最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

2/3 Loneliness

2011-06-27 10:01:58 | 日記

●喪失の受容段階論(孤独と真理)「喪失の受容段階論」


●孤独は心のがん細胞(2011年1月28日記)


++++++++++++++++


喪失の内容、程度は、さまざま。
失恋、事業の失敗、健康、離婚、
子どもの巣立ち、肉親の死、配偶者の
死など。


そのつど人は、はげしい喪失感を
覚える。
ときにそれがそのまま絶望感になることもある。
襲い来る孤独感、孤立感、虚無感……。


少し前、「孤独は心のがん細胞」という
記事を書いた。
孤独をけっして軽く見てはいけない。
孤独は、心をむしばみ、やがて自らの死、
つまり自殺へと、心を導く。


が、この孤独。
闘えば闘うほど、キバをむいて
私たちに向かって襲いかかってくる。
もがけばもがくほど、孤独という糸に
からまれ、身動きが取れなくなる。


仏教でも、「無間地獄」と位置づける。
あのイエス・キリストも、孤独に
苦しんだ(マザーテレサ)。


が、受け入れてしまえば、何でもない。
孤独に身を任せ、静かにそれを受け入れる。
それで苦しみが消えるわけではない。
悲しみが消えるわけではない。
孤独であることは、苦しい。
魂が引き裂かれるほど、苦しい。
が、その苦しみを受け入れたとき、
その先に小さな光明が見えてくる。


人は、人生において2度、産道をくぐりぬける。
母胎からの産道。
そして孤独からの産道。
2度目の産道をくぐりぬけたとき、人は、
真理の世界に生まれ出ることができる。


++++++++++++++++++


●喪失


 人は、どう喪失感を受け入れていくか。
その参考となるのが、キューブラー・ロスの「死の受容段階論」。
言うまでもなく、「自分の命」を失うことを超える喪失感は、ない。
まさに死は究極の喪失感ということになる。


●死の受容段階論


 キューブラー・ロスの死の受容段階論(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)は、
つぎのような段階論をいう。


(第1期) 否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気
は死ぬほど重いものではないと否認しようとする。


(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康
な人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。


(第3期) 取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引き
を試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。


(第4期) 抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。


(第5期) 受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終
わりを静かに受け入れる。(以上、同書より)


●喪失の受容段階論


 喪失感がはげしければはげしいほど、ロスの『死の受容段階論』に似た段階を経て、や
がて人は喪失を受け入れるようになる。
こまかい点ではちがいはあるのだろうが、おおまかに言えば、それに近い。
順に整理してみる。


(第1期) 否認……失ったことを知り、大きなショックを受けたのち、失ってはいないと、
はげしく否認する。ささいなことに希望をつなぎ、「まだ何とかなる」と思う。


(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の幸福
そうな人、家族で、相手本人に対する不平不満としても生ずる。


(第3期) 取り引き……喪失の回復の見込みがないことを自覚すると、神や医者、家族と取
り引きを試みる。祈ることでの延命や、喪失の代償として、何かを望む。


(第4期) 抑うつ……喪失感が持続的につづくと、虚無主義に陥ったり、抑うつ状態になる。


(第5期) 受容……最後は平静な境地に至る。運命に身を任せ、運命に従い、喪失による孤
独感を静かに受け入れる。(以上、ロスの『死の受容段階論』を一部、改変。)


●孤独をどう受け入れていくか


 孤独というのは、闘っても意味がない。
闘う必要もないし、また人間にはそれに打ち勝つ力はない。
そこで大切なことは、居直る。
「ああ、私は孤独なんだ」と。
同時に、「みな、そうなんだ」と思えばよい。


 一見、派手な世界で愉快そうに振る舞っている人にしても、孤独でない人はいない。
みな孤独を背負っている。
あるいは孤独という氷の上を歩いている。
薄い氷。
その下では孤独が、「おいで、おいで」と手招きしている。


