最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●10月9日(1)

2009-10-09 08:45:19 | 日記
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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      10月   9日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●つながり

++++++++++++++++++++

朝、パソコンを立ち上げる。
メールを読む。
つぎにHPやBLOGへの、アクセス数を
確認する。
ここまでで、5~10分前後。

そのあと世界のニュースに目を通す……。

このころになると、頭の中が少しずつ、動き
始める。
私は血圧が低いこともあって、朝が苦手。
濃いお茶を飲んで、眠気を取り去る。

……こうして私の1日は始まる。
思いついたことを、書き始める。
しかしそれは同時に、不安との闘いでもある。
いつも文を書きながら、「こんなもの、だれが
読んでくれるだろう?」と迷う。
この文にしても、そうだ。

読んでも意味のない、ただの駄文。
自分でも、それがよくわかる。
目の前に見えるのは、パソコンの画面だけ。
その画面に向かって、孤独な闘いがつづく。

++++++++++++++++++

●T県のNさん(母親)より

 そんな中、T県のNさんより、メールが届いていた。
少し前、子どもの相談にのってあげた人である。
うれしかった。
それをそのまま紹介させてもらう。

『……先生に相談にのっていただいてから、三ヶ月近くが経ちました。今、長男はとても
落ち着いています。暴力もほとんどなくなりました。本当に感謝しています。あの時、勇
気を出して相談にのっていただいてよかった、としみじみ思います。

今、私はとても子育てが楽しくなりました。そして長男をとてもいとおしく思います。も
ちろん、まだまだ問題がすべて解決したわけではありません。学校も嫌いだし、勉強も嫌
い、そしてゲームで負ければ怒ります。他のお母さんから見たら、問題ばかりで自慢でき
るような息子ではないかもしれません。でも、私はそれでいいと思えるようになりました。

勉強については、あきらめました。宿題を必要最小限なんとか怒らずにやるようになった
ので、それでよしとすることにしました。ゲームで負けると相変わらず怒り出すのですが、
そっとしておくとすぐに気持ちを切り替えて遊べるようになりました。
そして、私が重い荷物を持っているときには、すかさず手助けしてくれるようになりまし
た!こうしたほんの少しの変化が、とてもうれしいのです。

昨日は次男のトイレトレーニングにかかりきりで、遠くから「早く宿題やってね」と
時々言っていたのですが、あとで長男に「なんでママは今日怒ってばかりいるの?」
と聞かれました。怒ってはいなかったのですが、言い方がきつかったのかもしれませ
ん。でもそれを冷静に聞き流し、あとで私にそうやって言えるなんて、私よりずっと
大人だと思いました。

でも、一番変わったのは私なんだと思います。いつも「許して忘れる」を心にとめて
過ごしていたら、自然と怒ったりしなくなりました。私が長男を追い詰めていたのか
もしれませんね。今でも、もちろん心配事はたくさんありますが、心の中で「頑張っ
て」とつぶやきながら、私は私で頑張っていこうと思っています。次男も保育園に入
り、私も仕事を探すつもりです。これからは、自分の時間を大切にしていきたいで
す。

ほんとうにありがとうございました。先生、これからもお身体に気をつけて、たくさ
んの人の力になってください。すばらしいお仕事をされていて、尊敬しています。また
いつか、相談をするかもしれませんが、そのときはよろしくお願いします……』

●それでじゅうぶん

 私はNさんを知らないし、仮にどこかですれちがっても、そのまま通り過ぎてしまう
だろう。
何かのことでまたメールをもらえば、そのときはそのときで、返事は書く。
しかしそこまで。
生涯、会うこともないだろうし、もちろん関係を深めるということもない。
が、私はそこに、何というか、人生の切なさを感じる。
またそれが人生なのかなと思ってしまう。

