最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

10年前(2002年)に書いた原稿byはやし浩司

2012-05-26 10:48:33 | 日記
●ぼたんインコ

 ぼたんインコの利口さには、驚く。
毎日、その連続。
4月初旬生まれとして、今日で1か月半。
ほぼ羽毛も生えそろい、成鳥らしくなってきた。

 たとえば言葉。
もちろん人間の話すような言葉はもっていない。
しかし鳴き方で、それを示す。

いやなとき……グアグア
餌を食べるとき……チチチ
何かしてほしいとき……ピーッ、ピーッ
探検するとき……ピヨピヨと小刻みに鳴く
怖いとき……グアーッ、グワーッ、ほか。

 好奇心は旺盛。
そのくせ気が小さい。
大きな物音を聞いたりすると、近くのタオルの中に首を突っ込んで小さくなっている。
犬のぬいぐるみが怖いらしく、5~6メートル離れたところからでも、それを見つけると、威嚇行動に出る。

 いっしょに遊んでやると、うるさそうに私を無視する。
そのくせ私が無視すると、ちょっかいを出してくる。
ワイフは、ときどき「人間の子どもみたい」と言う。
が、この段階では、人間の子どもより、はるかに利口。
ネットの記事などを読むと、成鳥で3歳前後の知能があるという。

 育て方をまちがえると、あの鋭いくちばしで、耳たぶをかみ切ることもあるそうだ。
が、今のところ、うちのインコは、やさしく穏やか。
頬や唇、それに耳たぶをかむときも、力を入れない。
やわかみ。
そのつど、ピーピーと鳴きながら、甘えてくる。

 何とかこのまま育ってくれればよいのだが……と願う点も、人間の子ども、そっくり。

●ニンニク

 この数日、何かにつけ、調子がよくない。
パソコンの前に座っても、ぼんやりしているだけ。
けだるい疲労感。
それなりに運動はしているが、その効果がない。

 ……ということで、昨日は、ビタミン剤を、いつもの2倍のんだ。
というか、こういうときは、ニンニクが効果的。
今日は土曜日だから、夜、そのニンニクを食べるつもり。
刺身にニンニクをつけ、それを白いご飯の上にのせる。
この浜松で覚えた、刺身の食べ方。
それを食べると、視界がパッと明るくなる。
視力がよくなるためではないか?

 一説によると、ニンニクには、興奮作用と鎮静作用が、同居しているそうだ。
それがあの独特の効果となって現われる。
学生時代に、どこかの科学者がそう話してくれたのを、覚えている。

 こういうときは、電子マガジンの編集するのがよい。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

*********************************
 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
 ===○=======○====================
 子育て最前線の育児論byはやし浩司     月  日号
 ================================  
 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━¬¬¬¬¬――――――――――――――
★★★★★★★★★HTML版★★★★★★★★★★★
マガジンを、カラー版でお楽しみください。(↓)をクリック!

http://bwhayashi2.fc2web.com/page021.html

●まぐまぐプレミアの購読料は、月額300円です。よろしかったら、お願いします。
********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****
★メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
★2009年、2010年、連続、カテゴリー部門・人気NO.1に選ばれました。

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【10年前(2002年)に書いた原稿より】

●このところ心配なこと

●日々の積み重ねが人格に●ボロを出すのが怖い

 子育てが終わると、どっとやってくるのが、老後。女房はこのところ、あちこち
のホームの案内書を取り寄せては、「この土地と家を売れば何とかなるわ」と、
そんなことばかり言っている。が、私が心配しているのは、そのことではない。

 五〇歳を過ぎると、それまでごまかしてきた持病が、表に出てくる。同時に気
力も弱くなり、自分をごまかすことができなくなる。実際、六〇歳を過ぎて、急に
ボロを出すようになった人はいくらでもいる。私の伯母もそうだ。世間では「仏
様」と呼ばれているが、このところそれを疑うような事件を、ひんぱんに起こして
いる。近所から植木バチを盗んできたり、無断駐車の車に、ドロ水をかけたりし
ている。いや、私は子どものころから伯母を知っているが、もともと伯母はそうい
う人だった。ただ年齢とともに、自分をごまかすことができなくなった。自分の
「地」を、そのままさらけ出している。

 日々の積み重ねが、月となり、その月が積み重なって、歳となり、そしてやが
てその人の人格を形成する。言いかえると、日々のささいな行為が、その人の
人格を作る。ウソをつかないとか、ゴミを捨てないとか、そういうことだ。人が見
ているとか、見ていないとかいうことは関係、ない。よく誤解されるが、人の言う
ことをきちんとやりこなす人のことを、まじめな人というのではない。まじめな人
というのは、自分の心の中で決めたことを、誠実に守ることができる人のことを
いう。そのまじめさが、結局は、その人の人格となる。