孤独を知らない人というのがいたら、本物のバカか、ものを考えないノーブレイン
(=脳なし人間)。
あるいは孤独をごまかして生きているだけ。
孤独から逃げているだけ。


 もちろん財力や名誉、地位、肩書き、経歴など、孤独の前では、一片の価値もない。
意味もない。
乾いた煙ほどの力もない。
孤独を癒す力など、まったくない。
もがけばもがくほど、孤独の糸がからんでくる。
身動きが取れなくなる。


 が、ひとたび孤独を受け入れれば、周りの世界は一変する。
それまで見えなかったものが、見えるようになる。
何が大切で、何がそうでないか。
何が価値があり、何がそうでないか。
言うまでもなく、私たちが探し求めている真理は、その向こうにある。


●真理探究


 財力や名誉、地位、肩書き、経歴に毒されている間は、真理など求めようもない。
そういう世界で踊っている人は、作りあげられた幻想の世界で、酔いしれているだけ。
それは一時のさみしさを紛らわすために飲む、酒のようなもの。
酒から覚めたら、その何倍もの孤独感が襲ってくる。


 言い替えると、財力や名誉、地位、肩書き、経歴にしがみつけばつくほど、その人は
孤独を前に、もがき、苦しむ。
絶望のどん底へ叩き落とされる。
「自らの死」を選択することにもなりかねない。


 が、孤独は「第二の産道」。
その産道をくぐり抜けることなしに、人は、真理の世界に入ることはできない。
もちろん「真理」は、その人によってちがう。
真理はひとつではないし、真理の向こうにまた別の真理がある。
そこは平和で、満ち足りた世界。
豊かで、おおらかな世界。
が、その世界もまた、無限のかなたへとつづく。


 方法は簡単。
孤独を受け入れる。
静かに受け入れる。
それで苦しみや悲しみが消えるわけではない。
しかしやがて、その先に、一筋の光明が見えてくる。
あとはその光明に向かって歩いていけばよい。


 ……この先のことは、私にもわからない。
ただこれだけは言える。


真理などというのは、そんなに遠くにあるものではないということ。
私やあなたのすぐそばにあって、私やあなたに見つけてもらうのを、息をひそめて
じっと待っている。


 さあ、あなたも勇気を出して、孤独の世界に身を横たえてみよう。
声に出して叫んでみよう。
「私はさみしい!」と。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 第二の産道論 真理の探究 真理 孤独論 喪失論 喪失の受容段階論
 はやし浩司 ロス 死の受容段階論 はやし浩司 孤独は心のがん細胞 はやし浩司 
第二の産道 第2の産道論 孤独は真理への関門 はやし浩司 関門論 産道論)

(参考)

●ストレス論byはやし浩司

++++++++++++++++

昨夜、知人(65歳、男性)が、こう言った。
「私たちの年齢になると、勇気を出して、外出する。
それが心の健康に、とても重要です、と。

同感!
賛成!

ともすれば、私たちは外出するのがおっくうになる。
「できれば家の中で、のんびりしたい」と思うようになる。
が、それは心の老化のはじまり。

心が老化すると、
(1)刺激を嫌うようになる。
(2)変化を嫌うようになる。
(3)現状維持のまま楽をしたいと願うようになる。

 どれも同じようなもの。
だから「勇気を出して」となる。
その「勇気」が途絶えたとき、私たちの心は、ジジ臭くなる。
ババ臭くなる。

 ……ということで、昨夜は会食。
たがいに勇気を出して、行ってきた。
その席で、「ストレス」が話題になった。
「人間関係がストレスの原因」と、その男性は言った。

同感!
賛成!

