最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

1/5息子の初フライト(羽田から沖縄まで搭乗記)

2010-10-31 11:46:56 | 日記
【息子の初飛行】はやし浩司 2010-10-29

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息子の初飛行について書く前に、息子が
航空大学校の学生のとき、単独飛行したときに
書いた原稿を添付します。

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【息子の初フライト】

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今日(29日)は、息子が、はじめて
名古屋空港(小牧)にやってくる日。
ワイフが、朝早く、小牧まで、でかけて
いった。

私は、ひとりで、留守番。

見たかった。私も、飛行機、大好き。
飛ぶのが、大好き。「飛ぶ」というより、
飛ぶものが、大好き。

小学生のころ、板で翼(つばさ)をつくり、
それを両腕に結んで、1階の屋根から
飛び降りたこともある。

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 今日(1月29日)は、息子が、はじめて名古屋空港(小牧)にやってくる日。ワイフがそれを迎えるため、朝早く、小牧まででかけていった。

 が、私は、ひとりで留守番。見たかった。私も飛行機、大好き。飛ぶのが大好き。「飛ぶ」というより、飛ぶものが大好き。ラジコンはもちろん、ロケット、紙飛行機にいたるまで、ありとあらゆるものが、大好き。ついでに鳥も、大好き。

 こんな思い出がある。

 小学生のころ、板で翼(つばさ)をつくり、それを両腕に結んで、1階の屋根から飛び降りたことがある。板には、大きな紙を張りつけた。私はそれで空を滑空するつもりだった。

 結果は、みなさん、予想のとおり。ドスンと地面にたたきつけられて、それでおしまい。体が軽かったこともあり、たいしたけがもしないですんだ。私が、小学3年生くらいのことではなかったか。年齢はよく覚えていない。

 以来、私は、飛行機人間になった。パイロットになるのが、夢になった。が、中学生になると近眼が進んだ。当時は、近眼の人は、パイロットにはなれなかった。みなが、そう言った。だからあきらめた。

 そこで今回は、息子のBLOG特集。今までに息子が書いた記事を集めてみる。

 言い忘れたが、今日は、仙台→名古屋→宮崎、明日(30日)は、宮崎→高知→仙台というルートで飛ぶという。明日(30日)は、正午ごろ、浜松の自衛隊基地上空を通過するとのこと。
高度は、1500フィート、約4500メートル。

 双発のジェット小型機。もしその時刻に空を見あげることができる人がいたら、ぜひ、見てほしい。「私」が飛んでいる!

++++++++++2007年1月30日+++++++++++

【黄色い旗】

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2007年1月30日。
息子のEが、自分で飛行機を操縦して、
はじめて、浜松市の上空を飛ぶ。

そこで、私は、2メートル四方の大きな
旗をつくった。テカテカと光る黄色い旗である。

それを地上から振り、息子に合図を送る。

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●電話

 高知県の高知空港から、連絡が入った。「これから高知空港を飛び立って、浜松に向う」と。
私は、すかさず、「何時ごろ?」と聞く。

E「1時から、1時半ごろの間だよ」
私「わかった。ぼくとママは、自衛隊基地の南西の角地で、旗を振る。黄色い、大きな旗だ」
E「見えるかなあ?」
私「南西の角地だ。わかったか。そこを見ろ」と。

 一度、電話を切ったものの、すぐまた電話。今度は、こちらからかけた。

私「そうそう、飛行機はどちらの方向から飛んでくるんだ」
E「真西から、真東に向う」
私「地図で見ると、南西の方角ではないのか?」
E「一度、名古屋の先まで向かい、そこから、東に向う」
私「わかった」と。

 私の声は、子どものようにはしゃいでいた。それが自分でもよくわかった。

 現在、息子は、航空航空大学にいる。2年間の全寮制の大学である。それがいよいよ終了に近づいてきた。現在は、宮城県の仙台市にいて、最終的な訓練を受けている。練習機も、単発機のボナンザから、双発ジェットのキングエアに変わった。正確には、ターボプロップエンジンといって、ジェットエンジンでプロペラを回して飛ぶ飛行機である。

 巡航速度は、550~600キロ(毎時)だそうだ。

●旗

 旗は、長い棒に、セロテープでとめた。テカテカと光る黄色い旗である。それに合わせて、ワイフも、私も、黄色いジャケットに着替えた。「これなら空から見えるかもしれないね」と。

