最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●受験競争でつぶれる子どもの心(1)

2010-07-29 12:10:54 | 日記
【金権教からの脱出】(Is Money Everything?)

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教育と営利行為は共存しうるか。
医療と営利行為は共存しうるか。
芸術と営利行為は共存しうるか。
宗教と営利行為は共存しうるか。

答は、どれも「NO!」のはず。
強欲さの追求と、「心」の追求は
両立しえない。
営利行為を捨て去ったところに、
教育、医療、宗教は存在する。
が、現代社会では、それが奇妙に
共存している。
つまり矛盾が矛盾とわからないまま、
共存している。

営利行為でなくてもよい。
名声、名誉、地位、肩書き……。
本来、共存しえないものが、共存
している。

まずそのおかしさに気づく。
それが私やあなたの「心」を守る、
第一歩!
「心の豊かさ」を守る、第一歩。

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●つぶれる心

受験競争を経験させると、子どもの心は確実につぶれる。
ものの考え方が、功利的、打算的になり、ドライになる。
心の余裕をなくす。
もっと平たく言えば、人間が本来もっている温もりをなくす。
割り切り方がすばやくなり、一度割り切ると、そのまま心は、氷のように冷たくなる。

理由は簡単。

 子どもは親の「心」を、そのまま受け継ぐ。
親自身が、受験競争というものはそういうものと、考えている。
その底流では、ドロドロとした醜い欲得が、渦を巻いている。
それがそのまま親の心となり、子どもの心となる。
つまり親が子どもの心をつぶす。
つぶしながら、つぶしているという意識さえない。
ほとんどの親は、「子どものため」と考えている。
一方、子どもは、やりたくもない受験競争を強いられる。
被害者意識をもつ。

 受験競争でうまくいく子どもは、全体の何割もいない。
大半は、その過程で傷つき、脱落していく。

●親の不安や心配につけこんだ、金儲け

だからいくら親ががんばっても、子どもは、感謝などしない。
ぜったいにしない。
仮に目的の(?)学校へ進学できたとしても、感謝などしない。
「お父さん、お母さんが励ましてくれたから、合格できた」などとは、ぜったいに
思わない。
親にもしないが、ついでに、進学塾にもしない。
進学塾の講師にもしない。
当然と言えば、当然。

 「教育」とは名ばかり。
親の不安や心配につけこんだ、金儲け。
それが進学塾の実態。
そんなことは、小学生にだってわかる。

●「二度としたくない」

ある進学塾の講師は、こう言った。
その道、35年のベテランである。
「私など、ただの一度も元生徒の結婚式に呼ばれたことはありません」と。
苦笑いしながら、「苦労に苦労を重ねた生徒ですら、去るときは、ハイ、サヨナラです」と。

また別の男性は、45歳くらいまで予備校の講師をしていた。
45歳のとき、ベンチャー企業を興し、その経営者になった。
その男性も、その直後、こう言っていた。
「予備校の講師など、二度としたくないね」と。
道に唾(つば)を吐きかけんばかりの言い方だった。

で、私の話になる。

●進学塾の講師

私も予備校や補習塾で、講師をした経験がある。
20代から30代のはじめにかけてのころのことである。
幼稚園での仕事が終わると、夜遅くまで、講師として働いた。

ひとつの予備校の経営者は、いつもこう言っていた。
「親を信じてはいけない」と。
つまり割り切って仕事をしろ、と。
それが口癖だった。

そのときはその意味が、よくわからなかった。
が、今は、よくわかる。
この世界、お人好しは、通用しない。
善意も通用しない。
ただいつも一方的に裏切られるだけ。
たとえばX補習塾で働いていたころ、こんなことがあった。

●A子さん(中2)の例

 その補習塾では、とくにがんばった子どもや、経済的な理由のある子どものばあい、
月謝を、程度に応じて免除していた。
(当時は、月謝という形で、毎月現金で受領していた。)

 A子さん(中2女子)も、そんな生徒の1人だった。
塾長のはからいで、その生徒の月謝は、4分の1になっていた。
そのA子さんが、ある日、どこかの進学塾の宿題をもってきた。
私が「それは何?」と聞くと、「Y塾の宿題!」と。

 私は驚いた。
A子さんの親には、とてもそんな余裕はないはず。
そこで少し遠回りな言い方で、話を聞いてみた。
A子さんは、こう言った。
「ここでの月謝が浮いた分で、Y塾にも通えるようになった」と。

●塾経営

 塾が自動販売機にたとえられる時代があった。
今は、ファースト・フード店にたとえられる。
大規模になり、チェーン化した。
送迎時のあいさつの仕方、三者面談の内容、仕方、
話の進め方など、すべてがマニュアル化されている。
「塾は掃除!」と説く塾長もいる。
「塾は清潔で明るくしろ」と。

 外観が美しい分だけ、中身は醜いということか。
それとも中身の醜さをごまかすため、外観を美しくするのか。
どうであれこんな世界で、思春期前夜、思春期を過ごす子どもたちこそ、あわれ。
悲劇。
プラス残酷!

