最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子供の叱り方(2)

2009-10-26 06:31:59 | 日記


●父の心

 母がはじめて父と、母の実家へ行ったときのこと。
道の向こうから、母の友人が数人、並んでやってきた。
そのとき母は、何を考え、何を感じたかは知らないが、父に向かってこう言ったという。

 「ちょっと隠れていて!」と。
母は父を、橋のたもとにある竹やぶに、父を押し倒した。
父は言われるまま、(多分、訳も分からず)、竹やぶの中に身を潜めた。

 が、それが父には、よほど、くやしかったのだろう。
それ以後、5年とか、10年を経て、父は酒を飲むたびに、それを怒った。

「お前は、あのとき、オレを竹やぶに突き倒した!」と。

 母は母で、気位の高い人だったから、やせて細い父を、恥ずかしく思ったのかもしれな
い。
母は、よく「かっぷく」という言葉を使った。
太り気味で、腹の出た人を、「かっぷくのいい人」と言った。
母は、また、そういう人を好んだ。

●うつ病

 酒乱とうつ(鬱)は、たがいに深くからみあっている。
そのことは、うつ病の人が、緊張状態を爆発させる状態を見ると、よくわかる。
そのときも、(もちろん酒は入っていなくても)、心の別室にたまった、不平や不満が、同
じような形で爆発する。

 うつ病も初期の段階では、心の緊張感が取れず、ささいなことにこだわり、悶々と悩ん
だりする。
そこへ不安や心配が入り込んでくると、心の状態は、一気に不安定になり、爆発する。
「爆発」というより、錯乱状態になる。

 大声で叫び、ものを投げつける。
ものを壊す。

 私の父も、ひどいときには、食卓に並んだ食事類を、食卓ごとすべて土間に投げ捨てて
しまった。
ガラスを割ったり、障子やふすまを破ったりするようなことは、毎度のことだった。

 そういう父を、当時は理解できず、私はうらんだが、父は父で、大きな心の傷をもって
いた。
父は、戦時中、出征先の台湾で、アメリカ軍と遭遇し、貫通銃創を受けている。
今にして思えば、その傷が、父をして、そうさせたのだと理解できる。

●子どもへの影響

 家庭騒動は、親の酒乱にかぎらず、子どもの心に大きな傷をつける。
恐怖、不安、心配……。
そんなどんな傷であるかは、私自身が、いちばんよく知っている。
子ども自身の心が、二重構造になる。

 いじけやすく、ひがみやすくなる。
何かいやなことがあると、やはり心の別室に入り、その中に閉じこもってしまう。
そして自分では望まない方向に自分を追いやってしまう。
ときとして、それが自虐行為につながることもある。
わざと罪のない人に、つらく当たったり、身近な人に冷たくしたりする。

 わかりやすく言えば、子どもの心から、すなおさが消える。
心の動きと、行動、表情が、不一致を起こすようになる。

 私のばあいも、子ども時代の私をよく知る人は、みな、こう言う。
「浩司は、明るくて、朗らかな子だった」と。

 しかしそれはウソ。
そう見せかけていただけ。
私は、そういう形で、いつも自分をごまかして生きていた。

●アルコール中毒

 そんなわけで、アルコール中毒と酒乱は分けて考える。
アルコール中毒イコール、酒乱というわけではない。
酒を飲んで、かえって明るく朗らかになる人は、いくらでもいる。

 しかしその中の一部の人が、(これはあくまでも私の推測だが)、うつ、もしくはうつ病
と結びついて、酒乱になる。
だから治療となると、この2つは分けて考えたほうがよい。
さらに、私の父のケースのように、その背景に、何らかのトラウマが潜んでいることもあ
る。
異常な恐怖体験が原因で、酒に溺れるようになることだってある。

●みんな十字架を背負っている

 先にも書いたが、私は、そういう父を、ある時期恨んだ。
父が死んだときも、涙は、一滴も出なかった。
しかし私自身が、40代、50代になると、父に対する考え方が変わった。
父が感じたであろう孤独、さみしさがよく理解できるようになった。
と、同時に、父に対する恨みも消えた。

