最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

1/2子供による平和宣言

2010-10-11 08:22:06 | 日記
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      10月   11日号
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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

●9月16日(木曜日)

●20世紀フランス絵画の美」展

昨日(9月15日)は、午前中は美術館で「20世紀フランス絵画の美」という
展覧会を見てきた。
星は文句なしの5つ。
圧倒された。
すばらしかった。
展覧会を通して、なぜピカソがピカソなのか、はじめて理解できた。
シャガール、ビュッフェ、ミロ……など、巨匠と言われる画家たちの絵画と
比較してみると、それがよくわかる。(……わかった。)
徹底した技巧の放棄……それがピカソ。
ほかの画家たちは、(あくまでもピカソとの比較においてだが)、どこか技巧に
こだわっている。
媚を売っている。
が、ピカソにはそれはない。
ありのままを、そのままに描いている。
見る人を意識しないで描いている。
そのちがいが、ピカソということになる。
今回、それがわかっただけでも大収穫だった。

(補記)
幼児はときとして、ハッと驚くようなすばらしい絵を描く。
幼児もまた、見る人を意識していない。
媚を売らない。
それがそういうすばらしい絵につながる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●WTT演奏会

 夜は、WTT演奏会に行ってきた。
(演奏会というよりは、音楽会?)
U国(アフリカ)の子どもたちの「歌と踊りの演奏会」ということだった。
チケットは、前売り券で1500円。
当日券で2000円。
浜松のC会館(定員1200人)は、ほぼ満席だった。
(これだけで、実収入、200万円前後?)

 が、コンサートとしては、かなり期待はずれ。
楽器は太鼓だけ。
あとはマラカスとか小楽器。
その程度。
あらかじめ録音された伴奏と斉唱に合わせて、舞台上の子どもたちが歌を歌いながら
踊った。
それだけ。

ゴスペル(黒人霊歌・福音歌)のコンサートということは、わかっていた。
そのため、最初から最後まで、「神よ……」「神よ……」の一色。
キリスト教の信者の人たちには、それでもよかったのかもしれない。
が、私たちのように、一歩はずれてその外にいる者たちにとっては、耳障りでしか
なかった。
おまけに運悪く(?)、どこかの熱心な信者らしき人にはさまれてしまった。
その人たちは始終、涙をこぼしながら、狂ったように大きな手拍子を加えていた。
それが耐えられないほど、うるさかった。

 気になったのは、数曲ごとに、子どもたちが順にWTTのすばらしさを口上したこと。
が、これまたWTT賞賛一色。
「WTTのおかげで……」「WTTがなかったら……」「WTTに救われて……」と。

 子どもたちが自分の頭で、自分で考え、自分の言葉としてそれを言うのなら、よい。
しかしまさに(ヤラセ)。
WTTの趣旨の尊さは理解できる。
またそういう活動の崇高さも認める。
しかし貧しい子どもを利用してはいけない。

 よい例が毎年広島で開かれる、子どもによる平和宣言。
子どもたちの未来を守るのはおとなの責務。
それを子どもに「宣言」という形でさせる。
それについての原稿は以前にも書いたので、あとで添付しておく。

 で、最後に募金の勧誘。
募金袋は最初に配られていた。
驚いたのは、パンフレット(14~6ページ前後の冊子)が、超豪華なオール
カラー版だったこと。
紙質もよく、分厚い印刷用紙を使っていた。
どこかチグハグ?
違和感を私は覚えた。

 で、私も募金をするつもりだったが、最後に、司会者がこう言ったとき、その気持ちは
失せた。

「これからこの子どもたちは東京へ向かいます。
新幹線に乗って行きます。
その旅費をどうか募金してください」(聞き覚えなので、内容は不正確)と。
(そんなはずはない!)