 さて私のこと。私は生まれが生まれだから、結構小ズルイ人間だった。戦後
の混乱期ということもあった。その場で適当に自分をごまかし、相手を動かすと
いうことを、割と日常的にしていた。ダマすというほど大げさなものではないが、
ウソも平気でついていた。友を裏切ったことも、何度かある。そういう自分を私
は知っているから、そういう自分が外へ出てきたらどうしようかと、そんなことを
よく考える。今はまだ気力もあって、そういう自分を内の世界に閉じ込めておくこ
とができる。が、これからはそうではない。あの伯母のように、ボロを出すように
なる。シッポを出すようになる。私はそういう「恐ろしさ」に気づくことが遅すぎた。
もっと若いころに、それに気づくべきだった。そんな思いが、このところ日増しに
強くなっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●家族は自然体で…

●家庭はいこいの場●信頼することが大切

 家族は、気楽に行こうよ。鼻クソをほじりたかったら、ほじればいい。おならを
したかったら、すればいい。あいさつにしても、したければすればいい。したくな
かったら、しなくてもいい。家族はいこいの場。みんなが信頼しあい、守りあい、
助けあえば、それでいい。気をつかわないから、家族って、言うんだよね。

 そりゃあ、食事だって、みんなが一緒にできれば、それにこしたことはない。し
かしね、みんな生活時間が違うだろ。公務員の人はともかくも、民間で働いてい
る人は、みんな働く時間帯が違うよ。ぼくなんか、毎晩午前二時、三時まで仕事
しているよ。だから朝ご飯だって、一緒に食べたことがない。女房は女房で、毎
晩のようにいろんな会合があるし…。無理なんだよ。一緒に食事をするというこ
とが…。

 要するに家族は「形」ではない。「中身」なんだ。そして大切なことは、それぞ
れが相手の生活を認め、それを理解し、受け入れることなんだ。ただね、子ども
が幼いうちは、できるだけ家族はみんな、行動をともにしたほうがいいよ。子ど
もはそういう行動を通して、「家族」というものを学ぶからね。それにね、子どもと
いうのはね、絶対的な安心感のある家庭で、心をはぐくむよ。「絶対的」というの
は、疑いをいだかないという意味さ。たとえば夫婦げんかにしても、それがある
一定のワクの中でなされているなら、問題はないよ。しかしね、いくらうわべをと
りつくろっていても、夫婦の間が冷えきっていたりすると、その影響は子どもに
出てくるよ。よく「離婚は子どもに影響を与えますか?」と聞く人がいるけど、離
婚そのものよりも、その離婚に至る騒動が、子どもの心に深刻な影響を与える
よ。だから離婚するにしても、騒動は最小限に、ね。

 そうそうあと片づけにしてもね、もううるさく言わないこと。ただね、あと片づけ
とあと始末は違うからね。あと始末はきちんと子どもにさせようね。たとえば食
後、食器は、シンクへ集めるとか。冷蔵庫から出したものは、元に戻させるとか
…。日本人はこのあと始末が、苦手な国民だよ。子どものときから、そういうこと
は教えられていないからね。

 子どもはね、親が必死になって家族を守ろうとしている姿を見ながら、家族の
大切さを理解するよ。そういう姿は見せておこうね。…で、あなたも今日からこう
言ってみてはどうかな。「家族を大切にしようね」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子育ての「カラ」を破る

●子どもの中に、その子ども(孫)を見る

 子どもに子ども(あなたから見れば孫)の育て方を教えるのが子育て。それは
前にも書いたが、これにはもう一つの意味が含まれる。あなたは子どもの中に
孫、さらにその孫の中にそのまた孫を見ることによって、あなたを包む、「カラ」
を破ることができる。こういうことだ。

 今あなたは子育てをしながら、ひょっとしたら、「うちの子さえよければ」と考え
ているかもしれない。「世間はともかくも、とりあえずうちの子のことだけでも、う
まくいけばそれでいい」と。しかしもしあなたが子どもの中に孫、さらにその孫の
中にそのまた孫を見ることができるようになると、この考えはまちがっていること
を思い知らされる。単純な計算でも、夫婦(二人)が、それぞれ二人ずつの子ど
もを産んだとすると、二七代目には、その数は一億三〇〇〇万人を超える。ほ
ぼ今の日本の人口と同じになる。一世代を三〇年とすると、二七掛ける三〇
で、八一〇年。つまり八一〇年後には、日本人のすべてがあなたの子孫という
ことになる。

 あなたは今、自分の子どものことを心配する。しかし孫が生まれれば、あなた
はその孫のことを心配するだろう。もしあなたに永遠の命があるなら、あなたは
そのまた孫のことを心配するだろう。…そういうふうに考え始めると、今、あなた
が「自分の子さえよければ」という考えなど、どこかへ吹っ飛んでしまうはずだ。
そしてその時点で、あなたは、自分の子どものことは当然としても、同時にこの
社会全体、日本全体、世界全体の問題を考えることも重要だと気づく。つまりそ
れがここで言う「カラ」を破るということになる。
 
実のところ、私もこの問題では悩んできた。教育論を論じながら、いつも心のど
こかで(自分の子ども)と、(他人の子ども)を区別していた。自分の子どもに言う
言葉と、他人の子どもに言う言葉が、違っていた。それは実に心苦しいジレンマ
だった。人間、表ズラと内ズラを使い分けて生きるのは、たいへんなことだ。だ
からある日から、それをやめた。やめて、自分の子どもにも、他人の子どもにも
本音を語るようにした。しかしそれが本当にできるようになったのは、自分の子
どもの中に孫、さらにはそのまた孫を見ることができるようになったときである。
子どもに子ども(あなたから見れば孫)の育て方を教えるということには、そうい
う意味も含まれる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●価値観の崩壊

●原因は、子どもの受験戦争?

