最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●教師の本音(1)

2009-11-03 08:18:35 | 日記


【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの問題vs親の問題(ミラー思考)

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子どもに問題を感じたら、その反対側に、
親の側にも同じ問題があると考える。
これを「ミラー思考」(はやし浩司)という。
いろいろなケースがある。

たとえば依存性の強い子どもがいる。
何かにつけ、自立した行動ができない。
人格の核形成も遅れ、全体に幼稚ぽい。
そういう子どもをもつ親は、「うちの子は
甘えん坊で困ります」と言う。

しかしそういう子どもにしたのは、親自身。
親自身も依存性が強く、自立できないでいる。
情緒的に不安定であったり、精神的に未熟であったりする。
そのためどうしても、子どもの依存性に甘くなる。
その結果、子どもも依存性の強い子どもになる。

親の心が、子どもの心に、直接的に大きな
影響を与える。
このように子どもの問題を見つけたら、
その反対側に親の問題があるとみる考え方を、
「ミラー思考」という。

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●逆・母子分離不安

 少し前、「逆・母子分離不安」について書いた。
母子分離不安というと、子どもの側だけの問題と考えがち。
が、母親のほうが、子どもと離れると不安になるというケースも
少なくない。

子どもの姿が見えなくなっただけで、言いようのない不安感に襲われる。
子どもの姿がそばに見えないと、心配でならない、など。
そのため、いつも子どものそばにいて、子どもにベタベタとくっついている。
母子分離不安の逆だから、「逆・母子分離不安」(はやし浩司)という。
「子母・分離不安」でもよい。

 似たような反応、つまり逆の反応が起きるという現象は、ほかの場面でもよく見られる。
「帰宅拒否」も、そのひとつ。
いつか私は、「不登校の反対側にあるのが、帰宅拒否」と書いた(1999年ごろ)。
今ではこの考え方は、広く知られ、常識化している。

 当時、不登校ばかりが問題になっていた。
が、その一方で、「家に帰りたがらない子ども」もいた。
症状こそ多少ちがうが、しかしその根底にある心の問題は同じ、……と私は考えた。
親たちは、子どもが「学校へ行きたくない」と言うと、大騒ぎする。
しかし「家に帰りたくない」という子どももいた。
当時は、そういう子どもは、ほとんど問題にならなかった。
だからあえて「帰宅拒否」「帰宅拒否児」という言葉をつかった。

 こうしたものの考え方も、「ミラー思考」の一つということになる。
ただしこのばあいの「ミラー」は、反対側にも、似たような問題があるという意味で、
そう言う。

●子どもの立場で……

 あるいはこんなことも……。

 先日、ある小学校で講演をさせてもらったとき、そのあと、こんな質問を
もらった(10月31日、K小学校で)。
「うちの子どもは、中3だが、勉強もしないで、家でゲームばかりしている。
どうしたらいいか」と。

 このばあいも、そうだ。
その母親は自分の立場で、親として、子どもの将来を心配していた。
それは当然のことかもしれない。
しかし自分の感じている不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてはいけない。

いちばん苦しんでいるのは、当の中学3年生の息子である。
楽しくてゲームに、夢中になっているのではない。
好き好んで、ゲームばかりしているわけではない。
ほかにすることがない。
何をしても、空回りばかり。
だからゲームをして、ふさいだ気分を紛らわす。
できれば、もっと別のことをして、みなの前で活躍したい。
しかしそれができない……。

 だから私はこう答えた。

「あなたのお子さんは、ゲームをしながら、楽しんでいるのではないですよ。
自分がやりたいこと、すべきことが見つからず、悶々とした気分でいるのですよ。
勉強したくても、どこから手をつけてよいか、それがわからない。
やってもやっても、成績はあがらない。
苦しんで、もがいているのは、お子さんのほうだということです。

 中学3年生というと、もうおとなです。
母親であるあなたに言われなくても、ゲームなんかしているばあいではない。
そんなことは、百も承知なのです。
が、ほかにやることもない。
できることもない。
だからゲームをする……。

そんなわけで子どもに言うとしたら、『勉強しなさい』ではなく、
『あなたは苦しんでいるのね』ですよ。
子どもの立場になって、子どものかかえている問題を、いっしょに考えて
あげてください」と。

 加えて言うなら、最近の子どもたちの勉強に対する意識は、大きく変わった。
「勉強でがんばって……」という中学生は、約40%とみる。
残りの60%は、「勉強して……」という意識そのものが、薄い。
「薄い」というより、「もとから、ない」。

 が、親たちは、昔の意識のまま。
昔の意識のままで、子どもに向かって、「勉強しなさい!」と言う。
「勉強しないと、社会から取り残される」「落ちこぼれる」と。
いまだに学歴信仰をしている親となると、ゴマンといる。
が、それでは子どもの心をつかむことはできない。