 全体としての私の印象は、こう。

 「アフリカの子どもたちは不幸」という前提で、私たちはものを考えやすい。
実際、WTTの演奏会では、繰り返し、それが語られた。
しかし本当に、そうか?
私たちがそう思うのは、私たち日本人のもつ幸福感を基準にしているから。
つまり私たちにも、ある種の思い上がりがある。
「子どもたちは、こうあるべき」という思い上がりである。

 たとえば教育にしても、日本式の教育法は貧しい国々では、ことごとく拒否されている。
理由は、その背景に受験につながる競争主義があるからにほかならない。
またそういう教育をもって、日本人は、最高の教育と思いこんでいる。
(それ以外の教育法を知らないのだから、当然と言えば、当然だが……。)

 同じようにエイズが蔓延し、戦争と飢餓で苦しんでいるU国。
それはわかるが、その問題と、子どものもつ幸福感とは別問題。
たとえば同じコンサートを通して、こんなことも言っていた。
「U国は、チャーチルにも『アフリカの真珠』と評されるほど、美しい国です」と。
ならば聞くが、都会のビルの隙間で、受験勉強をしている日本の子どもが幸福なのか
ということになる。
心はすでに氷のように冷たい。

 つまり私たちは先進国の人間がもつ(おごり)を、けっして貧しい国の人たちに、
押しつけてはいけない。
同時にそういう子どもたちを救済している団体にしても、自分たちの価値観を、
私たちに押しつけてはいけない。
「私たちは正しいことをしている」と思うのはその人たちの勝手。
しかしその返す刀で、「あなたたちは、救済すべきだ」というのは、ここでいう
(押しつけ)。

 とても残念だが、どこか押しつけがましい音楽会だった。

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7年前に書いた原稿より

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【子どもによる平和宣言】

あどけない小学生に、平和宣言など、させてはいけない。
平和を守るのは、私たちおとなの責務。
こういう場で子どもを利用するのは、どこかのテロ組織が、自爆攻撃用にと、
子どもを利用するのと同じ。
「平和目的ならいい」「戦争目的は、だめ」というのは、おとなの勝手な論理に
すぎない。
あるいはどこでどう、線を引くというのか?

++++++++++++++++++++

7年前に書いた原稿を、そのまま紹介します。

+++++++++++++++++++++++++++

●子どもによる平和宣言(Declaration for Peace by Children)

+++++++++++++++++++++++++++

今年も、広島、長崎で、子どもを使った
平和宣言がなされた。
それについて、私はかねてより、「子どもに
そんなことをさせてはいけない」と書いて
きた。
平和を守るのは、おとなである私たちの
責任。
子どもたちの未来を守るのも、おとなで
ある私たちの責任。
子どもを使うのは、卑怯だ!

+++++++++++++++++

8月8日、韓国で奇妙な事件が起きている。
どこかに立てこもった一群の中の子どもたちが、韓国の大統領である、イ大統領を
口汚く、ののしっているという。
文章を簡潔にして、紹介させてもらう。

+++++++++以下、朝鮮N報++++++++++++

「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」

 先月23日、体験学習のためソウルにやってきた地方の小学生たちが、曹渓寺(ソウル
市鍾路区)に立てこもっている、「狂牛病(BSE)の危険のある米国産牛肉の全面輸入に
反対する国民対策会議」(以下、対策会議)の芳名録に書いた、文や動画が公開され、
韓国社会は衝撃を受けた。

この小学生たちは10歳前後、小学3~5年生の子どもたちだった。「立てこもっている人
たちがけしかけた」という学校側の主張と、「自発的に書いた」という対策会議側の主張は
食い違っている。
これについては警察の捜査で明らかになるだろう。

+++++++++以上、朝鮮N報++++++++++++

少しわかりにくい話なので、解説してみる。
現在、ソウルの曹渓寺というところに、アメリカ産の牛肉の輸入に反対する団体が、立て
こもって、それに反対しているという。
その寺の芳名録に、その小学校を訪れた子どもたちが、芳名録に書き込みをした。
それが冒頭にあげた、文章である。
「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」と。