受験競争を通して、人生の骨格を組みあげてしまう。
冒頭に書いたように心をつぶされながらも、それを意識することもない。 
たとえばこの時期、親の希望には際限がない。
よい例が不登校。

●際限のない親の希望

 子どもがやっとのことで、午前中だけ学校に通えるようになったとする。
しかもほんの1、2時間。
しかしそこまで子どもをもってくるのが、たいへん。
長い時間がかかる。
が、すぐ親は、こう言い出す。
「何とか給食だけでも・・・」と。
あるいは「午後の勉強も・・・」と。

 進学校にしてもそうだ。
何とかC中学に入れそうになると、親は、「せめてB中学に・・・」と言い出す。
そのB中学が射程圏に入ってくると、今度は「何とかA中学に・・・」となる。

 それに塾教師が振り回される。
が、ひとつだけ忘れてはいけない。
「子どもこそ、被害者」と。
それに振り回される子どもこそ、被害者。

 子どもの心は無視。
子どもの希望も無視。
親はそれを正しいことと信じて、子どもに押しつける。
「学歴信仰」というのは、立派なカルト。
学校神話に基づく、立派なカルト。
子どもは子どもで、それを客観的に判断する経験もない。
抵抗する力もない。
だまって親に従う。
従いながら、心をつぶす。

●心と近代化

 「人の心」と「近代化」は、反比例の関係にある。
それとも人の心が、そこまで金(マネー)に毒されてしまったと考えるべきなのか。
さらに言えば、経済は発展した。
経済学も発展した。
しかし経済と「人の心」の関係について、それを論じた人はいない。
(私は論じているぞ!)
いないばかりか、経済を論ずる人ですら、毒されてしまっている。
脳のCPU(中央演算装置)の問題。

・・・話が大きく脱線した。
しかしこうした変化は、子どもたちを成長段階を追いながら観察してみるとよくわかる。
小学校の低学年のときは、心のやさしかった子どもでも、受験競争を経験したとたん、
人が変わる。
夏休みの間の特訓教室のようなものに通っただけで、大きく変化する子どももいる。
親は「やっと自覚ができたようです」と喜ぶ。
しかしその一方で、もっと大切なものを子どもは失う。
親は、それに気づかない。
それもそのはず。
親自身も、子どものころ、その大切なものを失っている。

●日本のビジネスマン

もう少しわかりやすい例をあげよう。
こんなことがあった。

 オーストラリアで学生だったときのこと。
私はことあるごとに、日本へ帰ったら商社マンとして働くことを自慢していた。
それしか自慢するものがなかった。
が、ある日のこと。
仲がよくなり始めていたオーストラリア人の友人が、私にこう言った。
「ヒロシ、そんなこと、自慢するのをよせ」と。
理由を聞くと、「君は知らないかもしれないが、日本の商社マン(ビジネスマン)は、
オーストラリアでは軽蔑されている」と。

 はっきりと「despised(軽蔑されている)」という言葉を使った。
この言葉は、かなりきつい響きをもつ。
で、理由を聞くと、こう話してくれた。

●何でも「金(マネー)」

 ある日、日本の商社マンがその友人の家に招かれて、やってきたときのこと。
オーストラリアでは少し親しくなると、たがいに食事に招待しあうという習慣がある。
(欧米では、どこでもそうだが……。)
その食事が終わったとき。
商社マンはおもむろにカバンの中から、何かを取り出して、「これを買わないか?」と、
言い出した。
そのものは忘れたが、繊維製品か何かだった。
が、その友人の父親はそれには興味を示さなかった。
そこで「NO!」と答えると、商社マンは今度はべつのものを取り出したという。
今度はカメラか何かだった。
が、それが何であるかどうかは、この際、どうでもよい。
それを買わないかと、言い出したという。

 友人の父親はすっかり不愉快になった。
ひとつのものをいらないと言うと、別のものを出す。
それもいらないと言うと、さらに別のものを出す。
そういう日本の商社マンの態度が許せなかった。

 が、私はこの話を聞いたとき、「どうして?」と思ってしまった。
日本の商社マンとして、その商社マンは当然のことをしただけ。
日本からわざわざ50万円近い旅費をかけて、やってきた。
当時の水準からすると、大卒の初任給の10か月分の給料である。
「ごちそうさま」で帰るわけにはいかない。