 空を見あげると、ほんのりと白いモヤがかかっているものの、ほぼ快晴。ところどころに、白い雲がポツポツと見える。青い空が、目にしみる。

 「これなら、飛行機が見えるかもしれない」と、また私。

 私とワイフは、旗を車に載せると、航空自衛隊の基地のほうに向った。途中、コンビニよって、おにぎりを買うつもりだった。

ワ「私ね、あなたと結婚して、よかったと思うことが、ひとつ、あるわ」
私「なんだ?」
ワ「あなたといると、感動の連続で、退屈しない……」
私「なんだ、そんなことか」と。

●1万5000フィート

 自衛隊の基地へは、10分ほどで着いた。手前のコンビニで、おにぎりとお茶を買った。1時までは、まだ時間がある。時計を見ると、12時45分。

 基地の南西の角にある空き地に車を止めた。止めるとすぐ、ワイフが、車の屋根に、黄色いシートをかぶせた。私は、旗を出すと、それを振る練習をしてみた。通り過ぎる車の中から、みな、人がこちらを見ていた。が、私は気にしなかった。

私「これなら、見えるよ、きっと」
ワ「でも、高いところを飛ぶのでしょ」
私「1万5000フィートだそうだ。約4500メートル」
ワ「富士山より高いのよ」
私「見える、見える、あいつは、視力がいい」と。

 私は何度も時刻を聞く。ワイフは、空をまげたまま、動かない。ときどき、大きなライン機が、
空を飛びかう。白い雲が、今日は、いじらしい。

ワ「あの飛行機は、どれくらいの高さを飛んでいるのかしら?」
私「あれも、4500メートルくらいではないかな?」
ワ「あれくらいの高さだったら、見えるかもしれないね」と。

●1時15分

 そのとき、真西のほうから、飛行機が近づいてきた。ライトをつけている。それを見て、ワイフが、「あれ、E君じゃ、ない?」と。

 私は「そうかもしれない」とは言ったものの、それにしては高度が低すぎる。「あんな低くはないよ」とは言ったものの、期待はふくらんだ。「ひょっとしたら、Eかもしれない。あいつ、基地に近づいたら、前輪灯をつけると言っていた」と。

 目をこらしていると、その飛行機は、基地をめざしてまっすぐに飛んできた。が、やがてそれに爆音がまじるようになった。

ワ「ジェット機よ……。自衛隊の……」
私「そうだよな、あんな低いはずはないよな」と。

 ジリジリと時間が過ぎていく。1時は過ぎた。しかし、薄いモヤを通して飛行機をさがすのは、容易なことではない。飛行機そのものが、空に溶け込んでしまっている。そんな感じがした。

私「何時だ?」
ワ「1時10分よ」
……
私「何時だ?」
ワ「1時12分よ」と。

 そのとき、一機の飛行機が、2本の飛行機雲を残しながら、上空を横切っていった。

私「あれは、ちがうよね」
ワ「あれは、旅客機みたい。大きいわ。Eのは、小型機よ」
私「そうだね……」と。

 するとそのあとすぐ、それを追いかけるかのように、一機の飛行機が空を横切っていった。後退翼の飛行機である。翼端の青い線が、何となく見えた気がした。その飛行機が、丸い雲の間から出て、まっすぐと東に飛んでいった。

ワ「あれよ、きっと、あれよ」
私「あれかなあ? キングエアの翼は、まっすぐだよ。後退翼ではないはず……」と。

 しかし旗を振るヒマはなかった。目にもわかる速い速度で、その飛行機は、スーッと視界から遠ざかり、再び、丸い雲の中に消えていった。

私「時刻は、何時?」
ワ「ちょうど、1時15分よ」
私「そうか。やっぱりあれが、Eの飛行機だ。あいつは、昔から時間に正確な子どもだったから。1時から1時半の間と言えば、1時15分だ」
ワ「そうよ、きっと、あれよ。よかったわ。見ることができて」
私「うん」と。

●キングエア

 私たちは、すぐには帰らなかった。「ひょっとしたら、まちがっているかもしれない」という思いで、そのまま、そこに立った。手には黄色い大きな旗をもったままだった。

 が、通るのは、明らかにライン機と思われる大型のものばかり。それから1時半まで、小型の飛行機は通らなかった。

私「やっぱり、あれだった」
ワ「私も、そう思うわ。あれよ」
私「あとで、Eに聞いてみればわかる。あいつも浜松を通過した時刻を覚えているはずだから」
ワ「そうね」と。