これについて、(1)立てこもっている人たちが、子どもたちにけしかけた。(2)子ども
たちが自主的に書いたと、意見が分かれているという。
が、どちらであるにせよ、つまりけしかけられたにせよ、自主的に書いたにせよ、その背
後には、(おとなたちの意思)が、感じられる。

少なくとも、こうした言葉は、子どもたちだけの発想では生まれない。
そこで日本の子どもたちによる、平和宣言。
私は、平和宣言がまちがっているというのではない。
それ自体は尊いものであり、世界に向かって宣言して、当然である。
しかし、子どもを使って、それをしてはいけない。
5年前(03年)に、こんな原稿を書いたことがある。

++++++++++++++++++

●子どもによる平和宣言

 よくどこかの会場で、小学生くらいの子どもが、平和宣言をすることがある。「私たちは、
平和を守り……。戦争に反対し……。核兵器を廃絶し……」とか。たいていは、……とい
うより、ほとんどは、おとなたちが用意した原稿を、子どもが読みあげているだけ。たま
たま、この原稿を書いている今日も、「地雷をなくそう、全国子どもサミット」(03年2
月8日)があった。疑問がないわけでもないが、しかしそういうのなら、私も、まだ理解
できる。

 しかし子どもを使って、平和宣言など、子どもに言わせてはいけない。子どもをそうい
うふうに利用してはいけない。それはあまりにも酷というもの。だいたいそんな子どもに、
戦争だとか、平和がわかるわけがない。だれだって、戦争より平和のほうがよいと思って
いるに決まっている。

しかし平和というのは、それを求めて積極的に戦ってこそ、得られるもの。皮肉なことに、
戦争のない平和はない。ただ「殺しあいは、いやだから」という理由だけで、逃げまわっ
ている人には、平和など、ぜったいにやってこない。世界は、そして人間が本来的にもつ
性(さが)は、そんな甘いものではない。

 たとえば戦後、つまりこの58年間、日本がかろうじて平和を保つことができたのは、
日本人がそれだけの努力をしてきたからではない。日本人が平和を愛したからでもない。
日本が、戦後、58年間という長きにわたって平和を保つことができたのは、アメリカと
いう強大な軍事力をもった国に、保護されていたからにほかならない。

もし日本がアメリカの保護下になかったら、60年代には、中国に。70年代には、
韓国や北朝鮮に、そのつど侵略されていただろう。台湾やマレーシアだって、だまってい
なかった。フィリッピンに袋叩きにされていたとしても、おかしくはない。日本は、そう
いうことをされても文句は言えないようなことを、ほかの国に対して、してしまった。
しかももっと悪いことに、いまだに、公式には、日本はその戦争責任を認めていない。中
には、今でも「あの侵略戦争は正しかった」と言う日本人すら、いる。今の北朝鮮を容認
するわけではないが、彼らが日本を憎む理由には、そういう時代的背景がある。

 わかりやすく言えば、子どもが平和宣言をして、それで平和な国がやってくるというの
は、まったくの幻想。平和というのは、それ自体は、薄いガラスでできた箱のように、も
ろく、こわれやすい。ときには、戦争そのもののように、毒々しく、醜い。仮に今、平和
であるとしても、その底流では、つぎの戦争を求めて、人間のどす黒い欲望が渦巻いてい
る。つまり、平和を口にするものは、一方で、そういうものと戦わねばならない。その戦
う意思、その戦う勇気のあるものだけが、平和を口にすることができる。

子どもを使って平和宣言をさせるというのは、子どもを使って宣戦布告するのと同じくら
い、バカげている。それがわからなければ、子どもに、援助交際反対宣言をさせてみれば
よい。子どもに、政治家の汚職追放宣言をさせてみればよい。あるいは覚せい剤禁止宣言
でもよい。環境保護宣言でもよい。

