最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●マガジン(1-29)号より

2010-01-29 08:39:48 | 日記
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 1月 29日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●認知症と激怒(認知症の前駆的初期症状)

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認知症になりかけた人は、どうして怒るのか?
まちがいを指摘したりすると、パニック状態になる。
ささいなことで、激怒する。
まちがえたら、まちがえましたですむ話。
しかし認知症になりかけた人は、それができない。
心の余裕を失う。
認知症を意識するあまり、それが激怒に変わる。
あるいは自分がそういう状態になっていることを、
人に知られるのを、たいへん恐れる(?)。

+++++++++++++++++++++++++

●認知症

 「もしかしたら……」と思うことは、恐怖以外の何ものでもない。
たしかに恐怖。
私も、最近、よくその恐怖を味わう。
もの忘れというのは、若いときからよくした。
今も、若いときとそれほど状態は変わってしない。
しかし若いときは、「忘れた」ですむ。
が、私の年齢になると、それが「もしかしたら……」となる。
あるいは「もしかしたら……」に、結びつけてしまう。

 たとえば同時に、2つ、3つの用事を予定したとする。
デジカメに充電し、めがねを取り出し、戸棚に本をしまう……と。
そこへ電話がかかってきたりすると、電話で話している間に、用事を忘れてしまう。
そのまま書斎に入ってしまったりする。
そこでどっかりと腰をすえたとき、「あっ、忘れた!」となる。

 注意力は、確かに散漫になってきた。
それは認める。
それに若いときは、触角が四方八方に向いている。
が、今は、その範囲が狭くなった。
ひとつの用事をこなしていると、ほかの用事を忘れてしまう。

●脳の乱舞

 が、まだ(恐怖)という段階ではない。
しかしそれがある一定限度を超えると、自分自身が信じられなくなる。
私も一度、チョコレートを食べ過ぎて、幻覚(?)を見たことがある。
幻覚というよりは、脳みそが勝手に乱舞してしまった。
あのとき覚えた恐怖感は、今でも忘れない。

 認知症になりかけのころは、こうした恐怖感が、日常的にその人を襲う(?)。
これはあくまでも私の想像だが、その恐怖感が緊張感となり、そこへ心配や不安が
入り込むと、一気に情緒が不安定になる。
それが多くのばあい、(怒り)に変わる。

●T氏(75歳)のケース

 T氏に会ったのは、10年ぶりだった。
私とワイフが山荘を造成しているころには、ときどきやってきて、私たちを手伝ってくれ
た。
T氏は、山荘の近くで、製剤工場を経営していた。

 そのT氏は、私たちのことを忘れていた?
「お世話になりました。あのときの林(=私)です」と、あいさつしたのだが、覚えてい
ないといったふうだった。

 T氏は、そのつど、いろいろな材木を届けてくれた。
その材木を使って、私は、テラスを作ったり、椅子やテーブルを作ったりした。
で、今回は、座卓の柱を切ってもらうことにした。
長さを、何ども「36センチ」と念を押したのに、家に帰って寸法を測ってみると、30
センチしかなかった。
ワイフも、「あれだけ言ったのに……」と、残念そうだった。
夜になっていたこともあり、その日はそのままにした。

 で、翌朝、電話をした。
が、私がミスを指摘したとたん、Tさんの様子が急変した。
私はていねいな言い方をしたつもりだったが、Tさんは、怒ったような雰囲気だった。

「紙に書いてくれればよかった」と、私をなじった。
そうかもしれない。
そのときも、心のどこかで「あぶないな」と感じた。
だからこそ、何度も念を押した。
「36センチですよ」と。

●恥

 Tさんは、こう言った。

「私のミスだから、作り直す」
「作り直して、お宅まで、届ける」
「会社のほうへ、取りに来てくれるな」
「家族には、ミスしたことを話さないでくれ」
「私の恥だ!」と。

 私が「作り直しておいてくれれば、受け取りに行く」と言ったのだが、そのあたりから、
声の調子が大きく変わった。
Tさんは、「恥」という言葉を使った。

 ふつうなら、こういうとき、「ハハハ、こちらのミスです。作り直します」という程度の
会話で終わる。
が、Tさんは、そうではなかった。
ミスをした自分が許せないといったふうだった。
そういう自分に怒っている。
私はそう感じた。

