最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

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2011-02-28 09:49:17 | 日記

●心の反射運動

 1970年のころの話。オーストラリアでは、レストランでもどこでも、あとにつづく
人がいると、その人はその人のためにドアを開けて待つ。それが当時の常識だったし、ど
こでもみなが、した。こういうのを「心の反射運動」という。つまりさりげない行為が、
相手の心をとらえたり、心を和ませたりする。またそれができる人(親)ほど、よい人(親)
ということになる。自己中心的な人ほど、心の反射運動が鈍いということになる。反対に
いつも相手の立場でものを考えたり、行動する人ほど、心の反射運動がすぐれた人という
ことになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●権威主義

 親の権威主義は、百害あって一利なし。が、遠く、江戸時代の昔には、「家制度」もあり、
そのため家父長の権威が何よりも、重んじられた。親は問答無用式に子どもに向かって、
親に従うよう求められた。が、時代が変わった。それに応じて、親子の平等意識、さらに
は対等意識が芽生えた。「親だから……」とか、「子だから……」という『ダカラ論』が通
用しなくなった。また最近の若い人たちに向かって、ダカラ論を振りかざしても、意味は
ない。反発を受けるか、さもなければ、親子の間に大きな亀裂を入れることになる。権威
主義の親ほど、子育てで失敗しやすい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親の優位性

 親の優位性を押しつけすぎると、子どもは未来像を描けなくなり、自分の将来に大きな
不安を抱くようになる。思春期において、自我の確立に失敗することもある。赤ちゃん返
りならぬ、幼児返りを起こすこともある。これは子どもにとって、たいへん不幸なことと
考えてよい。おとなは、(もちろん教師も)、ときには子どもにわざと負けてみる。それに
よって、つまり子どもはおとなの優位性を破ったことによって、自信をもつ。私もときど
き幼児を相手にプロレスをする。わざと負けてみせる。とたん、その子どもの表情や様子
が大きく変わる。そういう方法で、子どもに自信をつけさせる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ライナスの毛布

 私は幼児のころ(小学1、2年生ごろまで)、貝殻を指先でいじっているのが好きだった。
とくに眠りにつくときにそうだった。こうした子ども特有の現象を、「ライナスの毛布」と
呼ぶ。毛布の端を口でなめたり、指先でいじる子どもは多い。子どもは自分の心を落ち着
かせるため、指先の刺激を求める。それによって脳の中である種の反応を引き起こす。モ
ルヒネ系(エンドロフィン、エンケファリン)の分泌を促すという説もある。さらにこの
方法は、老人のボケ防止にも役立つという説もある。ともかくも、子どもがある特定のモ
ノ(毛布や貝殻、やや大きくなって、ぬいぐるみなど)にこだわっても、それを「おかし
な行為」と決めつけ、禁止してはいけない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●代償的愛(代償的過保護)

 過保護には、その背景に「愛」がある。その愛の欠落した過保護を、「代償的過保護」と
いう。子どものことを愛しているのではない。子どもを自分の支配下において、自分の思
い通りにしたいだけ。その代償的過保護の原点になっているのが、代償的愛。いわば「愛
もどきの愛」。自分勝手で、わがままな愛。この愛の特徴は、(1)親はそれでもって、親
の深い愛と誤解しているということ。(2)何かのことでつまずくと、一転して、「憎悪」
の念に変わりやすいということ。真の愛というのは、無私の愛をいう。「息子(娘)に裏切
られた」と騒いでいる親は、一度、この代償的愛を疑ってみるとよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●上下関係

 日本語には、上下関係を作る言葉が多い。「兄・弟」「姉・妹」というのが、それ。「長男・
二男・三男」というのもある。親はこうして無意識のうちにも、子どもたちの世界に序列
をもちこむ。そしてその上下関係に従って、「あなたはお兄ちゃんだから……」とか、「あ
なたはお姉ちゃんだから……」とか言って、『ダカラ論』で子どもを縛る。が、ダカラ論に
は根拠がないばかりか、その子どもにとって重荷になり、その子どもを苦しめることにも
なりかねない。なお、兄弟姉妹の間で、名前(序列ではなく、名前)で呼び合っている兄
弟姉妹は、そうでない兄弟姉妹より仲がよい。「お兄ちゃん」ではなく、「ミキ君」、「お姉
さん」ではなく、「光ちゃん」と呼ぶなど。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ツァイガルニック効果

