最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

2/2 母子分離不安

2012-03-25 11:35:02 | 日記


●母子関係の重要性

 乳幼児期における母子関係の重要性については、何度も書いてきた。
その子どもの基本は、この時期に構築される。
基本的信頼関係もそのひとつ。

 基本的信頼関係は、その後の、その人の人間関係に大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係がしっかりと構築できた子ども(人)は、他人に対して、心が開くことができる。
そうでない子ども(人)は、心が開けなくなる。
(詳しくは、「はやし浩司 基本的信頼関係」で検索。)

 が、それだけではない。この時期をのがすと、人間性そのものが欠落した子どもになる。
インドで見つかった、アマラ、カマラの2人のオオカミ少女を、例にあげるまでもない。
これについても、何度も書いてきた。
(詳しくは、「はやし浩司 野生児」で検索。)

 さらに最近の研究によれば、人間にも鳥類に似た、刷り込みがあることがわかってきた。
卵からふ化したあと、すぐ二足歩行する鳥類は、最初に見たもの、耳にしたものを、親と思いこむ習性がある。
それを刷り込み(インプリンティング)という。
人間にも、同じような刷り込みがあるという。
0歳から生後7か月くらいまでの間の期間をいう。
この期間を、発達心理学の世界では、「敏感期」と呼んでいる。

 が、不幸にして不幸な家庭に育った子どもは、こうした一連の母子関係の構築に失敗する。

●ホスピタリズム(施設病)

 生後直後から、何らかの理由で母親の手元を離れ、施設などで育てられた子どもには、独特の症状が現れることは、よく知られている。
こうした一連の症候群をまとめて、「ホスピタリズム(施設病)」※という。

(ただしこの言葉は、私が幼児教育の世界に入った、40年前にはすでにあった。
施設、たとえば保育園などに入ったからといって、みながみな、施設病になるわけではない。
当時と現在とでは、保育に対する考え方も大きく変わり、また乳児への接し方も、変わってきた。
ホスピタリズムについても、そういうことがないよう、細心の注意が払われるようになっている。)

 ホスピタリズムの具体的な症状としては、「感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい」(長畑正道氏)など。

ほかにも、動作がのろい(緩慢行動)、感情表出が不安定、表情が乏しいなどの症状を示す。
これについては、以前、どこかの学校でもたれたシンポジウム用に書いた原稿があるので、それを末尾に添付しておく。
 
 マターナル・デブリエイションでも、似たような症状を示す。
が、もっとも警戒すべき症状としては、人間性の喪失。
冒頭にも書いたように、他者との共鳴性の欠落が第一にあげられる。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるにつれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、虐待したりするようになる。

 さらに最近の研究によれば、こうした人間性の獲得にも、「臨界期」があることがわかってきた。
先のオオカミ少女にしても、その後インド政府によって、手厚く保護され、教育をほどこされたが、最後まで、人間らしい心を取り戻すことはなかったという。
つまり臨界期を過ぎてしまうと、それ以後、(取り返し)が、たいへん難しいということ。
このことからも乳幼児期における母子関係が、いかに重要なものであるかがわかる。

(注※……ホスピタリズム)

「心理学用語」(渋谷昌三)P192によれば、ホスピタリズムについて、つぎの1項目の症状をあげる。

(1) 身体発育の不良
(2) 知能の発達の遅れ
(3) 情緒発達の遅滞と情緒不安定
(4) 社会的発達の遅滞
(5) 神経症的傾向(指しゃぶり、爪かみ、夜尿、夜泣き、かんしゃくなど)
(6) 睡眠不良
(7) 協調性の欠如
(8) 自発性の欠如と依存性
(9) 攻撃的傾向
(10)逃避的傾向
(以上、「心理学」より)。

●いじめの問題

 このマターナル・デブリエイションとは、直接関係ないかもしれないが、(いじめ)について、少し書いてみる。

 先に、「年齢を重ねるにつれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、虐待したりするようになる」と書いた。
このことは、たとえば年中児~年長児(4~6歳児)に、ぬいぐるみを見せてみるとわかる。
心の温もりがじゅうぶん育っている子どもは、そうしたぬいぐるみを見せると、どこかうっとりとした表情を示す。
全体の7~8割が、そうである。
が、その一方で、ぬいぐるみを見せても反応しないか、反対にキックを入れたりする子どももいる。

(キックするからといって、心の冷たい子どもということには、ならない。誤解のないように!)

