最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

1/2 電子マガジン(6-1)復興

2011-06-01 08:25:00 | 日記
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司   11年   6月   1日号
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2011年月2日2日現在……1475号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

小学1年生(6)歳児に、大きな数を教えてみる。

1、10、100、1000、10000・・・(一、十、百、千、万・・・)

●種まきレッスン

 私はこうした一連のレッスンを、「種まきレッスン」と呼んでいる。
「教える」というよりは、「種まき」。
「種」として、子どもの脳の中に、まいておく。
そのときは、すぐ効果が現れなくても、それがしばらくすると、別の形で
現れてくる。
あるいは学校などで、その学習をしたとき、理解するのを助ける。
だから「種まき」。

重要なコツは、「楽しませること」。
具体的には、笑わせ、心を開放させること。
「楽しかった」という思い出が、やがて子どもを前向きに引っ張っていくように
なる。

【小1(6歳児)はどこまでできるか?】BW教室byはやし浩司 2011・5月


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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 2011-05-10)

Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

はやし浩司先生へ

ご無沙汰しております。
長崎県のKHです。
浜松からこちらに引っ越してから、もう3年になります。

本日は、小学5年生の息子の事でご相談したい事がありましてメールいたします。

担任の先生の事です。
4月に新学期が始まりました。担任はこの春、日本から新しくいらした30代後半の女性
です。

初日、学校の様子を聞くと、「先生こわい~」とのこと。

とにかくよく怒るようです。クラスに一人、口の達者な男の子がいて、特にその子が怒ら
れているようです。

先生の怒り方をまねして教えてくれるのですが、その怒り方が乱暴なのに驚きました。
「テメエらそれでも5年生かよ!!」「(上記の男の子に向かって)テメエのようなヤツが
いるから授業が進まないんだよ」「お前らアホか」などなど。言う事を聞かない子の腕を引
っ張って、引きずって廊下に出したり、胸をつかんだりもするそうです。先生の意にそわ
ない事を言ったり、したりすると、すぐに黒板を叩いたりするとも言います。

同じクラスのお母さんたちに聞くと、私が息子から聞いた事と同じような事を聞いていま
した。ただ、私たち母親は、子供からの話だけで、実際の様子を見たり、聞いたりしてい
ません。


毎日「学校はどうだった?」と聞くといつも怒った先生の様子ばかり話します。

1か月がすぎました。先生の様子は変わらないようです。怒られていない子までが怖がっ
て萎縮してしまっています。こんな事言ったらきっと怒られる、こんな事やったら怒られ
る、といった感じです。息子も最近はひどくイラついています。

先生のいいところは?と聞いても、考えつかないようです。

この春、その先生は他県から転入してきました。4月が始業式。慣れない土地で、生活も
仕事も一から、という事で大変なのだろうと思ってはいるのですが、毎日毎日息子から先
生の愚痴を聞いているうちに異常なものを感じ始めています。

学年主任の先生がいらっしゃいます。
その先生に相談を……という父兄もいます。

もう少し様子を見るべきなのでしょうか?

長崎県、KH(母親)より。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●KHさんへ

 こんにちは!

 この種の問題は、(1)けっして、単独行動をしないこと。
(2)まわりの人が動き出すまで、静観する、です。

 間に子どもがいるため、ここは慎重に!
もちろんあなたの子どもに直接的な被害(?)があれば、話は別です。
しかし今の状況では、様子をみるのが、最善かと思います。
またみなといっしょに行動に出るときには、一気に出る、です。
校長、もしくは副校長に直接談判することも、覚悟してください。

 実のところ、友人(58歳、現在小学校長)も、似たような問題をかかえ、
悩んでいます。
明らかに「不適格教師」なのですが、知人の指導に従わないばかりか、何か
指導めいたことを口にすると、猛烈に反発し、手がつけられなくなるとのこと。
教師の世界は、ふつうの会社における人間関係とは、かなりちがった部分があることを、
知っておかれるとよいでしょう。
校長といえども、人事権はありません。
学年主任といっても、年功序列型で、持ち回り的な存在です。
つまり親たちが騒いでも、何か犯罪行為でもなければ、ただの「騒ぎ」で終わって
しまうということ。
あるいは転校という形で、うやむやに終わってしまうということ、です。

