最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●子育てポイント(1)

2009-07-23 07:17:13 | 日記
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(521)

●買ったものはダメ!

 オーストラリアの友人の家を訪れてみると、日本にはない習慣があるのを知る。そのひとつ、「プレゼントは、買ったものはダメ」。

クリスマスや家族の誕生日はもちろんのこと、遠方からやってきた客のみやげまで、「買ったものはダメ」と決めている家庭も多い。アメリカというと、映画などで、豪華なプレゼントを交換しているシーンをよく見かけるが、質素な家庭のほうが多いのでは。そういう家庭では、「買ったものはダメ」と決めているところが多い。

私もときどきプレゼント(みやげ)をもらうが、「プレゼントは豪華なものほどよい」という習慣になれた私には、正直言って、「あれっ」と思うようなものがある。

オーストラリアのM君の家に行ったときは、粘土で子どもたちが作ってくれたトカゲの置きもの。
同じくB君の家に行ったときは、乾燥させた花で作った絵。
同じくR君の家に行ったときは、石をきれいにペインティングしたもの。
同じくD君の家に行ったときは、D君が描いたガラス絵。

ときどき、本やぬいぐるみをもらうこともあるが、豪華といっても、せいぜいその程度。また向こうには、スプーン(スーバニア・スプーンという)を交換するという習慣があって、スプーンをあげたり、もらったりすることはある。

しかしよくよく考えてみると、「買ったものはダメ」というルールは、すばらしいルールではないか。プレゼントを渡すという、もともとの意味にも合致している。つまり「心のこもったプレゼントほどよい」という考え方にたつなら(当然だが)、その人の真心(まごころ)が感じられるもののほうがよい。お金を出してデパートのようなところで買ったものは、(日本人なら、「お金を稼ぐのに苦労をしたから」と考えがちだが)、一見価値があるようで、その実、ない。まったく、ない。

 ……と考えて、では、盆暮れのつけ届けは何かということになってしまう。しかし考えてみれば、これほど日本の悪しき、無意味な習慣はない? 上下関係のある人の間で、下のものが上の人につけ届けをするということは、ワイロということにもなりかねない。いや、ワイロ、そのもの。日本は戦後の高度成長期の中で、日本独特の拝金主義をうみ、それが日本人の心まで毒してしまった? その一例が、盆や暮れのつけ届けということになる。

 なるほど! 私はここまで書いて、決心した。今年からは、盆や暮れのつけ届けは断ることにした。同時に、私は今年からつけ届けは全面的にやめることにした。ああ、私自身がいつの間にか、日本の悪しき習慣にどっぷりとつかっていた!
 ……と、まだ少し迷いはあるが、この問題は、これから掘りさげて考えてみたい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(522)

●日本の拝金主義

 豪華なプレゼントであればあるほど、喜ぶ人。真心がこもっていると考える人。もらったプレゼントを値踏みし、その価値(値段)で、相手の自分に対する思いを判断する人。反対に、安いプレゼントであれば、憤慨し、「バカにするな」と怒る人。ていねいな礼状を書きながら、心の奥で、つぎのプレゼントを期待する人。

 一方、豪華なプレゼントであればあるほど、相手は喜び、感謝しているはずと誤解する人。相手の心をつかんだと誤解する人。盆や暮れのつけ届けの季節になると、相手をランク分けし、そのランクに応じて、プレゼントの価格を決めている人。「A、B、Cさんは、一万円のもの。D、E、Fさんは、五〇〇〇円のもの。G、H、Iさんは、三〇〇〇円のものでいい」と。

 日本人よ、いつから私たちは、かくも心さみしい拝金主義者になってしまったのか? もしあなたが「下」の立場で、「上」の立場のものに、プレゼントを渡せば、それは立派なワイロだ。そういう愚劣な習慣が、めぐりめぐって、政治家へのワイロになる。そういうあなたが、どうしてあの悪徳政治家たちを責めることができるのか。

 中には、「お金を稼ぐのに苦労をする。その稼いだお金で、プレゼントを買うのだから、結果的に、自分の苦労で感謝の念を表現していることになる」と言う人がいる。いや、実際、そう考えていたのは私だ。しかしこの論法はおかしい。

では、その苦労しているとき、本当にその相手のことを思いながら苦労したのかということになる。稼ぐときは、ただがむしゃらに稼いで、あとでそのお金を分配しているにすぎない。感謝の気持ちなど、どこにもない。むしろその分配するとき、相手の価値を金銭的な尺度でランク分けすることによって、自分自身の心をドロで汚している!