しかしこの時期までに、基本的な母性愛、父性愛の基本形は決まると考えてよい。
この時期に、おだやかでやさしい心をもった子どもは、その後も、そうした温もりを維持することができる。

 もちろんこれだけで、(いじめの問題)がすべて説明できるわけではない。
またこの問題を解決すれば、(いじめの問題)がなくなるわけではない。
しかし(いじめの問題)を考えるときには、こうした問題もあるということを、頭に入れておく必要がある。
その子どもにすべての責任をかぶせるのは、かえって危険なことでもある。

 反対に、たとえば極端なケースかもしれないが、溺愛児とか過保護児と呼ばれている子どもがいる。
このタイプの子どもは、よい意味において、母親の愛情をたっぷりと受けているから、いつも満足げでおっとりした様子を示す。

人格の核(コア)形成が遅れるというマイナス面はあるが、こと(いじめ)ということに関していえば、いじめの対象になることはあっても、いじめる側に回ることはまず、ない。

●「私」はどうか?

 こうした問題を考えていると、いつも「では、私はどうなのか?」という問題がついて回る。
 「マターナル・デブリベーションという問題があるのは、わかった。
では、私はどうなのか?」と。

 この文章を読んでいる人の中にも、心の温かい人もいる。
一方、心の冷たい人もいる。
が、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、自分でそれを自覚するのは難しい。
心のやさしい人は、みなもそうだと思いやすい。
反対に心の冷たい人は、みなもそうだと思いやすい。
が、自分ではそれをふつうと思い込む。
私はやさしいとか、冷たいとか、客観的に判断できる人は、ふつうの世界では、いない。
人は、いつも(自分の心)を基準として、他人をみる。

 言い換えると、とくに心の冷たい人は、自分の心の冷たさに気づくことはない。
うすうす感ずることはあっても、いつもどこかでブレーキが働いてしまう。
あるいは上辺だけは、心の温かい人を演ずることもある。
だれかの不幸話を聞いたようなとき、さも同情したかのようなフリをしてみせる。
しかしそれ以上に、相手の心の中に踏み込んでいくことができない……。

 そこで「私」を知る。
つまり「私自身は、どうなのか?」と。
私という人間は、心の温かい人間なのか。
それとも心の冷たい人間なのか、と。

 そのひとつの基準が、(いじめ)ということになる。
今、善人ぶっているあなただって、ひょっとしたら学生時代、いじめを繰り返していたかもしれない。
そこにいじめられている人がいても、見て見ぬフリをして、通り過ぎてきたかもしれない。
あるいは、あなたが自身が先頭に立って、いじめを繰り返していたかもしれない。

 そういうあなたは、じつはあなたの意思というよりは、あなたの育てられ方に原因があって、そうしていただけにすぎないということになる。

 ……と、短絡的に結びつけて考えることはできないが、その可能性も高いという意味で、この「マターナル・デブリベーション」の問題を考えてみたらよい。

 そこでもう一度、あなた自身に問いただしてみる。

「あなたという人間は、子どものころいつも、(いじめ)とは無縁の世界にいただろうか」、それとも「いつも(いじめ)の中心にいただろうか」と。

 もし(いじめ)の中心にいたとするなら、あなたはかなり心の冷たい人間である可能性が高い。
さらに言えば、乳幼児期に、不幸にして不幸な家庭環境に育った可能性が高い。
で、その(冷たさ)ゆえに、失っているものも多いはず。
孤独で、みじめで、さみしい毎日を送っているはず。
損か得かということになれば、損に決まっている。

●では、どうするか

 心の冷たい人が、温かい人になるということは、ありえるのだろうか。
乳幼児期にできあがった(心)を、おとなになってから、作り替えることは可能なのだろうか。

私は、それはたいへんむずかしいと思う。
人格の核(コア)というのは、そういうもの。
本能に近い部分にまで刻み込まれるため、それを訂正したり、修正したりするのは、容易なことではない。
そうした変化を自分のものにする前に、人生そのものが先に終わってしまってしまうということもある。
自分を作り変えるとしても、時間がかかる。
10年単位、20年単位の時間がかかる。
が、何よりも難しいのは、そうした自分に気がつくこと。

 この問題は、先にも書いたように、脳のCPUの問題がからんでいる。
さらに加齢とともに、(心)は、あなた自身の性格や性質として、定着してしまう。
これを「性格の固定化」と、私は呼んでいる。
そうなると、自分を変えるのは、ますます難しくなる。

 では、どうすればよいか。
ひとつの方法として、これは前にも書いたが、「感動する」という方法がある。
「感動する」ことによって、「他者との共鳴性」を育てる。
わかりやすく言えば、相手の心と波長を合わせる。
絵画、音楽、文学、演劇、映画、ドラマ・・・。
何でもよい。
そこに感動するものがあれば、それに感動する。
そういう場を自ら、求めていく。
つまり感動しながら、自分の心のワクを広げていく。

