最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子育てエッセー

2009-07-16 17:27:43 | 日記
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(439)

●子どもに善と悪を教えるとき

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放り投げていた。その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。

話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答えている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけをどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。

そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。

するとその男は笑いながら、こう言った。「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(440)

●もの書き屋の年輪

 ものを書くことによって、どこかで年輪を重ねていくように感ずることがある。たとえば私。一〇年前に書いた文章、二〇年前に書いた文章、さらに三〇年前に書いた文章がある。自分の書いた文を読みかえすとき大切なことは、文の体裁よりも、そのときどきにおいて、いかに真実であったか、だ。

自分を飾った名文(?)など、意味がない。反対に、いかにヘタでも、そのときの自分を正直に書いた文ほど、意味がある。要するに、中身ということ。私はこれを勝手に、「深み」と呼んでいる。文は、その「深み」で判断するが、これは自分の文に限ったことではない。

 他人の文を読むとき、私は「深み」をさぐろうとする。もちろん文のじょうずへたも大切だが、それよりも大切なのは、「深み」だ。で、そのとき、私はその人の年輪がどこにあるかを知る。たとえば今、三〇歳の人の書いた文を読んだとする。そのときその文と自分が三〇歳のときの文とをくらべる。あるいは自分なら、三〇歳のとき、どう書いただろうかと考える。

その結果、私が三〇歳のときの年輪より、深みのある文を書く人がいたとすると、それはそのまま畏敬の念にかわる。しかし同じ文でも、それが六〇歳の人だと、そうは思わない。もちろん同年齢で、私より深みのある文を書く人はいくらでもいるし、そういう人の文は、読んでいても気持ちよい。楽しい。参考になる。とくに分野の違う人の文は、おもしろい。

 ……と、まあ、いっぱしの作家気取りのようなことを書いてしまったが、一方、こんなこともあった。ミニコミ誌を自分で発行している人がいた。別の仕事で親しくなったので、ある日私が、こう申し出た。「何か、文を書くことで、手伝ってあげましょうか」と。するとその人は、胸を張ってこう言った。「君イ~ネ~、文というのはね、書けるようになるまでに、一〇年はかかるよ。人に読んでもらえるような文を書けるようになるまでに、さらに一〇年はかかるよ」と。つまり私の文では、ダメだ、と。

つまり文というのは、その人の主観で、その評価が決まる。私の文をうまいと思って読んでくれる人もいれば、そうでないと思っている人もいる。だからここが一番大切だが、文を書くときは、他人の目など気にしないこと。私はそうしている。それがよくても悪くても、私自身だからである。



 
 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(441)

●神々との対話

 女房とドライブしていたときのこと。あるキリスト教会の前を通った。「人類が滅ぶときに、神の手で救われる」と教える教団の教会である。私がそれを女房に説明すると、女房がこう言った。「ほかの人たちはどうなるの?」と。

 地球温暖化がこれだけ現実のものとなってくると、「地球はあと一〇〇年ももたない」という説が、にわかに信憑(しんぴょう)性をおびてくる。とくにここ数年の気温上昇(たった数年!)は、ふつうではない。この速度で上昇したら、西暦二一〇〇年までには、地球の気温は四〇〇度にまでなってしまう! (これに対して学者たちの予想では、二一〇〇年までに三~四度。最大で六度前後となっている。)まさにそのとき、(あるいはそれ以前に)、「人類が滅ぶとき」がやってくる。

 「信じた人だけが助かるというのは、卑怯(ひきょう)だ」と私。
 「どうして?」と女房。
 「もし、そんなに信じてほしかったら、神様も、今、ここに姿を現せばいい。そうすれば、だれだって神様を信ずるようになる」
 「死んでからでは、遅いということ?」
 「いいや。死んだとき、目の前に神様が現れれば、だれだって神様を信ずるようになる。それから信じても、遅くはない」
 「神様は、信ずるのも、信じないのも、お前たちの勝手と、人間を突き放しているのではないかしら」

 私たちは今、懸命に生きている。野に咲く花や、空を飛ぶ鳥のように。地面をはう虫や海を泳ぐ魚のように。そういう私たちを「まちがっている」と言うのなら、それを言うほうがまちがっている。たしかに人間は未熟で、未完成だが、しかし今、懸命に自分の足で立ちあがろうとしている。

医療にしても社会にしても政治にしても、もし今、ここに神様が現れて、病気を治したり、神の国をつくったらどうなるか。人間は自らの足で立ちあがることをやめてしまう。あのトルストイも『カラマーゾフの兄弟』の中で、同じようなことを書いている。

 しかしその懸命さが、思わぬ方向に進みつつある。それこそ地球温暖化によって、人間どころか、あらゆる生き物まで犠牲になってしまう。だったら今、「突き放している」ほうがおかしい。あるいはすでに神様は、地球そのものまで放棄してしまったというのか。

 この問題は、「私たち人間は助かるべきか、それとも助かるべきではないか」という、究極の命題にまで、行き着く。しかしこれだけは言える。仮に私たちの未来が絶望的なものであっても、最後の最後まで、足をふんばって生きる。そこに「懸命に生きる人間の尊さ」がある。神様に救ってもらおうと考えるのは、まさにその人間の敗北を認めるようなものだ。あとの判断は、それこそ神様に任せればよい。





子育て ONE POINT (442)子どもに生きる意味を教えるとき 

●生きる価値

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。

たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。

言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

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