 もちろんビジネスの世界には、独特の慣習がある。盆や暮れのつけ届けが、ビジネスの世界の人間関係をスムーズにするという人もいる。しかしそのルーツをさぐれば、結局は「上」のものへのワイロにすぎない。盆や暮れのつけ届けが、すばらしい習慣だといえる根拠はどこにもない。あるいはあなたは外国の人に、「これが日本の文化です」と、堂々とそれを胸を張って自慢できるとでもいうのか。

 この不況下。年々、盆や暮れのつけ届けの売りあげが減っているという。(一方、ミニバブルで、高級品ほど売れているという話もあるが……。)小売業の人には痛手かもしれないが、これを機会に、盆や暮れのつけ届けについて考えてみることもよいことだ。私たちは戦後の高度成長期に、デパートやスーパーにする、巧みな商戦に踊らされていただけかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(523)

●「高級海苔(のり)」というプレゼント

 まず宣言! 私は今年から、盆や暮れのつけ届けを受け取るのを、全面的に、断ることにした。今までは、一応断ってきたが、どこかあいまいな言い方をしてきた。相手に対する思いやりからだった。あまりあからさまに断ると、かえって相手が気分を悪くするのではないかということを考えた。

しかし今年からは、それもやめる。礼状を書くとき、明確にその旨を記(しる)すことにする。(送り返すということも考えたが、それは現実的ではない。)

 そして私の心の中に潜む邪悪な心……たとえば、もらったプレゼントを値踏みして、その価値(値段)で喜んだり、憤慨する、そういう邪悪な心を、徹底的に、たたきつぶす。たいていそういうプレゼントは、どこかのデパートから配送されてきたもので、包装箱の横に、「XX・三〇」とか、「YY・五〇」とか書いてある。それで値段がわかるしくみになっている。私はついついそういう数字を見てしまう。そういうクセがついてしまった。ああ、そういう自分の見苦しさ。ああ、いやだ!

 ……考えてみれば、盆や暮れのプレゼントで、それをもらってうれしかったことは、あまりない。たとえば「高級海苔」というプレゼントがある。名刺よりやや大きく切った海苔を、乾燥剤ともに、袋に入れ、さらにその袋をいくつか集めて、豪華な缶に入れる。さらにその缶を、これまた豪華な化粧箱に入れる。それをさらにまた、きれいな包装紙で包んで、高級品に仕立てる。

しかしこれこそ、まさに盆や暮れのプレゼントの象徴といってもよい。中身(心)がまるでない。ないばかりか、もらったほうだって困る。食べ終わったあとには、食べた分の何一〇倍ものゴミが、山のように残る。重さで計算すれば、正味食べる分は、一〇〇分の一もないのではないか。

 菓子類や酒類も、似たようなものだ。見た目の包装だけは、やたらと豪華。それに私は甘い食べ物は食べない。酒も一滴も飲めない。肉類もほとんど食べない。そういう私の習慣を無視して、一方的にそういうものを送られても、困るだけ。

 ……と考えて、私も、だれかに盆や暮れのつけ届けをすることを、今年から全面的に廃止することにした。たまたま収入も激減したから、私の家の実情にもあっている。大不況下の日本だから、相手の人も許してくれるだろう。

いや、そういうことではなく、ひとつの哲学として、廃止する。もうこういう愚劣な慣習は、つぎの世代に残してはいけない。そのためにも、まず「先生」と呼ばれる人が、それを廃止しなければならない。多少、仕事に影響が出るかもしれない。私を不愉快に思う人がいるかもしれない。しかしそういう人は、もともとその程度の人だ。……と思うことにする。気にすることはない。

(しかしこれはあくまでも、建前?
あまりギスギスするのも、よくない。
角が立つ。
このあたりは、融通性をもって、適当にすますところはすます。
それも、この世界では、必要なことではないか?)





