最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子育てジャンプ(7-7)

2009-07-07 09:08:49 | 日記
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(321)

●ああ、悲しき子どもの心

 虐待されても虐待されても、子どもは「親のそばがいい」と言う。その親しか知らないからだ。中には親の虐待で明らかに精神そのものが虐待で萎縮してしまっている子どももいる。しかしそういう子どもでも、「お父さんやお母さんのそばにいたい」と言う。ある児童相談所の相談員は、こう言った。「子どもの心は悲しいですね」と。

 J氏という今年50歳になる男性がいる。いつも母親の前ではオドオドし、ハキがない。従順で静かだが、自分の意思すら母親の、異常なまでの過干渉と過関心でつぶされてしまっている。何かあるたびに、「お母ちゃんが怒るから……」と言う。母親の意図に反したことは何も言わない。何もできない。

その一方で、母親の指示がないと、何もしない。何もできない。そういうJ氏でありながら、「お母ちゃん、お母ちゃん……」と、今年75歳になる母親のあとばかり追いかけている。先日も通りで見かけると、J氏は、店先の窓ガラスをぞうきんで拭いていた。聞くところによると、その母親は、自分ではまったく掃除すらしないという。手が汚れる仕事はすべて、J氏の仕事。小さな店だが、店番はすべてJ氏に任せ、夫をなくしたあと、母親は少なくともこの20年間は、遊んでばかりいる。

 そういうJ氏について、母親は、「あの子は生まれながらに自閉症です」と言う。「先天的なもので、私の責任ではない」とか、「私はふつうだったが、Jをああいう子どもにしたのは父親だった」とか言う。しかし本当の原因は、その母親自身にあった。それはともかく、母親自身が、自分の「非」に気づいていないこともさることながら、J氏自身も、そういう母親しか知らないのは、まさに悲劇としか言いようがない。

J氏の弟は今、名古屋市に住んでいるが、J氏と母親を切り離そうと何度も試みた。それについては母親が猛烈に反対したが、肝心のJ氏自身がそれに応じなかった。いつものように、「お母ちゃんが怒るから……」と。

 親だから子どもを愛しているはずと考えるのは、幻想以外の何ものでもない。さらに「親子」という関係だけで、その人間関係を決めてかかるのも、危険なことである。親子といえども、基本的には人間どうしの人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだから……」と、相手をしばるのは、まちがっている。親の立場でいうなら、「親だから……」という立場に甘えて、子どもに何をしてもよいというわけではない。

子どもの心は、親が考えるよりはるかに「悲しい」。虐待されても虐待されても、子どもは親を慕う。親は子どもを選べるが、子どもは親を選べないとはよく言われる。そういう子どもの心に甘えて、好き勝手なことをする親というのは、もう親ではない。ケダモノだ。いや、ケダモノでもそこまではしない。

 今日も、あちこちから虐待のレポートが届く。しかしそのたびに子どもの「悲しさ」が私に伝わってくる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(322)

●人格の分離

 日本人の子育て法で、最大の問題点は、親は親でひとかたまりの世界をつくり、子どもの世界を、親の世界から切り離してしまうところにある。つまり子どもは子どもとして位置づけてしまい、その返す刀で、子どもの人格を否定してしまう。

もっと言えば、子どもを、ちょうど動物のペットを育てるかのような育て方をする。その結果、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコールよい子と位置づける。そうでない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

(例1) ある女性(70歳くらい)は、孫(6歳くらい)に向かってこう言っていた。「オイチイネ(おいしいね)、オイチイネ(おいしいね)、このイチゴ、オイチイネ(おいしいね)」と。子どもを完全に子ども扱いしていた。一見、ほほえましい光景に見えるかもしれないが、もしあなたがその孫なら、何と言うだろうか。「子ども、子どもと、バカにするな」と叫ぶかもしれない。

