最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

12-14(

2009-12-14 08:27:12 | 日記
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   14日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●教育の法則

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昨日、「科学の法則」(PHP)を買ってきた。
私が読むつもりだった。
しかしここでありえないこと(?)が起きた。
ワイフが、夢中になって読みだした。
「ヘエ~」と感心した。

で、今、その本は、ワイフの手元に。
しかたないので、私は私の法則について書く。
「私の法則」というよりは、私が考えた
「教育の法則」。

+++++++++++++++++

●Y=A/X

Y=教育の質
X=雑務の量
A=その教師がもつ指導エネルギー

この法則によれば、(教育の質)と、(雑務の量)は、反比例の関係にある。
つまり教師の雑務が多ければ多いほど、教育の質は低下する。


●Y=(x2-x1)/(年数)

Y=教育の質
x2=現在の教育の内容
x1=過去の教育の内容
(年数)=その間の経過年数

この法則によれば、Yの値が大きければ大きいほど、その教師は努力したことになる。
マイナスに転じれば、その教師の教育の質は、低下したことになる。
たとえばこの10年で、教育の内容が大きく成長的に変化すれば、Yの値は大きくなる。
逆にマイナスになれば、教育の内容が、低下したことを意味する。


●Y=(勉強が好きな子ども)/(指導生徒数)x100

Y=教師の指導力
この値が大きければ大きいほど、その教師の指導力は高いということになる。
低ければ低いほど、指導力は低いということになる。
たとえば30人の生徒のうち、(勉強が好き)と答えた子どもが15人いれば、その
教師の指導力は、50ポイントということになる。


ほかにも(教師のやる気)(心を病む教師の出現率)(親と教師の関係)などなど。
いろいろ法則は考えられる。

が、何が重要かといって、(楽しさ)ほど重要なものはない。
「教えていて楽しい」……これにまさる教育の評価の仕方はない。
本来、子どもと接し、子どもに教える仕事は、楽しいもの。
「教えるのが苦痛である」とか、「子どもと接していると、疲れる」というのであれば、
教える姿勢そのものの中に、何か大きな問題があるとみる。
そういう前提で、教育、教師のあり方を考える。

もっとも、そのカギを握るのは、親ということになる。
子どもと接するのは、楽しい。
どんな教師でも、そう言う。
しかしそこへ親が入ってくると、教育の世界が一変する。
とたん、教育そのものが、おかしくなる。
そういうことは、よくある。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【沈まぬ太陽】

●「信念と良心の人」?

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公開中の映画『沈まぬ太陽』(WK監督)を劇場で見た。
その原作者で作家である、山崎豊子氏(84)が、このほど、
地元の堺市でWK監督と共に、その映画を鑑賞したという。
そして映画を観たあと、つぎのような感想を
述べたという(毎日JP)。

『映画は、人間の心の内を丹念に描いていて
見ごたえがありました。今の日本に必要なのは、
恩地(主人公名)のように、たった1人になっても筋を通し、
信念と良心を持ち続ける人。特に男の人たちに
見てもらいたい』(同)と。

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●日航123便の墜落事故

 日航123便の墜落事故について、毎日JPは、つぎのように説明する。
「ジャンボ機墜落事故を引き起こした航空会社の組織的、構造的な問題を浮き彫りにする」
と。

 つまり「航空会社(=日本航空)の組織的、構造的な問題があったから、ジャンボ機墜
落事故は起きた」と。

 ここでいう「組織的、構造的」というのは、映画『沈まぬ太陽』を観るかぎり、会社の
利益優先型の経営方針をいう。
事実、映画の中では、経営者たちは始終一貫して、(悪玉)として描かれている。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
そこで百歩譲って、もしそうだとするなら、つまり悪玉とするなら、事故の原因を、
もう一度丹念に、原因を検証してみる必要がある。

原因をオブラートに包んだまま、「事故の原因は、会社側の安全運航に対する努力怠慢であ
る」と、短絡的に結びつけるわけにはいかない。
映画で表現されている労使紛争にしても、安全運航のための闘争というよりは、賃上げ闘
争が主体になっていたはず。
(もし山崎豊子氏の論理が正しいとするなら、組合員も賃上げばかり主張しないで、
その分を、安全運行のために回せばよかったということになる。)

 が、ここで私たちは映画の映像トリックに、ひかかってしまう。

 映画『沈まぬ太陽』は、まず日航(JAL)123便の墜落事故から始まる。
その場面とケニア大使を招いた、パーティ会場が行き来し、やがて映画は、「~~年前」「~
~年前」……と進行していく。