 こんな調査結果がある。日本青少年研究所が、九七年に調査した結果だが、
それによれば、日本の高校生の八五%が、「親に反抗するのは、本人の自由
でよい」と考えているという。(これに対して、アメリカ…一六%。中国…一
五%)。また日本の高校生の一五%のみが、「親に反抗してはならない」と答え
ているという。(アメリカ…八二%。中国八四%)。わかりやすく言うと、「親に反
抗してよい」と考えている高校生が日本ではダントツに多く、一方、「反抗しては
ならない」と考えている高校生が、これまた日本ではダントツに少ないということ
になる。

 こういう調査結果をふまえて、「日本人の個人主義化、価値観の相対化(が進
んでいるとみることができる」(金沢学生新聞社説)と解説する人がいる。おお
かたの評論家たちも、ほぼ同じような線で、この調査結果をながめている。しか
しこの視点だと、「なぜ日本の高校生だけがそうなのか」という説明がつかない
ばかりか、合理主義が発達していると思われるアメリカで、「なぜ逆の結果が出
るのか」ということについても、説明がつかなくなってしまう。つまりこの視点は
正しくない。

 私はある時期、幼稚園の年中児から高校三年生までを、たった一日で教えて
いたことがある。幼稚園で手にする給料だけでは生活ができなかったので、午
後は自由にしてもらい、学習塾や進学塾でルバイトをした。自宅で家庭教師もし
た。そういう経験から、子どもたちが受験期を迎えるころになると、質的に急速
に変化するのを知っている。それまでは良好な人間関係を続けていても、試験
だ、平均点だ、進学だとやりだすと、とたんに私と生徒の関係が破壊されるの
である。

 言い換えると、結果として日本の高校生たちが、「個人主義化し、価値観の相
対化が進む」としても、それは「進んだ」結果にそうなったのではなく、「家族の
きずな」が破壊された結果としてそうなったと見るべきではないのか。それぞれ
の家庭を見ても、子どもが小学生くらいの間には、どの家庭も、実になごやかな
家庭を築いている。が、子どもが受験期を迎えるようになると、とたんにある種
の緊張感が家庭を襲い、その緊張感が、家族そのものを破壊する。わかりやす
く言えば、「勉強しろ!」と怒鳴る、その声が子どもの心を粉々に破壊していく。
その結果が、冒頭にあげた、「八五%」であり、「一五%」ということになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司 

私の人生、そして老後

●あるべき私の老後●前向きに生きる人生

 新しい人に出会うのは、この歳になっても、楽しいものだ。それはそれだが、
ただ、若いときと違って、この歳になると、「これから」という部分がない。「これ
から友情を育てよう」とか、「これから一緒に何かをしよう」という気持ちは弱い。
そのかわり、「この人は何をしてきた人?」という視点で、その人を見る。

 昨年一年間だけでも、すばらしい人と、何人か出会った。八〇歳にもなろうと
いうのに、乳幼児の医療費問題に取り組んでいる人、教育評論に取り組んでい
る人、さらには私立小学校を建てようと、あちこちを飛び回っている人など。どの
人も、年齢に関係なく、目が輝いていた。その中の一人に、恐る恐る私はこう聞
いた。「あなたをそこまでかきたてているエネルギーは何ですか?」と。私など、
実にずるい人間だ。こういうふうに原稿を書かせてもらいながら、「どうしてこの
私が日本の教育の心配をしなければならないのか」というジレンマといつも、戦
っている。退職金も年金もない。天下り先もない。社会の恩恵などとは、まったく
無縁の世界に住んでいる。が、こうした人たちは、自分の人生を前向きに生き
ている。その人はこう答えてくれた。「やめる理由など、ないからです」と。

 実際、そういう人に出会うと、「ご苦労様です」と言いたくなる。もちろん畏敬
(いけい)の念をこめて、である。そして我が身を振り返りながら、自分のつまら
なさに驚く。何かをしてきたようで、結局は私は何もできなかった。心のどこか
で、いつも「お金さえ手に入れば、明日にでも引退できるのに」と、そんなことば
かり考えてきた。土日も、好きな山遊びをするだけ。ヒマなときは、ビデオを見た
り音楽を聞いたりするだけ。つまらない人間になって、当然だ。

 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは老人たちのかっこうのたまり
場になっている。天気のよい日は、毎日七~八人の老人たちが、何かをするで
もなし、しないでもなし、夕方暗くなるまで、イスに座って話し込んでいる。その
季節になると、横の竹やぶの竹の子を、一日中監視している。一見、のどかな
風景だが、本当にそれは、あるべき老後の姿なのか。そうであってよいのか。
やがて私も彼らの仲間に入るのだろうが、いつか誰かが、私を「何をしてきた
人?」という目で見たとき、私はそれに耐えられるだろうか。それを思うと、いて
もたっても、おられなくなる。


 


