最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

2/2人生の密度論

2011-02-07 07:06:42 | 日記


●伝達速度


 庭を見ていると、今朝もスズメたちがやってきて、餌をついばんでいる。
そのスズメたち。
チョコチョコと動いては、また別の行動をチョコチョコと繰り返す。
行動が素早い。


 3メートルほどの高さなら、ヒョイヒョイと上下し、木々の間を飛び回っている。
人間に例えるなら、100メートル近い山を瞬時に上り下りするようなもの。
また目と脳の距離も短いから、とらえた信号には、即座に反応する。
私が庭へ顔を出した瞬間に、サーッと高い木へと逃げていく。


 ……つまりいくらクロック数が速くても、脳の中の伝達速度が遅ければ、その分だけ、
頭の回転は遅くなる。
つまり脳の大きさと、伝達速度は、反比例する。
(正確に反比例するというわけではないだろうが……。)


 で、私はあるときこう考えた。
もし数億年後、現在のゴキブリが進化し、ゴキブリ人間のようなものが現れたとする。
彼らは時計の秒針よりさらに細かく分けた、1秒を60に分けた針のあるような
時計を作るだろうな、と。
体だが小さい分だけ、脳内の伝達速度は速くなる。
(反対に像のような巨大な生物ともなると、少なくとも秒針は必要ない。)


 結論を先に言えば、クロック数は同じでも、伝達速度が遅くなれば、その分だけ、
脳の活動は鈍くなる。
つまり密度は薄くなる。
(いろいろ反論はあるだろうが……。)


●頭の回転


 ここでは割愛するが、「信号の伝達」という点では、動物の脳は、たいへんのんびり
というか、非効率な方法を用いている。
電線を伝わる電気信号のようなわけにはいかない。
ちょうどドミノ倒しに似た方法で、ひとつずつの神経細胞が、信号をつぎの神経細胞へと
伝えていく。
つまり脳が大きくなればなるほど、人間はより知的にはなるが、その分だけ、反応が
鈍くなる。
単純に考えれば、おとなより、子どもの方が、脳が小さい分だけ、頭の回転が速いという
ことになる。


●密度


 密度……もしここでいう密度が、2倍速くなったらどうなるか……?

 たとえば1時間に1本の映画を観ることができたとする。
もし密度が2倍になれば、それぞれの映画を早送りして、1時間に2本の映画を観る
ことができることになる。
4倍になれば、さらに早送りして、1時間に4本の映画を観ることができるように
なる。


 言い替えると、1時間に4本の映画を観ることができる人は、1時間に1本の映画を
観ることができる人の、4倍、密度の濃い人生を送ることができる。
(実際には、ここまで単純に計算できないとは思うが……。)
しかし密度を濃くするということは、とても重要なことである。
そのことは、あなたの今の生活と、あなたが子どものころの生活を比較してみればわかる。
たとえば10歳から20歳までの10年間と、30歳から40歳までの10年間。
同じ10年間のはずだが、「長さ」そのものが、ちがう。


 このことは、50歳、60歳になってみると、さらによくわかる。
よく「年を取れば取るほど、時間が短くなる」という。
それが実感として、よくわかる。
つまり子どものころのほうが、密度が濃かったということになる。


●密度の計算


 そこで多くの学者たちは、密度の計算式を求めた。
いろいろな説がある。
が、どれも「?」。
で、私は「爆発説」を考えた。
人生をある一定量のガソリンにたとえてみる。


 誕生と同時に、人間は爆発的にガソリンの大半を消費する。
そのあと10年ほどで、2分の1とか、3分の1を消費する。
そのあと10年ほどで、さらに4分の1とか、5分の1を消費する。
それ以後は、わずかに残ったガソリンを、少しずつ使って生きていく。
63歳になった今は、言うなれば燃えかすのようなもの。
残っているガソリンもわずか。
そのことは特養で生活する老人たちを観れば、よくわかる。


 今日は昨日と同じ。
明日は今日と同じ。
そんな生活を毎日、繰り返している。
1年前も、今年も同じ。
10年生きたとしても、10年前と同じ、と。


 つまり人生の密度は、反比例のグラフのように、加齢とともに、小さくなっていく。


●では、どうするか


 具体的に考えてみよう。


 私は今朝は、午前7時に起きた。
昨夜は長男とワイフと3人で、舘山寺(浜松市内から40分ほどの温泉街)へ行って、
温泉につかってきた。
帰りに回転寿司屋に寄って、遅い夕食。