 数日前も、伊豆を旅して、いろいろな人に出会った。
話もした。
たがいに笑ったりもした。
しかし、やはりそこまで。
私はその場を去り、ここへ戻ってきた。

 が、だからといって、そういう出会いが無意味と言っているのではない。
その切なさがあるからこそ、私はまたつぎの切なさを求めて、人と出会い、
メールを交換し、旅に出る。
言い換えると、人生は、その切なさの集まり。
その切なさが、無数のドラマを作る。
そのドラマに意味がある。

 今回も、Nさんは、私をさして、「尊敬しています」と書いてくれた。
が、私は、そんな人間ではない。
まったく、ちがう。
Nさんが実物の私を見たら、がっかりして、ひっくり返ってしまうだろう。
が、それでも、うれしい。
どうしてだろう?
いったいこの(うれしさ)は、どこから来るのか?

 ちょうど窓の外には、T県の方角が見える。
澄んだ水色の秋の空。
「あの空の遠くに、Nさんは住んでいるのだろうな」と、ふと思う。
この光と分子の織りなす世界で、ほんの少しだけだが、私とNさんと、心がつながった。
人との(つながり)を感じた。

 私にとっては、それでじゅうぶん。
私のしていることで、喜んでくれた人がいた。
私のしたことが、役にたった人がいた。
それ以上、私は何を望むことができるのか。
何を望んでいるのか。

 さあ、今日もがんばろう。
そこでだれかが待っていてくれる。

書き忘れたが、「切ない」ということは、「さみしい」ということではない。
「虚しい」という意味でもない。
人間も、そこに命の限界を感ずるようになると、その(切なさ)を楽しむことが
できるようになる。
私がここにいて、生きていること自体に、切なさを感ずることもある。

Nさん、ありがとうございました。
今日は、よい1日になりそうです。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【生命から生命へ】(From Life to Life)
We live and die and repeat it again and again, conveying out Life to other all living
creatures and things together with our consciousness.(後日、要推敲)

++++++++++++++

あなたの生命は、ほかのありと
あらゆる生命とつながっている。
過去から未来へと、つながっている。
すべての植物から動物へと、つながっている。
それがわかれば、あなたは
もう孤独ではない。

もしあなたに「死」というものが
あるとするなら、それはあなたの
「意識」の死に、過ぎない。
もっと言えば、意識の連続性が、
途切れるに過ぎない。

だから、もしあなたが意識の連続性を、
あなたの肉体を超えて感ずることが
できたら、あなたには、「死」は
ないことになる。

++++++++++++++

●生物の連続性

人は日々に死に、日々に生まれ変わる。
細胞の生死を考えれば、それがわかる。
死んだ細胞は、体外へ排出され、ときに
分子レベルにまでばらばらになり、また
別の生物や無生物の中へと取りこまれていく。
と、同時に、私たちは日々に、ほかの生物や
無生物から、新しい肉体を作り、生きている。

こうして私たちはありとあらゆる生物と
つながり、今というときを生きている。
これを「生物の連続性」という。

●命

では、死んだらどうなるか。
が、基本的には、「死」は存在しない。
その人個人の意識は途絶えるが、生命は、
姿や形を変え、別の生物の中に取りこまれて
生きていく。

虫かもしれない。
花や木かもしれない。
動物や、魚かもしれない。
ともかくも、生きていく。

この連続性を総称して、「生命」という。

●意識

個人は、その人の意識によって特定される。
「私は・・・」というときの「私」である。
しかしその私にしても、肉体のほんの一部
でしかない。
もっと言えば、脳の中を走り回る、電気的
信号の一部でしかない。

だからといって、「私」に意味がないというのでは
ない。
私が書きたいのは、その逆。
この「私」があるから、そこから無数の
ドラマが生まれ、人間の生活を、潤い豊かなものに
する。
もし「私」がなかったら、私たち人間は、そこらに
生える雑草のような存在になってしまう。

●死

 では、「死」とは何か?
言うまでもなく、意識の途切れをいう。
その人の意識が途切れたとき、「私」は消える。
言うなれば、パソコンの電源を切るようなもの。
そのときから、見ることも、聞くことも、
感ずることもできなくなる。