 もっともその程度の「こわい先生」は、私たちが子どものころは、どこにでもいました。
毎日、剣道で使う竹刀(しない)をもって、学校へ来ていた教師(中学英語)もいました。
そういう点では、私たち団塊の世代は、たくましく育てられています。

 一方、この静岡県では、今では生徒に何かを命令する先生はいません。
「~~しませんか?」(提案型)、「~~してくれませんか?」(依頼型)の言い方が、
一般化しています。
掃除でも、昔のように、「掃除しなさい!」と言う先生は、いません。
それがよいことなのか、どうか、私にはわかりません。
(私自身は、そういう言い方をしませんので……。)

 こうしたトラブルを避けるため、本来なら、アメリカのように複数の教師で指導に
あたるようにするのが望ましいですね。
アメリカでは、クラスの教師+インターン(学生)+当番の親の3人で指導するのが、
一般化しています(小学低学年)。
オーストラリアでも、教師と当番の親の2人で指導するのが一般化しています(南
オーストラリア州・小学低学年)。

 ともかくも、今は、様子を見てください。
子どもが過度に萎縮し、神経症のような症状が出てきたら、またメールをください。
なおほかの親から、相談があっても、よき聞き役に徹すること。
「私もそう思う」などと言ってしまうと、今度はあなたの言った言葉として、学校中に
広がってしまいます。
それが理由で学校にいられなくなってしまった親も、います。

 つまりこの問題は、それくらいデリケートな問題ということです。
繰り返しますが、間に子どもがいるため、行動、言動は慎重に!

 では、今日はこれで失礼します。

 浜松の放射線量も、徐々にふえています。
心配です。

はやし浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●たったの5・24マイクロシーベルトだって(?)

++++++++++++++++++++

25年前にメルトダウンを経験した
ロシアのチェルノブイリ。
その周囲30キロは、今でも「立ち入り禁止
区域」になっている。

誤解があるといけないので、正確に
記事を転載させてもらう。

+++++++++++以下、JIJICOM++++++++++++++

……炉心溶融事故が起きた原発4号機。コンクリート製の「石棺」で覆われているが、近
づくと放射線量計が毎時5.24マイクロシーベルトを表示し、「ピッピー」と警告音が鳴
り続けた。通常の50倍を超える放射線量だ。

●放射線量と人体への影響

 「石棺内部には溶解した核燃料が約180トン残っているが、放射能が外部に漏れない
よう新たなシェルターを建設する国際プロジェクトが開始された」。原発の周囲30キロの
立ち入り規制区域管理局のハロシャ局長は記者団との会見でこう強調した。
 事故直後に建設された石棺は老朽化が進んでおり、放射能漏れの懸念がある。このため、
欧州連合(EU)や日本などの支援で新シェルター建設が計画され、昨年から基礎工事が
始まった。

+++++++++++以上、JIJICOM++++++++++++++

●たったの5・24マイクロシーベルト

 本当のところ、「シーベルト」という単位を聞いても、私には何もわからない。
センチとかグラムとか、そういう単位がもつ実感が、わいてこない。

 が、あのチェルノブイリでは、今でも5・24マイクロシーベルトの放射線量が
観測されるという。

「5・24マイクロシーベルト」?
「たったの5・24マイクロシーベルト」?
福島県では、校庭利用の基準は、毎時3・8マイクロシーベルトだそうだ(注※)。
つまり3・8マイクロシーベルト以下になれば、校庭の使用が許可される。
5・24と3・8。
その差は、たったの1・4!

