最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●兄、準二(1)

2009-08-17 00:28:24 | 日記
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      8月   17日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【兄、準二のこと】

●兄のこと

 私が「兄のことを書こうか?」と提案すると、ワイフは、すかさず、
「書いたら」と。
「このまま何も書き残さなかったら、あなたの兄さんは、本当に消えてしまうわ」と。
そう、本当に消えてしまう。

 結婚をしていない。
子どももいない。
おそらく生涯、「女」すら知らなかった。
一度だけだが、この浜松へ遊びに来たとき、私は兄をトルコ風呂へ連れていこうとした。
兄に「女」を経験させてやりたかった。
しかしそのもくろみは、はかなくも失敗した。
それについては、いつかどこかで書くことになるだろうと思う。
が、ともかくも私の兄は、そういう兄だった。

 まったく頼りなく、まったくふがいなく、まったくどうしようもなかった。
私の兄は、そういう兄だった。

●記憶

 私より9歳年上だった。
そのこともあって、私には兄といっしょに遊んだ思い出が、ほとんどない。
一度とて、ない。
母は兄を嫌っていたし、それがそのまま私の心になっていた。
私が中学生になるころには、すでに私は兄というより、兄の存在を
負担に感ずるようになっていた。

 今から思うと、兄が見せていた一連の症状は、自閉症のそれだった。
事実、晩年、グループホームへ入居してから、自閉症と診断されている。
が、当時は、「自閉症」という言葉すらなかった。
そういう兄を、母は、「家の恥」と考えていたようだ。
母は親意識が強く、そのこともあって、兄を家の中に閉じ込めるようになった。
「外で遊ばせると、みなにいじめられるから」というのが、その理由だった。
友だちと遊ぶことさえ、禁じた。

●M町

 私が生まれ育った岐阜県のM町は、昔から和紙の生産地として、よく
知られている。
由緒ある町というよりは、気位の高い町で、M町の人たちは、M町以外の
町を、「下」に見ていた。

 たとえば生活ができなくなって、M町から出て行く人を、M町の人たちは、
「出ていきんさった(=出ていった)」という言葉を使って、軽蔑した。
M町では、「出ていきんさった」という言葉は、そのまま負け犬を意味した。
だれがそう教えてくれたわけではないが、私は子どもながらに、その意味を
よく知っていた。

 私の実家は、そのM町の中心部にあった。
祖父の時代からの自転車屋で、祖父の時代には、現在のスポーツカー専門店
のように、華やかな商売だったようだ。
祖父は祖父なりに、財産を築いた。

●負担

 話は飛ぶが、私が高校生のとき、こんなことがあった。
近視が進んだ兄を連れて、岐阜の町へ行った。
M町から岐阜の町までは、当時、「美濃町線」と呼ばれる電車が走っていた。
チンチン、ゴーゴーと音を出して走るところから、私たちは、「チンチン電車」
と呼んでいた。

 私は兄を連れて、その電車に乗った。
母に言いつけられて、そうした。
私にはいやな一日だった。

M町にも、いくつかメガネ屋はあったが、度数を選んでかけるだけの簡単な
メガネ屋ばかりだった。
兄に合うメガネがなかった。
それで私は兄を岐阜の町まで連れていった。
電車で、1時間半ほどかかった。

 そこでのこと。
いろいろな検査がつづいたが、兄はすでにそのころ、まともに返答できる
だけの能力はなかった。
メガネ屋の男の質問を、私が兄に伝える形で、私が間に立った。
そのときのこと。

 メガネ屋の女性が、私にふとこう聞いた。
「この人は、あなたの兄さんですか」と。
私は突然の質問にあわてた。
で、そのままこう口走ってしまった。

 「いいえ、ぼくの兄ではありません。うちで働いている小僧さんです」と。

●自転車屋

 兄がなぜ、あのような兄になってしまったかについては、理由はよくわからない。
覚えているのは、兄は、いつも父や母に、叱られていたということ。
自転車屋といっても、店先は、全体でも7坪もなかった。
そこに20台前後の自転車を並べ、その隙間で、父や兄は、自転車を組み立て、
修理し、そして売っていた。