 私はそれからYOUTUBEに動画を1本、アップした。
床に就いたのが、午前0時。
目を覚ましたとき、外気は冷たかった。
が、そのまま眠っていても、起きて運動をしても、1時間は1時間。
私は思いきって起きて、ウォーキングマシンの上で、30分、歩いた。
(ときどき駆け足もするが……。)


 30分も運動すると、全身に汗をかく。
その運動をしながら、いろいろ考える。
今朝は、今ここに書いている「人生の密度」について考えた。
で、そのままの状態で書斎へ。
メールやニュースを読んだあと、原稿を書く……。


 かなり密度の濃い(?)時間の使い方をしていることになる。
が、その実感が、あまりない。
これはどうしたことか。


 そう言えば、昨夜車の中で、長男がこう言った。
「記憶というのは、感動したり、驚いたりしたときに、強く残るもの」と。


 ナルホド!


 時間を小刻みに使ったからといって、密度を濃くしたことにはならない。
大切なのは、「感動」や「驚き」ということになる。


●ホメオスタシス効果


 が、感動や驚きにしても、それが繰り返されると、回を重ねるごとに、どんどんと
その感動や驚きが薄れていく。
よい例が旅行。


 あちこちへ旅行をし始めたころは、そのつど感動したり、驚いた。
が、回を重ねるにつれて、それが薄れてきた。
最近では、先月行った旅行先のことすら、よく思い出せない。
これもホメオスタシス効果と言ってよいのか。
ウィキペディア百科事典には、こうある。


「恒常性、ホメオスタシス(ホメオステイシスとも)は生物のもつ重要な性質のひとつで
生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず生体の状態が一定に保たれるという性質、
あるいはその状態を指す。生物が生物である要件のひとつであるほか、健康を定義する重
要な要素でもある。生体恒常性とも言われる」と。


 わかりやすく言えば、同じことを繰り返していると、マンネリ化しやすいということ。
言い替えると、密度を濃くするということは、「感動」や「驚き」を、どう自分の人生の
中に取り込んでいくかということ。
時間を有効に使えばよいということでもないらしい。
もっと言えば、忙しいから、それでよいということでもないらしい。
仮にスズメのクロック数が人間の2倍速いとしても、スズメが人間の2倍、密度の濃い
人生を送っていることにはならない。


●感動と驚き


 以上が、私の偏見と誤解による、「人生の密度論」である。
隙間だらけの、つまりは理論としてはボロボロの仮説に過ぎない。
しかしひとつの結論を得た。


 感動と驚き。


 これを大切にする。
……ということで、今日も始まった。
12月23日。
教室では生徒たちが、クリスマス会を楽しみにしている。
その準備をする。
買い物をする。
生徒たちとワイワイと騒ぎ、楽しむ。
それが直接、ここでいう感動と驚きにつながるとは思わない。
が、しかし心に何かしらのインパクトを与えるだろう。
少なくとも、寝て暮らすよりは、よい。


 さあ、今日も感動しよう。
驚こう。


 では、みなさん、おはようございます。
今日も、がんばります!!!


Merry Christmas!!!


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 人生の密度 ホメオスタシス効果 クロック数 視床下部 シグナル 
人生の密度論)


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08年と02年に、同じようなテーマで
原稿を書きました。
もう一度、ここに掲載します。


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●孔子の60代(Confucius on 60’s)


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60代といえば、孔子の生き様が参考に
なる。


孔子(前551~前479)は、魯に仕え、
大司寇となったが、権力者と衝突し、56歳
から10年間、魯を去って諸国を歴遊したという
(ブリタニカ国際大百科事典)。


その10年間で、孔子は諸侯に道徳的政治の
実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の
教育と著述に専念したという(同)。


『春秋』や他の儒家の経典はそのとき生まれたが、
『論語』は、孔子と弟子の言行録と言われている(同)。


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●66歳で


計算すると、孔子は、満73歳前後でこの世を
去ったことになる。
それまでの基礎があったのは当然としても、
今、私たちがいうところの「孔子」は、
ブリタニカ国際大百科事典を参考にすれば、
満66歳前後から73歳前後までに「孔子」に
なったことになる。


ただ釈迦にせよ、キリストにせよ、孔子にせよ、
弟子に恵まれたということ。
弟子たちが、「師」の教えを、後世に残し、伝えた。
もし弟子に恵まれなかったら、釈迦も、キリストも、
孔子も、今に名を残すことはなかった。