 日本で聞いている数値と、あまりにもかけ離れているような気がする。
今では「マイクロシーベルト」と聞いて、驚く人はいない。
その1000倍の「ミリシーベルト」という単位が、ふつうになりつつある。

 が、ロシアのチェルノブイリでは、たった5・24マイクロシーベルトで、
「周囲30キロが、今でも立ち入り禁止区域」になっているという。
もしそんな基準をこの日本に当てはめたら、やがてこの日本は、全土が、
立ち入り禁止区域になってしまう。

 放射性物質というのは、拡散される時期が長ければ長いほど、そこで積算される。
毎日、0・1マイクロシーベルトでも、体内で蓄積されれば、10日で、
1マイクロシーベルトになる。
もちろん地中にしみこんだり、水とまざって流れていく分もあるだろう。
しかし基本的には、「溜まっていく」。

 さらにおかしなことに、毎日の放射線量はそれほどでもないはずなのに、
昨日(5月12日)、神奈川県の茶から、基準値を超える放射線が観測された。
いったい、こういう現象を、どう理解したらよいのか。

(毎日、文科省は、各地で観測された最大放射線量をネット上で、公開している。
それによれば、東海地方では、おおむね0・04~0・05マイクロシーベルトで、
「平常値」となっている。

神奈川県も「平常値」のはず?)

平たく言えば、日本は、今、たいへんなときにある。
その存亡の危機の崖っぷちに立たされていると言っても過言ではない。
不測の事態が不測の事態を呼ぶ。
さらに「想定外」のことが、連続して起こる。
今は、そういう状態。

●鈍化する感覚

 それにしても、日々に感覚が鈍化していくのには、驚かされる。
私自身ですら、「メルトダウン」の恐ろしさは、よく知っていたはず。
チェルノブイリ事故のときは、体が震えた。
しかし今、それがこの日本で起きている。
明日には、その影響が、この静岡県にまで及んでくるかもしれない。
しかし今は、それがない。
つまり緊張感がない。
緊迫感もない。
ニュースを見ながら、「コンクリートで塞げばいい」などと、のんきなことを言っている。

 つまりこうして、(現実)と(感覚)が遊離していく。
「ミリシーベルト」くらいでは、驚かない。
現に今、「5・24マイクロシーベルト」と聞いて、「たったの?」と思っている。

 しかし現実は、重い。
5マイクローシーベルトと言えば、静岡県で観測されている放射線量の約100倍。
25年たった今でも、チェルノブイリでは観測されているという。
周囲30キロが立ち入り禁止区域になっているという。

 そこで重要なことは、この緊張感を失わないこと。
失ったとたん、油断が生まれる。
事故が拡大する。

 あのとき、みな、こう思ったはず。
「原発なんて、もうこりごり」と。
しかしもうすでに、産経新聞などは、原発必要悪論を堂々と論じ始めている。
この変わり身の速さこそが、危険。
心配。
油断こそ、禁物ということになる。

(2011年5月14日夜記)

(注※)(日本経済新聞より)

文部科学省は13日、福島第1原子力発電所事故を受けて屋外活動を制限していた福島市立
渡利中学校で実施した放射線量調査で、校庭利用の基準である毎時3.8マイクロシーベルト
を12日に続いて下回ったと発表した。屋外活動の制限対象になった13校・園すべてで基
準を下回ったことになる。制限解除の対象になるが、同省は放射線量が比較的高い学校な
どの調査を続ける。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●短い瞬間

 オーストラリアの友人のR君が、「作者不詳」として、こんな詩を送ってくれた。訳は、
私が感じたまま、つまり原文を読んで感じたまま、直感でつけた。どうか「誤訳」と、笑
わないでほしい。

I read of a man who stood to speak
At the funeral of a friend
He referred to the dates on her tombstone
From the beginning to the end.

友の葬式の日、皆の前で、
私は、追悼の言葉を述べた男の話を読んだことがある。
その男は、その女性の、生まれた日と、
死んだ日について、話した。

He noted that first came her date of birth
And spoke the following date with tears,
But he said what mattered most of all
Was the dash between those years.

