最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子育てジャンプ(2)

2009-07-12 16:11:54 | 日記




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(393)

●親をなおす、子をなおす

 子どもに何か問題があると、ほとんどの親は子どもをなおそうとする。「うちの子はハキがありません」「うちの子は消極的です」「うちの子は内弁慶です」「うちの子は勉強をしたがりません」「うちの子は乱暴です」などなど。もちろん情緒障害児や精神障害児と呼ばれる子どもは別だが、こうしたケースでは、子どもをなおそうと思わないこと。まず親自身が自らをなおす。こんなケースがある。

 その母親の子ども(小五女児)が、親のはげしい過干渉と過負担から、ある日突然、無気力症候群におちいり、そのまま学校へ行かなくなってしまった。私にあれこれ相談があったが、その一方で、その母親は中二の息子の受験競争に狂奔していた。その相談があった夜も、「これから息子を塾へ迎えにいかねばなりませんから」と、あわただしく私の家から出ていった。「兄は別」と考えているようだったが、その兄だって妹のようになる確率はきわめて高い。

 さらに親というのは身勝手なもの(失礼!)。少しよくなると、「もっと」とか、「さらに」とか言い出す。やっと長い不登校から抜け出し、何とか学校へ行くようになった子ども(小二男児)がいた。そんなある日、居間で新聞を読んでいると、母親から電話がかかってきた。てっきり礼の電話だと思って受話器をとると、母親はこう言った。

「何とか午前中は授業を受けるようになったのですが、どうしても給食はいやだと言って、給食を食べようとしません。学校から電話がかかってきて、今は、保健室にいるそうです。何とか給食を食べるようにさせたいのですが……」と。

 もっとも子どものことがよくわかっていてくれるなら、私も救われる。しかし実際には、子どものことがまったくわかっていない親も多い。以前、場面かん黙児の子ども(年中男児)がいた。ふとしたきっかけで、貝殻を閉ざすように、かん黙してしまう。たまたま母親が参観にきていたので、子どもの問題点に気づいてもらおうと、その子どもがかん黙する姿を、それとなく見てもらった。

が、その夜、母親から猛烈な抗議の電話がかかってきた。「あなたはうちの息子を萎縮させてしまった。あんな子どもにしてしまったのは、あなたのせいだ。どうしてくれる!」と。

 子どもの問題という言葉はよく聞かれる。しかし実際には、子どもの問題イコール、親の問題である。これはもう三〇年以上も子どもの問題にかかわってきた「私」の結論ととらえてもらってよい。少なくとも、子どもだけを見ていたのでは、子どもの問題は解決しない。

(私は過去三〇年以上、無数の子育て相談に応じてきたが、こうした子育て相談で、だれからも、一円の報酬も受けたことはない。受け取ったこともない。念のため。)





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(394)

皆さんからの質問

Q:どうして受験競争はなくならないのか?
A:歴然とした不公平社会があるから。この日本、学歴で得をする人は、死ぬまで得をする。そうでない人は、死ぬまで損をする.この不公平社会があるかぎり、受験競争はつづく。
Q:受験勉強が日本人の学力をあげているのではないのか。
A:受験勉強をして学力をあげているのは、ほんの一〇~一五%の子どもたちだけ。残りの子どもたちが、どんどんギブアップしていくので、全体を平均化すると、日本の子どもの学力はかえって低い。
Q:こうした現状を打開するためには、どうすればよいのか?
A:子どもの多様性にあわせて、教育を多様化する。しかしそれを中央の文部科学省だけでコントロールするのは、不可能。教育の自由化は、地方の行政単位、さらには規制をゆるめ、学校単位に任せればよい。

Q:多様化といっても、学校だけで応ずるのには限度があるのでは?
A:YES! ドイツやイタリア、カナダのようにクラブ制度を充実させればよい。これらの国では、クラブが学校教育と同じくらい充実し、重要な比重を占めている。

Q:月謝はどうするのか?
A:たとえばドイツでは、子ども一人当り、一律、二三〇ドイツマルク(約一万五〇〇〇円・月)支払われている。この「子どもマネー」は、子どもが就職するまで、最長二七歳まで支払われている。親たちはこのお金を月謝にあてている。月謝はどのクラブも一〇〇〇円程度。学校の中にもクラブはある。