 しかし先にも書いたように、それで生命が
途切れるわけではない。
生物の連続性の中で、つぎつぎと新しい生物の
中に、生命は取りこまれていく。
あなたが過去から現在に至るまで、取りこんで
きたように・・・。

●再生

 そんなわけで、「生命」を、あなたという個人の
中だけに閉じこめておくのは、正しくない。
またそういう視点で、あなたという「私」を見ては
いけない。

 もっと具体的に話してみよう。

 脳も含めて、上は髪の毛から、下は、足の爪まで、
私たちは長くて1年足らずで、すべてが作り替えられる。
古い肉体は、つねに便となったりして、外に排出される。
が、それは自然界でつねにリサイクルされ、無数の
生物の、一部となって再生される。
もちろんあなた自身の一部として戻ってくることもある。

●破壊と再生

 こうした破壊と再生の中で、連続性をもつものが
あるとすれば、それが意識ということになる。
脳の中で、意識は、古い細胞から新しい細胞へと、
つねに伝えられていく。

 あなたが子どものころの記憶があるとしても、
子どものころの脳細胞が、残っているからではない。
そのころの脳細胞は、とっくの昔に破壊されている。
今、「子どものころの記憶がある」と思いこんでいるのは、
ごく最近再生された、脳細胞の中に伝えられた電気的
信号にすぎない。

●瞬間移動(転送)

 映画『スタートレック』の中に、よく「転送」という
言葉が出てくる。
これはある一定の場所から、別の場所に、瞬時に
移動することをいう。
SF映画の世界でのことだから、まともに考えるのも
どうかと思うが、その転送について、こんな議論がある。

 「転送されてきた人間は、もとの人間と言えるか」
という問題である。

 原理は、こうだ。

 まずあなたという人間を、分子レベルにまで、バラバラに
する。
そのバラバラになったあなたを、電磁波か何かの(波)に
乗せて、別の場所に転送する。
そしてその別の場所で、もとどおりに、組み立てなおす。

 そこであなたはこう考える。
見た目には、もとの人間と同じだが、しかしもとの人間は
一度死んだはず、と。
新しく再生された人間は、あくまでもまったく別の人間。

 つまり転送を10回繰りかえせば、あなたは10回
死に、10回再生されたことになる。

●破壊と再生

 人間の肉体は、転送という劇的な変化ではないにしても、
1年単位という時間の流れの中で、映画『スタートレック』の
中の転送と同じことを、繰りかえしている。

 「劇的」というのは、映画『スタートレック』の中では、
すべてを瞬時にすることをいう。
一方、肉体のほうは、それぞれがバラバラに、長い時間をかけて、
徐々にする。

 そこでもし、映画『スタートレック』の中の転送について、
あれは、「破壊」と「再生」を繰り返したもの、つまり
「一度死んで、再び、生きかえったもの」と考えるなら、
私たち自身も、同じことを繰りかえしていることになる。

 「瞬時」にそれをするか、「1年」をかけてそれをするかの、
ちがいだけである。

●伝えられる意識

 さらに……。
科学が進めば、(あなた)のコピー人間を作ることも、
可能になるだろう。
すでにクローン牛なども誕生している。

 しかし意識は、どうか。
あなたのコピーは、あなたと同じ意識をもつだろうか。
今のところ、その答は、NO。
あなたのコピー人間は、ただのコピー人間。
たとえば私のコピーを作ったとしても、そのコピー人間が、
今の私と同じ感情をもつとはかぎらない。
というより、ありえない。
私のワイフを見て、私は逃げ回るかもしれない。

●コピー人間の意識

 私が「私」と言えるのは、「意識の連続性」があるからにほかならない。
もし意識の連続性がなかったら、「私」はそのつど分断されてしまう。

 たとえばクローン技術を使って、あなたのコピー人間を作ったとしよう。
見た目はもちろん、何から何まであなたと同じ人間である。
しかしそのクローン人間は、ここにも書いたように、「あなた」ではない。
意識の連続性がないからである。

