最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

(3)

2010-09-16 11:01:22 | 日記




<読書感想文>



娘の宿題の読書感想文を眺めながら、ふと思ったことがあります。

そういえば、私がアメリカでいたときの5年間、読書感想文って

書いただろうか? 書いてない!(そうか、だから娘に指導できない

んだ!って開き直ったほどです。)



日本は識字率が高いので、こういう宿題が可能だと思いますが、

それだけが理由なのでしょうか。



私が過ごした5年間でこなした作文課題といえば…。

ショートストーリーを書く、詩を書く、俳句を書く、などでした。

いわゆる creative writingです。 

エッセーといっても、レポートと同じように「批評する」文章でした。



日本の、いわゆる読書感想文の、「○○に感動しました。☆☆が

面白かったです。私にもこういう経験があります。この本を読んで

とても心が打たれました」的なものではなかったです。



本について書く文書といえば、ブックレビューでした。これも、

本の批評です。critical writingといわれていました。それこそ、

作品の中の、フレーズや単語ひとつを、とことん批評するという

ような主旨のもの。または、作品の歴史背景等を鑑みた批評など。



アメリカの、私が住んでいた町だけ読書感想文の指導がなかった

のでしょうか。よその国でも、日本の読書感想文にあたるような

もの(原稿用紙3枚ぐらいの分量のもの)があるのでしょうか。



ふと、気になってしまいました。





とてもとても長くなりました。適当に読み流していただけると

幸いです。



SKでした。



【はやし浩司よりSKさんへ……】



 昨夜(8・7)は、アジアカップの決勝戦が、ペキンでありました。私の教室の父親が、2人、出場しているということで、ふつうでない緊張感を覚えました。(いつもなら、菓子をポリポリ食べながら、気楽に観戦していたと思いますが……。)



 中国の人たちのもつ、根深い反日感情を知るにつけ、改めて、「国とは何か」を、考えさせられました。選手の人たちは、若い人ばかりです。戦前の日本とは、関係のない人ばかりです。



 それが、戦後60年近くもたった今、ペキンで、反日攻撃の矢面に立たされている!



 私も、1967年に、UNESCOの交換学生で、韓国に行きましたが、歓迎されたのは、当初の1日だけ。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされました。戦後生まれの、私が、です。



 国歌斉唱のとき、またまた大ブーイング。それを見ていたとき、何もしてこなかった私たちの世代。それを知り、申し訳ない気持ちにかられました。多分、選手の奥さんたちや、生徒たちも観客席にいるでしょう。何か、ものを投げつけられなければよいがと、どこかハラハラして見ていました。



 あんな気持ちで、サッカーの試合を観戦したのは、はじめてです。



 で、日本が優勝。何ごともなかったようです。(もし2対1なら、大抗議が起きていたかもしれませんね。うち日本の1点は、どこかファウルゴールぽかったですから……。しかし実際には、3対1で、勝った! これなら中国側も文句を言えない!)



 よかった! 



 広島の原爆について、「小学生に平和宣言などさせるものではない」と書いた私の意見に、
やはり反論してきた人がいました。



 わかります。



 私は平和宣言に反対しているのでは、ありません。「平和を、つぎの世代のための子どもたちのために用意するのは、私たち、おとなの役目だ」と書いたのです。「そのために、子どもを利用してはいけない」と。



 同じようなテーマに、環境問題があります。おとなの私たちが、さんざん、環境をよごし放題よごしておいて、子どもたちに向かって、「環境を守れ」はないとと思います。



 それともSKさんは、アメリカで、子どもが、平和宣言しているような光景を見たことがありますか? 子どもが自分で考えて、そう言うならまだしも、子どもを操り人形のように、操ってはいけない。それが私の意見です。(何なら、幼児に平和宣言させてみればよいのです。どうしても、子どもにさせたいのなら……。)



 平和の問題は、高度に政治の問題であり、それゆえに、それは純粋に、おとなの問題なのです。たとえば今、天然ガスの採掘をめぐって、日中関係がギクシャクしています。たがいに、まさに(やられたら、やり返す)の応報を繰りかえしています。こうした応報が、やがて戦争につながらないとは、いったい、だれに言えるでしょうか。