 そんな私の心情を書いたのが、つぎの原稿。
54歳、つまり8年前に書いた原稿である。

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●心のキズ

 私の父はふだんは、学者肌の、もの静かな人だった。しかし酒を飲むと、人が変わった。
今でいう、アルコール依存症だったのか? 3~4日ごとに酒を飲んでは、家の中で暴れ
た。大声を出して母を殴ったり、蹴ったりしたこともある。あるいは用意してあった食事
をすべて、ひっくり返したこともある。

私と六歳年上の姉は、そのたびに2階の奥にある物干し台に身を潜め、私は「姉ちゃん、
こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と泣いた。

 何らかの恐怖体験が、心のキズとなる。そしてそのキズは、皮膚についた切りキズのよ
うに、一度つくと、消えることはない。そしてそのキズは、何らかの形で、その人に影響
を与える。が、問題は、キズがあるということではなく、そのキズに気づかないまま、そ
のキズに振り回されることである。

たとえば私は子どものころから、夜がこわかった。今でも精神状態が不安定になると、夜
がこわくて、ひとりで寝られない。あるいは岐阜の実家へ帰るのが、今でも苦痛でならな
い。帰ると決めると、その数日前から何とも言えない憂うつ感に襲われる。しかしそうい
う自分の理由が、長い間わからなかった。

もう少し若いころは、そういう自分を心のどこかで感じながらも、気力でカバーしてしま
った。
が、50歳も過ぎるころになると、自分の姿がよく見えてくる。見えてくると同時に、「な
ぜ、自分がそうなのか」ということがわかってくる。

 私は子どものころ、夜がくるのがこわかった。「今夜も父は酒を飲んでくるのだろうか」
と、そんなことを心配していた。また私の家庭はそんなわけで、「家庭」としての機能を果
たしていな
かった。家族がいっしょにお茶を飲むなどという雰囲気は、どこにもなかった。だから私
はいつも、さみしい気持ちを紛らわすため、祖父のふとんの中や、母のふとんの中で寝た。
それに私は中学生のとき、猛烈に勉強したが、勉強が好きだからしたわけではない。母に、
「勉強しなければ、自転車屋を継げ」といつも、おどされていたからだ。つまりそういう
「過去」が、今の私をつくった。

 よく「子どもの心にキズをつけてしまったようだ。心のキズは消えるか」という質問を
受ける。が、キズなどというのは、消えない。消えるものではない。恐らく死ぬまで残る。
ただこういうことは言える。心のキズは、なおそうと思わないこと。忘れること。それに
触れないようにすること。
さらに同じようなキズは、繰り返しつくらないこと。つくればつくるほど、かさぶたをめ
くるようにして、キズ口は深くなる。

私のばあいも、あの恐怖体験が一度だけだったら、こうまで苦しまなかっただろうと思う。
しかし父は、先にも書いたように、3~4日ごとに酒を飲んで暴れた。だから54歳にな
った今でも、そのときの体験が、フラッシュバックとなって私を襲うことがある。「姉ちゃ
ん、こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と体を震わせて、ふとんの中で泣くことがある。
54歳になった今でも、だ。心のキズというのは、そういうものだ。決して安易に考えて
はいけない。

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●父のうしろ姿(中日新聞に書いたコラムより)

 私の実家は、昔からの自転車屋とはいえ、私が中学生になるころには、斜陽の一途。私
の父は、ふだんは静かな人だったが、酒を飲むと人が変わった。二、三日おきに近所の酒
屋で酒を飲み、そして暴れた。大声をあげて、ものを投げつけた。そんなわけで私には、
つらい毎日だった。プライドはズタズタにされた。友人と一緒に学校から帰ってくるとき
も、家が近づくと、あれこれと口実を作っては、その友人と別れた。父はよく酒を飲んで
フラフラと通りを歩いていた。それを友人に見せることは、私にはできなかった。