その男は、彼女が生まれた日付を言った。
そして涙ながらに、つづく死んだ日付について話した。
しかし、誕生と死の間の
その時の流れの、何と短いことよ。

For that dash represents all the time
That she spent alive on earth...
And now only those who loved her
Know what that little line is worth.

その日付から日付までが、すべての時を表し、
彼女が、この地上で生きたことを示す。
いまや彼女を愛した人たちのみが、
その一行に、彼女のすべての価値を知る。

For it matters not how much we own;
The cars ... the house ... the cash,
What matters is how we live and love
And how we spend the dash.

どれだけ私たちがもっているか。
車や、家や、お金にせよ、そんなことは問題ではない。
大切なことは、いかに生きて、いかに愛して、
その短い瞬間を、どう過ごしたか、だ。

So think about it long and hard
Are there things you'd like to change?
For you never know how much time is left,
That can still be rearranged.

だから深く、静かに考えてみたらよい。
あなたには、変えたいものがあるか、と。
残された時間は、あまりにも少ない。
やりなおしがきくのは、今しかない。

If we could just slow down enough
To consider what's true and real,
And always try to understand
The way other people feel.

何が真実で、何が本物か、それを考えるために、
ほんの少しだけ時間をスローダウンすしてみるがよい。
そしていつも、ほかの人たちの感じ方を
理解してみるがよい。

And be less quick to anger,
And show appreciation more
And love the people in our lives
Like we'd never loved before.

怒りを鎮めよ、
もっと人に愛を示せ、
私たちの人生の中の人々をもっと愛せよ、
私たちが愛されたことがないほどまでに人を、愛せよ。

If we treat others with respect
And more often wear a smile...
Remembering that this special dash
Might only last a little while.

ほかの人を敬うなら、
そしてもっと微笑むなら、
この短い瞬間は、もう少しだけ、
長くつづくだろう。

So when your eulogy's been read
With your life's actions to rehash...
Would you be proud of the things they say
About how you spent your Dash?
(Author Unknown)

あなたを作り変えるなら、いつか、あなたの葬儀で、
あなたの賛美が読まれるとき、
彼らが口にすることを、あなたは誇りに思うだろう。
あなたがその短い瞬間をどう過ごしたかについて……。
(作者不詳)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【日本人の依存性と従順性】

++++++++++++++++++

毎年、5月3、4、5日に、浜松祭りが
催される。
東海地方でも、最大級の祭りである。
例年だと、50万人以上もの、観光客が集まる。

が、今年は3・11大震災が理由で、中止。
浜松市長の鶴の一声で、それが決まった。
表向きの理由は、「謹慎」。
が、本当の理由は、「安全管理」。
「安全管理ができないから、中止」
(中止通達書)と。

県の機動隊員ほか多数の警察官が、東北へ
駆り出されている。
そのため「じゅうぶんな安全管理ができない」と
いうことらしい。

++++++++++++++++++

●40年前

 40年前の浜松祭りは、おもしろかった。
本当におもしろかった。
このあたりの人たちの言葉を借りるなら、「血が騒いだ」。
町内ごとの練(ね)り(「練り隊」)が、随所で、別の練りと衝突した。
そのたびに怒号と衝突音。
旗ざおで殴りあう音、悲鳴。
その上には、汗が湯気になり、白いモヤが漂った。
もちろん、けが人も出た。
救急車も走り回った。
が、今は、そのころと比べると、まるでウサギの行進。
祭りの世話役の指示に従い、整然と並んで歩くだけ。
全員、提灯を手に持っている。
またそれをもたないと、祭りに参加できない。
練りの衝突そのものが、ありえない。

 だから私はこう言う。
「浜松祭りは、参加するもの。見るものではない」と。
参加してはじめて、おもしろい。
見ているだけなら、何もおもしろくない。

●自己責任

 「自己責任」という言葉がある。
この日本では、すでに死後になっている言葉である。
上はジー様から、下は赤ん坊まで、みな、キバを抜かれてしまった。
ことあるごとに、みな、こう言う。
「国が……」「国が……」と。