Q:たとえば小学校での英語教育はどう考えたらいいのか?
A:英語を学びたい子どもがいる。学びたくない子どももいる。学ばせたい親がいる。学ばせたくない親もいる。北海道から沖縄まで、みな、同じ教育という発想が、もう前近代的。学校では基礎教科だけを教え、あとは民間に任せればよい。英語クラブだけではなく、中国語クラブがあってもよい。フランス語クラブやドイツ語クラブもあってもよい。

Q:教科書はどうすればいいのか?
A:検定制度をもうけているのは、先進国の中では日本だけ。「テキスト」と名称を変え、学校ごとの判断に任せればよい。

Q:そんなことをすれば、教育がバラバラになってしまうのでは?
A:それこそまさに全体主義的な考え方。アメリカもドイツもフランスもカナダも、そしてオーストラリアも、バラバラにはなっていない!

Q:あなたがそんなことを浜松市という地方都市で叫んでも、意味がないのでは?
A:そう、まったくその通り。こういうのを「犬の遠吠え」という。日本は奈良時代の昔から中央集権国家。だから、地方の声など、まったく意味がない。ワオー、ワオー!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(395)

●問題のある子ども

 問題のある子どもをかかえると、親は、とことん苦しむ。学校の先生や、みなに、迷惑をかけているのではという思いが、自分を小さくする。よく「問題のある子どもをもつ親ほど、学校での講演会や行事に出てきてほしいと思うが、そういう親ほど、出てこない」という意見を聞く。

教える側の意見としては、そのとおりだが、しかし実際には、行きたくても行けない。恥ずかしいという思いもあるが、それ以上に、白い視線にさらされるのは、つらい。それに「あなたの子ではないか!」とよく言われるが、親とて、どうしようもないのだ。たしかに自分の子どもは、自分の子どもだが、自分の力がおよばない部分のほうが大きい。そんなわけで、たまたまあなたの子育てがうまくいっているからといって、うまくいっていない人の子育てをとやかく言ってはいけない。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが、苦手。目が上ばかり向いている。たとえばマスコミの世界。私は昔、K社という出版社で仕事をしていたことがある。あのK社の社員は、地位や肩書きのある人にはペコペコし、そうでない(私のような)人間は、ゴミのようにあつかった。電話のかけかたそのものにしても、おもしろいほど違っていた。

相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりにいたします」と言い、つづいてそうでない(私のような)人間であったりすると、「あのね、あんた、そうは言ってもねエ……」と。それこそただの社員ですら、ほとんど無意識のうちにそういうふうに態度を切りかえていた。その無意識であるところが、まさに日本人独特の特性そのものといってもよい。

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。私の立場でいうなら、『子育て論は、子育てで失敗した人に聞け』ということになる。実際、私にとって役にたつ話は、子育てで失敗した人の話。スイスイと受験戦争を勝ち抜いていった子どもの話など、ほとんど役にたたない。

が、一般の親たちは、成功者の話だけを一方的に聞き、その話をもとに自分の子育てを組みたてようとする。たとえば子どもの受験にしても、ほとんどの親はすべったときのことなど考えない。すべったとき、どのように子どもの心にキズがつき、またその後遺症が残るなどということは考えない。この日本では、そのケアのし方すら論じられていない。

 問題のある子どもを責めるのは簡単なこと。ついでそういう子どもをもつ親を責めるのは、もっと簡単なこと。しかしそういう視点をもてばもつほど、あなたは自分の姿を見失う。あるいは自分が今度は、その立場に置かされたとき、苦しむ。聖書にもこんな言葉がある。「慈悲深い人は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示されるだろう」(Matthew5-9)と。

この言葉を裏から読むと、「人を笑った人は、笑った分だけ、今度は自分が笑われる」ということになる。そういう意味でも、子育てを考えるときは、いつも弱者の視点に自分を置く。そういう視点が、いつかあなたの子育てを救うことになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(396) 

●弱者の立場で考える

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中でこう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコースがあり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれを、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をもてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほんの一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえることができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張しているだけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできやしなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。

もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CBSソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたものも含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(397)