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●子どもの非行

 スペインに住む、K氏より、こんなメールが届いた。私はこのメールを読んで、「うむう」と、考え込んでしまった。そのひとつ。

子どもの非行に、夜間外出がある。もう三〇年ほど前だが、このS県でも、子どもの夜間外出を減らすため、子どもたちは部活などで、夜、七時ごろまで学校に拘束されることになった(中学生)。当時はそれなりに説得力はあったが、聞くところによると、それは「塾つぶし」のためでもあったという。つまり帰校時刻を遅くすることによって、学校側は子どもたちが塾へ行く時間をなくした、と。

 それはさておき、このメールを読むと、非行とは何か、そこまで考えさせられる。日本の基準で考えると、スペインの子どもは、みな、非行少年、少女ということになってしまうのだが……?

「今は日が長く、夏休みに入ったので、外では子どもたち夜の一〇時位まで遊んでいます。アパートの子供たちが平気で夜八時ごろ、U子を遊びに誘いにきます。スペインは日本より二時間~三時間位、食事時間が遅いのです。昼は二時位からスタートですし、レストランですと食事が長いので、午後四時半位まで食事をしています。夜は九時半から一〇時から食事するのが普通です。

住み始めたとき、あまりに遅くまで小学生が遊んでいるので、「君たち、何時にご飯食べるの」と聞いて、「一〇時」と言われ、あぜんとしたことがあります。今では家族全員、スペイン時間で行動しています」(K氏のメールより)

 このメールの中には、「昼は二時位からスタートですし、レストランですと食事が長いので、午後四時半位まで食事をしています」とある。この話は私も知っていた。反対に外国の友人たちに、「ヒロシたちは、どうしてそんなに食事の時間が短いのか」と聞かれたことがよくある。また彼らの夏休みは長く、たいていは一か月以上、どこかのバンガローなどに住んで、バカンスを過ごす。ものの考え方が、日本人とは基本的な部分で、違う。

かくして私も、今、食事はどうあるべきか。また、この夏休みをどう過ごすべきか、真剣に考え始めている。「うむう」とうなりながら……。





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●拝金主義

 子どものころ、母の実家へ行くのが、何よりの楽しみだった。実家は、岐阜県の板取村というところにあった。が、それから三〇年。私が三〇数歳になったときのことだが、その実家が、大きく変わっていたのに気づいた。

 子どものころ、よく母と伯父は、縁側でこんな話をしていた。「今年のワサビは生育がいい。アユも今年はたくさんとれそうだ」と。しかし三〇年たって再び実家へ行くと、会話はすっかり変わっていた。すべてがお金にまつわる話ばかりだった。

「あそこの土地は二〇〇万円で売れた。川向こうのAさんは、山を売って、一億円儲けた。あの岩を、三〇〇万円でほしいと言った、名古屋の業者がいた」など。私はいくらそういう時代とはいえ、こんな田舎までお金に毒されていることを知って、驚いた。

 が、最大の悲劇は、何といっても、人間関係まで、金銭的な尺度でおしはかろうという風潮が生まれたことだ。よい例が、盆や暮れのつけ届け。いくらかのお金をもって、デパートへでかける。そしてそこで、プレゼントを値踏みする。

しかし実際には、プレゼントを値踏みしているのではない。送る相手の価値を値踏みしている。「Aさんは一万円、Bさんは五〇〇〇円、Cさんは三〇〇〇円」と。一方、それを受け取るほうは、箱の横に書かれた数字を見ながら、自分の価値を知る。「あの人は私を五〇〇〇円に見てくれる。この人は、三〇〇〇円」と。

こういう醜いことをしながら、それを醜いとも思わない。こういうおかしなことをしながら、それをおかしいとも思わない。日本人の心は、そこまで商業主義に毒されている。見苦しくなっている!

