最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

(3)

2010-07-14 08:31:03 | 日記


●影響力は……

 しかし忘れてはいけない。
現実には、テレビや新聞よりも、インターネットのほうが、この世界を動かし始めている。

 たとえば私のBLOGについても、Goo-Blogだけでも、昨日は、計3500件
ものアクセスがあった(6月14日)。
ほかに「はてなーBlog」「Blogger-Blog」「楽天ーBlog」へのアクセ
スも含めると、軽く1万件を超えた。
これにHPへのアクセスを加えると、1万5000件以上になる。
(1万5000件だぞ!)
ほかに電子マガジンの読者、計4000人など。

 しかしこうした数字を、テレビ局や新聞社は、認めない。
認めようともしない。
が、実際、この世界を動かしているのは、インターネット。
私が書いているこの記事にしても、明日までに、数万人の人たちが読む。
が、それを「価値がない!」と。
私はそれを「偏見」という。

●はやぶさ

 日本経済の衰退を導いたのは、「テレビ」と断言してもよい。
さらに言えば、「テレビ」を支える、「テレビ局の人間」と言ってもよい。
問題意識もなければ、危機感もない。
日本人を、「一億総ハクチ化」(大宅壮一)しながら、その意識もない。
さらに恐ろしいことに、「テレビ」のもつ、影響力そのものを、悪用している。
バラエティ番組にみられるように、日本人を愚民化している(?)。

 こうした弊害をさけるためには、たとえばアメリカのように、テレビ局を細分化し、「多
様性」をもたせるという方法がある。
スポーツ番組だけを流すテレビ局、宗教番組だけを流すテレビ局、映画だけを流すテレビ
局などなど。
アメリカには、そうしたチャンネルが、60~100局ほど、ある。
視聴者は、自分で選んで、自分の観たい番組を観ている。

現在のように、「総合雑誌的なテレビ局」は、雑誌の世界で、すでに先行証明されているよ
うに、早晩、衰退する。
衰退すると言うよりは、見向きされなくなる。

 ともあれ、今回の「はやぶさ報道」は、ひとつの象徴的なできごととして、しっかりと
記憶にとどめておきたい。

●ウーメラ砂漠(蛇足)

 サッカー選手にインタビューを求める前に、(あるいは同時に)、どうしてはやぶさを帰
還させた科学者に、インタビューを求めなかったのか。
南アフリカから実況中継する前に、(あるいは同時に)、どうしてオーストラリアから、実
況中継しなかったのか。
はやぶさが帰還した「ウーメラ砂漠」と言えば、私の親友のボブ君の農場があったところ
である。

ボブ君の実家は、その一角のナンタワラ(Nantawarra)というところにあった。
休暇ごとに、私は、そのナンタワラで、1~2週間を過ごした。
遠くに、フリンダース連峰を眺め、当時は、緩やかな傾斜のつづく農地だった。
(現在は、砂漠化が広がり、だれも住んでいないが……。)
それだけに、つまりそういう個人的な思いもあったから、今回の、テレビ局による「はや
ぶさ無・報道」は、残念でならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 小惑星探査機 はやぶさ 報道の偏向 イトカワ 日本経済衰退論 
繁栄ボケ)

(警告)
★私が韓国の大統領なら、日本の技術者を、超高給で引き抜く。
あるいは韓国へ超高額で、講師として招き、技術指導を受ける。
ロケットを作っている日本企業を買収する。

★私が日本の総理大臣なら、技術移転には、しっかりとした制限を設ける。
技術者の引き抜きには、制限を設ける。
企業買収を不許可とする。

★私が日本の科学者なら、日本に見切りをつけ、さっさと韓国企業へ移籍する。
(これは冗談!)


Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司

●下楠昌哉著『妖精のアイルランド』(平凡社新書)

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一度、読んだ。
それから数年。
再び、今日、読んだ。
下楠昌哉著、『妖精のアイルランド』(平凡社新書)。
といっても、下楠昌哉氏のその本は、新書版ながら、
1日や2日で読みきれるものではない。
密度が濃いというか、アイルランド文学に造詣(ぞうけい)
の深い人でないと、垣間見る文学史に振り回されてしまう。
しかし読みこなすほどに、おもしろさが伝わってくる。
不謹慎なたとえかもしれないが、おいしいスルメを
かんでいるような心地。
そんな感じになる。

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●日本とアイルランド

 日本とアイルランドは、地勢的に、正反対の位置にある。
日本があるあたりを、「極東」と呼ぶ。
同じように考えると、アイルランドのあるあたりは、「極西」ということになる。
極東と極西。

 しかし下楠昌哉(以下、下楠氏と略)のこの本を読む限り、「極東」というときの辺鄙(へ
んぴ)さを、アイルランドについて感じないのは、なぜか。
たとえば私が若いころ、この日本は、「奇異なる国」と呼ばれていた。
もちろん西洋的視点から見た印象だが、その「奇異さ」は、日本から一歩外に出てみると、
よくわかった。
が、アイルランドを、「奇異なる国」と呼ぶ人はいない。

●アイルランド人

 一方、私たち日本人の視点から見ると、イギリス(ブリィテン)も、アイルランドも同
じ・・・に見える。
しかし実際には、イギリスとアイルランドは、言葉も文化もちがう。
風俗、習慣もちがう。
家の構え方もちがう。

アイルランドの流れを汲む民族的一派(ケルト人)は、フランスを含めて、大西洋の西岸
で、独特の文化圏を作り上げている。
今でもそれぞれの地で、その国の言語(ゲール語)を話している。