子どもと歩くときは、子どものうしろを歩く。そういうリズムが、子どもの自立心を養う。子どもの「やる気」「た
くましさ」を引き出すコツは、子どものリズムで親が生活するということ。無理にぐいぐいと引っ張れば引っ張
るほど、子どもには依存心が生まれ、それが他方で、子どものやる気をうばい、ひ弱な子どもにする。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子育てリズム論

●子どもの心を大切に●子どものうしろを歩こう

 子育てはリズム。親子のリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍
子で、子どもが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同
時に演奏すれば、それはもう、騒音でしかない。

 あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い出してみてほしい。そのとき①
あなたが、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、それでよし。
しかし②子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているよ
うであれば、要注意。今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶…というこ
とにもなりかねない。このタイプの親ほど、親意識が強い。「うちの子どものこと
は、私が一番よく知っている」と豪語する。へたに子どもが口答えでもしようもの
なら、「親に向かって、何だその態度は!」と、それを叱る。そしておけいこ塾で
も何でも、親が勝手に決める。やめるときも、親が勝手に決める。子どもは子ど
もで、親の前ではいい子ぶる。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できの
よい子」と錯覚する。が、仮面は仮面。長くは続かない。

 ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。父「お前は、パパに
何をしてほしいのか」とか、子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」とか。この
段階で、互いにあいまいなことを言うのを許されない。それだけに、実際そのよ
うに聞かれると、聞かれたほうは、ハッとする。緊張する。それはあるが、しかし
日本人よりは、ずっと相手の気持ちを確かめながら行動している。

 リズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときから、そして子どもがおとなに
なるまで続くということ。その途中で変わるということは、まず、ない。ある女性
(三二歳)は、こう言った。「今でも、実家へ帰るのが苦痛でなりません」と。別の
男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこ
かでそのリズムを変えなければならないが、リズムは、その人の生い立ちや人
生観と深くからんでいるため、変えるのも容易ではない。しかし、変えるなら、早
いほうがよい。早ければ早いほど、よい。もしあなたが子どもの手を引きなが
ら、子どもの前を歩いているようなら、今日から、子どものうしろを歩いてみると
よい。たったそれだけのことだが、あなたは子育てのリズムを変えることができ
る。いつかやがて、すばらしい親子関係を築くことができる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私の自由論

●自由はそれ自体、たいへんなこと

 アメリカの田舎町でタクシーに乗る。見るとふつうの乗用車。メーターはついて
いない。話を聞くと、運転手はこう言った。「(タクシー会社を経営している)女房
が、ほかのところへ行っているから、私が代理で来た」と。で、料金は、話し合っ
てその場で決めた。「一人で一〇ドル。二人で二〇ドル」と。…これが自由。
 
週日は市内に住み、週末は近くの山の中で暮らすという生活が、今年で七年目
になった。その山での生活、不便であることが当たり前。水道とて、山からの涌
き水をパイプで引いている。そのため、大雨が降れば、すぐパイプがつまる。そ
のたびに雨ガッパを着て、清掃にでかける。電気とて安心してはおられない。雷
が落ちるたびに停電。先日は電柱の分電器の中に、アリが巣を作り、それで停
電した。…これが自由。

 私の友人の弟は、四二歳のとき、それまでの会社勤めをやめ、単身マレーシ
アへ渡った。そしてそこで中古のヨットを買い、私がその話を聞いたときは、クア
ラルンプールで知り合ったフランス人女性と、インド洋を航海しているということ
だった。…これが自由。

 自由とは「自らに由る」こと。しかしこの日本。その自由がますます小さく、貧
弱になっている。社会は息苦しいほどまでに管理され、どんな小さな仕事をする
にも、許可だの認可だの、それに資格がいる。が、人は管理されればされるほ
ど、民衆は生きる力をなくす。たくましさをなくす。少し前だが、九州の北部で断
水騒ぎがあったときのこと。その年は、例年になく雨が少なかった。一人の住民
が、テレビに向かってこう叫んだ。「断水したのは、行政の怠慢が原因だ」と。別
に行政の肩をもつわけではないが、断水したのは行政の責任ではない。ちょう
どそのころ私は、自分の山荘に水を引くため、炎天下、数百メートルのパイプを
地下に埋める工事を、一人でしていた。私は思わず、「甘ったれるな!」と叫ん
でしまった。

 自由に生きることは、それ自体、たいへんなことだ。友人の弟にしても、想像
するようなロマチックな航海ではないことは、私にもわかる。いや、「私は自由
だ」と思っているあなたでも、本当は自由でないかもしれない。

 たいていの人は自由というのは、簡単に、しかもタダで手に入るものだと思っ
ている。しかしこれはとんでもない誤解。自由であることは、それ自体が、命が
けの戦いなのだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●よい先生・悪い先生

●子どもたちが無意識のうちに判断している

 私のような、もともと性格のゆがんだ男が、かろうじて「まとも?」でいられるの
は、「教える」という立場にあるからだ。子ども、なかんずく幼児に接していると、
その純粋さに毎日のように心を洗われる。何かトラブルがあって、気分が滅入っ
ているときでも、子どもたちと接したとたん、それが吹っ飛んでしまう。よく「仕事
のストレス」を問題にする人がいる。しかし私の場合、仕事そのものが、ストレス
解消の場となっている。