 中元や歳暮の贈りものの縁起について、百科事典はつぎのように書いている。もともとは「中元」というのは、「三元の一つ。陰暦七月一五日の称。元来、中国の道教の説による習俗であったが、仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)と混同され、この日、半年生存の無事を祝うとともに、仏に物を供え、死者の霊の冥幅を祈る。

その時期の贈り物(を、中元という)」(小学館「国語大辞典」)と。しかしこんな縁起など、どうでもよい。仮にそれが日本の文化であるとしても、世界にとても誇れるような文化ではない。それともあなたは、世界の人に向かって、それをまねしなさいと、自信をもって言えるだろうか。

 ものごとはあまりギズギス考えてはいけないという意見もある。私のワイフもそう言っている。「あまりむずかしいことは考えないで、あげたい人にはあげ、くれる人からはもらっておけばいいのでは」と。実のところ、私もこう書きながら、「適当にすませばいいのでは」という思いもないわけではない。しかしこうした愚かで、意味のない習慣は、つぎの世代に残してはいけない。ムダかムダでないかと言われれば、これほどムダな慣習はない。

あくまでもひとつの参考意見として、このエッセイを考えてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(526)

●金権主義

 私が子どものころには、まだ「盆暮れ払い」というのが、残っていた。物々交換というのも、それほど珍しくなかった。私の実家は、小さな自転車屋だったが、よく父は、自転車の修理にやってきた客と、将棋をさしていたことがある。たった半世紀前のことだが、まだこの日本には、そういう牧歌的なぬくもりが残っていた。

 が、その町にも、スーパーができるようになった。「主婦の店」という店だった。私が小学五年生ごろのことではなかったか。私はその店の中を歩き、その店の巨大さに驚いた。が、それはほんの「始まり」にすぎなかった。

 私が中学生になるころには、さらに巨大な店が、町から少し離れたところにできた。「J」という店だった。しかしその店のやり方は、もうめちゃめちゃだった。

 当時、私の町には、テリトリーというものがあった。だれが決めたわけでもないのだが、私の父は、それを守っていた。「ヒロシ、ここから先は、○○自転車屋さんの縄張りだからな」と言ったのを、今でもよく覚えている。自転車を売るにしても、自分のテリトリーだけにしていた。仮に、そのテリトリーの外で自転車が売れたときには、相手の自転車屋の人に見つからないように、夜中に、こっそりと自転車を届けていた。

 が、Jという店のやり方は、そうした慣習を、こなごなに破壊した。テリトリーなど、どこにもなかった。しかも私の家の仕入れ値より安い価格で自転車を売った。おかげで私の自転車屋は致命的な打撃を受けた。かろうじて店じまいしなかったのは、家族経営であったこと。それまでの蓄(たくわ)えが、少しあったからにほかならない。父はますます酒に溺れ、それと同時に、ますます客足は遠のいていった。

 戦後の日本では、「社長」とか、「金持ち」とかいうだけで、一目、おかれた。お金をもつことは善であり、正義であると、徹底的に教え込まれた。これもだれが教えたわけではないが、大きな流れの中で、そう教えられた。そしてつぎつぎと商業は巨大化し、その一方で私の父のような人間は、「負け犬」として、社会のスミに追いやられた。が、それは同時に、日本人がもっていた、「あの牧歌的なぬくもり」の終わりでもあった。

 お金を儲けることが悪いと言っているのではない。ただここで私が言いたいのは、私の父は決して負け犬ではないということ。そしてそれとは反対に、大きな商売をして、全国に店を構えるような人は、決して勝ち組ではないということ。日本人はどうしても、無批判なまま、秀吉や信長をたたえてしまう。そうした心情が、今、こうした成功者(?)を無批判にたたえてしまう。そうした無批判な社会観は、危険ですらある。私はそれを言いたかった。





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●禁煙指導

 子どもに向かって、「タバコはやめなさい」と言うのは簡単。しかしそういう教師が、一方で、親からのつけ届けを受け取っている。一応、それなりの断わりの手紙を書く人もいるが、どこかはっきりしない。