 その私も五二歳。一人、二人と息子を送り出し、今は三男が、高校三年生になった。の
んきな子どもだ。受験も押し迫っているというのに、友だちを二〇人も呼んで、パーティ
を開くという。「がんばろう会だ」という。土曜日の午後で、私と女房は、三男のために台
所を片づけた。

片づけながら、ふと三男にこう聞いた。「お前は、このうちに友だちを呼んでも、恥ずかし
くないか」と。すると三男は、「どうして?」と聞いた。理由など言っても、三男には理解
できないだろう。私には私なりのわだかまりがある。私は高校生のとき、そういうことを
したくても、できなかった。友だちの家に行っても、いつも肩身の狭い思いをしていた。「今
度、はやしの家で集まろう」と言われたら、私は何と答えればよいのだ。父が壊した障子
のさんや、ふすまの戸を、どうやって隠せばよいのだ。

 私は父をうらんだ。父は私が三〇歳になる少し前に死んだが、涙は出なかった。母です
ら、どこか生き生きとして見えた。ただ姉だけは、さめざめと泣いていた。私にはそれが
奇異な感じがした。が、その思いは、私の年齢とともに変わってきた。四〇歳を過ぎるこ
ろになると、その当時の父の悲しみや苦しみが、理解できるようになった。

商売べたの父。いや、父だって必死だった。近くに大型スーパーができたときも、父は「J
ストアよりも安いものもあります」と、どこか的はずれな広告を、店先のガラス戸に張り
つけていた。「よそで買った自転車でも、パンクの修理をさせていただきます」という広告
を張りつけたこともある。しかもそのJストアに自転車を並べていたのが、父の実弟、つ
まり私の叔父だった※。叔父は父とは違って、商売がうまかった。父は口にこそ出さなか
ったが、よほどくやしかったのだろう。戦争の後遺症もあった。父はますます酒に溺れて
いった。

 同じ親でありながら、父親は孤独な存在だ。前を向いて走ることだけを求められる。だ
からうしろが見えない。見えないから、子どもたちの心がわからない。ある日気がついて
みたら、うしろには誰もいない。そんなことも多い。ただ私のばあい、孤独の耐え方を知
っている。父がそれを教えてくれた。客がいない日は、いつも父は丸い火鉢に身をかがめ
て、暖をとっていた。あるいは油で汚れた作業台に向かって、黙々と何かを書いていた。
そのときの父の気持ちを思いやると、今、私が感じている孤独など、何でもない。

 私と女房は、その夜は家を離れることにした。私たちがいないほうが、三男も気が楽だ
ろう。いそいそと身じたくを整えていると、三男がうしろから、ふとこう言った。「パパ、
ありがとう」と。そのとき私はどこかで、死んだ父が、ニコッと笑ったような気がした。

(注※)この部分について、その実弟の長男、つまり私の従兄から、「事実と違う」という
電話をもらった。「その店に自転車を並べたのは、父ではなく、私だ」と。しかし私はその
叔父が好きだったし、ここにこう書いたからといって、叔父や従兄弟をどうこう思ってい
るのではない。別のところでも書いたが、そういう宿命は、商売をする人にはいつもつい
て回る。だれがよい人で、だれが悪い人と書いているのではない。ただしその従兄に関し
ては、以後、印象は、180度変わった。以後、断絶した。誤解のないように。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●憎むvs恨む

 人を恨んだり、憎んだりするのも、たいへん。
ものすごいエネルギーを消耗する。
だったら、恨んだり、憎んだりするのは、やめたらよい。
反対に、その人のために、祈ってやる。
「どうか、心を平安に」と。

 というのも、恨まれたり、憎まれるような人は、そういう人。
放っておいても、自ら墓穴を掘っていく。
定められた運命に沿って、自らの道を選んでいく。
私やあなたが、どうこうしたところで、その運命は、変えられない。
あとのことは、その人自身の運命に任せればよい。

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