最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●家庭教育

2009-07-21 07:57:07 | 日記
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(481)

●家庭での学習指導のコツ

 子どもの学習を指導するときには、コツがある。まさに奥義(おうぎ)の公開……というのは、大げさだが、そのコツにはつぎのようなものがある。

(1) 子どものリズムをつかむ……それぞれの子どもには、それぞれの子どものリズムがある。このリズムをつかむ。たとえば五分も勉強すると、もう気が散ってしまい、ザワザワする子どももいれば、三〇~六〇分くらいなら、平気で学習に集中できる子どももいる。要は無理をしないということ。集中力が長くつづかないようなら、六〇分、いっしょにすわって、五~一〇分、勉強らしきことをすれば、よしとする。「勉強というのは、黙々とすべきもの」という先入観があれば、それは改める。

(2) イライラしたら手を引く……子ども横に座っていて、イライラするようなら、手を引く。親のイライラほど、子どもに悪影響を与えるものはない。一回や二回ならともかくも、そういう状態が、半年とか、数年もつづくようなら、あなたには子どもを指導する資格はないと思うこと。子どもを勉強好きにする最大のコツは、子どもを楽しませること。英語の格言にも、「楽しく学ぶ子どもは、よく学ぶ」というのがある。

(3) レベルをさげる……家庭での学習は、思いきってレベルをさげる。親はどうしても、「より高度なことを」と思うかもしれないが、そのちょっとした無理が、子どもの勉強ぐせをそいでしまう。できるようするのではなく、やりとげたという達成感を大切にする。そしてここが大切だが、いつも終わるときは、ほめて仕上げる。「この前より、できるようになった」「ずいぶんと進歩した」などと言う。

(4) こまかいミスは、無視する……全体として、ほぼできれば、それでよしとする。こまかいミスなどは、無視する。一見、いいかげんな指導に見えるかもしれないが、もともと勉強というのは、そういうもの。ワークにしても、半分はお絵描きになってもよいと考える。「適当にやる」という姿勢は、決して悪いことではない。子どもはその「適当さ」の中で、息を抜く。自分を伸ばす。

(5) 好きな勉強をさせる……家での学習は、好きな学習をさせる。一科目でも、得意科目ができると、その科目があとの科目を引きあげるということは、よく見られる現象。嫌いな科目や、苦手な科目を伸ばそうと考えたら、まず好きな科目を、伸ばす。オールマイティな人間をめざすと、たいてい失敗する。「やりたい勉強をすればいいのよ」というような言い方で、子どもを指導する。

(6) 依存心をつけない……子どもが親に頼る傾向がみられたら、親は親で、好き勝手なことをすればよい。ときにはバカな親のフリをして、子どもの自立を促すのもよい。依存心がつけば、ある段階から伸び悩むので注意する。





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●肩書き社会

 この日本では、肩書きで、ものが動く。人の価値、さらにはその中身まで、肩書きで判断する。これはいわば世界の常識で、長くつづいた身分制度という封建意識が、その底流にある。が、それだけでは終わらない。

 長い間、その肩書き社会にどっぷりとつかっていると、自分の姿を見失う。ある役人(官僚)は、こう言った。「私ももうすぐ定年でね。定年退職をしたら、長野のイナカへ帰って、村長でもやろうかな、ははは」と。「村長でも」と、「でも」と言うところが恐ろしい。

 一般論として、肩書き社会を生きる人は、それだけ上下意識が強く、上下意識が強いということは、それだけ権威主義的なものの考え方をするということ。このタイプの人は、独特の考え方をするから、それがわかる。

 まず無意識のうちにも、人の上下を判断する。応対のし方が、相手によって変わる。自分より目上の人には、ペコペコする反面、自分の支配下にある、目下の人には、尊大ぶったり、いばったりする。電話のかけ方を見れば、それがわかる。「ハイハイ、かしこまりました。仰せのとおりにいたします」と言ったあと、私のような肩書きのないものに対しては、「君イ~ネ~、そうは言ってもネ~」と。

 家庭でも、ものの考え方が権威主義的だから、「親に向かって何だ!」というような言い方が多くなる。「親が上」「夫が上」と。そういう上下関係の中に自分を置かないと、落ち着かない。が、その分だけ、親として、夫として、よい家庭づくりに失敗しやすい。

 が、さらに悲劇はつづく。自分自身の価値すらも、その肩書きで決めるから、その肩書きから、自分を解き放つことができない。定年退職をしたあとも、その肩書きを引きずって生きる人は少なくない。私のいとこの義父がそうだった。退職したときは、国の出先機関の「長」まで勤めた人だが、死ぬまで、本当に死ぬまで、その肩書きにこだわっていた。私が「幼稚園で働いています」と言ったときのこと。その人は私にこう言った。「どうせ、学生運動か何かをしていて、ロクな仕事につけなかったんだろう」と。幼稚園の教師の仕事は、「ロクな仕事ではない」と。