 兄にとっては息の詰まるような職場だったにちがいない。
兄の症状が悪化したのは、兄が中学校を卒業してから後のことではないか。
それまでの兄は、アルバムを見る範囲では、ごくふつうの兄だった。
何枚かみなと笑って写っている写真もあるが、どれも明るく、さわやかな
笑顔をしている。

●飛び降りる

 そんなある日、……少し話が過去に戻るが、何かのことで、私が兄を
いじめたことがある。
何をしたかは覚えていない。
何かの意地悪をしたと思う。
私が小学3、4年生のころだった。

言い訳がましいが、私は腕白な子どもだった。
また当時は、弱い者いじめなど、日常茶飯事。
罪の意識は、まったくなかった。
戦後の混乱期ということもあった。
家庭教育の「か」の字もない時代だった。
少なくとも、私の家は、そうだった。
私はその中で、その時代の子どもとして、育った。

 そのとき、兄は、あの二階の階段の最上段から、下へ飛び降りた。
止める間もなかった。
飛び降りるといっても、身を守る姿勢をまったく取らないまま飛び降りた。
そのまま1階の板間まで、ドスン、と。
 私はそれを見て、驚いた。
驚いて母のところへ走った。
「準ちゃんが、階段から落ちた!」と。

 が、母は、意外なほど、冷静だった。
まったくあわてるふうでもなく、こう言って、吐き捨てた。
「準ちゃんは、わざと、そういうことをするでエ」と。

●犠牲

 全体として、あのころの過去を振り返ると、兄は、「家」の犠牲になった。
その一言に尽きる。
 家にしばられ、家から一歩も、外へ出ることを許されなかった。
母が出さなかった。
私のほうから理由を聞いたわけではなかったが、母はいつも口癖のように
こう言っていた。

 「準ちゃんは、みなにいじめられるから」と。
そしてこうも言った。
「準ちゃんは、生まれつき、ああいう子だった」と。

つまり生まれつき、問題のある子どもだった、と。
そう、兄は、いつも孤独だった。
母からも、見捨てられていた。

●代償的過保護

 少し専門的な話になる。
そういう兄の話をすると、当時の母と兄の関係を知る人は、みな、こう言う。
「浩司君(=私)、あんたは、まちがっているよ。
お母さん(=私の母)は、兄さんをかわいがっていたよ」と。

 しかしこれはうそ。
最近の発達心理学での言葉を使えば、「代償的過保護」ということになる。
一見「過保護」だが、「子どもを自分の支配下に置き、自分の意のままに操る
こと」を、代償的過保護という。

 過保護には、その底流に、親の愛がある。
しかし代償的過保護には、それがない。
そこにあるのは、親のエゴ。
加えて、私の母は、親意識が、人一倍、強かった。

●「お姫様」

 母は、その年齢になるまで、実家のK村では、「お姫様」と呼ばれていた。
実家は農家だったが、そのあたりの農地を支配していた。
大地主だった。
兄弟は母も含めて、13人。
母は9番目前後に生まれた、最初の女の子だった。
だから母は、生まれながらにして、わがままいっぱいに育てられた。……にちがいない。
当時のことを知る人が、私にこう教えてくれた。
 「豊子さん(=私の母)は、お姫様と呼ばれていましたよ」と。
農家に生まれ育ちながら、結婚するまで、土を手でいじったことは一度もなかった。
いつだったか、母が自慢げにそう話してくれた。

 そのお姫様が、自転車屋の跡取りの父と結婚した。
二度目の見合いで結婚を決めたという。
実際には、私の祖父と、母の父親との間で、結婚が決められてしまった。
つまり母を見そめたのは、私の父ではなく、祖父ということになる。

 そう、母は、お姫様だった。
自転車屋という商人の家に嫁ぎながら、生涯にわたって、自分の手を
油で汚したことはない。
一度もない。
ドライバーを握ったことさえ、ない。
これについても、私がとくに聞いたという記憶はないが、母は、よく
こう言った。

「わっち(=私)はなも、結婚したとき、じいちゃん(=祖父)が、
『女は、店に出るな』と言いんさったでなも(=言ったから)」と。
つまり祖父の言いつけを守って、店には出なかった、と。