 同じように、先にも書いたが、あなたは日々に生まれ変わっている。
古い細胞は死に、新しい細胞が生まれる。
1年前のあなたは、どこにも残っていない。
言い換えると、今のあなたは、1年前のクローン人間といっても、さしつかえ
ない。

 が、あなたはあなた。
そういうあなたは、「私は私」と言うだろう。
それが意識の連続性ということになる。

●親子

 さらに言えば、親子の関係も、それに似ている。
親子のばあいは、1世代、つまり約30年をかけて、
親は自分のクローン人間を作る。

 自分の子どもは、約30年をかけて作る、自分
自身のクローン人間とも考えられる。
顔や姿は、配偶者のそれと半々するということになるが、
それは大きな問題ではない。

 それに意識、……このばあい、ものの考え方も、
あなたのそれに似てくる。
ただ親子のばあいは、クローン人間とはちがい、
個人差はあるだろうが、親子の間には、たしかに
意識の連続性がある。

●意識があるから私

 こうして考えると、「意識」の重要性が、ますます
理解してもらえると思う。
もっと正確には、「意識の連続性」ということになる。

言うなれば、「意識の連続性があるから、私」ということになる。
「私」イコール、「意識」。
「意識の連続性」。
「意識の連続性」イコール、「私」と考えてよい。

●あやふやな意識

 が、その一方で、その「意識」ほど、あてにならない
ものもない。
「私は私」と思っている意識にしても、そのほとんどが、
意識できない「私」、つまり無意識の世界で作られた
私でしかない。

 意識している私は、無意識の世界で作られている私に、
操られているにすぎない。
その反対の例が、催眠術ということになる。
「あなたはキツネだ」という強力な暗示をかけられた
被験者は、目が覚めたあとも、キツネのように、
そのあたりをピョンピョンと、とび跳ねたりする。

 つまり脳の中には、無数の暗示が詰めこまれていて、
それが私たちを裏から操る。
それを私たちは、「私の意識」と思いこんでいる。
・・・だけ。

 意識には、そういう問題も隠されている。

●私の死

 そこで再び、「死」について考える。

 脳の中の意識は、脳細胞の中を走り回る電気的信号の
集合でしかない。
人間が霊的(スピリチュアル)な存在でないことは、認知症
か何かになった老人を見れば、わかる。
脳の機能が低下すれば、思考力も低下し、ついで、
意識の力も弱体化する。
「私」すら、わからなくなる老人も多い。

 人間が霊的な存在であるなら、脳の機能に左右
されるということは、ありえないはず。

 で、その電気的信号が止まったら、どうなるか。
それが「肉体の死」ということになる。

●すべてが消える

 「死」についての説明は、これでじゅうぶんかも
しれない。
結論的を先に言えば、私たちは死によって、意識を
失う。
意識の連続性を失う。
だからこの大宇宙を意識している「私」すら、消滅する。
つまりこの大宇宙もろとも、消えてなくなる。
あなたが深い眠りの、そのまた数万倍、深い眠りに
陥った状態を想像してみればよい。
夢を見ることもない、深い眠りである。

(それでも、微量の意識は残るが・・・。)

 それが「死」に近い状態ということになる。 

 では、「私」とは何か。
つまりそれが「意識」ということになる。
「意識の連続性」ということになる。

●意識

 結論は、もう出ている。
「意識」イコール、「私」。
「私」イコール、「意識」ということになる。

 が、「意識」だけでは足りない。
「私」を意識するためには、繰り返すが、そこに
「連続性」がなければならない。
意識だけなら、空を舞う蚊にすら、ある。
あの蚊に、「私」という意識があるとは、とても
思えない。

 しかしその「私」は、努力によっていくらでも
大きくすることができる一方、ばあいによっては、
犬やネコどころか、虫のそれのように小さく
してしまうこともありえる。

 人間は平等とはいうが、こと意識に関しては、
平等ということはありえない。
深い、浅い、の差はある。
またその(差)は大きい。
その(差)は努力によって決まる。

 そうした努力を、釈迦は、「精進(しょうじん)」
という言葉を使って説明した。

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