そういうものが何であるかもわからないまま、無知な子どもに、そういうことを言わせて
はいけない。そうそう、あのK国では、幼児までもが、「将軍様を、命がけで守ります」な
どと言っているという。幼児が自分の意思で、自分で考えてそう言うのなら話はわかるが、
そんなことはありえない。繰りかえすが、子どもを、そういうふうに利用してはいけない。
 そんなわけで、私は、小学生や中学生が、片手を空に向けて平和宣言をしている姿を見
ると、正直言って、ぞっとする。あるいはあなたは、アメリカやヨーロッパや、
オーストラリアの子どもたちが、そういうふうに宣言をしている姿を、どこかで見たこと
があるとでもいうのだろうか。残念ながら、私はないが、ああいうことを子どもに平気で
させる国というのは、全体主義国家か、あるいはその流れをくむ国と考えてよい。

 「地雷をなくそう、全国子どもサミット」では、ある子ども(滋賀の小学生)は、つぎ
のように話している。
「地雷でケガをした人を見るのは初めてで、結構びっくりしたからそんなにしゃべったり
できなかったけれど、何かちょっとずつだけど、声がかけられるようになったからよかっ
たと思っています」(TBS報道)と。私たちが聞きたいのは、子どもたちのそういう生の
声である。

子どもたちのために平和を守るのは、私たちおとなの義務なのだ。どこまでいっても、私
たちおとなの義務なのだ。それを忘れてはいけない。
(030209)

++++++++++++++++++

さらに進むと、自爆攻撃がある。
テロリストたちは、まだあどけない子どもを利用して、アメリカ軍などに対して、ゲリラ
攻撃をしかけている。

一度、その指導風景がテレビで紹介されていたが、指導者らしき男は、子どもたちに向か
ってこう説明していた。

「死んでも、この世とまったく同じ世が、向こうの世界にある。だから恐れるな」と。
もしそうなら、テロなどしても意味はないということになるのだが、それはともかくも、
子どもを使うということは、そういうことをいう。
平和宣言だからよい。
ゲリラ戦だからよくない。
そういうふうに線引きすること自体、まちがっている。
それこそ「平和のための戦争」ということになれば、どんな戦争だって、
肯定されてしまう。

どうであるにせよ、おとなたちは、自分が信ずる「正義」に従って、子どもを利用する。
それぞれのおとなたちは、それぞれの思惑をもって、子どもを利用する。
つまり「正義」ほど、いいかげんなものもない。
私はそれがおかしいと言う。
それがわからなければ、もう一度、最初に引用した、朝鮮N報の記事を読みなおしてみる
ことだ。

(子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子
供による平和宣言 子どもの平和宣言)


(補記)

++++++++++++++++++++

 この原稿を書いて、4か月になる(03年)。いろいろな原稿を書いているが、4か月前
に書いた原稿という気がしない。遠い昔に書いたような気がする。ただ子どもに平和宣言
させることに、全面的に反対というわけではない。子どもに戦争の悲惨さを教え、ついで
平和の尊さを確認させるという点では、意味がある。しかしそれでも、私は、「それでいい」
とは、どうしても思えない。

 いつだったか、どこかのカルト教団の取材に行ったときのこと。全国大会とかで、全国
から数万人の信者が集まっていた。その席でも、やはり小学生代表が、こう叫んでいた。
「私たちは、○○導師様の教えを守り、この信仰を、世界に広めていきます!」と。小学生
による平和宣言などというものは、私には、その延長線上にあるとしか思えない。

 繰りかえすが、平和を守り、子どもたちを守るのは、私たちおとなの義務である。しか
しその平和というのは、自ら戦って、勝ち得るもの。「殺しあいはいやだ」と逃げてまわっ
ていては、平和は絶対に守れない。

 同じく繰りかえすが、平和主義には、二つある。「殺されても、抵抗しません。文句を言
いません」という平和主義。もう一つは、「平和のためなら、命すらおしくない。いざとな
ったら、戦争も辞さない」という平和主義。ここにも書いたように、「殺しあいはいやだ」
と逃げてまわるのは、平和主義でも何でもない。ただの逃避主義でしかない。