●斜陽

 私が高校生になるころには、私の家はすでに斜陽の一途をたどっていた。
近くに大型店ができ、そこで自転車を売るようになった。
もう少し早く、私が中学生のころには、そうなっていた。
祖父はそのころ引退し、道楽でオートバイをいじって遊んでいた。
もちろん収入はない。

 私は祖父の威光が、年々、薄くなっていくのを感じていた。
しかしそれは私にとっては、たまらなく、さみしいことでもあった。
祖父あっての、「林自転車屋」だった。
それが世間の目だった。
私にも、それがよくわかっていた。

●父、良市

 父は、もともとは学者肌の人だった。
ふだんは静かで、暇さえあれば、黒い、油で汚れた机に向かって、何かを
書いていた。
いつも書いていた。

 が、酒が入ると、人が変わった。
今で言う、「酒乱」である。
酒が入ると、大声を出し、家の中で暴れた。
家具を壊し、食卓をひっくり返した。

 私が5、6歳のときには、すでにそうなっていた。
私には、暗くて、つらい毎日だった。
父を恨んだ。
酒をうらんだ。
父に酒を売る、酒屋をうらんだ。

●レコード

 兄のゆいいつの趣味は、レコード集めだった。
わずかな小遣いを手にするたびに、兄はそのお金をもって、近くのレコード店へ
足を運んだ。

 当時は表(A面)に一曲。
裏(B面)に一曲だけの、シングル盤というのが主流だった。
それでも値段は300~400円前後だったか?
うどんが、150円前後で食べられた時代だったから、けっして安い趣味ではなかった。
が、兄は、私が高校生のときには、すでに数百枚のレコードをもっていた。
そのレコードを、一枚ずつていねいに分類し、それを1ミリの狂いもなく、きれいに
並べてしまっていた。

 私はすでにそのころ、兄のレコードには手を触れていけないことを知っていた。
たった一枚でもレコードが抜けただけで、兄は、それに気づき、パニック状態になった。
動かしても、兄は気づいた。
「レコードがない」と、ボソボソと言いながら、混乱状態になった。
そんなわけで、兄のレコードのあるその一角は、聖域というか、近づくことさえでき
なかった。

 その一方で、兄は、レコードの最初の一小節を耳にしただけで、即座に、その曲名と
歌手の名前を言い当てることができた。
神業にちかいものだった。
特殊なこだわりと、才能。
今から思うと、まさにそれが自閉症によるものだった。

●大学生

 兄との思い出は、そういうこともあって、ほとんどない。
兄は兄で、私の知らない世界で生きていた。
一方、私は三男という末っ子のよさをフルに利用して、思う存分、自由に生きた。
「自由」というより、「放任」だった。

 長男の賢一は、私が5歳のときに、日本脳炎で他界している。
つづいて兄が生まれ、姉が生まれた。
その姉とも、5歳、年が離れていた。
姉と私の間に、もう1人兄が生まれたが、生まれると同時に、死んだ。

そういうこともあって、母も、私には手が回らなかった。
今から思うと、それがよかったのかもしれない。
私は毎日、あたりが真っ暗になるまで、近くの寺の境内で遊んだ。
学校から帰るときも、やはり家に着くのは、とっぷりと陽が暮れてからだった。

 私の家には、私の居場所すらなかった。
それに父の酒乱があった。
今でも私は夕焼けを見ると、言いようのない不安感に襲われる。
その時刻になると、父が酒を飲み、通りをフラフラと歩いていた。
私にはつらい少年時代だった。

 私ですらそうだった。
いわんや、兄をや。

●金沢へ

 私はそのあと大学生となって、金沢に移った。
母は、「国立でないと、大学はだめ」と、いつも言っていた。
当時は、国立と私立では、学費が、まるでちがっていた。
私が通った金沢大学のばあい、半期(6か月)ごとに、学費は6000円。
月額1000円だった。
一方、私立は、たとえば私立の歯学部に入学した友人がいたが、入学金だけで、
300万円。
私はその額を聞いて、それこそ度肝を抜かれるほど、驚いた。
「300万円!」と。
 その額は、私には理解できないものだった。