 言うまでもなく、「自由」と「依存」は、相克(そうこく)関係にある。
自由であろうとすればするほど、他者への依存性は低くなる。
依然性が高くなればなるほど、自由の幅はせばめられる。

また「自由」は「独立」に、「依存」は「隷属」に、それぞれつながる。
さらに言えば、自由は、常に不完全性をともなう。
「あいまい性」と言い替えてもよい。
たとえば管理された社会には、自由はない。
最近(11年4月)、私はこんな経験をした。

 メルボルン市(オーストラリア)で、オーバーランド号という列車に乗った。
アデレード行きの長距離列車である。
で、その列車が、メルボルンから1時間半ほどのところにある、ジーロンという町
に着いた。
予定より、20分も早く着いた。
そのとき車内アナウンスが流れた。
「20分早く着いた。ここで客が17人乗ることになっている。
その客を待つ」と。

 しばらくすると、何人かの客が、プラットフォームを歩いていくのが見えた。
それがその17人の客だった。
その直後、また車内アナウンス。
「客が乗ったので、出発します」と。

 ご存知のように、日本では、ぜったいにありえない光景である。
私はその「不完全性」に、たまらないほどの「自由」を覚えた。

●3・11大震災

 あの3・11大震災のときのこと。
あれだけの震災にありながらも、この日本では、暴動が起きなかった。
略奪も起きなかった。
壊れたコンビニからでさえ、ものを盗む人もいなかった。
店員がいるところでは、客はちゃんとお金を払ってものを買った。
しかも店員は、むしろ安い価格で、客にものを売ったという。

 被災者たちが身を寄せた避難所でも、そうだった。
みな、整然と並んで、「秩序」を守った。
「上」からの指示に従った。
用意された場所に身を置き、用意されたものを口にした。
それを見た外国の特派員たちは、みな、例外なく驚嘆の声をあげた。
「日本人は、すばらしい!」と。
私の40年来の友人(日本人)も、こう言った。
「あれこそが、日本人が本来的にもつ美徳」と。

 たしかにそうかもしれない。
私も、そう思った。
しかしそうでないかもしれない。
少しひねくれたものの見方をしてみる。

 ひとつには、被害の大きさが、あまりにも「想定外」だった。
想像を絶する心理状態。
そういう心理状態を、「想定内」にある心理学で分析することはできない。
私たちは、「絶望」というものがどういうものであるかさえ、知らない。
絶望のどん底で、人がどのようにものを考え、行動するか。
想像することはできても、それを知ることは不可能。

 3・11大震災で被災した人たちの心理状態を、私たちがどうこう分析
することはできない。
失礼というより、あまりにも恐れ多い。
ただ私たちができることは、そういう人たちを見て、そういうものかなと
思う程度。
家族、家、職場、地域を失った人たち。
別の見方をすれば、暴動を起こしたり、ものを略奪するほどのエネルギーさえ
残っていなかった。
そういうふうにも、考えられなくはない。

●あえて……

 が、ひとつだけあえて口をはさむとしたら、こういうことも言える。
本当にそれが日本人が本来的にもつ美徳のひとつかというと、私はそうではない
ような気がする。
「気がする」というだけで、断言しているわけではない。
たとえば当時、どの避難所でも、みな、こう言った。
「国が……」「国が……」と。
「国が何とかしてくれるべき」と。
それを聞いたとき、私はこう思った。
「ひょっとしたら、日本人は、本物の自由知らないのではないか」と。

 不完全性を認めない。
あいまいさを認めない。
そのため独立性を失い、自己責任という言葉を忘れてしまった。

 そこで短絡的に、私はこう結びつける。
日本人は、あまりにも長くつづいた官僚制度の中で、「国」の中に、「己(おのれ)」
を埋没させてしまった。
その結果、「国」というより、体制に隷属的になってしまった。
人とはずれたことをすることに、罪悪感を覚え、その一方で、「出る釘を
容赦なく叩いた」。

 その結果が、今では」ないか、と。

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