 こういうときは、こうする。
押してだけなときは、思い切って、引いてみる。
私も、この手をよく使う。

 「ブルーアイズに、融合カードをくっつけると、攻撃力は2倍になるよ」と。
親自身が、子どもの世界に飛び込んでみる。
「ゲームは、くだらない」と決めつける前に、「おもしろそうね」と言ってみる。
とたん、子どもたちの表情が、パッと変わる。
その中学生のばあいも、一度、親が、そのゲームをしてみたらよい。
そういう姿勢が、子どもの心に風穴を開ける。

 親が自分の不安や心配を、子どもにぶつければぶつけるほど、
子どもは、ますます今、そこにある問題から遠ざかろうとする。
この母親の子どものケースでは、ゲームに夢中になる。

 こうして一度、自分を子どもの世界に置いてみる。
そこを視点にして、子どもの問題を考えてみる。
これも「ミラー思考」ということになる。

●ミラー思考

 先にも書いたように、「ミラー思考」という言葉は、私が考えた。
それを分類すると、こうなる。

(1) 子どもの側に視点を置いて、子どもと同じように考える。
(2) 子どもの側に問題があったら、原因は自分にあると考える。

 要するに、親(とくに母親)の心は。そのまま、(あるいは逆に)、
子どもの心となって、反映されやすいということ。
もっとわかりやすい例では、こんなこともある。

 あなたが子どものころのことを思い出してみてほしい。
親戚や近所には、あなたの好きな人や、嫌いな人がいたはず。
しかしその好き・嫌いを決めていたのは、あなた自身ではない。
あなたの母親である。
あなたの母親が好きな人を、あなたは好きと感じ、母親が嫌いな人を、
あなたは嫌いと感じていた。

 私もこのことを、母の葬儀のあとに、知った。
「ああ、私は、母が嫌っていた人を、嫌っていただけ」と。

 もちろん、その反対のこともある。

 私の母は、たいへん迷信深い人だった。
たとえば何をするにも、暦(こよみ)を見て、決めていた。
「今日は、日がいいから、~~する」
「明日は、日が悪いから、~~しない」と。

「大安」「仏滅」というような言葉が、よく口から出てきた。

 私もある時期までは、母の考え方に従ったが、そのうちそれに疑問を
もつようになった。
簡単に言えば、それが反面教師となって、私はそういう類の迷信を
まったく受け付けなくなった。

 自分の心の中をさぐってみると、自分の心そのものまで、親によって作られた
ということを知る。

●子どもの心

 「ミラー思考」という言葉に、こだわる必要はない。
はやし浩司の考えた、たわ言のひとつに過ぎない。
しかし重要なことは、それがよいものであれ、悪いものであれ、子どもの心を
作るのは、母親だということ。
それを忘れてはいけない。

 たとえば母親のもつ価値観、哲学(「哲学」と言えるようなものがあれば、という
話だが)、そういったものは、一度は、子どもにそっくりそのまま伝わる。
善悪の基準にしてもそうだ。

簡単な例としては、一度、あなたが先に、「山と川の絵」を描いて、どこかへ
しまっておく。
そのあと、子どもに、「山と川の絵」を描かせてみる。
あなたは子どもの描く絵が、あなたの絵とそっくりなのを知って、驚くだろう。
私の調査でも、30組に1組は、まったく、同じ絵を描くことがわかっている
(年中児・年長児について調査)。

 もしそれがよいものであれば、それはそれでよし。
そうでなければ、子どもは、その呪縛から逃れるため、たいへんな苦労を強いられる。
ここでは詳しくは書けないが、私自身が、それを経験している。

 子どもを見るときの、ひとつの見方として、「ミラー思考」という言葉を考えた。
もっとよい言葉が、ほかにあるかもしれない。
が、これだけは言える。
子どもに何か問題を感じたら、それを子どもだけの問題として片づけないこと。
最近では、子どもは家族の「代表」という言葉を使う。
子どもの問題は、家族、地域、みんなの問題。
その視点を踏みはずしては、子どもの問題は、解決しない。

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題 親の問題)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●教師の本音(「教職の仕事は、こりごり」)

 昨日、74歳になる元教師という人と、しばらく話をさせてもらった。
YN氏という名前の人だった。
ときどき近くの小学校へ行って、ボランティア的な仕事をしているという。
で、その話を聞いたとき、私は、こう言った。

「どんな先生も、退職すると同時に、『教育なんて、もうコリゴリ』と言って、
教育の世界から遠ざかっていきます。が、珍しいですね」と。

 するとそのYN氏は、こう言った。 

「私も若いころ、退職していく先生が、そう言っているのを聞いた。
しかし40年近くも仕事をしながら、退職するときに、そう言うというのは、
自己否定もはなはだしい。
だから私は若いころ、自分は一生、教育と何らかの形で、関わっていきたいと
思っていた。
もちろん退職したあとも、ね。
しかしね、林先生(=私)、本音を言えば、そうですよ。
私も教育は、もう、こりごりです」と。