(例2) ある女性(70歳くらい)は、孫(10歳くらい)に電話をかけて、こう言った。「おばあちゃんの家に遊びにおいでよ。お小遣いあげるよ。ほしいものを買ってあげるよ」と。最近は、その孫がその女性にところに遊びにこなくなったらしい。それでその女性は、モノやお金で子どもを釣ろうとした。が、しかしもしあなたがその孫なら、何と言うだろうか。やはり「子ども、子どもと、バカにするな」と叫ぶかもしれない。 

 こういう子どもの人格を無視した子育て法が、この日本では、いまだに堂々とまかりとおっている。そしてそれ以上に悲劇的なことに、こうした子育て法が当たり前の子育て法として、だれも問題にしないでいる。とたえ幼児といっても、人権はある。人格もある。未熟で未経験かもしれないが、それをのぞけばあなたとどこも違いはしない。そういう視点が、日本人の子育て観にはない。

 子どもを子ども扱いするということは、一見、子どもを大切にしているかのように見えるが、その実、子どもの人格や人権をふみにじっている。そしてその結果、全体として、日本独特の子育て法をつくりあげている。その一つが、「依存心に無頓着な子育て法」ということになるが、これについては別のところで考える。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(323)

●伸びる子ども

 あなたの子どもは、つぎのどのようだろうか。

( )何か新しいことができるようになるたびに、うれしそうにあなたに報告にくる。
( )平気であなたに言いたいことを言ったり、したりしている。態度も大きい。
( )あなたのいる前で平気で体を休めたり、心を休めたりしている。
( )したいこと、したくないことがはっきりしていて、それを口にしている。
( )喜怒哀楽の情がはっきりしていて、うれしいときには、全身でそれを表現する。
( )笑うときには、大声で笑い、はしゃぐときにも、大声ではしゃいだりしている。
( )やさしくしてあげたりすると、そのやさしさがスーッと心に入っていくのがわかる。
( )ひがんだり、いじけたり、つっぱったり、ひねくれたりすることがない。
( )叱っても、なごやかな雰囲気になる。そのときだけで終わり、あとへ尾を引かない。
( )甘え方が自然で、ときどきそれとなくスキンシップを求めてくる。
( )家族と一緒にいることを好み、何かにつけて親の仕事を手伝いたがる。
( )成長することを楽しみにし、「大きくなったら……」という話をよくする。
( )園や学校、友だちや先生の話を、いつも楽しそうに親に報告する。
( )園や学校からいつも、意気揚々と、何かをやりとげたという様子で帰ってくる。
( )ぬいぐるみを見せたりすると、さもいとおしいといった様子でそれを抱いたりする。
( )ものごとに挑戦的で、「やりたい!」と、おとなのすることを何でも自分でしたがる。
( )言いつけをよく守り、してはいけないことに、ブレーキをかけることができる。 
( )ひとりにさせても、あなたの愛情を疑うことなく、平気で遊ぶことができる。
( )あなたから見て、子どもの心の中の状態がつかみやすく、わかりやすい。
( )あなたから見て、あなたは自分の子どもはすばらしく見えるし、自信をもっている。

 以上、20問のうち、20問とも(○)であるのが、理想的な親子関係ということになる。もし○の数が少ないというのであれば、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。あるいはもしあなたの子どもがまだ、0~2歳であれば、ここに書いたようなことを、3~4歳にはできるように、子育ての目標にするとよい。5~6歳になったとき、全問(○)というのであれば、あなたの子どもはその後、まちがいなく伸びる。すばらしい子どもになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(324)

●伸ばす子育て

 子育てにも、伸ばす子育てと、つぶす子育てがある。伸ばそうとして伸ばすのであれば、問題はない。つぶす子育ては論外である。問題は、伸ばそうとして、かえって子どもをつぶしてしまう子育て。これが意外に多い。子育てにまつわる問題は、すべてこの一点に集中する。

 その人の子育てをみていると、「かえってこの人は子育てをしないほうがいいのでは」と思うケースがある。たとえば過関心や過干渉など。親が懸命になればなるほど、その鋭い視線が子どもを萎縮させるというケースがある。しかもそういう状態に子どもを追いやりながらも、「どうしてうちの子は、ハキがないのでしょう」と相談してくる。