 さらに最近の大脳生理学によれば、脳の中の辺縁系にある扁桃核(扁桃体)が、心の温もりに関しているという説もある。
心のやさしい人は、大脳皮質部からの信号を受けると、扁桃核が、モルヒネ様のホルモン(エンドロフィン、エンケファリン系)の分泌を促す。
それが心地よい陶酔感を引き起こす。
心の冷たい人は、そういう脳内のメカニズムそのものが、機能しないのかもしれない。
(これは私の推察。)

●まず「私」を知る

 が、それとて、まずその前に「私」を知らなければならない。
「私は冷たい人間」ということを、自覚しなければならない。
繰り返すが、この問題は脳のCPUの問題だから、自分でそれに気づくだけでもたいへん。
特別な経験をしないかぎり、不可能とさえ言える。
そのひとつの基準として、先に、(いじめ)を取り上げてみた。
ほかにも、いろいろある。

 たとえばホームレスの人が路上で寝ていたとする。
冷たい冬の風が、吹き荒れている。
そういう人を見て、心を痛める人がいる。
反対に街のゴミのように思う人もいる。

 たとえば近親の中で、事業に失敗した人がいたとする。
そういうとき、何とか援助する方法はないものかと、あれこれ気をもむ人もいる。
反対に、「ザマーミロ」と笑ってすます人もいる。

 いろいろな場面を通して、「私」を評価してみたらよい。
「私という人間は、どういう人間なのか」と。
それが好ましい人間性であれば、それでよし。
もしそうでなければ、つぎに「どうしてそういう私になったか」を、考えてみればよい。

 「マターナル・デブリエイション」というと、子どもの問題と考えがちである。
しかしこの問題は、その子どもがおとなになってからも、つづく。
つまり(あなた)自身の問題ということになる。
(あなた)も、かつてはその(子ども)だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

日付は、2008年7月となっています。
古い原稿ですが、そのまま掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考原稿)【自立と自律】(N小学校、分科会、レジュメ)

●自立と依存

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自立と依存は、相克(そうこく)関係にある。
「相克」というのは、「相対立した」という意味。
自立性の強い子どもは、依存性が弱い。
自立性の弱い子どもは、依存性が強い。

一方依存性には、相互作用がある。
たとえば子どもの依存性と、親の依存性の間には、相互作用がある。

一方的に子どもが依存性をもつようになるわけではない。
子どもの依存性に甘い環境が、子どもの依存性を強くする。
わかりやすく言えば、子どもの依存性は、親で決まるということ。

たとえばよく「うちの子は、甘えん坊で……」とこぼす親がいる。
が、実は、そういうふうに甘えさせているのは、親自身ということになる。
たいていのばあい、親自身も、依存性が強い。

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たとえばM氏夫婦を見てみよう。
M氏が、ある日、こんな話をしてくれた。

「私の妻は、病気になったりすると、自分でさっさと病院へ行き、診察を受けたりしています。
私に病気のことを、相談することは、めったにありません。
しかし私は、病院が好きではありません。
かなり症状が悪くならないと、病院へは行きません。
だから病気へ行くときは、妻にせかされて行きます。
そんなわけで、たいていいつも妻がついてきてくれます」と。

ひとりで病院へ行く、M氏の妻。
たいへん自立心の強い女性ということになる。
一方、ひとりでは病院へ行けない夫。
たいへん自立心が弱い男性ということになる。

M氏は、こうも言った。
「妻は、6人兄弟の真ん中くらいでした。
子どものころから、何でも自分でしていたのですね。
が、私はひとり息子。
祖父母、両親に溺愛されて育ちました」と。

が、ここで誤解してはいけないのは、だからといって、M氏が依存性の強い男性と考えてはいけない。
(えてして、「自立心が弱い」というと、どこかナヨナヨして、ハキのない人を想像しがちだが……。)
M氏は、現在、小さいながらも、コンピュータを使ったデザイン事務所を経営している。

これは夫婦のばあいだが、親子となると、少し事情が変わってくる。

親子のばあい、依存性というのは相互的なもので、親の依存性が強いと、子どももまた依存性が強くなる。
たとえば「うちの子は、甘えん坊で困ります」とこぼす母親がいる。
しかしそういうふうに甘えん坊にしているのは、実は、母親自身ということになる。
母親自身も、依存性が強く、その分だけ、どうしても子どもの依存性に甘くなる。