 ほっとした瞬間、自分のすべきことを忘れてしまう。これを『ツアィガルニック効果』
と呼ぶ。記憶を持続(保持)するためには、ある程度の緊張感が必要である。(メモによっ
て残すという方法もあるが……。)その緊張感がゆるみ、「何だったけ?」となる。このこ
とはよく将棋を指しているときに、経験する。「もう勝った」と思った瞬間、へんなところ
から「角」が飛び出してきて、飛車を取られたりする。「勝った」と思った瞬間、心の中に
スキができる。そのため、そういうヘマが多くなる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子育て愛憎劇

 自分の娘に、「死んでも、お前をのろってやる」と言った母親がいた。「墓場で、お前が
不幸になるのを楽しみにしている」とも。これはワイフの友人の話である。で、昔から愛
と憎しみは、紙一重という。愛が深ければ深いほど(?)、それが転ずると、今度は憎しみ
に変わる。が、それにはたいへんなエネルギーを消耗する。ある賢人は、こう言った。『人
を憎むのは、ネズミを追い出すのに、家に火をつけるようなもの』と。そのため愛にせよ、
憎しみにせよ、それほど長くつづくと、心身が疲れきってしまう。まさに底なしの消耗戦。
時に人間性まで狂う。だから「家に火をつけるようなもの」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●幸福論

 賢い人は、そのものの価値を失う前に気づき、そうでない人は、失ってから気づく。健
康しかり、青春時代しかり、そして子どものよさ、またしかり。子どもの問題であれこれ
悩む前に、その子どものもつ「良さ」に気づき、ほどほどのところで満足する。「もっと…」
とか、「さらに…」と思っていると、子どもも疲れるが、あなたも疲れる。同じように、幸
福にしても、そんなに遠くにあるわけではない。あなたのすぐそばにある。すぐそばにあ
って、あなたに見つけてもらうのを、じっと待っている。「私は不幸だ」と思っている人は、
一度、静かに自分の身の回りを見直してみるとよい。「今、ここに生きている」ということ
が、どんなにすばらしいことか、あなたにも、それがわかるはず。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●コンフリクト(葛藤)

 人は常に葛藤しながら、生きている。葛藤のない人生はない。たとえばいろいろなケー
スがある。(1)一等賞が当たった。自転車かパン製造機がもらえる。そういうときは、ど
ちらをもらおうかで、悩む(++)。(2)あるいは高原へ旅行に行きたいが、花粉症が心
配と、悩むこともある(+-)。(3)さらに罰ゲームで、みなの前で歌を歌うか、それと
も顔に墨を塗られるかを迫られることもある(――)。(4)またこういうのもある。険し
いイバラ道を渡らなければ、食物にあるつけないようなケース(-+)。人は常にこのコン
フリクトを繰り返しながら、生きている。詳しくは、「はやし浩司 コンフリクト」で検索
をかけてみてほしい。

(補記)

●コンフリクト(葛藤)

+++++++++++++++

人はいつも、心の中で葛藤(コンフリクト)を
繰りかえしながら、生きている。

+++++++++++++++

 二つのことがらから、一つの選択を迫られたようなとき、心の中では、葛藤(コンフリ
クト)が起きる。これがストレスの原因(ストレッサー)になる。

 コンフリクトには、(1)接近型、(2)回避型、(3)接近・回避型の3つがあるとされ
る。

 たとえば、旅行クーポン券が、手に入った。一枚は、3泊4日のグアム旅行。もう一枚
は、2泊3日のカナダ旅行。どちらも行きたい。しかし日が重なってしまった。どうした
らいいか。

 このばあい、グアム旅行も、カナダ旅行も、その人にとっては、正の方向から、ひきつ
けていることになる。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(1)の接近型とい
う。

 反対に、借金がたまってしまった。取立て屋に追われている。取立て屋に追われるのも
いやだが、さりとて、自己破産の宣告もしたくない。どうしたらいいか。

 このばあいは、取り立て屋の恐怖も、自己破産も、その人にとっては、負の方向から、
ひきつける。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(2)の逃避型という。

 また、グアム旅行のクーポン券が手に入ったが、このところ、体の調子がよくない。行
けば、さらに体の調子が悪くなるかもしれない。どうしたらいいのか……と悩むのが、(3)
の接近・回避型ということになる。「ステーキは食べたい」「しかし食べると、コレステロ
ール値があがってしまう」と悩むのも、接近・回避型ということになる。

 正の方からと、負の方からの、両方から、その人を、ひきつける。そのため、葛藤(コ
ンフリクト)する。

 ……というような話は、心理学の本にも書いてある。

 では、実際には、どうか?