あるいは親の過剰期待や、子どもへの過負担から、子どもが無気力状態になるケースもある。小学校の低学年で一度そういった症状を示すと、その後、回復するのはほとんど不可能とさえ言ってよい。しかしそういう状態になってもまだ、親は、「何とかなる」「そんなはずはない」と無理をする。

で、私が学習に何とか興味をもたせ、何とか方向性をつくったとしても、今度は、「もっと」とか「さらに」とか言って無理をする。元の木阿弥というのであれば、まだよいほうだ。さらに大きな悪循環の中で、やがて子どもはにっちもさっちもいかなくなる。神経症が悪化して、情緒障害や精神障害に進む子どももいる。もうこうなると、打つ手はかぎられてくる。(実際には、打つ手はほとんどない。)

 が、この段階でも、親というのは身勝手なものだ。私が「三か月は何も言わないで、私に任せてほしい」と言っても、「うちの子のことは私が一番よく知っている」と言わんばかりに、またまた無理をする。このタイプの親には、一か月どころか、一週間ですら、長い。がまんできない。「このままではますます遅れる」「うちの子はダメになる」と、あれこれしてしまう。そしてそれが最後の「糸」を切ってしまう。

 問題は、どうして親が、かえって子どもをつぶすようなことを、自らがしてしまうかということ。そして結局は行きつくところまで行かないと、それに気がつかないかないのか。これは子育てにまつわる宿命のようなものだが、私がしていることは、まさにその宿命との戦いであるといってもよい。言いかえると、今、日本の子育てはそこまで狂っている。おかしい。そう、その狂いやおかしさに親がいつ気がつくか、だ。それに早く気づく親が、賢い親ということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(325)

●ずる休みの勧め

 「学校は行かねばならないところ」と考えるのは、まちがい。私たち日本人は明治以後、徹底してそう教育を受けているから、「学校」という言葉に独特の響きを感ずる。先日もテレビを見ていたら、戦場の跡地でうろうろしている子ども(10歳くらい)に向かって、「学校はどうしているの?」と聞いていたレポーターがいた(アフガニスタンで、02年4月)。

その少し前も、そのシーズンになると、海がめの卵を食用に採取している子どもたちが紹介されていた。南米のある地域の子どもたちだった。その子どもたちに向かっても、レポーターが「学校は行かなくてもいいの?」(NHKテレビ)と。

 日本人は子どもを見れば、すぐ「学校」「学校」と言う。うるさいほど、そう言う。しかしそういう国民性が、一方で、子どもをもつ親たちをがんじがらめにしている。先日も子どもの不登校で悩んでいる親が相談にやってきた。そこで私が「学校なんか、行きたくなければ行かなくてもいいのに」と言うと、その親は目を白黒させて驚いていた。「そんなことをすれば休みグセがつきませんか」とか、「学校の勉強に遅れてしまいます」とか。しかし心配はご無用。

 学校へ行くから学力や知力がつくということにもならないし、行かないから学力や知力がつかないということもない。さらにその子どもの人間性ということになると、学校はまったく関係ない。むしろ幼稚園児のほうが、規則やルールをよく守る。正義感も強い。それが中学生や高校生なると、どこかおかしくなってくる。「スリッパを並べてくれ!」などと頼もうものなら、即座に、「どうしてぼくがしなければいかんのか!」という声がはね返ってくる。人間性そのものがおかしくなる子どもは、いくらでもいる。

 そこでずる休みの勧め。ときどき学校はサボって、家族で旅行すればよい。私たち家族もよくした。平日にでかけると、たいていどこの遊園地も行楽地もガラあきで、のんびりと旅行することができた。またそういうときこそ、「子どもを教育しているのだ」という充実感を味わうことができた。よく「そんなことをすれば、サボりぐせがつきませんか?」と心配する人がいた。が、それも心配ご無用。たいていその翌日、子どもたちはすがすがしい表情で学校へでかけていった。ウソだと思うなら、あなたも一度、試してみるとよい。

こういう話を読んで、目を白黒させている人ほど、一度、勇気をだしてサボってみるとよい。あなたも明治以後体をがんじがらめにしている束縛の鎖を、少しは解き放つことができるかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(326)
 
