
古い世代の言葉に耳を傾けなくなった。
つまり断ち切った世代は、すべてを、ゼロから始めなければならない。

●行き過ぎた価値観

 こうして尾崎豊の世代は、より過激になっていった。
というより、尾崎豊は、その時代の若者たちの心を代弁した。
共感を得たというのは、そういう意味。
CBSソニーに問い合わせたところ、あの『卒業』は、シングル盤も含めて、200万枚以上も売
れたという。

 誤解がないように申し添えておくが、私自身は、尾崎豊が大好きである。
『卒業』も大好きである。

 で、若者たちは、世代闘争を繰り返し、自分たちの時代を確立した。
その結果が、今のみなさんの世代ということになる。
新しい価値観を構築した。

●2つの問題

 が、今、ここで大きな問題が起きてきた。
私はその問題を、つぎの2つに集約する。

ひとつは、(1)行き過ぎた家族主義。
もうひとつは、(2)欲望至上主義。

 行き過ぎた家族主義については、先に少し触れた。
日本が行動性長期にさしかかるころ、「核家族」という言葉が生まれた。
それがしばらくすると、「カプセル家族」という言葉に置き換わった。

 核家族というのは、夫婦と子どもたちだけで構成される家族をいう。
カプセル家族というのは、硬いカラの中に閉じこもってしまい、独自の価値観を極端化してしま
う家族をいう。
高学歴の父母に、多く見られた。
「私たちの育て方が正しい」と言いながら、その返す刀で、相手の価値観を否定する。
教師すらも、「下」に置くことによって、自分流の育児観をごり押しする。
具体的には、その派生として、「教育ママ」という言葉が生まれた。
「モンスターママ」という言葉も生まれた。

 が、問題はこれだけでは収まらなかった。
行き過ぎた家族主義の結果として、その「家族」から、「祖父母」の姿が消えた。
今、若い世代の人たちが使う「家族」という言葉の中には、「祖父母」、つまり自分たちの両親
の姿はない。
祖父母は、つまり自分の親たちは、家族ではない。

 このことを短絡的に、独居老人、孤独死、無縁死と結びつけるのは危険なことである。
ある社会学者の推計によれば、今後約60%の老人が、孤独死するという。
しかも発見までの平均日数は、6日。

 こういう話をすると、ここにいるみなさんは、「私はだいじょうぶ」と思うかもしれない。
「私と子どもの関係は絶対。親子の絆も太い」と。
しかしそれはどうか。
ここにあげた60%という数字は、私たちの世代の数字ではなく、現在の40代、50代の人たち
の数字である。

ともあれ家族、とくに祖父母とその息子、娘の間の絆が、もろく壊れやすくなっているのは、事
実。
それが先にも書いた、「経済的に余裕があれば……」という言葉につながっていく。
この言葉を裏から読むと、「経済的に余裕がなければ、親のめんどうはみない」。
さらには「親の恩も遺産しだい」という考え方につながっていく。

 ついでながら、世代闘争をした結果、老人は社会の隅に追いやられてしまった。
本来なら政治がそうした社会的欠陥を補完しなければならない。
が、その政治が追いついていない。
その結果が、現在の老人福祉政策ということになる。

 昔は、息子や娘が親の老後のめんどうをみた。
今は、みない。
そのかわり……という部分が未完成のまま、労時福祉政策だけがアタフタとしている。
たとえば私の近所にある特別養護老人ホームにしても、症状にもよるが、2年待ち、3年待ちと
いうのは、ザラ。
順番にしても、100番待ちという状況がつづいている(浜松市中区長寿保険課調べ)。

●欲望
 
 もうひとつは、欲望至上主義。
その代表的なものが、恋愛至上主義。

 韓流ブームに代表されるように、今の日本は、恋愛市場主義一色。
たがいに愛しあっていれば、何でも許される、と。
昔で言う駆け落ちなど、いまどき珍しくも何ともない。
結婚するについても、ほとんどが事後承諾。
親の許可を求めたり、親の意見を聞く子どもは、皆無。
まずいない。
皆無ということは、実は、この会場に来ているあなたがた自身が、いちばんよく知っているは
ず。