それに答えて、私はこう言った。
「孤独は、心のがん細胞」と。

●ストレス学説
 
人間関係ほど、わずらわしいものはない。もし人が、そのわずらわしさから解放されたら、
どんなにこの世は、住みやすいことか。いうまでもなく、我々が「ストレス」と呼ぶもの
は、その(わずらわしさ)から、生まれる。

このストレスに対する反応は、二種類ある。攻撃型と、防御型である。これは恐らく、人
間が、原始動物の時代からもっていた、反応ではないか。ためしに地面を這う、ミミズの
頭を、棒か何かで、つついてみるとよい。ミミズは、頭をひっこめる。

同じように、人間も、最初の段階で、攻撃すべきなのか、防御すべきなのか、選択を迫ら
れる。具体的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、心拍を速くし、脳や筋肉の活
動が高まる。俗に言う、ドキドキした状態になる。

ある程度のストレスは、生活に活力を与える。しかしそのストレッサー(ストレスの原因)
が、その人の処理能力を超えたようなときは、免疫細胞と言われる細胞が、特殊な物質(サ
イトカイン)を放出して、脳内ストレスを引き起こすとされる。

そのため副腎機能の亢進ばかりではなく、「食欲不振、性機能の低下、免疫機能の低下、低
体温、胃潰瘍などのさまざまな反応」(新井康允氏)が引き起こされるという。その反応は
「うつ病患者のそれに似ている」(同)とも言われている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 孤独感、絶望感は、ただ単なる感情ではない。
肉体をもむしばむ「がん細胞」ということになる。
こわいのは、脳内ストレス。
年齢的なことはよくわからないが、50歳を過ぎたら、要注意!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ストレス 免疫 免疫機能の低下 免疫機構 サイトカイン 孤独
 強力なストレス はやし浩司 絶望 孤独 心のがん細胞 ガン細胞)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●6月6日(2011)「絶望感」

●マウスをモニターに?

 友人のDさん(男性)が、今度、インターネットを始めた。
ちょうど50歳。
50の手習い。

 が、今までキーボードにすら、触れたことがないという。
高校1年生の娘さんに、あれこれ教えてもらっているという。
で、生まれて初めての、記念すべきメールを、私宛に出すという。
が、「メールを出しました」と電話があってから、3日たっても、メールは届かなかった。

 で、今度は私の方から電話。
「メールが届いていませんが……」と。

 こういうやり取りが、2回ほどあって、やっとメールが届いた。
が、こわくて、開けなかった。
件名の欄が、空白。
差出人の名前が、「ポンポコ……」とかいう、そんなような名前になっていた。
「たぶん……?」とは思ったが、開けなかった。
どう見ても、ウィルスメール。

 で、電話をかけて確認。
娘さんのアドレスをそのまま使っていた。
Dさんは、「ポンポコ……というのは、うちの娘のです」と。

 ……ということで、メールを開くと、「Dです。届きましたか?」と。
私はすぐメールで返信した。

「件名欄は空白にしてはいけない。
差出人の名前を書くこと」と。
電話で、私のホームページを見たいと言ったので、アドレスを張りつけておいた。

 が、しばらくするとまた電話。
D「メールが届いていません。ホームページも見ることができません」
私「マウスでカーソルをその上にもっていって、左、ダブルクリックです」
D「マウス? ……そんなもの、ありません」
私「ない? パソコンはどんなの? ノート、それとも……」
D「携帯電話です」

私「携帯電話では、見られません。携帯端末なら、見られます」
D「やっぱりそうですか。じゃあ、ちょっと待ってください」と。

 それから待つこと1時間あまり。
しびれを切らして電話をかけると、「今、やっているところです」と。

D「出ました、出ました。先生(=私)のメールが出ました」
私「その中に、私のHPのアドレスがあるでしょ。その上にマウスをもっていき、ダブル
クリックです」
D(カチャカチャという、聞き慣れない音)「出ませんねえ……」
私「マウスは今、どこにありますか?」
D「テレビ(モニター)の上です」
私「テレビの上?」
D「そうです」
私「あのう……。マウスは下に置いて、使うものですが……」と。