 たとえば私は、最近、こんな経験をした。

 ある人から、本の代筆を頼まれた。その人は、「私の人生論をまとめたい」と言った。知
らない人ではなかったので、最初は、安易な気持ちで、それを引き受けた。

 が、実際、書き始めると、たいへんな苦痛に、襲われた。代筆といっても、どうしても、
そこに私の思想が、混入してしまう。文体も、私のものである。私はその人の原稿をまと
めながら、何かしら、娼婦になったような気分になった。

 お金のために体を売る、あの娼婦である。

 そのとき、私は、(3)の接近・逃避型のコンフリクトを経験したことになる。お金はほ
しい。しかし魂は、売りたくない、と。が、実際には、コンフリクトと言うような、たや
すいものではなかった。心がバラバラになるような恐怖感に近かった。心というより、頭
の中が、バラバラになるような感じがした。

 あたかも自分の中に、別々の2人の人間がいて、けんかしあうような状態である。

 それはたいへんなストレスで、結局、その仕事は、途中でやめてしまった。つまりここ
でいうコンフリクト(葛藤)というのは、そういうものをいう。

 ほかにも、いろいろある。

 たとえば講演などをしていると、私の話など聞かないで、ペチャペチャと、おしゃべり
している人がいる。

 本人たちは、私がそれに気づかないと思っているかもしれないが、講師からは、それが
実によくわかる。本当に、よくわかる。

 そういうとき、「そのまま話しつづければいい」という思いと、「気になってしかたない」
という思いが、頭の中で、衝突する。とたん、ものすごく神経をつかうようになる。実際、
そういう講演会が終わると、そうでないときよりも、何倍も強く、どっと疲れが、襲って
くる。

 自分でもそれがよくわかっているから、ますます、気になる。

 そこで、私のばあい、そういうふうにペチャペチャとおしゃべりする人がいたら、その
場で、やさしく、ニンマリと、注意することにしている。「すみませんが、おしゃべりをひ
かえてくださいね」と。

 そうすることで、講演会のあとの疲労感を軽減するようにしている。これはあくまでも、
余談だが……。

【補記】

 ストレスの原因(ストレッサー)を感じたら、あまりがまんしないで、ありのままを、
すなおに言ったらよい。そのほうが、自分のためにもなるし、相手のためにもなる。

 ここに書いたように、最近は、公演中にペチャペチャと話している人を見たら、私は、
できるだけ早く、注意するようにしている。本当は、「さっさと、出て行け!」と叫びたい
が、そこまでは言わない。

 で、おもしろいと思うのは、もともと私の話など、聞いていないから、数度、注意して
も、知らぬ顔をして、ペチャペチャと話しつづけている。そこで私も、その人たちが気が
つくまで、数度、あるいは何度も、注意する。が、それでも気がつかない。

 すると、まわりの人たちが、そのおしゃべりをしている人のほうを、にらむ。おしゃべ
りしている人は、どうして自分たちがにらまれているかわからないといった表情を見せる。

 このとき私は、改めて、言う。「すみませんが、少し、静かにしていてくださいね」と。

 しかし、本音を一言。だれかの講演に行って、私語をつづけるようなら、外に出たらよ
い。迷惑といえば、迷惑。失礼といえば、失礼。これは講演を聞きに来た人の、最低限、
守るべき、マナーのように思う。

 もっとも、私の講演のように、つまらない講演なら、しかたないが……。

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【家族とは何か?】(ネバネバ社会の復活)

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今日も始まった。
がんばろう。
今夜は、弁天島にあるK旅館で会食会。
それ以外は、とくに予定なし。

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●パサパサ家族vsネチネチ家族

 少し前、パサパサ家族について書いた。
パサパサになったパンのような家族を、「パサパサ家族」という。
手で持った先から、パサパサの粉のようになって、飛び散る。
粘着性が、まるでない。
だから「パサパサ家族」。

 これに対して、家族の絆が濃密で、ネチネチした家族を、「ネチネチ家族」という。
私が生まれ育った家族が、そうだった。
何かにつけ、ネチネチしていた。
息苦しいほど、ネチネチしていた。

が、今は、パサパサ。
夫婦関係も、パサパサ。
親子関係も、パサパサ。

 が、この「パサパサ」「ネチネチ」は、地域社会、さらには国にも当てはまる。
パサパサ社会vsネチネチ社会。
パサパサ国家vsネチネチ国家。

 ネチネチ家族で生まれ育った私には、パサパサ家族というのが、どういものか、
それがよくわかる。
しかしパサパサ家族の人には、それがわからない。
パサパサ家族しか知らない。