 そして結果として、(はげしい労使紛争)が、事故の原因であるかのような印象を観客に
与える。
その(労使紛争)にしても、経営者側に責任があるかのような印象を観客に与える。
山崎豊子氏が言う、「信念と良心の人」(毎日JP)というのは、その労使紛争に巻き込ま
れ、その中で翻弄される恩地という名前の、1社員を言う。

 しかしここで誤解してはいけないのは、恩地といえども、1社員。
会社内部の人間である。
また墜落事故のあと、墜落事故の原因を究明したり、あるいは会社側の責任を追及した人
でもない。
社長が交代したあと、今度は新社長の側近として活躍する。
経営者側の人間となる。
もちろんそれなりの高給で優遇されたはず。
最後はまた懲罰左遷(?)され、アフリカの地に戻っていくが、ここでも映画の映像トリ
ックにひかかってしまう。

 海外勤務は、懲罰左遷なのか?

 で、当時の世相を振り返ってみると、日本航空にかぎらず、いわゆる三公社五現業と呼
ばれた組織体の中では、日夜はげしい労使紛争が繰り返されていた。
三公社五現業というのは、日本国有鉄道、日本専売公社、日本電信電話公社(以上3公社)
と、5つの現業官庁(郵政、国有林野、印刷、造幣、アルコール専売の各事業部門)をい
う。

●疑わしきは罰する(?)

 話が大きく脱線する前に、ひとつ、明らかにしておきたいことがある。

恩地は、「信念と両親の人」という立場で、描かれている。
それはわかる。
が、その一方で、会社側の人間が、すべていかにも(悪玉)という立場で描かれている。
このあたりの描き方について、少し前に書いた原稿の中で、私は、一昔前の、チャンパラ
映画のよう、と書いた。

 しかしこの手法には、たいへん問題がある。
何度も書くが、日本航空は、現在は、1民間会社である。
明らかにその民間会社とわかる形で、その経営陣を悪玉に仕立てあげるのはどうか?
江戸時代の代官を悪代官に仕立てあげるのとは、わけがちがう。

法律の世界には、『疑わしきは罰せず』という大原則がある。
が、この映画の中では、何の証拠も、また因果関係も示されないまま、「航空会社の組織的、
構造的な問題を浮き彫りにする」「それが日航123便の事故につながった」(毎日JP)
という論理で(?)、日本航空を直接的に攻撃している。
「疑わしいまま、罰している」。
そういうことが許されてよいのか?

 仮に恩地が、「信念と良心の人」というのなら、当初は、組合の委員長だった人物が、の
ちに石坂浩二演ずる、新社長のもとでは、社長の最側近として働く。
どうしてそんな人物が、「信念と良心の人」なのか。

 さらに念を押すなら、恩地は、日航123便の墜落事故の原因を究明するために闘った
人でも、また、事故のあと、会社の責任を追及した人でもない。
映画の中では、遺族との交渉係を務めた人である。
(この点についても、日本航空側は、そういう立場にあった人物は存在しなかったと社内
報で書いている。)

●墜落事故の原因 

 墜落事故の原因については、いろいろな説がある。
公式には、圧力隔壁と呼ばれる後部の壁が破裂し、それが尾翼を吹き飛ばしたからという
ことになっている。
しかしほかにも、尾翼のボルトが緩んでいたのが原因とか、アメリカ軍用機のミサイル誤
射説などもある。

 どうであるにせよ、「航空会社の組織的、構造的な問題を浮き彫りにする」というのは、
あまりにもひとりよがり過ぎる。
当時の世相を振り返っても、当時はそういう時代だった。
労使紛争はあちこちで起きていた。
日本航空のことはよく知らないが、旧国鉄における労使紛争には、ものすごいものがあっ
た。
そういう中で、懲罰左遷というのも、あったかもしれない。

しかしこの言葉は、当時、海外勤務をしていた人たちに対して、失礼極まりない。
商社マンのばあい、海外勤務はあこがれの的だった。
また当時は、2年程度を限度とする短期出張は当たり前だった。
短期出張は、単身赴任が原則だった。
それを「懲罰左遷」とは!

●日航123便

 さて本題。
作家の山崎豊子氏は、「犠牲になられた方、遺族の気持ちを思うと今も義憤にかられます」
(毎日JP)と述べている。
山崎豊子氏にしてみれば、たとえ思い込みであるにせよ、そうとでも言わなければ、自分
の立場がない。
つまり「義憤にかられて、あの本を書いた」と。

 しかしそうであるなら、また話は振り出しに戻ってしまう。
労使紛争と日航123便の事故が、どうして結びつくのか、と。
つまり山崎豊子氏としては、日本航空をどうしても悪玉に仕立てあげなければならない。
「義憤」という言葉も、そこから生まれた(?)。
が、どうして義憤なのか?