●コンピュータウィルス

 このところ(02年5月)、毎日のようにコンピュータウィルスの攻撃を受けている。一応、二重、三重のガードをしているから、このガードが破られることはまずない。そのウィルス攻撃を受けながら、いろいろなことを考える。

 よく雑誌などを読むと、いかにも頭だけはキレそうな若者が、したり顔で、ウィルス対策を論じていたりする。しかし私には、そういう男と、どこかの暗い一室でコソコソとウィルスをばらまいて楽しんでいる男(多分?)が区別できない。雑誌に出てくる男に、それほど強い正義感があるとも思えないし、同時にウィルスをばらまいている男が、その男と、そんなに違うとも思えない。どちらの男も、ほんの少し環境が変わったら、別々の男になっていたかもしれない。人間のもつ正義感などというものは、そういうものだ。

 もう一つは、こういうウィルスをつくる能力のある人間は、それなりに頭のよい男なのだろうが、どうしてそういう能力を、もっと別のことに使わないかという疑問。もっともこの私でも、簡単なウィルスくらいなら自分でつくることができる。ファイルに自動立ちあげのプログラムを組み込めばよい。あとはランダムに番地を選んで、適当に自己増殖のプログラムを書き込めばよい。言語はC言語でもベーシックでもマクロでもよい。私の二男にしても、高校生のとき、すでに自分でワクチンプログラムを作って、ウィルスを退治していた。だからたいしたことないと言えばたいしたことはないが、それにしても「もったいない」と思う。能力もさることながら、時間が、だ。

 つぎに今は、プロバイダーのほうでウィルスチェックをしてくれているので、ウィルスが入ったメールなどは、その段階で削除される。で、そのあと、私のほうに、その旨の連絡が入る。問題はそのときだ。プロバイダーからの報告には、つぎのようにある。「○○@××からのメール、件名△△にはウィルスが混入していました……」と。

そこで私は、その相手に対して、その内容を通知すべきかどうか迷う。いや、最初はそのつど、親切心もあって、「貴殿のパソコンはウィルスに汚染されている可能性があります」などと、返信を打っていた。しかしこのところそれが多くなり、そういう親切がわずらわしくなってきた。

で、最近はプレビュー画面に開く前に、プロバイダーからの報告そのものを削除するようにしている。で、ハタと考える。「私もクールになったものだ」と。いや、こうしたクールさは、コンピュータの世界では常識で、へたな温情(スケベ心)をもつと、命取りにすらなりかねない。(事実、過去において、何度かそういう経験があるが……。)だから、あやしげなメールは、容赦なく削除する。しなければならない。そしてそれがどこかで、私が本来もっている、やさしい人間性(?)を削ってしまうように感ずるのだ。あああ……。

 このところインターネットをしながら、いろいろと考えさせられる。これもその一つ。

(注:あやしげなメールには、ぜったいに返信をかけてはいけない。
無視して削除すること。
これはこの世界では、常識。
この原稿を書いた時には、まだそれがよくわかっていなかった。)





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(327)

●子どもの世界(1)

 子どもを、未熟で未完成、そのうえ幼稚であると、おとなの世界から切り離してしまう。つまり子どもを一人の人格者として認めるのではなく、不完全な「半人前」な人間として位置づけてしまう。日本の子育ての最大の欠陥は、ここにある。

 そのため日本では、親が子どもを育てるときも、その前提として子どもを人間として認めていないから、あたかもペットを育てるかのようにして、子どもを育てる。たとえば親は、まず子どもに対して、目いっぱい、よい思いや楽しい思いをさせる。そしてそのあと、「もっとよい思いや楽しい思いをしたかったら、親の言うことを聞きなさい。聞けば、もっと楽しいことがある」というようなしつけ方をする。

 欧米ではこれが逆で、欧米の親たちは、生まれながらにして子どもを一人の人格者として認める。認めたうえで、「よい思いや楽しい思いをしたかったら、まず苦労をしなさい」と子どもをしつける。その一例として「家事」がある。私がよく知っている、オーストラリアやアメリカの子どもにしても、実によく家事を手伝っている。料理はともかくも、食後のあと片づけは、たいてい子どもの仕事になっている。