それはそれとして、孔子が60歳を過ぎてから
(がんばった)というのは、たいへん興味深い。
言いかえると、「50歳だから……」とか、
「60歳だから……」とか言って、あきらめてはいけない。
……ということを、孔子は私たちに教えている。


が、同じ60歳でも、私と孔子は、どうしてこうまでちがうのか。
ひとつの理由として、中国の春秋時代は、今よりはるかに純粋な時代では
なかったということ。
つまりその分だけ、雑音も少なく、回り道もしなくてすんだ。
それにもうひとつ率直に言えば、当時は、情報量そのものが少なかった。
春秋時代に、人が一生かけて得る情報量は、現代の新聞1日分もなかったのでは
ないか。
言いかえると、私たちは、情報の洪水の中で、何が大切で、何がそうでないか、
それすらも区別できなくなってしまっている。
あるいは大切でないものを大切と思いこみ、大切なものを、大切でないと
思いこむ。


もちろんだからといって、孔子の時代が今よりよかったとは思わない。
釈迦やキリストの時代にしても、そうだ。
しかしここにも書いたように、今よりは、純粋であったことだけは、事実。
たとえて言うなら、子どものような純朴さが、そのまま生きるような時代だった。
このことは、私たちの子ども時代と比べてみても、わかる。


私たちが子どものころには、テレビゲームなど、なかった。
携帯電話もなかった。
しかしだからといって、私たちの子ども時代が、今の子どもたちの時代より
貧弱だったかといえば、だれもそうは思わない。
だから、こと(思想)ということになれば、孔子にはかなわないということになる。


このことは、私たちにもうひとつの教訓を与える。


老後になればなるほど、純朴に生きる。
というのも、私たちは、あまりにも情報、とくに金権教的な情報に毒されすぎている。
人間の命さえも、マネーという尺度で判断してしまう。
そういうものからだけでも解放すれば、ものの見方も、かなり変わってくるはず。


ともあれ、あの時代に、60歳を過ぎてから、「諸侯に道徳的政治の
実行を説いた」というところは、すごい!


さらに「晩年は魯で弟子の教育と著述に専念したという」ところは、
もっとすごい!
だからこそ「孔子は孔子」ということになるのだが、それにしても、すごい!
私たちが頭に描くジジ臭さが、どこにもない。
そういう点で孔子の生き様は、本当に参考になる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
孔子 論語 春秋時代 Confucius はやし浩司 密度の濃い人生)


●朝に道を聞かば……

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論語といえば、『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』。


それについて以前書いた原稿を添付します。


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『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』


●密度の濃い人生


 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い
方によっては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。


 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をい
う。薄い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きて
いるだけという人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実
感を与える。


 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生き
る目的も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と
生きている人は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。


 先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまっ
た。同じように三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞
くと、仕事から帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚
釣りかランニング。「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考え
ることはあるの?」と聞くと、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。


 一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あ
なたをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑い
ながら、こう言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役

です」と。そういう女性は美しい。輝いている。


 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを
同じように繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。
あのマーク・トーウェン(「トム・ソーヤ」の著者、一八三五~一九一〇)も、こう書い

いる。「人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき」と。


 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一
歩、話を進める。


●どうすればよいのか


 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。
私は「無我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お
金儲けに没頭したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も
残っていない。私はたしかに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。し
かし何も残っていない。


 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口
三〇〇万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私一人だけという時代だった。そん
なある日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここでの

日は、金沢で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオーバーなことを書
いたのではない。私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時期というのは、今、
振り返っても、私にとっては、たいへん密度の濃い時代だったということになる。


 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はま
だ結論出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。


(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中
に、
広い世界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。


 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度
が濃いということにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世
界の問題。他人が認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからと
いって、落胆することもないし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。
あくまでも「私は私」。そういう生き方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くする

とになる。


 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これか
ら先、ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。
(02-10-5)


(追記)


 もしあなたが今の人生の密度を、二倍にすれば、あなたはほかの人より、二倍の人生を
生きることができる。一〇倍にすれば、一〇倍の人生を生きることができる。仮にあと一
年の人生と宣告されても、その密度を一〇〇倍にすれば、ほかのひとの一〇〇年分を生き
ることができる。極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道

聞かば、夕べに死すとも可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方
に死んでも、悔いはないということ。私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、
そういう意味も含まれる。



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