 何となく、後ろ髪をひかれる思いで、私とワイフは、その場を離れた。時刻は、1時35分ごろだった。

 旗をしまい、つづいて、車の上のシートをしまった。ワイフは、何度も、「やっぱり、あの飛行機よ」と言った。

 Eが操縦していたキングエアは、翼に上反角がついている。だからうしろ下方から見ると、後退翼の飛行機のように見える。はじめは、後退翼の飛行機だったから、キングエアではないと思った。しかしそのうち、それを頭の中で、打ち消した。「やっぱり、あの飛行機だった」と。

●息子のE

 ふたたび、私たちは現実の世界にもどった。いつものように車を走らせ、信号で、止める。

 そのとき、ふと、私は、こう言った。「あいつは、本当にあっという間に、飛び去っていったね」と。

 Eをひざの上に抱いたのが、つい、先日のように思い出された。生まれたときは、3000グラムもない、小さな子どもだった。何もかも、小さな子どもだった。

 そのEが、今は、もうおとな。身長も180センチを超えた。本当に、あっという間に、そうなってしまった。そして私たちのところから、飛び去ってしまった。

私「あの飛行機の中に、あいつがいたんだね」
ワ「そうね」
私「もう東京あたりまで、行っているかもしれないよ」
ワ「そんなに早く?」
私「そうだよ。時速600キロだもん。30分で東京へ着いてしまうよ」
ワ「飛行機って、速いのね」
私「うん……」と。

 うれしくも、さみしさの入り混じった感情。それが胸の中を熱くした。多分、ワイフも、同じ気持ちだったのだろう。家に着くまで、ほとんど、何もしゃべらなかった。

 車をおりるとき、再び、ワイフが、こう言った。「本当に、あなたといると、退屈しないわ」と。
 私は、それに答えて、「ウン」とだけ言った。
(2007年1月30日記)

【追記】

 やっぱり、あの飛行機が、キングエアでした。以下、EのBLOGから、日記をそのまま紹介します。

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 一泊航法、2日目。この上なくスッキリとした寝起き。僕たちの班は、高知経由で仙台へ帰還する。高知~仙台間が、僕の担当するレグだ。僕は浜松出身なので、どうしても浜松上空を通って帰りたかった。名古屋のあたりから新潟へ抜け、そこから真東へ帰るルートが主流なのだが、僕は名古屋から浜松、大島を経由し館山、御宿、銚子と房総半島を沿うように北上、仙台に至るルートを選択。教官すら飛んだことのないルートで、フライトプランが受理されるかどうか心配だった。というのも、羽田や成田の周辺は、国内一、航空交通量の多いところなので、C90のような遅いプロペラ機が訓練でフラフラ来られると迷惑がかかるのでは、と思ったのだ。
実際、高度帯によっては迂回させられる場合もあるんだとか。今回は17,000ft、約5000mを選択。空港に離着陸するライン機は、空港周辺ではこの高度よりも低いところを飛んでいるだろうと予想した結果だ。難なく許可されたので一安心。

 14,000ft以上の高度を航空業界では、『フライトレベル』と呼ぶ。フライトレベル1・7・0(ワン・セブン・ゼロ)。そこから見た日本の姿は、本当に綺麗だった。


航空自衛隊・浜松基地。両親がこの南西端にいて旗を振っていたらしいが、インサイトできず。

アクト・シティ。デジカメの望遠でここまで見えた。

一生忘れられない景色を、今日はたくさん見た。

 この他、羽田空港や成田空港なども見ることができた。成田空港では、アプローチする海外のエアラインが僕らのはるか下方を、列を作って飛んでいるのが見えた。見えたは2~3機だけだったが、等間隔のセパレーションを保って、はるかかなたの海から繋がる飛行機の列は、まるでベルトコンベアーのようであった。高知離陸から仙台着陸まで2時間45分。今日は仙台に来て初めて、ランウェイ09に着陸した。