 その子どもたちと接していると、ものの考え方が、どうしても子ども的になる。
しかし誤解しないでほしい。「子ども的」というのは、幼稚という意味ではない。
子どもは確かに知識は乏しく未経験だが、決して、幼稚ではない。むしろ人間
は、おとなになるにつれて、知識や経験という雑音の中で、自分を見失ってい
く。醜くなる人だっている。「子ども的である」ということは、すばらしいことなの
だ。私の場合、若いときから、いろいろな世界をのぞいてきた。教育の世界や
出版界はもちろんのこと、翻訳や通訳の世界も経験した。いくつかの会社の輸
出入を手伝ったり、医療の世界もかいま見た。しかしこれだけは言える。園や
学校の先生には、心のゆがんだ人は、まずいないということ。少なくとも、ほか
の世界よりは、はるかに少ない。

 そこで「よい先生・悪い先生」論である。いろいろな先生に会ってきたが、視点
が子どもと同じ位置にいる先生もいる。が、中には高い位置から子どもを見おろ
している先生もいる。妙に権威主義的で、いばっている。そういう先生は、そう
いう先生なりに、「教育」を考えてそうしているのだろうが、しかしすばらしい世界
を、ムダにしている。このタイプの先生は、美しい花を見て、それを美しいと感動
する前に、花の品種改良を考えるようなものだ。昔、こんな先生がいた。ことあ
るごとに、「親のしつけがなっていない」「あの子はダメな子」とこぼす先生であ
る。決して悪い先生ではないが、しかしこういう先生に出会うと、子どもから明る
さが消える。

 そこでよい先生かどうかを見分ける簡単な方法。休み時間などの様子を、そっ
と観察してみればよい。そのとき、子どもたちが先生の体にまとわりついて、楽
しそうにはしゃいでいれば、よい先生。そうでなければ、そうでない先生。よい先
生かどうかは、実は子どもたち自身が、無意識のうちに判断しているのである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●封建制度の清算を

 「うちのダンナなんかサア、冷蔵庫から牛乳出しても、その牛乳を冷蔵庫に戻
すことしないんだからサア。だからあっという間に牛乳も腐ってしまう」と。ある
日女房の友人が、我が家へやってきて、そう言った。何でもそのダンナ様は、
結婚してからこのかた、もう三〇年近くになるが、トイレ掃除はおろか、トイレット
ペーパーの差し替えすらしたことがないという。そこで私が「ペーパーがないと
きはどうするのですか?」と聞くと、「何でも、『オーイ』で、すんでしまうわサア」
と。

 日本女性会議の調査によると、部屋の掃除をまったくしない夫(五六%)、洗
濯をまったくしない夫(六一%)、炊事をまったくしない夫(五四%)ということだ
そうだ。育児をまったくしない夫も、三〇~四〇%もいる(二〇〇〇年)。この日
本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもについて言うな
ら、「勉強している」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。しかしこれは
世界の常識ではない。

 ニュージランドの留学生たちがこう教えてくれた(一九九九年)。ニュージーラン
ドでは、午後三時に小学校は終る。そのあと子どもたちはすぐ家へ帰り、夕食
がすむまで、家事を手伝う。それが習慣になっている、と。料理、炊事だけでは
ない。掃除から始まって、家の修理までする。そこで私が(聞くのもヤボだと感じ
たので……)恐る恐る、「学校の宿題があるときはどうするのか」と聞くと、皆、こ
う言った。「食事がすんでからだ」と。

 こうした日本人の背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」という、日本独特
の男尊女卑社会。「内助の功」という言葉すら残っている。内助の功というの
は、「夫が仕事以外のことを気にかけたりすることなく、存分の働けるよう、しっ
かりと家を守り、夫を陰で、また積極的に助ける妻の働き」(日本語大辞典)とい
うことだそうだ。そしてそのさらに背景にあるのが、これまた日本独特の出世主
義。封建時代には、いかにして武士社会の階段をのぼるかが、何にもまして優
先された。家制度や家督制度、さらには長子相続制度も、封建制度を背景にし
て生まれた。

 話がそれたが、こういう風潮の中で、「男が家事などするものではない」とい
う、ゆがんだ男性観が生まれた。私も子どものころ、台所へ入ると母によく叱ら
れた。「男がこういうところへ来るもんじゃない」と。が、この風潮は、今、急速に
崩壊しつつある。私が一九九八年に浜松市内で調査したところ、二〇~三〇代
の若い夫婦の場合、三五%の夫が日常的に家事を手伝っているのがわかっ
た。まったく手伝っていない夫も、同じく三五%。残りの三〇%は、ときどき手伝
うということだった。先の日本女性会議の数字(これは全体)と比べてみても、
若い夫婦が変化しているのがわかる。

 さて子どもたち。子どもには家事を手伝わせる。男も女もない。あるはずもな
い。しかも本来、家事は、勉強や仕事より大切なものだ。家事をするということ
は、自立をするということ。人間は過去何一〇万年もの間、そうしてきた。ここ五
〇〇年や一〇〇〇年くらいの制度で変わるはずもない。むしろ日本の制度は、
長い封建制度の時代を経て、ゆがんでいる。それを清算するのも、これからの
大きな仕事ではないのか。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●宗教と教育