 教職は別として、サラリーマンの世界は、もう少しきびしい。
『退職したら、ただの人』と言う。
いくら肩書きや地位があっても、退職したら、ただの人。
まわりの人も、そうとらえるが、自分自身でも、「ただの人」になる。
またそうならないと、老後を楽しく暮らすことはできない。
みなに嫌われる。

 では、教職の世界は、どうか?
退職したら、ただの人なのか?
またそうであって、よいのか?
キャリアをもっと生かす方法とか、道とかはないのか。

 もっとも教職の世界にも、天下りというのがある。
たいていの教師は、退職と同時に、公共の施設で何らかの仕事をする。
図書館の館長とか、公民館の館長というのが、多い。
子育て相談や、いろいろな会合で講師をする人もいる。
大学の教壇に立つ人もいる。
こうして満65歳くらいまでは、たいていの教師は働く。
しかし「本音を言えば、こりごり」と。

 「今ではね、体育館で子どもが怪我をしても、教師はその子どもの家まで
行って、頭をさげなければなりません。
それだけでも1~2時間は、かかってしまいます。
昔なら、電話一本ですんだ話でも、今は、そういうわけにはいきません。
1~2時間も取られると、翌日の教材の用意もできなくなります。
したくもない雑用ばかりで、本来の教育が、どこかへ行ってしまっています。
そういうのも、理由のひとつではないでしょうか」と。

 多くの教師は、今の今も、(したい仕事)と(したくない仕事)のはざまで
もがいている。
が、残念なことに、実際には、(したくない仕事)のほうが、多い。
重圧感もある。

 その場にいた、現役の校長(小学校)も、こう言った。
「今では学校に、親が介入してきます。
子どもに神経を遣う部分が、70%。
親に神経を遣う部分が、30%。
その30%のほうで、教師は、疲れてしまうのです」と。

 そうした負担感が積もりに積もって、「もう、こりごり」となる。
それが教師の本音ということになる。
が、日本の教育にとって、これほど、まずいことはない。
だったら、どうするか?

 カナダのように、徹底して、(教育)を(学校)から抜き出す。
「学校は教育をするところ」と位置づけて、それ以外の雑務から、教師を
解放する。
日本の大病院の医療制度を想像すればよい。
医師は、自分の診察室内でのことには、責任をもつ。
しかし患者が一歩、診察室を出たら、医師はいっさいの責任から解放される。
同じように、教師は、自分の教室内でのことについては、全責任を負う。
しかし子どもが教室から一歩でも出たら、いっさい、関係なし。
そういうしくみを早急につくりあげないと、現場の教師は、みな、つぶれてしまう。

 今のように、生活指導も含めて、「何からなにまで先生が……」というしくみの
ほうが、おかしい。
世界的に見ても、異常。
まず、そのことを、政治が気づき、ついで、親たちが気づいたらよい。
また学校の教師にしても、できないことはできないと、はっきりと声に出して
言えばよい。
へたに何でも引き受けるから、自分で自分の首を絞めてしまう。

 EU諸国(ドイツ、イタリア、フランス)では、クラブ制度が発達している。
子どもたちは基本的な授業は学校で受けるが、それが終わると、みな、クラブ
(塾)へ通っている。
たとえば英語教育にしても、そういったものは、民間の英語教室に任せればよい。
その費用は、バウチャー券でも、子ども券でも何でもよい。
そういう形で、政府が負担すればよい。

(英語教育が必要と考える人)もいる。
(必要でないと考える人)もいる。
(自分の子どもに、英語を教えたいと思う人)もいる。
(自分の子どもに、英語を教えたくないと思う人)もいる。
(英語を勉強したいと思う子ども)もいる。
(英語を勉強したくないと思う子ども)もいる。
(英語以外の言葉を勉強したいと思う子ども)もいる。

 そういう現状を無視して、北海道から沖縄まで、「平等で、同じ教育を」と
言うこと自体に、無理がある。

 ……とまあ、少し話が脱線したが、こうした無理も、教師からやる気を奪う
理由のひとつになっている。

 では、私は、どうか?
私は死ぬまで、今の仕事をつづける。
つづけたい。
年金の問題もあるが、(というのも、国民年金など、アテにならないので)、
それ以上に、こうして自由にものを考えたり、書いたりする時間があるのが、
楽しい。
もし今の仕事をやめたら、そのとたん、私は、生きる屍(しかばね)になって
しまう。
自分でも、それがよくわかっている。

 それに楽しいか、楽しくないかということになれば、幼児を相手に、ものを
教えることぐらい、楽しいことはない。
その子どもの、未来を創ることができる。
親がそこにいることも、気にならない。
だから62歳をすぎたが、「こりごり」という言葉は、私からは出てこない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 教育の現場 現状 元教師 悩み 苦悩 教育論 はやし浩司 
教育はどうあるべきか 教育の現場 問題点)

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