 ある男性は、実家へ規制するたびに、別の女性を連れてきた。
そしてそのたびに親にこう言ったという。
「パパ、(彼女の)名前をまちがえないでよ」と。

 そして別のある日のこと。
また突然、別の女性を連れてきて、「結婚することにしたから、よろしく」と。

 ……と書いても、今の若い人たちには、理解できないだろう。
「どこが悪いのだ」と。
それが冒頭で話した、「常識」ということになる。
「意識」そのものが、ちがう。

 私たちの時代には、それがよかったとは思っていないが、しかし親の承諾なしには結婚はで
きなかった。
仮に恋人ができたとしても、そこには「実家」という大きな関門があった。
私自身にしても、実家の父や母のことを考えるあまり、一度、ある女性との結婚を断念してい
る。
親が反対したわけではないが、自ら、そうした。
それが私たちの時代には、常識だった。

●フェニルエチルアミン

最近の脳科学では、感情は、脳ホルモンによるものというのが、定説になりつつある。
恋愛とて例外ではない。
恋愛も、脳ホルモンによるもの。
それがフェニルエチルアミンである。

 その時期になると、男や女は、熱烈な恋愛をする。
身を焦がすような、甘い陶酔感。
当の本人たちは、自分の意思で恋愛しているように思っているかもしれない。
しかし実は、脳ホルモンの奴隷になっているだけ。
それが悪いというのではない。
人間には、動物として、種族を後世に残すという重大な任務がある。
またそれがあるから、無数のドラマが生まれる。
そのドラマに価値がある。

 たとえば10年ほど前、『タイタニック』という映画が、大ヒットした。
あの映画の中に、もしジャックとローズがいなかったら、あの映画はただの船の沈没映画にな
っていただろう。

 しかし何ごとも行き過ぎはよくない。
恋愛はすばらしい。
人生の花。
しかしそれに溺れてしまってはいけない。
恋愛至上主義に走るということは、欲望の奴隷になることを意味する。
酒に溺れたり、タバコに溺れるのと同じ。
最近の脳科学によれば、視床下部から発せられたシグナルに応じて、ドーパミンが分泌され
る。
それが生きる原動力にもなっている。
フロイトが説いた「性的エネルギー」にもつながる。
しかしそれが行き過ぎると、先にも書いたように中毒性をもつ。
麻薬性をもつ。

 わかりやすく言えば、自分を見失う。
自分が自分であって、自分でなくなる。
恋は盲目とはいうが、盲目程度ではすまなくなる。
だから、こわい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

●欲望の根源

かつて、私もそうだった。あなたもそうだった。が、今、子どもの心の中では、猛烈な「性的エネ
ルギー」(フロイト)が、わき起こっている。「生的エネルギー」(ユング)でもよい。

 最近の研究によれば、脳の中の視床下部というところが、どうやらそういった信号の発信源
ということがわかってきた(サイエンス誌・08年)。その視床下部からの命令を受けて、ドーパミ
ンという脳間伝達物質が放出される。

 このドーパミンが、脳の中の線条体(報酬と行動要求に関する中枢部)というところを刺激す
ると、猛烈な(欲望)となって、その子ども(もちろんおとなも)を支配する。ふつうの反応ではな
い。最終的には、そうした欲望をコントロールするのが、大脳の前頭前野(理性の中枢部)とい
うことになる。が、「意志の力だけで、こうした衝動を克服するのはむずかしい」(N・D・ボルコ
フ)という。

 線条体が刺激を受けると、「あなたは、目的達成に向けた行動を起こせというメッセージを受
けとる」(同誌)。
 もちろん欲望といっても、その内容はさまざま。
食欲、性欲、生存欲、物欲、支配欲に始まって、もろもろの快楽追求もその中に含まれる。
わかりやすく言えば、脳の中で、どのような受容体が形成されるかによって決まる。