 こういうやりとりが、……つまり電話のかけあいが、1時間ほど、つづいた。
私は絶望感を覚え始めた。
Dさんも、「もう、疲れました」と言い始めた。

で、結局、今度、Dさんに、私の家に来てもらうことにした。
私が直接、教えることにした。
で、その夜は、そのまま電話を切った。

●パソコンの世界

 インターネットというのは、(パソコンの操作もそうだが)、それができる人は、日常の
会話のようにできる。
何も考えず、簡単にできる。
が、できない人には、できない。

数年前だが、近所の奥さんを助けたことがある。
「パソコンが動かない」というから、見に行ってやった。
が、見ると、フロッピーディスクが差し込んだままになっていた。

 またつぎの日、今度は、「プリンターが使えない」と言ってきた。
また見に行ってやると、プリンタードライバーが壊れていることがわかった。
ドラーバーを再インストールするしかない。
そこで奥さんに、「ドライバーはありますか?」と聞くと、「あります」と。
画面を見つめながら、あちこちを操作していると、奥さんがドライバーをもってきた。
見ると、ねじ回し用のドライバー!

 ……といっても、けっして笑ってはいけない。
みな、こういう経験を経て、パソコンの世界に入っていく。
私も、若いころ、いろいろな失敗をした。
さんざんした。
真っ青になり、冷や汗をタラタラと流しながら、徹夜したことも多い。
だからDさんにこう言った。

「パソコンというのはね、あきらめたら、負け。何としても解決してやるという意気込み
がないと、そこでくじけてしまう。くじけたら最後、そこで終わってしまう」と。

●パソコン嫌い

 その一方で、パソコン嫌いという人も、たしかにいる。
50代、60代の人に多い。
「あんなものなくても、一向に困らない」と。

 便利さを知る前に、便利さそのものを否定する。
そればかりか、インターネットを使っている人を、逆に軽蔑する。
(軽蔑だぞ!)
「ああいうものをやっていると、頭ばかりでっかちに(=大きく)なって、どうしようも
ない人間になってしまう」と。

 私が「パソコンで原稿を書いています」と言ったとき、「よく頭が痛くなりませんね?」
と言った人もいた。
何でもその人は、パソコンに向かって文字を打とうと考えただけで、頭が痛くなるという。
そういう人もいる。
が、私はいつもこう言う。

 「モニター画面の向こうには、もうひとつの宇宙がある」と。

 モニターという「窓」の向こうには、広大な宇宙が広がっている。
しかもそれぞれのモニターを介して、無数の人とつながっている。
今も、この画面の向こうには、無数の人たちがいる。
顔は見えないが、たしかにいる。
インターネットを否定する人は、自らその宇宙を否定していることになる。
だからそういう人に出会うたびに、私はこう思う。
「もったいない!」と。

●幼児教育

 ともあれ、パソコンの操作を知らない人は、本当に何も知らない。
またそういう人もいるという前提で、指導書などを充実させる。
たとえば先に書いたDさんにしてみれば、「アドレスの上に、カーソルを置く」ということ
を理解するだけでもたいへん。
Dさんは、アドレスの上、つまりアドレスの上にある空白部分に、カーソルを置いていた。
「上」という意味が、わからない。
正しくは「重ねる」。
が、どの指導書を見ても、「上」となっている。
「重ねる」と書いてある指導書はない。

 つまりそういうレベルから、指導を始める。
そのコツと内容は、幼児教育のそれに似ている。
たとえば年中4歳児あたりに、「『はしる(走る)』の反対は?」と聞くと、「ルシハ」と答
えたりする。
あるいは、昔、こんなことがあった。

 園庭で園児を指導しているとき、手を下げたまま走っている子どもがいた。
そこで私がその子どもに、「手を振って走れ」と号令をかけると、その子どもは「先生、バ
イバーイ」「先生、バイバーイ」と、手を振りながら走り始めた。

 ……などなど。
いろいろある。
Dさんの話をワイフにすると、ワイフは笑った(失礼!)。
が、私は笑えなかった。
フフフと笑ったが、それ以上には笑えなかった。
私は何とも表現しがたい、絶望感を覚えたままだった。

コメントを投稿