 私がその商社マンだったら、同じことをしただろう。
だから「どうして?」と。
そのときは、ごく自然に、私はそう考えた。

●それから30年後

 それから30年あまり。
今度は私が逆の体験をすることになった。

 ある日のこと。
高校時代の友人から、突然、電話がかかってきた。
「ぜひ、一度、会いたい」と。
高校時代には、それほど親しくはなかった。
しかし私には高校時代の友人に、「友人」と呼べるような友人は、ほかにいない。
そのこともあって、ていねいにその友人を招いた。

 が、1夜、私の家に泊まった朝のこと。
居間にいるとその友人は、かばんから、10個くらいの瓶を取り出した。
サプリメント商品、つまり健康食品の入った瓶だった。
「これを買わないか?」「仲間に入らないか?」と。
話を聞くと、ネズミ講方式で利益がふえるという。
私はそれを聞いて、心底がっかりした。
がっかりして、「君は、最初からこれが目的で、ぼくに近づいてきたのか」と聞いた。
彼は強くそれを否定した。
しかし彼の意図は見え見えだった。

●無数の意識

 私はそのとき、オーストラリアの友人の父親の気持ちが、はじめて理解できた。
なぜあのとき、友人の父親は不愉快になったか。
それが理解できた。
つまりそれが「意識の差」ということになる。

 お金に毒されているときは、脳そのものが毒されているから、それに気づくことはない。
しかし一歩退いて、別の世界からそれをのぞいてみると、それに気づくことができる。

 これはほんの一例だが、こうした無数のこまかい「意識」が集合して、「毒される」
という状態になる。
が、何度も書くが、毒された人は、それに気づくことはない。
脳のCPU(中央演算装置)そのものが毒されている。

 よい例が、C国製品。

●目覚まし時計

 ところで私は最近、小型ビデオカメラ付きの目覚まし時計を買った。
あのC国製。
パソコン雑誌に紹介されていたので、信用して買った。
しかしこれがとんでもない粗悪品。

SDカードを挿入することになっているが、それがうまく入らない。
セットがむずかしい。
うまくいかない。
電源を入れなおすたびに、時刻が初期設定に戻ってしまう。
おまけに説明書の日本語が、めちゃめちゃ。

 が、外から見た「形」だけは、それらしくできている。
どこかの国でできた目覚まし時計のデザインを、そのまま使っている?
私はその目覚まし時計を見ながら、こう考えた。
「C国の人たちは、こんな製品を輸出して、自分たちに恥じないのだろうか」と。
もっとも国全体がそうなっているから、それに気づくことはない。
もちろん恥じることもない。
「無数のこまかい意識が集合されている」というのは、そういうことをいう。
 
●日本の俳優

 もうひとつ話が少し脱線する。

 私とワイフはよく映画を観に行く。
「東宝シネマ」という映画館で、洋画と邦画を、半々くらいの割合で上映している。
邦画はほとんど見ないが、予告編はよく見る。
その邦画。
ひとつの特徴がある。

 邦画に出てくる若い俳優たちが、どの人も、頭はキレるが、人間的な深みがない。
またそういう演技をするのが、「映画」とでも思っているかのようでもある。
自然ぽさがないのはしかたないとしても、日本の俳優たちがもつあの独特の(冷たさ)は、
いったい、どこから来るのか?

 もちろん『送り人』のような、すばらしい映画もある。
が、その『送り人』にしても、私はどこかにあの独特の(冷たさ)を感ずる。
田舎の人たちの温もりを描いているはずなのに、スクリーンのすぐ向こうに、受験生的な、
あの独特の(冷たさ)を感ずる。

 おそらく俳優自身はそれに気づいていないだろう。
ここでいう「受験生的」というのは、「他人をかき分けて競争に勝ち抜いた」という意味。そう解釈してもらってよい。

●子どもの世界でも

 子どもの世界では、それがもっとはっきりと表われる。

 同じ小学6年生でも、心の温かさを感ずる子どももいれば、そうでない子どももいる。
冷たい子どもは、どこまでも冷たい。
ぞっとするほど、冷たい。
頭の中は受験勉強だけ。
あるいは何かの検定試験のことだけ。
バッグの中は、その種の参考書と問題集だけ。
余計なことは、いっさいしない。
もちろんそれなりに勉強はできるが、その先がない。

 簡単に説明すれば、親の温かい愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、心が温かく
なる。
そうでない子どもは、そうでない。
つまり子どもの心の温もりは、親の育て方……というよりは、世代連鎖。
親から子へと伝えられる。
それによって決まる。
ふつう心の冷たい子どもの親は、心が冷たい。
心の温かい子どもの親は、心が温かい。

 だから心の冷たい子どもを見つけ、その親に向かって、「あなたの子どもは心が冷たい
ですよ」と忠告しても意味はない。
親自身が、それを理解できない。
また言ったところで、どうにもならない。
思春期を過ぎて、心の冷たい人間がその後、温かくなるということは、ありえない。
さらに言えば、一度つぶれた心は、元には戻らない。