 肩書きを引きずって生きるのは、その人の勝手。しかしその分だけ、結局は自分でさみしい思いをするだけ。つい先日、ここに書いたいとこの義父が八〇歳の年齢でなくなった。が、葬式に出た母はこう言った。「あんなさみしい葬式はなかった」と。実際、この私も、「ロクな仕事」と言われてから、その義父の家には、一度も行かなかった。会いたいという気すら、まったく起きなかった。「死んだ」と聞いたときも、「ああ、そう」ですんでしまった。心の通わない人の死というのは、そういうものかもしれない。権威主義的なものの考え方をする人は、自ら人の心を閉ざす。





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●いびつな行動

 こんな興味深い実験がある。日本体育大学名誉教授の正木健雄氏(教育生理学)らがした実験だが、つぎのようなものだ。

 子どもにゴム球をもたせ、ランプの色により、握ったり放させたりさせ、指示どおりにできるかどうかを調べた実験である。

 で、指示どおり、切り替えが正確にできるタイプを、「活発型」、握ってよいときに握らないのを、「抑制型」、反対に握ってはいけないときに握るのを、「興奮型」とした。

 その結果、一九六九年に調べたところ、(1)幼児段階では、興奮も抑制も弱く、(2)小学校低学年では興奮が強くなり、その後、(3)気持ちを抑える力がつくことがわかったという(読売新聞、〇二年六月)。

 ところが、である。四年前に同じ調査をしてみたところ、六九年には見られなかった抑制型が、小学一年生について、二〇%も現れたというのだ(長野県内、幼児~中学生、四五〇人を対象にした調査)。

 わかりやすく言うと、六九年にはいなかったが、四年前(一九九八年)には、「握ってよいときに握らない子どもが」、小学一年生で、二〇%も現れたということになる※。そしてその結果、「ふだんはおとなしいが、ささいなきっかけで、抑えがとれると、興奮する。通常の発達過程をたどらず、いびつな行動となって現れる」(同新聞)子どもがふえている、と。

原因としては、「食生活、生活リズムなどさまざまな理由が考えられるが、外での遊び、ふれあう機会が減っているためではないか」(信州大・寺沢宏次氏)とも。つまり運動や遊びなどで、仲間と体を動かすことで、前頭葉が発達するが、それがないため、「いびつな行動」となる、と。

 実際、今、すなおな感情表現ができない子ども(幼稚園児)は、約二〇%はいる。皆がどっと笑うようなときでも、笑わない子どもも、約二〇%はいる。この実験で、「二〇%」という数字が出てきたのは、たいへん興味深い。これらの現象は、どこかで連動しているのかもしれない。

※ ……小学生で、興奮型の子どもが多い学年……1969年、二年生
                       1998年、六年生
         興奮型の割合(六年   ……1969年、25%
                       1998年、55%

 「興奮型が低学年から高学年に移り、割合がふえた。興奮する力が育ったあと、抑える力がつくパターンが、崩れているようだ」(前述、正木健雄氏)とのこと。




        
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●自閉文化

 以前、こまかい丸だけをつなげて、黙々と絵を描いている女の子(年中児)がいた。担任の先生に、「あの子はどういう子ですか?」と聞くと、その先生は、「根気のあるいい子でねえ」と言った。しかしそういうのは「根気」とは言わない。「自閉」という。自閉症の初期によくみられる症状のひとつである。

 ところで石川県の金沢市には、いくつかの伝統工芸がある。蒔絵(まきえ)にはじまり、金銀細工、九谷焼など。全体の特徴としては、精緻(せいち)の一語に尽きる。しかし「精緻」と言えば聞こえはよいが、その実体は、「自閉文化」? 強権と圧制による恐怖政治の中で、民衆の心は限りなく自閉した。

NHKの大河ドラマなどを見ていると、前田の藩主たちは結構、ものわかりのよい人物に描かれているが、ああいうものに、だまされてはいけない。たとえば金沢市には、尾張町とか近江町とかいう地名が残っている。昔、それぞれの地方から、強制的に移住させられた人たちがつくった町である。つまり当時の人たちは、それくらい過酷な生活を強いられた。

 一方、アメリアのテキサス州へ行ってみるとよい。ホテルに泊まってみるとよい。見た目には結構、美しいものをつくるが、どれもこれも、実におおざっぱ。ホテルの家具にしても、裏から見ると、「これが家具?」と、自分の目を疑いたくなるほど、おおざっぱ。金沢の文化を、自閉文化というなら、テキサス州の文化は、開放文化ということになる。人間の心が外へ、外へと向かっている。