 難解な仏教論も、教育にあてはめて考えると、突然わかりやすくなる。たとえ
ば親鸞の「回向(えこう)論」。「(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや」※
という、あの有名な言葉である。これを仏教的に解釈すれば、「念仏を唱えるに
しても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているに過ぎない。だ
から信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から
真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(石田瑞麿氏)と続く。

 こうした解釈を繰り返していると、何が何だかさっぱりわからなくなる。要する
に親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前ではな
いか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほ
ど、浄土へ行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。そこでこう考えたらど
うだろうか。「頭のよい子どもが東大へ入るのは当たり前のことだ。頭のよくない
子どもが、東大へ入るところに意味がある。またそこに人間が人間として生きる
ドラマ(価値)がある」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。「問題のない子
どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。しかし問
題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育と
いう」と。私にはこんな経験がある。

 ずいぶんと昔だが、私はある宗教団体を批判する原稿を、ある雑誌に書い
た。が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口をいい
ふらし始めた。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方
(?)は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が
地獄へ落ちないように祈ってやるのが、愛ではないのか。慈悲ではないのか。
私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には
「バカヤロー」と悪態をついて、教室を出ていく子どももいる。

 しかしそういうときでも、私は、「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦
労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらいのことは思
う。いわんや神や仏をや。批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄
へ落とすようななら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、
地獄とは何か? 悪いことをして、失敗し、問題のある子どもをもつことか。もし
そうなら、それは地獄ではない。

 私はときどき、こう思う。釈迦にせよ、キリストにせよ、彼らはもともと教育者で
はなかったか、と。そういう視点で考えると、それまでわからなかったことが、突
然、スーッとわかることがある。そしてそういう視点で見ると、おかしな宗教とそ
うでない宗教を区別することができる。たとえば日本でも一〇本の指に入るよう
な大きな宗教団体が使っているテキストには、こんな記述がある。

 「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、
身体障害者が多いのは、そのためだ」と。この一文だけをとっても、この宗教は
まちがっていると断言してもよい。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだ
ら、どう思うだろうか。あるいはその団体には、身体に障害がある人がいないと
でもいうのだろうか。宗教も教育も、常識で成りたっている。その常識をはずれ
たら、宗教は宗教ではなしい、教育は教育でなくなる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私の主義、あなたの主義

 私は生涯において、ただの一度も、借金をしたことがない。「生涯」というのも
おおげさだが、そういうふうに意識したのは、学生時代だ。お金がなくなると、私
は下宿の朝夕の食事だけで生き延びた。いや、一度だけ、一〇円玉を借りたこ
とがある。幼稚園で親に緊急の電話をしなければならなくなったときのこと。同
僚の先生にそれを借りた。翌日、菓子箱をもって返しにいくと、その先生は目を
白黒させて驚いた。同じように支払いについても、必ず即日、もしくは遅くとも一
週間以内に支払うようにしている。私にとって、借金というのは、そういうもの
だ。
 
私には私の主義がある。「主義」というと、一見、完成された人格のように思う
人がいるかもしれない。が、実は、自分の弱さをごまかすための道具に過ぎな
い。私について言うなら、私という人間は、もともと小ずるい人間で、小心者。そ
んな私が借金に慣れたら、それこそズルズルと深みにはまってしまうに違いな
い。それを私は心のどこかで知っている。だから借金はしない。いや、借金をす
る重圧感に耐えられないのかもしれない。私はそういう重荷を背負うのがいや
だ。明日、借金を返さねばならないと負担に思うくらいなら、今日、腹をすかして
いたほうがよい。

 が、その主義をもつことは、よいことだ。「人にものを借りない」「拾ったものに
は、手をつけない」「ウソをつかない」など。こうした主義をいくつかもち、そのと
きどきの行動規範にする。仏教にも八正道(はっしょうどう)という言葉がある。
正見(しょうけん)、正思惟、正語、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精
進、正念、正定(しょうじょう)の八つをいう。悟りにいたるための、基本的な実践
徳目と考えるとわかりやすい。要するに人間は迷う。そのつど迷う。しかしそう
いうとき、「主義」として、自分の行動規範を決めておくと、その迷いを少なくする
ことができる。仏教で言えば、悟りへの近道ということになる。そういうことは生
活の場で、よく経験する。こんなことがあった。

 一本一〇〇円のペンを、七本買った。七本買って、一〇〇〇円札を出した。
店員がレジを叩いているとき、私はどこかぼんやりとしていた。が、受け取った
おつりを見ると、三百数十円……。「おっ」と思って、一、二歩、歩いた。「おつり
が多い」と、心のどこかで感じた。と、同時に私の中に組み込まれたプログラム
が作動した。あとは自動的に振り向き、レジに戻ってこう言った。「おつりが多い
ですよ」と。気がつくとそこに店長も立っていて、その店長がこう言った。「今、一
割引です。最初に言っておけばよかったですね」と。とたん、私の顔がなごん
だ。店員の顔もなごんだ。そして皆が微笑んだ。
 
そこで私は考える。もしあのとき、あのまま私が店を出たら、私は「得をした」と
思ったかもしれない。しかしたった一〇〇円で、私は心を売ったことになる。一
方、正直に言ったときのそう快感は、とても一〇〇円で買えるものではない。ど
ちらが得か……? 日々の生活が月となり、それがやがて年となり、その「人」
をつくる。その道しるべとなるのが、主義だ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●常識は偏見のかたまり

●ふえるホームスクール●おけいこ塾は悪?

 アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が十八
歳のときにもった偏見のかたまりである」と。

●学校は行かねばならぬという常識…アメリカにはホームスクールという制度
がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという
制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。日本では、不
登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけで
も九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一
五%前後の割合でふえ、〇一度末には二〇〇万人になるだろうと言われてい
る。それを指導しているのが、「LIF」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教
育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合
同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がり
をみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している。

●おけいこ塾は悪であるという常識…ドイツでは、子どもたちは学校が終わる
と、クラブへ通う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学
校を出る。ドイツでは、週単位で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども
自身が決めることができる。そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算
数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中にあって、たいていは無
料。学外のクラブも、月謝が千円前後。こうした親の負担を軽減するために、ド
イツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日本円で約一四〇〇〇円)の「子
どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長二
七歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分
の趣向と特性に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなど
があるが、学外教育に対する世間の評価は低い。ついでにカナダでは、「教師
は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をもたない」という
制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら
親には教えない。

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っている
ことでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あのとき母だけでも…

●問題の根源は深い●封建時代の亡霊と戦う

 あのとき、もし、母だけでも私を支えていてくれてていたら…。が、母は「浩ちゃ
ん、あんたは道を誤ったア」と言って、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。私
が「幼稚園で働いている」と言ったときのことだ。

 日本人はまだあの封建時代を清算しいていない。その一つが、職業による差
別意識。この日本には、よい仕事(?)と悪い仕事(?)がある。どんな仕事がそ
うで、どんな仕事がそうでないかはここに書くことはできない。が、日本人なら
皆、そういう意識をもっている。先日も大手の食品会社に勤める友人が、こんな
ことを言った。何でもスーパーでの売り子を募集するのだが、若い女性で応募し
てくる人がいなくて、困っている、と。彼は「嘆かわしいことだ」と言ったので、私
は彼にこう言った。「それならあなたのお嬢さんをそういうところで働かせること
ができるか」と。いや、友人を責めているのではない。こうした身勝手な考え方
すら、封建時代の亡霊といってもよい。目が上ばかり向いていて、下を見ない。
「自尊心」と言えば聞こえはいいが、その中身は、「自分や、自分の子どもだけ
は違う」という差別意識でしかない。が、それだけではすまない。

 こうした差別意識が、回りまわって子どもの教育にも暗い影を落としている。こ
の日本にはよい学校とそうでない学校がある。よい学校というのは、つまりは進
学率の高い学校をいい、進学率が高い学校というのは、それだけ「上の世界」
に直結している学校をいう。

 「すばらしい仕事」と、一度は思って飛び込んだ幼児教育の世界だったが、入
ってみると、事情は違っていた。その底流では、親たちのドロドロとした欲望が
渦巻いていた。それに職場はまさに「女」の世界。しっと縄張り。ねたみといじ
めが、これまた渦巻いていた。私とて何度、年配の教師にひっぱたかれたこと
か!
 
 母に電話をしたのは、そんなときだった。私は母だけは私を支えてくれるもの
とばかり思っていた。が、母は、「あんたは道を誤ったア」と。その一言で私は、
どん底に叩き落とされてしまった。それからというもの、私は毎日、「死んではだ
めだ」と、自分に言って聞かせねばならなかった。いや、これとて母を責めてい
るのではない。母は母として、当時の常識の中でそう言っただけだ。

 子どもの世界の問題は、決して子どもの世界だけの問題ではない。問題の根
源は、もっと深く、そして別のところにある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●学校神話という亡霊の陰で

(先生は忙しすぎる)(教師は教育の場で勝負して、教師)

 「携帯電話のおかげで夜中でも、メールが入るようになった」と、ある小学校の
教師がこぼした。「少し前までは電話だったが、電話のほうは断ることができる
ようになったが……」とも。それもたいした内容ではない。「娘がセーターを学校
に忘れた」とか、「息子が学校の帰りに、寄り道をした」とか、など。「メールには
まとめて返事を出すことにしていますが、それでも毎晩一時間ほど、そのため
に時間をとられます」と。

 少し前、ある総合病院の外科部長の息子(高一)と、こんな話をしたことがあ
る。「君のお父さんは、患者さんの生死を毎日のようにみている。担当の患者さ
んが急変したら、夜中でも病院へかけつけるのだろうね」と私。するとその息子
氏はこう言った。「行かないよ。居留守を使ったり、学会に行っているとウソを言
うよ」と。私が驚いていると、さらにこう言った。「そんなことをすれば、翌日の手
術にさしさわりが出るから」と。

 私はこの話を聞いたとき、あの美空ひばりの話を思い出した。ひばりが皆と一
緒に、カラオケバーにでかけたときのこと。まわりにいた人たちが「一曲歌ってく
ださい」とせがんだ。が、そのときひばりはこう言ったという。「私はお金をもらっ
て歌うプロです。ここでタダで歌ったら、お金を出して私の歌を聞きにきてくれる
お客さんに、申し訳ありません」と。