 また先の原稿の中で書いたように、戦後の日本がかろうじて平和を保つことができたの
は、それだけ日本人が平和を守ったからではない。また日本人が平和を愛したからでもな
い。日本がかろうじて平和を保つことができたのは、たまたまアメリカという国に占領さ
れ、その保護下にあったからである。

 私は60年代に、交換留学生として、韓国に渡ったが、彼らがもつ反日感情というのは、
感情というレベルを超えた、「憎悪」そのものだった。今でも基本的には、その構図は、変
わっていない。仮に北朝鮮が日本にめがけて核ミサイルを撃ち込んだとしても、それを喜
ぶ韓国人はいても、悲しむ韓国人はいない。そういう現実を前にして、小学生を仕立てて
平和宣言をする。そのオメデタサは、いったいどこからくるのか。(だからといって、私が
戦争を求めているのではない。どうか誤解のないように!)

今朝の報道によれば、あの北朝鮮は、すでに核兵器を数個もち、さらに今後、半年の間に、
5~6発の核兵器を製造する能力があるという。さらに今年の終わりには、核実験もする
かもしれないという(クリントン政権時代の北朝鮮担当官・ケネス・キノネス氏)。そうな
れば日本は、もうおしまい。金XXの影におびえながら、毎日ビクビクしながら、生活を
しなければならない。

 小学生による平和宣言の話を書いているうちに、またまた頭が熱くなってしまった。私
の悪いクセだ。しかし、これだけは言える。どんな形であるにせよ、おとなたちは自分た
ちの政治的エゴを追求するために、子どもを利用してはならない。子どもには、子どもの
人権がある。その人権だけは守らねばならないということ。決して、子どもたちを、
猿まわしのサルのように利用してはいけない。
(030628) 

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
平和論 日本の平和 日本人 広島 原爆の日 はやし浩司 子どもによる平和宣言 子
供による平和宣言)

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併せて、もう1作、6年前に書いた原稿を
添付します。

【SKさんからの反論に答えて……】

++++++++++++++++++++

●平和教育について



【SKより、はやし先生へ……】



今日(8月6日は朝のサイレンがなり、それがきっかけで、

娘に「広島」について話をする

機会がありました。もう、来年で60周年。今の国際情勢を

考えると、広島の原爆も、昔話になってしまうのでしょうか。



さて、メルマガにあった文章で、気になったことについて

書き添えたいと思います。





<国旗、国歌について>



(国旗について……)「日本は、そもそも単一民族だから、国旗や国歌にこだわる必要はな

のではないか。国旗や国歌が必要なのは、多民族国家である。そういう国では、国をまと
めるために、国旗や国歌が必要である。しかし日本には、そもそも、その必要性がない。
なりゆき
に任せればいい」(53歳・男性)





この意見を読んで、日本人は、単一民族である、

という発想がまだまだ強いところがこわいなぁ、と

思いました。



国旗、国歌が必要になってくるのは、自分の国にいるときではなく、

「外国にでた」ときだと私は考えます。自分が「どこの」所属かを

相手に明確にするためのものですよね。



浜松で、浜松祭りで、どこの町の法被を着ているか、のように。



だからこそ、自分の国から一歩もでない、鎖国状態の人には

「必要が無い」で済むのかもしれません。



アメリカで、高校の英語の授業でも、歌舞伎や能を扱うことが

あります。イギリスの作家でも、能の影響を受けて劇を書いている

人もいますし。(アイルランドのイエイツ、ノーベル賞作歌もそのひとり)



授業で、「能について、知っていることを教えてください」と

問いかけを先生からされたときに、答えることができない日本人と

しての所在のなさ! 今でも忘れません。



日本に帰ってきてから、能について、勉強をしていないところに私の

怠慢がありますが……。

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