 「平和を守ります」と、子どもに宣言させて、それで平和を守ることにはならないのです。



 私は、こうした、つまりおとなたちの責任をタナにあげ、子どもを利用する行為が、どうにもこうにも、許せないのです。プラス、どうにもこうにも、理解できないのです。



 そうそう、その「日本人には、国旗はいらない」と言ってきた人は、現在、インドネシア在住の男性(50歳)です。前後を少し省略しましたが、彼が言うのは、こういう意見です。



 「インドネシアは、いろいろな民族でなりたっている。そういう国を一つにまとめるには、国旗が必要だ。しかし日本は、そもそもそういふうに、一つにまとめる必要はない。少なくとも、インドネシアのようにはない」と。



 それで冒頭のような意見を書いてくれました。少し、誤解があったかもしれません。



 「能」で思い出しましたが、私が学生時代、2年間だけですが、その能(私は声を出す、謡)をしました。加賀宝生流です。京都の能舞台で、うなったこともありますよ。



 外国へ行くたびに、何かの場で、披露しています。ああいうのを、何か一つ、得意芸として、身につけておくと、よいですね。「これがジャパンだ」と、誇ることができます。



 またアメリカには、(ライブラリー)という授業があります。週1回程度、図書室で、指導を受けるというものです。ご存知のように、アメリカでは、読書指導が、教育の柱になっています。



 驚いたのは、(ライブラリー)の指導だけは、修士号をもった教師でないと、できないということです。(ほかの教科は、学士号で、教壇に立つことができますが……。)



 「図書館の司書」というと、日本では、どうしても「下」に見られますが、欧米では逆のようですね。オーストラリア人の友人も、オーストラリアのM大学の図書館で、司書をしていますが、教授と同じあつかいです。あらゆる教授の相談にのるという意味で、重要な仕事と考えられているようです。



 SKさんのメールを読みながら、改めて、ナットクしたというわけです。ありがとうございました。



 言うまでもなく、(作文)が、文字、言葉教育の目標であり、要(かなめ)ですね。本を読んで、作文を書く。これから日本でも、もっと重要になってくると思います。



 メール、ありがとうございました。またまたマガジンへの掲載を、許可していただければ、うれしいです。(すでに発行予約してしまいましたので、事後承諾になります。どうか、お許しください。9月6日号に、掲載します。よろしかったでしょうか。)



 そうそう、きのう、「スパイダーマン」を見ました。ああいう映画は、肩がこらなくて、よいですね。ハハハと笑って見ました。

(040808)


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

●怒り、そして無力感

++++++++++++++++++

教育というのは、20年後、30年後の
日本を見据えて、する。
今、教育していることは、20年後、
30年後に、その結果となって現われてくる。

++++++++++++++++++

●40年前

 今から40年以上も前のこと。
「40年」といっても、けっして古い話ではない。
「今」の話である。

 私は当時、オーストラリアの大学にいた。
そのときのこと。
アジア各国から来た留学生たちと、こんな会話をした。
今とちがって、その国でもエリート中のエリートたちである。
日本は貧しかった。
アジアの国々は、もっと貧しかった。
が、みな、こう言った。
「日本へは留学しない」
「日本へ留学しても、むだ」と。

 理由は私もよく知っていた。
日本でいくら資格を取っても、そうした資格は日本以外の国では通用しない。
たとえば日本で医師免許を取っても、日本以外の国では通用しない。
当時の日本は、(今でもそうだが)、こと教育に関しては、鎖国主義を
貫いていた。
「外国の医師免許を認めない」と。
だから相互主義として、外国も日本の医師免許を認めない。

 私も一時期、オーストラリアでの就職を考えたことがある。
で、いくつかの会社をあたってみたが、私はオーストラリアでは、
「高卒扱い」だった。
「週給は、550ドル」と。
で、私がいくら、「私は日本の大学で学位を取っている」と主張しても、
受け入れられなかった。

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