●日本の武士道を説く人たち

 江戸時代に山鹿素行という人物が、「武教小学」という本を書いた。これは朱子の「小学」を模範として、武士の子弟のしつけ教育を目的として書かれた本である。

内容は、(1)夙起夜寝、(2)燕居、(3)言語応退、(4)行往坐臥、(5)衣食居、(6)財宝器物、(7)飲食色欲、(8)放鷹狩猟、(9)興受、(10)子孫教戒の一〇章からなっている。この目録からもわかるように、この本は行儀作法など日常や健康への心がまえを説いたものだと思えばよい。またここでいう小学というのは、内篇と外篇の分かれ、内篇は、(1)立教、(2)明倫、(3)敬身、(4)稽古の四巻、また外篇は、(5)嘉言、(6)善行の、計六巻から成り立っている。その中の一節を、とりあげてみる。

 「横渠張先生いわく、小児を教ふるには、
  まず、安祥恭敬ならしむるを要す。
  今世、学講せず、男女幼より便ち、
  驕惰に懐了し、長ずるに至りて益々狂狼なり、
  ただ未だすべて子弟のことを
  なさざるがために、すなわち、その親において、
  己の物我ありて肯て屈下せず、病根常にあり」(「嘉言」)と。

 わかりやすく言うと、「横渠張先生がいわれるには、子どもを教育しようとしたら、まず人に対して従順に、人をつつしみ敬うことを教える。が、最近は、学問もせず、男の子も女の子も、幼いころから怠惰で、歳をとるにつれて、ますます狂暴になっていく。こうした子弟の教育をしないことにあわせて、つまり親自身も我欲が強く、頭をさげることをしないところに、問題の原因がある」と。(何とも意味不明な難解な文章なので、訳は適当につけた。)

 この教育書について、私はあえてここでは何もコメントをつけない。ただこういうことは言える。「意識」というのは、いいかげんなものだということ。私はこの山鹿素行の「武教小学」を読んでいたとき、それなりに説得力があるのに驚いた。「正しい」とか、「まちがっている」とかいうことではなく、「住み心地の違い」のようなものだ。日本の家もスペインの家も、住んでみると、それなりに住み心地は悪くない。家の形や間取り、使い勝手はまったく違うはずなのに、しばらく住んでみると、それがわからなくなる。

意識も同じようなもので、少しだけ自分の視点を変えてもると、山鹿素行の「武教小学」も、それなりに「おもしろい」ということ。
 あとは読者のみなさんの判断に任せる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(398)

●アメリカの家族主義、そして日本

 一九七〇年はじめ、アメリカは、ベトナム戦争でつまずく。それは戦後、アメリカがはじめて経験した手痛い「つまずき」でもあった。が、話したいことはこのことではない。そのつまずきと平行して、あのヒッピー運動に代表される「カウンター・カルチャ」の時代をアメリカは迎えることになる。「アメリカン・ドリーム」の酔いからさめると同時に、それまでの価値観が、ことごとく否定され始めた。

離婚率の増加、同性愛、未婚の母、麻薬、性道徳の乱れなど。まさにアメリカは混乱の時期を迎えたわけだが、ここでアメリカは二つの道に分かれた。一つは、新しい価値観の創造、もう一つは、古きよき家族主義の復活である。前者はともかくも、後者は、ベンジャミン・フランクリンの家族主義に代表されるものの考え方で、それ以前からアメリカ人の精神的バックボーンにもなっていた。

そのためこの家族主義は割とすんなりとアメリカ人に支持された。たとえばそれを受けてアメリカのクリントン大統領は、「強い家族をもてば、アメリカはより強くなる」(金沢学生新聞社説指摘)と述べている。

 で、それから約三〇年。日本は、ちょうど三〇年遅れで、アメリカのあとを追いかけている。平成元年とともに始まった大不況とともに、日本は、前後はじめて「つまずき」を経験したが、それはベトナム戦争で敗北したころのアメリカそのものと言ってよい。

エリート社会の崩壊、既存価値観の否定、さらに家族の崩壊と離婚率の増加などなど。教育そのものもデッドロック(暗礁)に乗りあげた。ただこの時点で、アメリカと日本の違いは、アメリカは社会そのものを自由化競争の波の中に置くことで、民間活力を最大限利用したということ。一方、日本は、明治以来の官僚機構の中で、いわば「コップの中の改革」をめざしたということ。たとえば教育にしても、アメリカでは学校の設立そのものも、自由化した。

一方、日本では、少子化などを理由に、設立の認可基準をさらに強化した。この違いがやがてどう出るかは、もう少し時間の流れをみなければわからないが、ここでアメリカと同じように、日本も二つの道を歩み始めたというのは、たいへんおもしろい。一つは、新しい価値観の創造。もう一つは、古きよき時代(?)への復活である。