また二〇〇〇年の終わり、カナダのバンクーバーから来た小学校の校長が、こ
んな話をしてくれた。「カナダでは、教師は授業には責任をもつが、授業を離れ
たら、父母や子どもとのかかわりを一切もたない。父母には自宅の住所も、電
話番号も教えない。親がその教師と連絡をとりたいときは、学校へ連絡してもら
う。そのあと教師のほうからその親に電話をするようにしている」と。

 いくつか回り道をしたが、さて冒頭の話。今、学校の先生たちは、本当に忙し
い。忙しすぎる。活発ざかりの子どもを相手に、一時間本気で授業すれば、若
い先生でもかなり疲れる。二時間続けたら、それこそヘトヘト。つまりそれだけ
体力と気力を使う。教育というのは、そういうものだ。それをまず世間が知るべ
きだ。そして教師が教師であるのは、「教育の場」で教えるから教師なのだ。そ
れを雑用また雑用、進学指導に家庭教育相談、さらには、しつけに心理相談ま
で押しつけて、何が教育だ! 体がもつはずがない。つまり忙しくなればなるほ
ど、教師は肝心の教育の場で手を抜くしかない。

 現に今、中学校の教師の大半は、教科書とチョークだけで授業に臨んでい
る。臨まざるをえない。ある教師はこう言った。「教材研究? そんな時間がどこ
にありますか? 先日も私の学校でスプレーによる落書き事件がありました。そ
の処理に、丸三日がつぶれました」と。

 教師は教育のプロである。あの外科部長のように、まず教育に責任をもつ。ま
たもてるような環境を用意してあげなければならない。現にカナダではそうして
いる。いや、学校で何か事件があるたびに、憔悴しきった校長が涙まじりに頭を
さげる。マスコミや世間は鬼の首でも取ったかのように学校を責めるが、しかし
学校側にそこまでさせて、よいものか。そのおかしさがわからないほど、日本に
は学校万能主義、学校神話がはびこっている。その亡霊に苦しんでいるのは、
結局は最前線に立たされる、現場の教師たちなのだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●性教育の原点

(男も胎内では女だった)(偏見や誤解、差別からの解放)

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でも特に印象に
残っているのが、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協
会の会長をしていた。そのベッテルグレン女史はこう言った。「フリーセックスと
は、自由にセックスをすることではない。フリーセックスとは、性にまつわる偏見
や誤解、差別から、男女を解放することだ」「特に女性であるからという理由だ
けで、不利益を受けてはならない」と。それからほぼ三〇年。日本もやっとベッ
テルグレン女史が言ったことを理解できる国になった。

 話は変わるが、先日、女房の友人(四八歳)が私の家に来て、こう言った。「う
ちのダンナなんか、冷蔵庫から牛乳を出して飲んでも、その牛乳をまた冷蔵庫
にしまうことすらしないんだわサ。だから牛乳なんて、すぐ腐ってしまうわサ」と。
話を聞くと、そのダンナ様は結婚してこのかた、トイレ掃除はおろか、トイレット
ペーパーすら取り替えたことがないという。私が、「紙がないときはどうするので
すか?」と聞くと、「何でも『オーイ』で、すんでしまうわサ」と。

 日本女性会議の調査によると、「家事は全然しない」という夫が、まだ六〇%
前後いるという(二〇〇〇年)。年代別の調査ではないのでわからないが、五
〇歳以上の男性について言うなら、ほとんどの男性が家事をしていないのでは
……? この年代の男性は、いまだに「男は仕事、女は家事」という偏見を根強
くもっている。男ばかりの責任ではない。私も子どものころ台所に立っただけ
で、よく母から、「男はこんなところへ来るもんじゃない」と叱られた。女性自ら
が、こうした偏見に手を貸していた。が、その偏見も今、急速に音をたてて崩れ
始めている。私が九九年に浜松市内でした調査では、二〇代、三〇代の若い
夫婦についてみれば、「家事をよく手伝う」「ときどき手伝う」という夫が、六五%
にまでふえている。欧米並みになるのは、時間の問題と言ってもよい。

 実は私は、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は
……、女は……」というものの考え方を日常的にしていた。洗濯や料理など、し
たことがない。たとえば私が小学生のころには、男が女と一緒に遊ぶことすら
考えられなかった。遊べば遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか
私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出がまったく、ない。

 が、その後、いろいろな経験で、私がまちがっていたことを思い知らされた。
が、決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。つまり人間は、
男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だという事実だ。つまりある時期までは
人間は皆、女で、発育の過程でその女から分離する形で、男は男になってい
く、と。このことは何人ものドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかっ
たのですか?」と笑った。正確には、「妊娠3か月までは男女の区別はなく、そ
れ以後、胎児は男女にそれぞれ分化する」ということらしい。女房は「あなたは
単純ね」と笑うが、そうかもしれない。以後、女性を見る目が、一八〇度変わっ
た。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえると、「男だから」「女だから」とい
う考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」という考え方も、まち
がっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

コメントを投稿