 ……だからといって、日本の文化を否定しているのではない。しかしそれを「すばらしい」と評価する前に、「どうしてそういう文化が生まれたのか」ということを疑ってみる必要はある。たとえば歌舞伎にしても、封建時代には、きわめて限定された世界で、きわめて限定された範囲の演劇しか許されなかった。演ずる人ですら、きわめて限定されていた。

今でも、家元制度というのだけが残り、それが伝統文化(?)として、代々と受け継がれている。私たちはそういう文化だけをみて、「すばらしい」と評価しがちだが、その陰で、どれだけ多くの民衆の、そしてその数に等しい創造的な文化が抑圧されたかを忘れてはならない。

 子どもの世界を見ていると、日本の文化そのものが見えてくることがある。私はあの女の子のことを思い出すたびに、そこに金沢の文化をダブらせてしまう。金沢で学生生活を送ったということもある。「はたして金沢の伝統工芸は、幸せな民衆が生み出した文化であったか」と。

むしろ私は、そこに行き場をなくした、民衆の「怒り」を感ずる……と言うのは、少し考えすぎかもしれないが、しかし少なくとも、外に向かった伸びやかさは、ない。あなたも今度金沢へ行ったら、そういう目で、あの工芸品を見てほしい。





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●消息

 インターネットで、ときどき、昔の知人を検索する。ヤフーの検索をつかえば、瞬時に、消息が検索できる。本当に、瞬時だ。で、消息の消えた人。あるいは活躍している人など。消息が消えたというのは、おおげさだが、要するに検索で見つからない人のこと。「どうしたのかな?」と、考えてしまう。

とくに恩師の消息を検索するときは、ある種の緊張感が走る。「もう亡くなってしまったのでは……」という心配が、いつもつきまとう。

 もちろん活躍している人もいる。都市の総合大学で、教授になったり、学部長になった人もいる。ビジネスの世界で、大輪の花を咲かせた人もいる。マスコミの世界で活躍している人もいる。そういう人がいることは、本当にうれしい。見つけるたびに、女房に、「あの人はねえ……」と、その人のエピソードを話す。

 一方、本当に亡くなってしまった人もいる。心配なときは、関係機関や、その所属先に電話を入れて、たしかめている。若いころ世話になった、当時の年配の人は、大半がもうこの世の人ではない。「いつかお礼に行こう」と思ってはいたが、自分の時間以上に早く、こうした人たちの時間は、過ぎていった。三〇代、四〇代のころは、自分の人生を生きるだけで精一杯。過去を振り返る余裕すらなかった。いや、時間が過ぎているという実感すらなかった。いつまでも、いつでも、「その人」は、そこにいるものとばかり思っていた。が、「その人」は、もういない……。

 が、例外(?)もある。郷里の美濃市に住む、M氏だ。私が中学生のときであった、塾の先生だが、当時すでに五〇歳前後の人だった。たいへんな気骨の持ち主で、一方で市議会議員をしたりしていた。市長選には何度も出馬した。年賀状ですら、元旦に自分で配達していた。夏になると、毎日、川で泳いでいたし、正月には山の上から凧をあげていた。ふつうの人ではなかった。

 その恩師から、久しぶりに小冊子が届いた。見ると、「満八八歳の喜寿のときに書いた冊子」という。その人の健康法、人生論などがつづられていた。若々しい文章だった。私はそれを読んでうれしくなった。こう書いてあったからだ。「ものを書く力は、年齢とともに、かえって鋭くなった」と。私は、ものを書く力(力というより、「鋭さ」)が消えるのが、何よりもこわい。「その力は、年齢とともに、鋭くなった」と。

 ……と、その人の消息を知るたびに、人生の悲哀を、しみじみと感ずる。昔、ジャン・ダルジー(フランスの詩人)が、「人、来たりて、また去る」と歌ったが、その意味がよくわかるようになった。インターネットには、そういう「力」もあるようだ。


 


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●リストラ

 ある日突然、解雇を言い渡される……。

 それから受ける衝撃は、たいへんなものだ。実のところ、私も、そういう辛酸(しんさん)を何度かなめさせられたことがある。(今は詳しくは書けないが、いつか時期がきたら、書くつもり。)

それは、何というか、全人格、全人生を否定されたかのような衝撃だ。よくリストラされた人の自殺が新聞で報道されるが、その衝撃は、そういった類(たぐい)のものと言ってよい。生はんかなものではない。歳をとってからのほうほどそうで、怒りを通り越して、絶望感すら覚える。しかし私のばあい、いつもそれをバネにしてきた。生来の負けず嫌いの性格もある。よく「林は、ころんでもタダでは起きないな」と言われたが、そういうガッツ精神も、背景にある。