 今回の旅で感じたことはたくさんあったが、まとめると、本当に楽しかった、という言葉になるだろう。操縦技術やオペレーションの訓練はもちろん、日本の空、日本の地形というものの全体的なイメージが掴めた気がする。そして、日本国内だけでなく、海外にだって行けそうな、そんな自信も手に入れた。本当に、すばらしい2日間であった。一泊航法で得た経験を、見た景色を、初めて飛んだ地元の空を、誇りに思ってくれた両親を、宮崎で再確認した初心を、僕は一生、忘れない。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

【息子の初フライト】JAL搭乗機

● 羽田へ向かう

 これから羽田に向かう。
新幹線に乗って、品川まで。
品川で一泊。
朝イチで、羽田へ。
903便。
午前8時10分離陸
息子の初飛行。
副機長になっての初飛行。
機種はB777-300。
500人乗り。

が、あいにくの悪天候。
目下、台風14号が、沖縄を直撃中。
言い忘れたが、初飛行は、羽田から那覇(沖縄)まで。
明日は「欠航」になるはず。
それでも私たちは、羽田に向かう。
ワイフが、こう言った。
「沖縄へ行けなくてもいいから……」と。
ワイフにはワイフの思いがある。
息子のにおいをかぎたいらしい。
「E(息子)に会えなくてもいいから……」とも。
私はすなおに、同意した。

・・・いつだったか、私は息子に約束した。
「初飛行のときは、飛行機に乗るよ」と。
その約束を、明日実行する。

●搭乗券

 息子が、JALの無料搭乗券を送ってきた。
が、その券では飛行機の予約はできない。
私とワイフは、割高の席を予約した。
往復で、14万円。
(このLCCの時代に、14万円!)
LCC、つまりロー・コスト・キャリアー。
欧米では、ばあいによっては、300~500円で飛行機に乗れるという。
そういう時代に、14万円!

 「高い」と思う前に、私のばあい、
「無事に帰ってこられたら、安い」と考える。
何を隠そう、私は飛行機恐怖症。
一度、飛行機事故に遭ってから、そうなってしまった。
今の今も、欠航になればよいと思う。
同時に、約束は守らねばならないという義務感。
その両者が、心の中で相互に現れては消える。

 本音を言えば、どちらでもよい。
飛行機は好きだが、今年(2010)になってからというもの、一度も空を
見あげていない。
いろいろあった。
加えて飛行機事故のニュースが報道されるたびに、ヒャッとする。
そうした状態がこの先、一生、つづく。

もし欠航になったら、羽田見物をする。
羽田でも、国際線が発着するようになったという。
それを見て、明日は、そのまま帰ってくる。

●息子の初飛行

 2010年、10月xx日。
JALに入社した息子が、副機長として
初飛行をする。
羽田から那覇まで。
飛行機の世界では、「初~~」というのは、
そのつど特別な意味をもつ。

 先週、その知らせを受け取るとすぐ、飛行機の予約を入れた。
長い手紙と、10枚近い写真が、それに添えてあった。
訓練につづく訓練で、忙しかったらしい。

●初飛行

 先にも書いたが、2010年の正月以来、ほぼ11か月。
私とワイフは、一度も空を見上げたことがない。
飛行機の話もやめた。
それまでは毎日のように空を見上げていたが・・・。

 正月に事件があった。
どんな事件かは、ここには書きたくない。
一度ハガキを書いたが、返事はなかった。
無視された。
手紙ではなく、ハガキにしたのは、家族の間で、秘密を作りたくなかったから。
ともかくも、その事件以来、私は苦しんだ。
ワイフも苦しんだ。

『許して忘れる』という言葉がある。
この言葉は自分以外の人には有効でも、自分に対しては、そうでない。
自分を許して、忘れることはできない。
自己嫌悪と絶望感。
……いろいろあった。

●ケリ

 そんな私がなぜ初飛行に?、と思う人がいるかもしれない。
それにはいろいろ理由がある。
ひとつには、自分の気持ちにケリをつけたかった。

息子が横浜国大を中退して、パイロットになりたいと言ったときのこと。
私は息子に夢を託した。
私も学生時代、パイロットにあこがれた。
仲がよかった先輩が、航空大学へ入学したこともある。

 が、息子が、航空大学に入学し、その夢がかなった。
息子が単独飛行で、浜松上空を横切ったときは、ワイフと二人で、
毛布を2枚つないだほどの大きな旗を作った。
黄色い旗だった。
それをワイフと2人で、空に向かって、振った。
JALに入社して、さらにその夢がかなった。
が、私の夢は、そこまで。