「うちの子は、甘えん坊で困ります」と一方でこぼしながら、実は、子どもが「ママ、ママ」と自分に甘えてくるのを、その母親は喜んでいる。

あるいは(家庭の基準)そのものが、ちがうときがある。

ある家庭では、子ども(幼稚園児)に、生活のほとんどを任せている。
そればかりか、父親がサラリーマン、母親が商店を経営しているため、スーパーでの買い物など、雑務のほとんどは、その子どもの仕事ということになっている。
が、母親はいつも、こうこぼしている。
「うちの子は、何もしてくれないのですよ」と。

一方、ベタベタの親子関係を作りながら、それが「ふつう」と思っている親もいる。
T君は、現在小学6年生だが、母親といっしょに床で寝ている。
一度父親のほうから、「(そういう関係は)おかしいから、先生のほうから何とか言ってください」という相談を受けたことがある。
が、母親は、そういう関係を、(理想的な親子関係)と思っている。

だから子どもの自立を考えるときは、その基準がどこにあるかを、まず知らなければならない。
さらに言えば、こと依存性の強い子どものばあい、子どもだけを問題にしても、意味はない。
ほとんどのばあい、親自身も、依存性が強い。

そんなわけで、子どもの自立を考えたら、まず、親自身がその手本を見せるという意味で、親自身が自立する。
その結果として、子どもは、自立心の旺盛な子どもになる。

さらに言えば、この自立と依存性の問題には、民族性がからんでくることがある。
一般的には、日本人のように農耕文化圏の民族は相互依存性が強く、欧米人のように牧畜文化圏の民族は、自立心が旺盛と考えてよい。

ただ誤解していけないのは、自立心は旺盛であればあるほどよいかというと、そうでもないようだ。

オーストラリアの友人(M大教授)が、こんな話をしてくれた。

「オーストラリアの学校では、子どもの自立を第一に考えて教育する。
それはそれでよいのかもしれないが、それがオーストラリアでは、大企業が育たない理由のひとつにもなっている」と。

●自立と自律

自立は常に、依存性と対比して考えられるのに対して、自律は、あくまでもその人個人の、セルフ・コントロールの問題ということになる。

さらに自律心は、人格の完成度(ピーター・サロベイ、「EQ論」)を知るための、ひとつの大切なバロメーターにもなっている。

自律心の強い子どもは、それだけ人格の完成度が高いということになる。
そうでない子どもは、それだけ人格の完成度が低いということになる。
ものの考え方が、享楽的で、刹那的。
誘惑にも弱い。

その自律をコントロールするのが、脳の中でも、前頭前野ということが、最近の研究でわかってきた。
自分の思考や行動を律するための、高度な知的判断は、この前頭前野でなされる。
(反対に、この部分が、何らかの損傷を受けたりすると、人は自分を律することができなくなると言われている。)

さらに言えば、この自律心は、0歳から始まる乳児期に決定されると考えてよい。
私はこのことを、2匹の犬を飼ってみて、知った。

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それについて書いた原稿が
ありますので、紹介します。
2002年11月に書いた原稿です。

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●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。
それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。
たとえば、私の家には二匹の犬がいる。
一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。
これをA犬とする。
もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。
生後二か月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。
いつも人の顔色ばかりうかがっている。
私の家に来て、一二年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。
愛想はいいが、決して心を許さない。
その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしまう。
そして腹が減るまで、戻ってこない。
もちろん番犬にはならない。
見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。
寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま寝そべっている。
庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。
おかげで植木鉢は全滅。
小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。
しかしその割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。
見知らぬ人が入ってこようものなら、けたたましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらよいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。
いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わらないということ。
A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。
心に大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。
一見、愛想は悪いが、人間に心を許すことを知っている。
だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。
つまり人間を信頼している。
幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。
人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをいう。
このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。
感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい(長畑正道氏)など。

が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。
相手にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。
一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。
許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。
「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どうもそれだけではなさそうだ。
相手の心に取り入るのがうまい。
相手が喜ぶように、自分をごまかす。
茶化す。
そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。
当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言えばそうだった。
親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。
……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。

他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見えてくる。
「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。
私が私であって、私でない部分だ。
私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。
家庭崩壊、家庭不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。
しかしそれが問題ではない。
問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。
たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。
そして同じ失敗を繰り返す。
それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへと伝えてしまう。
心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。
私のばあいも、ゆがんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるようになった。
「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。
そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。
そこに教育の本当のおもしろさがある。
あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。
(02-11-7)

● いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の過去をのぞいてみよう。
何かがあるはずである。
問題はそういう過去があるということではなく、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。
またこの問題は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。
あとは時間の問題。

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心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
この「基本的信頼関係」の中には、「基本的自律心」という意味も含まれる。

心豊かで、愛情をたっぷりと受けて育てられた子どもは、それだけ自律心が、強いということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自立 自律 子どもの自立
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Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司


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