この世界には、「復讐」という言葉がある。私が使う「復讐」というのは、少し意味が違うが、そういうときはいつも、私は復讐を誓ってきた。

 復讐にも、二種類ある。他人に対する復讐と自分に向かう復讐。私のばあい、その相手を徹底的に無視する。これが他人に対する復讐。解雇されたからといって、ジタバタしない。表面的には、冷静さを保つ。ジタバタすれば、それは相手に対して負けを認めることになる。理由も聞かない。もちろん異議も唱えない。「どうぞ、ご勝手に」という態度をつらぬく。……つらぬいた。いくら解雇されても、自尊心までは捨てない。

 で、つぎに大切なことは、自分に対する復讐だ。自分の力なさ、思慮のなさ、さらに油断をのろう。のろって、のろって、のろいまくる。その復讐は、「どうしてお前はそういうことをされたのだ」という思いから、始まる。そしてつぎに、徹底的に相手を分析する。女房は「無視しなさいよ」とよく言ったが、私は分析した。相手の性格、知力、能力など。そして結論として、その相手に負けている部分があれば、それ以上の自分になることで、自分の中の敗北感を消した。

で、ここで大切なのは、あくまでも相手の中身だ。肩書きや地位ではない。そういうものには勝ち目がないし、そんなものを問題にしても意味はない。あくまでも中身だ。自分の中に、相手を克服したと思えるほどまでに、自分自身を昇華する。(これは多分に、うぬぼれと思いあがりによるものかもしれないが、それはそれで構わない。)そうすることで、悲しみや、怒りや、そして屈辱感を乗り越える……。

 今、いろいろと苦しい思いやつらい思いをしている人も多いと思うが、どうか負けないでほしい。私はほんの一時期を除いて、人生の底辺を、それこそいつもバカにされて生きてきた。そういうものには、そういうものの、哲学がある。一般世間の哲学とは違ったものかもしれないが、ここに書いた生きざまは、そういう哲学から生まれた。参考になればうれしい。





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●自分を知るバロメーター

人間というのは、相手と同等のときは、その相手に腹もたつ。しかし自分が相手を超えたという実感のあるときは、腹もたたない。言いかえると、これをうまく利用すると、あなたのレベルを、それで知ることができる。

たとえば今、あなたに不愉快に思っている相手がいたとする。「いやなヤツだ」とか、「顔を見ただけで、けんかをしそうになる」とか。もしそうなら、あなたも、その相手と同等の人物にすぎないということ。あなたから見て、あなたよりはるかに「下」にいる人は、あなたは相手にしないはず。あなたと同等だから、あなたは相手にする……。このことは、子どもの世界を観察してみると、よくわかる。

たとえば「子どものいじめ」。いじめる側は、いじめる相手を「下」において、その相手をいじめる。本人は優越感を感じているかもしれないが、実際には、いじめる側のほうがレベルが低い。が、その「いじめられる側」が、運動や学力で、相手を超えると、そのいじめが消える。

子どもどうしでも、相手に一目をおくようになるためである。だからよく子ども自身から、いじめの相談を受けると、私はその子どもにつぎのように言うようにしている。「君が苦しいのは、それは君が、相手と同じレベルの人間だからだよ。だから相手が君に対して一目おくほど、君が彼らを通り越せばいい。それがその苦しみと戦う唯一の方法だ」と。(だからといって、いじめを肯定しているわけではない。)

もちろんいじめといっても、内容は複雑だし、当の本人は深刻な問題だ。ここに書くほど、簡単な問題ではない。しかし私のばあい、いつも、いじめられることで、さらに自分をたくましくしてきた。そして不思議なことだが、いじめられている最中というのは、その相手をうらんだり、憎んだりするが、自分が相手を超えてしまうと、その相手に対して、親近感すらもつようになる。相手を「のむ」というのは、そういうことをいう。

 そこで私はいつもこう考えるようにしている。「今、一番不愉快に思っていることはだれか」と。……いや、もっとも、不愉快に思っている人は、(あくまでも今のところだが……)、近辺にはいない。私が今、不愉快に思っているのは、日本の政治や、日本の社会にはびこるカルト(教団)だ。

「敵は大きければ大きいほどよい」とは、よく言うが、大きな敵をもてばもつほど、身の回りのささいなことが気にならなくなる。(だからといって、私が大物だとは思っていない。これは私の処世術のようなもの。ささいなことが気になったら、その時点で、できるだけ大きな敵について考える。そして結果として、そのささいなことを忘れ、それから遠ざかる。)

 少しかっこうのよいことを書いたが、この方法は、自分のレベルを知るのに、とてもよい方法だと思う。一度、あなたも試してみたらどうだろうか。

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