 その結果、この日本では、独特の「保護と依存」関係が生まれる。保護はともかくも、問題は「依存」。あるアメリカ人の教育家は、日本の子育てを批評して、かつてこう言った。「日本人は、自分の子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無頓着すぎる」と。その教育家の名前を忘れてしまったのは、たいへん残念だが、そのためこの日本では、親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とした。

一方、独立心が旺盛で、自立した子どもを、「鬼の子」として嫌う。そしてさらにその結果、この日本ではいわゆる「恩着せがましい子育て法」が、当たり前になっている。しかも悲劇的なことに、それがあまりにも当たり前であるため、子どもに対して恩着せがましい子育てをしながら、それにすら気づかないというケースが多い。

 数年前、演歌歌手のI氏が、NHKの「母を語る」というテレビ番組の中で、こう言っていた。「私は女手一つで育てられました。その母親の恩にこたえようと、東京に出て、歌手になりました」と。

 私はこのI氏の話を聞きながら、最初は、I氏の母親はすばらしい母親だと思った。しかしそのうち、それは番組が始まってから10分くらいたってからのことだが、「果たしてこのI氏の母親は、本当にすばらしい母親なのか?」と思うようになった。I氏は半ば涙ながらに、「私は母親に産んでもらいました。育ててもらいました」とさかんに言っていたが、そう無意識のうちにも思わせてしまったのは、母親自身ではないかと考えるようになった。母親自身が、子どもに恩を着せる形で、「産んでやった」「育ててやった」と思わせてしまったのではないか、と。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(328)

●子どもの世界(2)

 子どもの依存性は、必ずしも子どもから親への一方的なものではない。親自身にも、「だれかに依存したい」という潜在的な願望があるとみる。その願望が姿を変えて、子どもの依存心に甘くなる。

 ある女性(60歳)は、通りで会うと私にこう言った。「息子なんて育てるもんじゃないですね。息子は横浜の嫁に取られて、今、横浜に住んでいます」と。「親なんてさみしいもんですわ」とも言った。こうした女性の背景にあるのは、子どもを「モノ」あるいは、「財産」と考える意識である。こうした名残は、「嫁にもらう」とか、「嫁にくれてやる」という言い方などに見られる。それはともかくも、その女性はそのあとこう言った。「息子は小さいときから、かわいがってやったのですがねえ」と。

 もっともこの段階で、子どもも親の価値観に同化すれば、何も問題はない。それはそれでうまくいく。親は子どもに、「産んでやった」「育ててやった」と言う。子どもは子どもで、「産んでいただきました」「育てていただきました」と言う。そういう親子はうまくいく。しかしいつもいつも子どもが親の考えに同化するとは限らない。問題はそのときだ。

こうした価値観の違いは、宗教戦争に似た様相をおびることがある。互いに妥協しない。妥協できない。親子でも価値観が衝突すると、行きつくところまで行く。もっともそこまで至らなくても、無意識であるにせよ、親の押しつけがましい子育て観は、親子の間にキレツを入れることが多い。ある男性(40歳)はこう言った。「何がいやかといって、おやじに、『お前には大学の学費だけでも、3000万円もかけたからな』と言われるくらいいやなことはない」と。

 つまり依存型の子育てを受けた子どもは、自分が今度は親になったとき、子どもに対して依存型の子育てをするのみならず、自分自身も子どもに依存するようになる。親が壮年期には、親自身がもつパワーでそれほど依存心は目立たないが、老年期になると、それが出てくる。冒頭にあげた女性がその例である。

 子どもの自立を考えるなら、同時に親自身も自立しなければならない。子どもに向かって、「あなたはあなたの人生を生きなさい」と教える前に、親自身も「私は私の人生を生きる」という姿勢を見せなければならない。わかりやすく言えば、親が自立しないで、どうやって子どもの自立を求めることができるかということになる。


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