 その学費についても、母は口癖のようにこう言った。
「みんなが苦労して作ったお金だ」と。

●恩着せ

 私の母の子育ての基本は、「恩着せ」だった。
そのつど私に、恩を着せることで、私を縛った。
兄や姉に対しては、どうだったかは知らない。
しかし私には、そうだった。

 「産んでやった」「育ててやった」と。
私が大学生になると、「学費を出してやる」「出してやった」と。
が、それにはいつも別の修飾語がついた。

 「このお金を作るのに、どんだけ(=どれほど)、苦労したかわからない」と。
そしてそのつど、その苦労話を、ことこまかく説明した。

●姉

 私には5歳違いの姉がいる。
その姉とは、よく遊んだ。
遊んだといっても、たがいの間には、しっかりとした垣根があった。
当時は、男児が女の遊びをするということだけでも、ありえないことだった。
住む世界がちがった。

 それに姉は、私とは別の世界に生きていた。
お琴に日本舞踊。
徹底したお嬢様教育。
それを、そのまま受けていた。
そのこともあって、私は姉が台所で料理を手伝ったり、料理をしている姿を見た
ことがない。

 母には母の思いがあったのだろう。
しかし私はすでに中学生のときには、その虚栄を見抜いていた。
母は、M町でも名家と呼ばれていた、Y家の妻や、K家の妻たちと、同等、もしくは
それ以上の立場をとりつくろいながら、生きていた。
だから私はこう思った。
思っただけではなく、口に出して言ったこともある。

「自転車屋の女将(おかみ)さんが、医者や酒屋の奥さんとつきあって、どうする?」と。
が、この言葉は、いつも母をそのまま激怒させた。
姉のお嬢様教育は、その延長線上にあった。

●稼業

 私は触覚を、四方八方に延ばしていた。
延ばすことができた。
目はいつも外を向いていた。
兄が家に閉じ込められた分だけ、私は外の世界で、自由に生きた。

 兄は、たしかに「家」の犠牲者だった。
「林家(け)」と、「家(け)」をつけるのもおかしい世界に住みながら、その
「家」に縛られた。
同業の人には失礼な言い方になるかもしれないが、たかが自転車屋。
跡取りとして、守らなければならないような稼業でもない。
当時すでに、自転車店業は、同じ商店業の中でも、番外化していた。

 汚れ仕事だった。
それにこの世界は、まさに弱肉強食。
より大型店ができるたびに、より弱小店は、弊店に追い込まれた。
あるとき祖父が、近所の時計店が新装オープンしたとき、その店に招待された。
そしてその店から帰ってきて、私にこう言った。

 「浩司、時計屋ではな、皿一杯の時計だけで、このうちの自転車すべての
値段と同じだぞ」と。

 つまり家にある20台の自転車すべての値段と、時計屋にある、皿(トレイ)
にある時計の値段と同じ、と。
「時計屋には、そういう皿が、10~20枚もある!」と。

 私はそれを知って、祖父が受けた以上のショックを受けた。
その自転車屋について、母は、こう言った。

 「勉強しんさい(=しなさい)。でなければ、この自転車屋を継ぎんさい」と。
しかしその言葉は、私に死ねと言うくらい、恐ろしい言葉だった。
私は兄を見て育っている。
その兄と同じになれというくらい、恐ろしい言葉だった。

●仕送り

 そんなわけで、私の実家の家計は、私が中学生のころには、火の車だった。
大学生のときも、毎月の仕送りは、下宿代の1万円だけ。
あとは、アルバイトで稼ぐしかなかった。

 姉は私が大学生のとき、農家の男性と結婚した。
農家といっても電信会社に勤務していた。
母は、この結婚に大反対した。
何度も、「うちのM子は、あんな男と結婚するような娘ではない」と。
が、姉は、その男性と結婚した。
母には、不本意な結婚だった。
姉へのお嬢様教育が、こなごなに壊れた瞬間でもあった。

 その結婚のときにも、私の家には現金がなかった。
それで近くにあった借家を売ることになった。
私はその売買に、直接関わった。
法科の学生ということもあった。
値段は、150万円。
当時としては、文句のない値段だった。
そのお金がどう使われたかは知らないが、姉の結婚式は、それなりに派手な
ものだった。


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