●幻想

 この日本では、親たちは、「勉強しろ」「勉強しろ」と子どもを追い立てる。
それはそれでしかたのないことかもしれない。
日本人には日本人独特の身分意識がある。
現在は、それが学歴意識に置き換わった。

 が、これだけはよく覚えておくとよい。
それを言えば言うほど、今度は、親がその責任を取らされる。
子どもたちは「高校へ行くのは当たり前」「大学へ行くのは当たり前」と考えるようになる。
中には、「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と言う子どもさえいる。
(これは本当の話だぞ!)

 その結果どうなるか?
親は親で、淡い期待をもつかもしれない。
「いつか親に感謝し、よい親子関係を築くことができるはず」と。
中には「老後のめんどうをみてもらえるかもしれない」と思う人だっているかもしれない。
しかしそれはまったくの幻想。

●月謝袋を詰め先で……

 あえて統計をとるまでもない。
この世界の常識として、「一度、都会の大学を出た子どもは、親のところには戻らない」。
戻らないばかりか、その多くは子どものほうから、親子の絆を断ち切ってしまう。
それもそのはず。
親は子どものためと思って、(本当は自分の不安や心配を子どもにぶつけているだけなの
だが)、「勉強しろ」と言う。
が、言われたほうの子どもは、それによって追いつめられる。
少なくとも「親は自分のことを心配して、そう言ってくれる」などとは、思わない。
進学塾の講師にしても、そうだ。

 へたに「君の将来のためだ」と言っても、子どもは、その先を読んでしまう。
「金儲けのためだろ?」と。
私も実際、そう言われたことがある。
月謝袋を爪先でポンとはじき、「あんたのほしいのは、これだろ!」と私に言った、高校生
がいた。

 皮肉なことに、心のつぶれた学生ほど、成績がよい。
そのままよい(?)大学に進学していく。
社会のリーダーとなっていく。
そして一方で、ドロドロしたおとなの世界の裏を、そのまま見抜く。

●幼児から高校3年生まで

 ずいぶんと否定的なことばかり書いてきた。
読者の方にインパクトを与えるため、やや過激な言い方で書いてきた。
しかし私はこの原稿を、警告の念をこめて書いた。
というのも私は、幼児(年少児)から高校3年生までの子どもを、1日というサイクル
の中で教えている。
40年来、そうしている。
幼児から高校3年生といえば、15年間である。

 そういうサイクルの中で、子どもたちの心の変化を、毎日のように見ている。
が、その「変化」というのは、心理学でいうところの変化とは、少し違ったものである。
たとえばここに書いた(冷たさ)というのは、思春期の反抗期とは異質のものである。
「心がつぶれる」と言っても、その診断方法もなければ、基準もない。
もちろん病名もない。

また心が冷たいからといって、それが何かの障害につながるということでもない。
むしろこの世界は、そういう心が冷たい人たちにとって、住みやすい世界になっている。
そういう人たちほど、社会のリーダーとなり、裕福な生活を送っている。

●最後に……

 最後になるが、今、私はこんなふうに考える。
近代社会は、はたして人間の心を豊かにしたか、と。
「近代社会」というのは言い過ぎかもしれない。
私が書いているのは、受験競争の弊害のひとつにすぎないのかもしれない。
さらに「競争」は不可欠というのなら、方法論の問題ということになる。
つまり子どもの教育法がおかしい。
あるいは日本人がもつ意識が、おかしい。

 どうであれ、このままではこの日本はますます狂っていく。
言うまでなくその国や社会の熟成度は、いかに弱者にやさしいかで決まる。
が、この日本は、それに逆行しているばかりか、さらに「格差」を広げつつある。
入り口で受験競争に勝ち抜いた子どもは、その後、安泰した裕福な生活を送ることが
できる。
そうでない子どもは、そうでない。

 心のつぶれた、冷たい子どもたちが、社会のリーダーとなっていく。
そんな社会を、私たちはけっして目指してはいけない。

 ……ということで、あなたも一度でよいから、自分の身の回りを見渡してみてほしい。
経済的に豊かな人も、またそうでない人も。
そして一度でよいから、こう考えてみてほしい。
「これでいいのか?」と。
たったそれだけのことだが、それが種となって、いつかやがてあなたの心にも、(人間
らしい心)が戻ってくる。
子どもの見方も変わってくる。
けっして貪欲さの奴隷になっていはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 心のつぶれた子 金権教 つぶれる心 冷たい心 心の冷たい子ども 受験競争の弊害)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2008年の3月に書いた原稿を
添付します。
これもかなり過激な原稿です。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

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