●恋愛ごっこから結婚ごっこ

 最近の若い人たちを見ていると、「恋愛こそ、すべて」という考え方をしているのが、
よくわかる。
まるで一生の大事ごとのように考えている。

 私たちの時代にも、恋愛ごっこというのは、あるにはあった。
しかしいざ結婚となると、大きなブレーキが働いた。
両親や親戚との関係。
仕事や収入との関係。
年齢も大きな問題となった。
そういった関係や問題の中で、自分の恋愛にブレーキをかけた。
私も、大学時代の恋人とは、それが理由で別れた。
が、今は、それがない。

 恋愛ごっこは、そのまま結婚ごっこになり、ついで子育てごっこになっていく。
生活感がない。
昔風に言えば、地に足がついていない。
後先のことを考えず、(ごっこ)に走ってしまう。

●幻想

 が、口では偉そうなことを言う。
苦労を知らない。
貧乏を知らない。
貧乏の恐ろしさを、知らない。
今に見る富と繁栄は、天から降ってきたものと思う。
だからこう言う。
「仕事より、家族の方が大切」と。

 これについては、私は反論しない。
私もそう思っている。
しかしそれはあくまでも、仕事第一主義への反省として、そう思っているだけ。
私たちの世代は、仕事を第一に考える余り、家族を犠牲にした。
犠牲にしすぎた。
その反動として、私も「家族主義」を唱えた。
が、それが今は、行きすぎてしまった(?)。

 つまり今の若い人たちからは、(仕事)という部分が欠けてしまっている。
それがわからなければ、自分の年齢に、30とか40を足してみたらよい。
そのとき自分がどうなっているか、ほんの少しだけ、頭の中で想像してみればよい。
中には「私たちの親子関係は絶対」「死ぬまで良好な親子関係をつづける」と
思っている人もいる。
しかしそれは幻想。
まったくの幻想。

●勝ち組vs負け組

 現在、老人社会は、大きく2つのグループに分かれる。
勝ち組と負け組である。
「日本の論点・2011」(文藝春秋社刊)によれば、(1)元公務員、(2)蓄財に成功
した老人を、「勝ち組(既得権益者)」と言うそうだ。
そうでない人は、負け組。

 勝ち組の人たちは、リッチで豊かな老後を、何不自由なく暮らすことができる。
負け組の人たちは……?
この部分については、あまり書きたくない。
書けば書くほど、さみしくなる。

 ともあれ、自分の将来がどうなっているか、ほんの少しだけ、頭の中で想像してみたら
よい。
あなたは勝ち組となって残るのか、それとも負け組となって残るのか。
それを分けるのが、「仕事」ということになる。

 で、私は数多くの「勝ち組」という人たちを見てきた。
私のまわりにも、そういう人たちがいる。
そういう人たちは、(公務員をのぞいて)、すでに30歳くらいのとき、勝敗を決めている。
少なくとも40歳を過ぎて、勝ち組になる人はいない。
50歳を過ぎて、勝ち組になる人は、さらにいない。
30歳になった今、「明日も今日と同じ」という人生を歩んでいる人が、勝ち組に残る
確率は、きわめて低い。

 これは健康論に似ている。

●健康論

 健康であるかどうかは、運動する習慣をもっているかどうかで決まる。
30歳前後までに、その習慣を作りあげた人は、60歳を過ぎても健康。
そうでない人は、そうでない。

 たとえばA氏は、20代のはじめから夕方ジョギングをしている。
B氏は、週に2回、道場に通い、柔道をしている。
Cさんは、テニスの大会に毎年、出場している。

 つまりそうした習慣をもっている人は、60歳を過ぎても健康。
そしてそれは30歳前後のその人の生活姿勢を見れば、わかる。
つまりこの時期、その人の方向性が決まる。
若いことをよいことに、のんべんダラリの生活をしていれば、60歳はない。

 言い添えると、タバコは害にこそなれ、よいことは何もない。
中にヘビースモーカーの人でも、健康(?)な人はいるには、いる。
しかし60歳を過ぎて、健康な人はほとんどいない。
がんや脳疾患、心臓疾患で亡くなった仲間の大半は、そのヘビースモーカーだった。

 話が脱線したが、勝ち組になるか、負け組になるか。
それも30歳くらいまでに決まる。
その方向性を作った人は、勝ち組。
そうでない人は、負け組。
「明日こそ、何とかなるだろう」「明日があるさ」と慰めながら生きている人に、
明日はない。

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