 もし日本航空に「組織的、構造的な問題」があったとするなら、それを追及してこそ、「信
念と良心の人」ということになる。
私には、恩地なる人物には悪いが、恩地という人は、やはりただの会社人間にしか見えな
い。
殴られても、蹴られても、会社にしがみつく……。
「一社懸命」という言葉は、そういう人のためにある。

繰り返すが、その「組織的、構造的な問題」を追及した人ではない。
会社の裏命令で、恩地は労働組合の委員長になり、労使紛争の茶番劇を演じて見せる。
が、それをやり過ぎたため、アフリカと中東に左遷。
今度は新社長に呼び戻されて、再び本社勤め。
その過程で、恩地は、安全運行についての発言は、一度も行っていない。
それもそのはず。

 もし恩地が、安全運行のことを口にすれば、それこそまさに日航123便の墜落事故は、
会社側の責任ということを認めることになってしまう。
これは山崎豊子氏にとっても、まことにまずい。
そのまま直接的に、確たる証拠もないまま、日本航空の経営者を加害者と認めることにな
ってしまう。
そのまま名誉毀損で訴えられても、文句が言えなくなってしまう。

 そこで山崎豊子氏は、日本航空を何としても、悪玉に仕立てあげねばならなかった。
それが『沈まぬ太陽』ということになる。
で、山崎豊子氏は、こう述べている(毎日JP)。

「今の日本に必要なのは、恩地のように、たった一人になっても筋を通し、信念と良心を
持ち続ける人だ」と。

 とすると、また話がわからなくなる。
もしそうなら、なぜ日本航空なのか?
どうして、今というこの時期なのか?

●名誉棄損

 この映画は、明らかに、日本航空という1企業の名誉を著しく毀損している。
映画『沈まぬ太陽』を見た人なら、だれでも、そう思う。
「名誉棄損」という言葉があるが、もしこれを名誉棄損と言わないなら、では、いったい、
名誉棄損とは何かということになってしまう。

 日本航空は、実在する、1企業である。
墜落事故が起きた当時、3公社は、つぎつぎと民営化を果たしている。
日本航空も、まさにその日、民営化に向けて、その第一歩を決議しようとしていた。
その企業を、明らかにその企業とわかる形で、こうまでこういう露骨に、攻撃してよいも
のか。
もし「信念と良心の人」を描きたいのなら、何も日本航空にする必要はなかったし、あの
日航123便事故と、からめる必要はなかった。

●映画論

比較するのもヤボなことだが、最近観た映画の中に、『チェンジリング』という映画があ
った。
行方不明になった息子を懸命に捜そうとする母親を描いたものだが、途中で、役人の欺瞞
に翻弄される。
が、その母親は闘いつづける。
そして最後に、自分の息子を取り戻す。
そういう母親を、「信念の人」という。
もちろん映画もすばらしかった。
最後は、涙がポロポロとこぼれた。

 先週の夜は、『路上のソリスト』という映画を観てきた。
最後のしめくくりが甘かったが、実話ということ。
それに現在進行形ということ。
それで「そういうしめくくりの仕方にするしかなかったかな」と納得した。
が、そのソリストをコラム(新聞記事)にすることによって、ロサンジェルスのホームレ
スの待遇が、大きく改善された。

 またおとといの夜は、これはDVDだったが、『扉を叩く人』というのを家で観た。
アメリカの移民政策の中で、シリアへ強制送還される男性と、それを救い出そうとする大
学教授の映画だった。
映画を通して、監督は、アメリカの移民政策を痛烈に批判する。
この映画は、アカデミー主演男優賞の候補にあがっている。

 これら3本は、どれも秀作で、星は、4つか5つ。
主演した俳優たちもうまいが、それをまわりからかためる、脇役たちの演技もうまい。
もちろん内容も、濃い。

 が、である。
当然のことながら、個人はもちろん、公的な機関ではあっても、その機関とわからないよ
うな形で、映画の中に登場させている。
またそこで働く職員の名誉を傷つけないような形で、俳優たちは演技している(「扉を叩く
人」の、移民局の職員など。)
こうした配慮は、映画のみならず、公の場所で、自説を唱える者にとっては、最低限守ら
なければならないマナーと考えてよい。
つまり相手が日本航空だからよいという論理は、まったく通用しない。

 で、日本航空内部では、この映画について、名誉棄損で訴えるという動きもあるという。
当然、訴えるべき映画と考えてよい。
今は何かとたいへんな時期かもしれないが、後日の裁判闘争に備えて、公式な抗議文を1
通くらいは、出しておいたほうがよい。
「無視」イコール、「黙認」という形になるのは、避けた方がよい。

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