たとえばアルコール中毒患者やニコチン中毒患者は、それぞれ別の受容体が形成されること
がわかっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●これから……

まず念頭に置くべきことは、私たちがもっている常識というのは、絶対的なものではないという
こと。
その常識を疑う。
私やあなたがもっている常識を疑う。
いろいろな弊害が生まれてくれば、なおさら、である。

 その常識の基本となっている意識。
その意識を変えることは可能である。
その一例として、冒頭で、中国人夫婦の話をした。
つまりこの話の中に、問題を解くヒントが隠されている。

 方法は、(1)常識のおかしさに気づくこと。
つぎにそれに気づいたら、(2)意識を変える。
そのために自分の心を風通しのよいものにする。
視野を広くして、他人に考えに進んで耳を傾ける。
そういうことをわかってもらいため、冒頭で、忠臣蔵の話をした。
水戸黄門や釣りバカ日誌の話をした。

 同じように、私たちが今もっている家族観、育児観をながめなおしてみてほしい。
意識が変われば、ものの見方が180度変わるということもよくある。
同時に常識も、変わる。

 今日の講演では、つぎの2つの焦点をしぼって、みなさんに伝えたい。

(1)家族主義から新家族主義へ

 これから子どもたちに「家族」の話をするときは、そこに「祖父母」、つまりあなたがたの両親
の姿を加える。
これはあなた自身のためでもある。
それがわからなければ、今の自分の年齢に、子どもが社会人になるまでの年数を足してみれ
ばよい。
「子育てがやっと終わった」と思った瞬間、そこに待っているのは、あなた自身の「老後」であ
る。
今度は、あなた自身が、その「祖父母」ということになる。

が、今、みなさんは、自分の姿と「下」、つまり子どもの姿しか見ていない。
しかしそれではいけない。
「家族」というときは、そこには当然、「祖父母」も含まれなければならない。
これが第一。

(2)欲望至上主義の是正

 欲望の追求には、ブレーキをかけなけばならない。
そのひとつとして、「恋愛」を例にあげた。
恋愛はけっして、すべてに優先されるべきものではない。
たとえそれが身を焦がすほどつらいものであっても、だ。
あなたであってあなたでない部分が、あなたを操っているだけ。

 ニコチン中毒や、アルコール中毒と、メカニズム的には同じ。
脳の中の線条体というところに受容体ができ、そこで条件反射運動を起こしているだけ。
欲望の奴隷になってよいことは、何もない。

 で、恋愛をひとつの例としてあげた。
もちろん恋愛を、欲望と考えてよいかどうかという点については、異論、反論もあるだろう。
しかしフロイト学説に従うなら、「性的エネルギー」は、すべての欲望の原点になっている。
そういう意味で、ここで恋愛をひとつの例として、考えてみた。
つまり「恋愛」という仮面にだまされてはいけない。
それが正当化されるのを許してはいけない。

●では、どうすればよいのか

子育てには、多くの誤解がある。
たとえば「すなおな子ども」という言葉がある。
「すなおな子ども」というと、ほとんどの人は、親や先生に従順で、親や先生の言うことを、ハイ
ハイと聞く子どもと考えている。
が、これは誤解。

 心理学の世界で「すなおな子ども」というときは、情意、つまり「心」の状態と、顔の表情が一
致している子どもをいう。
うれしいときには、うれしそうな顔をする。
悲しいときには、悲しそうな顔をする。
そういう表現が、自然な形でできる子どもを、すなおな子どもとい。

 つぎにやさしさ。

●やさしさ

「やさしい子ども」というと、たとえば柔和でおだやかな子どもを想像する人は多い。
が、そういう子どもを、「やさしい子ども」とは言わない。
たとえばブランコに乗ってたとする。
そのとき別の誰かがやってきて、ブランコを横取りしたとする。
そういうとき、「いいよ……」と言って、ブランコを明け渡してしまう。
そういう子どもを、やさしい子どもとは言わない。
またそういう子どもほど、また別のところでさまざまな問題を引き起こすことがわかっている。