そういう教師が、「盆や暮れのつけ届けを受け取るのをやめなさい」と、だれかに言われたとする。そのときその教師は、「はい、やめます」と言うだろうか。ごく最近も、T私立大学の医学部が、合格発表の前に親たちから寄付金を受け取っていたという事件が発覚した(二〇〇二年六月)。

ハンパな額ではない。一人あたり、三〇〇〇~五〇〇〇万円。学生(=親の職業)によっては、もっと高額だったという。教育の頂点に立つような大学ですら、そのザマだから、あとは推してはかるべし。

 私も昨年までは、盆や暮れのつけ届けを受け取っていた。偉そうなことは言えない。で、そのつど、礼状と断りの手紙を書いていた。しかしはっきりと断っていたわけではない。どこかあいまいな断り方だった。……と思う。自分の意識がそうだった。しかし今年からは、はっきりと断ることにした。そしてつけ届けをくれた人には、その旨手紙で(ハガキではなく、手紙で)、断ることにした。……断っている。

 が、ここで自分の心に大きな変化が生ずるのを感じた。一通、一通、手紙を書くたびに、「もらえるものはもらっておけばいい」という、邪悪な気持ち。それが消えた。と同時に、すがすがしい風が、心の中を吹きぬけた。それは実に心地よい風だった。

それはちょうど、ススで汚れた窓ガラスを、タオルでふいたような気分といってもよい。不思議と、「損をした」という気持ちは起きなかった。いや、実のところ、断りの手紙を書き、ポストに入れるまで、心のどこかに迷いのようなものがあった。最後の最後まで、「お前は、正直バカだ」という邪悪な心が、それに抵抗した。が、私はポストに入れた!

 自分の中に潜む、悪習を消すのは容易なことではない。私たちは子どもに向かって、「タバコをやめなさい」とは言う。しかしその私たち自身が、別のところで、別の邪悪な慣習を引きずっている。そしてそれを改めようともしない。それこそ、本当に、何を偉そうに、ということになるのではないのか。

 子どもの禁煙指導と、中元の贈り物は、そのどこかでつながっている。そんなつながりを感じながら、このエッセイを書いた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(528)

●山荘に客を迎える

 そのシーズンになると、ときどき、友人が山荘を訪れてくれる。もっとも山荘を建てた七年前は、うれしくて毎週のようにパーティを開いた。しかしここ数年は、その数は、ぐんと減った。理由の第一は、疲れること。

 私はもともとあまり社交的ではない。他人からみると、社交的に見えるかもしれないが、本当の私は、そうでない。外の世界では、どうしても私は自分をかざる。ごまかす。そのかざって、ごまかした分だけ、疲れる。

 で、あるときから、客の迎え方を変えた。「迎える」のではなく、「任す」ことにした。たとえば食事にしても、材料は用意するが、料理はできるだけ客に任すことにした。「こういう材料がありますが、どうしますか」と。するとたいてい皆、喜んで料理してくれる。最初は、どこか申し訳ない気持ちもあったが、そのうち、そのほうが、客も喜んでくれることを知った。とくに人数が多いときは、そうだ。

 実は、家庭教育も、これに似たところがある。子どもを育てるということは、いかに手を抜くかということ。任すところは任せて、あとは手を抜く。しかも子どもというのは皮肉なもので、手を抜けば抜くほど、たくましく自立していく。子ども自身も、そのほうが楽しい。生き生きする。要は、いかに手を抜くか、だ。その抜き方がじょうずな親を、子育てじょうずな親という。

 実は、今度の日曜日も、東京から二人の客がくる。そこで昨日、近くの漁港まででかけていって、材料を仕入れてきた。ザザエにクルマえび、それにイカにハマグリなど。漁港で買うと、市価の半額以下で買える。私はバーベキューにしたらおいしいと思うが、それは客次第だ。一人は、刺身もつくれる人だから、きっとおいしい料理を作ってくれるに違いない。

……とまあ、ホストの私がそういうことを期待していてはいけないのかもしれないが、そう思っている。……とまあ、考えて客を迎えると疲れない。子育ても疲れない。

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