 私の印象では、イギリス人とアイルランド人は、日本人と朝鮮人ほど、あるいはそれ以
上にちがう。
アメリカでもオーストラリアでも、アイルランド人というよりは、アイルランド系の人は、
簡単に見分けられる。
(もちろん混血の人も多いが、それでもアイルランド系の人たちは、アイルランド系の人
たちどうしで、集まる傾向が強い。)

●アイルランド人

 オーストラリアへ渡ったとき、最初にできた友人は、ドイツ系の学生だった。
「ベア君(Beare)」という名字で、それがわかった。
つぎに仲良くなったのは、「キシア君(Kishere)」だった。
彼はイギリスでも名門の出で、イギリスで発行されている名士辞典には、彼の祖先の名前
が載っている。
が、だれよりも私に大きな影響を与えたのは、ガールフレンドの、Jだった。
その彼女が、アイルランド出身だった。
独特の、あの訛(なま)りのある英語を話した。

●ドリンキング・ソング

 アイルランドには、民謡として、「ドリンキング・ソング」というのがある。
酒場などで、酒を飲んだようなときに歌う、あの歌である。
めちゃめちゃ陽気な歌である。
オーストラリアのフォークソングは、そのドリンキング・ソングの影響を強く受けている。
明らかに替え歌というのも、多い。
が、ここで誤解してはいけないことがある。
こうしたドリンキング・ソングにせよ、フォークソングにせよ、底なしに明るいからとい
って、彼らの性格もそのまま明るいということにはならない。
むしろ事実は逆。
うつ病タイプの人が、ときとして陽気にはしゃぐのに似ている。
悲しみやさみしさ、つらさを吹き飛ばすために、彼らはドリンキング・ソングを歌う。
・・・歌った。

私は、そのドリンキング・ソングが大好き。
今でも、そのいくつかを、正確なアイルランド訛りで、歌うことができる。
Jがよく歌って、教えてくれた。

●妖精

 下楠氏の『妖精のアイルランド』を読んで、興味深いのが、「妖精」のイメージ。
日本で「妖精」というと、かわいい女の子、あるいはどこかいたずらっぽい女の子を連想
する。
ピーターパンに出てくる、ティンカーベルも、その1人。
しかし実際には、恐ろしい。
アイルランドの妖精は、恐ろしい。
日本的に言えば、「怨念をもった幽霊」に近い。
「妖精信仰」という言葉もある。
下楠氏は、ラフカディオ・ハーン(日本名:小泉八雲)の次のような言葉を引用している。

「妖精信仰は、実に恐ろしげで陰鬱なものである。
そこにはユーモアなどない。
極度の恐怖が主題なのである」と。

 ここまで読んで、鋭い読者の方なら、もうお気づきのことと思う。
ラフカディオ・ハーンはやがて日本の地を踏み、そののち、あの『怪談』を著す。
あの『怪談』に出てくる陰鬱さこそが、実は、アイルランドの妖精信仰とその底流でつな
がっているもの。
ハーンの父親は、そのアイルランド人だった。
・・・というより、下楠氏の『妖精のアイルランド』によれば、「その血筋の一端を、アイ
ルランドに有しているのである」ということである。
ラフカディオ・ハーンは、かなり複雑な幼少期を過ごしている。

●下楠氏

 下楠氏の本を読みながら、実は、私はまったく別のことを考えていた。
実は、下楠氏と私は、2人の娘さんを通して、知己(ちき)の間柄だった。
私は2人の娘さんを、4~5年、教えさせてもらった。
たいへんというか、きわめて知的レベルの高い子どもたちで、その後、京都でも有数の進
学校に入学したと聞いている。
昨年の夏に、突然、私の教室を訪問してくれた。

 下楠氏とは、そのたびに、私の教室で顔を合わせている。
当時、下楠氏は、静岡文化芸術大学助教授の地位にあった。
『妖精のアイルランド』の奥付の著者欄には、「上智大学大学院博士後期課程終了。文学博
士」とある。

 その下楠氏と別れて、もう数年がたつ。
「早いものだ」と思ってみたり、「二度と会うことはないだろう」と思ってみたりする。
遠い人になってしまったが、本を手にとったとたん、そこに下楠氏がいるような気がした。
人の出会い、別れ、そしてその人への(思い)というのは、そういうものか。
改めて、『アイルランドの妖精』のもつ重みを、ズシリと感ずる。

1968年生まれというから、下楠氏が生まれたのは、私がUNESCOの交換学生とし
て、韓国に渡った年である。
年齢的には、私より21歳若いということになる。
(私は1947年生まれ。)
が、私には、逆立ちしても、こんなすばらしい本は書けない。
1ページ読むごとに、そう感じた。
それだから・・・というわけでもないが、下楠氏には、ある種の罪悪感すら覚える。
これといって失礼なことをした覚えはないのだが、ともに人生の一部を共有しながら、そ
の(共有)を、私は生かすことができなかった。
そのときは、「さようなら。お元気」だけで終わってしまった。
「もっといろいろなことを教えてもらえばよかった」という後悔の念がそれを包む。

 先に書いた、ガールフレンドだったJは、その後白血病になり、兄の住むドイツに渡っ
た。
そこでギリシャ人と出会い、結婚。
最後の手紙は、ギリシャの小さな町からのもので、そこで音信は途絶えた。
あのJも、アイルランドの妖精だったかもしれない。
下楠氏の本を読みながら、そんなことも考えた。

 Jのことは、『世にも不思議な留学記』の中に書いた。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page195.html

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 下楠昌哉 下楠昌哉著、『妖精のアイルランド』(平凡社新書)


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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