●私の夢

 私たちがその飛行機に乗ることは、昨日になってはじめて連絡した。
同じようにハガキで書いた。
たがいの連絡が途絶えて、10か月以上になる。
が、内緒で乗るというような、卑屈な気持ちはみじんもない。
私には私の夢があった。

息子の操縦する飛行機で、旅をする。
私の代理として、息子が操縦桿を握る。
その夢に終止符を打つために、飛行機に乗る。

私は私で夢をかなえ、あとは静かに、引き下がる。

●子離れ

 が、どうか誤解しないでほしい。
だからといって、息子との関係が壊れているとか、断絶しているとか、
そういうことではない。
(連絡は途絶えているが……。)
ワイフはいつも、こう言っている。
「自然体で考えましょう」と。

 その自然体で考えると、「どうでもよくなってしまった」。
「めんどう」という言い方のほうが、正しい。
親子の関係にも、燃え尽き症候群というのがあるのかもしれない。
その事件をきっかけに、私は燃え尽きてしまった。

 もちろん苦しんだ。
心臓に異変を感ずるほど、心を痛めた。
家にいる長男は、E(息子)を怒鳴りつけてやると暴れた。
私は私で、体中が熱くなり、眠られぬ夜もつづいた。
しかしそれも一巡すると、ここに書いたように、どうでもよくなってしまった。
もし修復するという気持ちが息子にあったとしたら、11か月というのは、
あまりにも長すぎた。
遅すぎた。

 これも子離れ。

●呪縛

 「今ね、息子や嫁さんに会っても、以前のようにすなおな気持ちで、
いらっしゃいとは言えないよ」と。
ワイフも同じような気持ちらしい。
仮に言えたとしても、そのときはそのときで、終わってしまうだろう。
長つづきしない。
やがて今のような状態に、もどる。

 悲しいというよりは、ワイフの言葉を借りるなら、「そのほうがいい」と。
「息子たちは息子たちで、私たちに構わず、幸福になればいいのよ」と。

 私は逆に、若いころから、濃密すぎるほどの親子関係、親戚関係で苦しんだ。
2年前、実兄と実母をつづいてなくし、やっとその呪縛から解放された。
そんな重圧感は、私たちの世代だけで、終わりにしたい。
もうたくさん。
こりごり。

●だれかがしなければならない仕事?

 息子から長い手紙がきたとき、チケットの予約はした。
メールはたびたび出したが、返事はなかった。
それで今回は、メールを出さなかった。
たぶん、アドレスを変えたせいではないか。
いろいろな文章が頭の中を横切ったが、手紙にはならなかった。
今さら、何をどう書けばよいのか。

 繰り返しになるが、今までもそうだったが、これからも飛行機事故の
ニュースを聞くたびに、心臓が縮むような思いをしなければならない。
危険な職業であることには、ちがいない。
が、私にこう言った人がいた。

「だれかがしなければならい仕事でしょ」と。

 そんな酷な言葉があるだろうか。
もし自分の息子だったら、そんな言葉は出てこないだろう。
たとえば自分の息子が戦場へ行ったとする。
そしてだれかに、「心配だ」と告げたとする。
で、そのだれかが、「だれかがしなければならない仕事でしょ」と。

●夢?

 夢をかなえた?

・・・今にして思えば、やはりあのとき、私は反対すべきだった。
学費の援助を止めるべきだった。
空を飛びたいという気持ちは、よくわかる。
しかし多かれ少なかれ、だれしも一度は、パイロットにあこがれる。
が、空の飛び方は、必ずしもひとつではない。
客となって、空を飛びまわるという方法もある。
またその夢がかなわなかったからといって、負け犬ということでもない。

 たとえばあの毛利氏(宇宙飛行士)は、浜松市で講演をしたとき、こう言った。
「みなさん、夢をもってください」「実現してください」と。
子ども相手の講演会だった。
「みなさん」というのは、子どもたちをさす。

 しかし自分の子どもを宇宙飛行士にしたいと願う親はいない。
もし、あなたの息子が「パイロットになりたい」と言ったら、あなたはどう思うだろうか。
「なりなさい」と言うだろうか。
「危険な仕事」というのは、それをいう。

 今回も、何人かの知人に、「息子が初飛行します」と告げた。
みな「おめでとう」とは言ってくれたが、そこまで。
それ以上のことは言わなかった。
みな、口を閉じてしまった。

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