ただしその内容は、アメリカと正反対である。日本でいう新しい価値観の創造は、いわゆる家族主義の台頭であり、一方、古きよき時代への復活は、旧来型の封建意識へもどることを意味する。これは極端な例だが、日本の教育者の中には、「武士道こそ、日本古来の文化」と称して、家庭教育そのものを、その「文化」に復帰させようという動きすらある。

 これからの日本がどの道を進むかは、実際のところ私にはわからない。しかしこれだけは言える。世界には「世界の流れ」というものがある。そしてその流れは、「グローバル化」をめざしてつき進んでいる。その流れは、もうだれにも変えることはできない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(399)

●悪玉親意識

 親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子どもを自分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。その悪玉親意識にも、これまた二種類ある。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは依存型親意識。

 非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分の価値観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしようとする。子どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をする。

これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもをその「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなっているため、たいていは無意識のうちのそうすることが多い。親は親で「産んでやった」「育ててやった」と言い、子どもは子どもで、「産んでもらいました」「育てていただきました」と言う。

 さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ姿」という)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子どもの歓心を買いながら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。「あなたを育てるためにママは苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子どもにするのが前者。クリスマスなどに豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに気に入られようとするのが後者ということになる。

以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、先生の方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それもここでいう後者ということになる。
 これらを表にしたのがつぎである。

   親意識  善玉親意識
        悪玉親意識  非依存型親意識
               依存型親意識   押しつけ型親意識
                        コビ売り型親意識
 
 子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようになる。それは当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。はたしてあなたの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分析してみると、おもしろいのでは……。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(400)

●講演について

 私は昨夜、ふとんの中で、女房とこんな話をした。「講演なんかして、何になるのだろう?」と。すると女房は、「ボランティア活動と考えればいいのでは……」と。私は一度はそれに納得したが、このところ疲れを感ずることも多くなった。

よく誤解されるが、聴衆が二〇人の会場で講演するのも、五〇〇人の会場で講演するのも、疲れる度合いは同じである。またいくら講演料が安くても、また高くても、私のばあいは、手を抜かない。講演を聞きにきてくれる人とは、その時点で一対一の関係になる。人数が少ないから、あるいは講演料が安いからという理由で、いいかげんな講演をすることは許されない。……しない。

 では、何のために講演をするのか? 私のばあい講演をしても、地位(もとからない)、肩書き(これもない)、収入(収入を考えたら、とてもできない)のメリットは、ほとんど、ない。あるとすれば名誉ということになる。しかし名誉などというのは、あとからやってくるもの(あるいはやってこないかもしれない)で、名誉のために講演するというもの、おかしな話だ。で、私はこんなふうに考えた。

 私は「考えること」イコール、「人生」だと思っている。そのために毎日、こうしてものを考えている。それは前にも書いたが、未踏の荒野を歩くことに似ている。毎日が新しい発見の連続であり、またひとつの発見をすると、さらにその向こうに新しい荒野があるのを知る。で、私にとっての生きがいは、その荒野を歩くことだ。それはそれだが、今度は歩いたからどうなのかという問題が出てくる。私だけが知った荒野は、はたして私だけのものにしてよいかという問題である。

だいたいにおいてものを書くというのは、その先で、読んでくれる人がいるかもしれないという期待があるからだ。実際には、自分の考えをまとめるために書くのだが、文字にするというのには、そういう意味が含まれる。

 で、私が考えたことや、私が知ったことが、だれかの役にたてればそれでよいのでは……と。あまりむずかしく考える必要はない。役にたてばそれでよい。役にたたなければそれでもよい。判断するのは、会場に来てくれた人だ。私ではない。私が私であるように、人はそれぞれだ。……となると、またわからなくなってしまう。私は何のために講演をしているのか、と。

 「自分の考えを他人に聞いてもらえるというのは、最高のぜいたくよ」と女房。
 「それはわかっている」と、私。
 「今、やるべきことをやればいいのよ」と女房。
 「それもわかっている」と、私。

 ただこの夏からは、講演の回数を、月三回程度におさえることにした。月四回となると、それだけで休日がなくなってしまう。私のばあいは、退職金も年金も、天下り先もない。収入は収入で、別に稼がねばならない。講演で疲れて仕事ができなくなるというのは、たいへんつらい。そう言い終わると、女房は「そうね」と言って、電気を消した。


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