 では、どういう子どもをやさしい子どもというか。

 子どもにとって「やさしさ」というのは、より相手の立場になって考えられる子どもをいう。
たとえばショッピングセンターで、ものを買うときも、いつもだれかのことを考えて買う。
「これはお父さんの好物だね」とか、「これを買ってあげると、お兄ちゃんが喜ぶね」と。
もう少し専門的に言えば、より自己中心的でない子どもを、「やさしい子ども」という。
またそれができる子どもを、(子どもに限らないが)、人格の完成度の高い子どもという。
人格指数、つまり人格の完成度を知る、ひとつのバロメーターにもなっている。

 が、今日の話に関係しているのが、忍耐力ということになる。
その忍耐力も、よく誤解される。

●忍耐力

よく「うちの子はサッカーだと一日中しています。
忍耐力はあるはずです。
そういう力を、勉強に向けさせたいが、どうしたらいいか」と相談してくる親がいる。
しかしそういう力は、忍耐力とは言わない。
好きなことをしているだけ。

 子どもにとって、またおとなにとって忍耐力というのは、「いやなことをする力」をいう。
ためしに今日、家に帰ったら、子どもにこう言ってみるとよい。
「台所の生ゴミ、きれいにして」と。
「風呂場にたまった毛玉を掃除して」でもよい。

 そのときあなたの子どもが、何もためらわずそれができたとしたら、あなたの子どもは忍耐力
のある子どもということになる。

●では、どうするか

 それが冒頭にあげた話、ということになる。

 子どもは使う。
使って使って、使いまくる。
長い前置きと、回り道をしたが、これが結局は、この講演の結論ということになる。

『子どもは使う』。

 ついでに言うなら、古来、この日本では、子どもをかわいがるということは、子どもに楽をさせ
ることというふうに考える。
「楽」イコール、「楽しませること」と考える人も多い。
それに拍車がかかったのが、高度成長期に入ってから。
それこそ子どもが生まれると、蝶よ花よと手をかけた。
時間をかけた。
お金もかけた。

 その結果、私たちの時代で、「ドラ息子」「ドラ娘」と呼ばれる子どもたちがふえた。
ふえたというより、そういう子どもが主流になった。
すでに20年前には、そうでない子どもは、さがさなければならないほど、少なくなった。
今では、高校生にしても、親に感謝しながら通っている子どもはいない。
大学生でもいない。
お金をもらうときだけは、「ありがとう」と言う。
しかしそこまで。
中には、「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する子どももいる。
それもそのはず。

 現在の子どもたちは、そしてここにいるお父さん、お母さんは、子どものときから「勉強しろ」
「勉強しろ」と言われて育っている。
ある女子高校生は、親が「大学進学をあきらめてくれ」と言われたとき、それに猛烈に反発し
た。
「子どもを大学へやるのは、親の役目。借金でも何でもして、私を大学へやって!」と。

 今は、そういう時代である。
子どもが社会人になりとき、その支度金まで、親が出す。
結婚式の費用も、親が出す。
さらに子どもが生まれると、その生活費まで、援助する。

 私たち団塊の世代は、こういう現状を見ながら、こうこぼす。

「私たちは両取られの世代」と。
親に取られ、子どもたちに取られ……と。
なぜ、こうなってしまったか。
それが言うまでもなく、常識であり、意識であるということになる。
それがどのようなものであれ、一度はその常識を疑ってみる。
そして「おかしい」と感じたら、今度は意識を変えてみる。
そのヒントとして、今日は常識論、意識論にからめて、子どもをどう育てたらよいかを話してみ
た。

 これからの子育てのひとつの指針になればうれしい。
なぜならこの問題だけは、あなたがたみなさんの近未来の老後に直結する問題である。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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