 その話をすると、ワイフは、こう言った。

「きっと、家の中でもいろいろミスをしているのよ。
それでそれをみんなに知られるのを、恐れているのよ」と。

 Tさんが認知症になっているかどうかは、わからない。
年齢的には、認知症になっていても、おかしくない。
が、認知症の初期の人が、怒りっぽくなるという話はよく聞く。
先にも書いたように、心の余裕を失う。
そのためささいなことで、激怒する。

●段階論

 私なりに、認知症の初期症状を段階論的にまとめてみる。

(1)疑惑期……「ひょっとしたら……」と、不安、心配になる。
(2)確認期……「たしかにおかしい?」と、自分でもそれがわかるようになる。
(3)隠蔽期……おかしくなりつつある自分を隠そうとする。
(4)否認期……とりつくろい、つじつま合わせがうまくなる。
(5)混乱期……だれかにミスを指摘されたりすると、激怒したりする。
(6)拒絶期……まわりの人たちが、診断を勧めたりすると、それをはげしく拒否する。
(7)治療期……認知症と診断され、治療期へと入っていく。

 上記、混乱期の特徴は、ささいなことで、パニック状態になること。
いわゆるヒステリー症状を示す。
ギャーギャーと泣きわめきながら抵抗したり、反論したりする。
まわりの人が、「わかった、わかった」となだめても、効果はない。
手がつけられないといった状態になる。

 Tさんについて言えば、あくまでもこれは私の印象だが、(3)の隠蔽期から(4)の否
認期に向かいつつあるのではないか。
心の緊張状態がつづき、やがて心の余裕を失っていく。

 先にも書いたが、75歳という年齢からして、今、そういう状態にあってもおかしくな
いし、またそういう状態にあることは、じゅうぶん、疑われる。
今回会ったときも、Tさんは、メモ帳を片時も離さないでもっていた。
TさんはTさんなりのやり方で、自分の年齢と懸命に闘っているようにも見えた。

以上、あくまでも私の勝手な判断によるものだが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 認知症の初期症状 痴呆症の初期症状 初期の初
期 認知症段階論)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●「濃い男」

++++++++++++++++++

「濃い男」「薄い男」という言い方は、
私が考えた。
もう20年以上も前のことである。
そのころ書いた本の中で、この言葉を
使った。

濃い男というのは、性的な意味で、
女性にしか興味を示さない男性をいう。
女性の肉体には強い関心をもつが、反対に
男性には手を触れられただけで、ぞっとする
ような嫌悪感を覚える。
つまり性的な意味で、男性にはまったく
興味を示さない男性をいう。

一方、薄い男というのは、性的な意味で、「女性
でもいいが、男性もいい」と考える男性をいう。
同性愛者は、そういう意味では、たいへん「薄い男性」
ということになる。

+++++++++++++++++

●文化

 先日、テレビを見ていたら、この言葉を使った人がいた。
「ぼくは、濃い男ですから……」と。
驚いた。
もっともその人は、最近流行している、「草食系男性」「肉食系男性」という
意味にからめて、そう言った。
要するに性的な意味において、つまり女性に対して、より能動的、かつ攻撃的な
男性という意味で、そう言った。

 で、しばらくして、こう考えた。

 こうして断片的ではあるにせよ、無数の人たちの文化が、無数にまざりあって、
つぎの世代の文化を創りあげていく、と。
私も、その一部でしかない。

「草食系」「肉食系」という言葉にしても、今ではだれが使い始めたかさえわからない。
しかし言葉として、私たちの文化の中に、定着している。
私自身も、だれが使い始めた言葉かを知らないまま、その言葉を使っている。
同じように、「濃い男」「薄い男」という言葉にしても、今、ここで私が、「もともとは
私が使い始めた言葉だ」と叫んでも意味はない。
すでにこの言葉は、ひとり歩きしている。
しかも意味が、私が考えた意味とは、少しちがう意味で使われている。

●オリジナル

 こうして私がオリジナルで考え、そののち、広く一般に使われているのが、
たくさんある。

 時計のお絵かき歌というのもある。
「♪丸描いて、チョン、上、下、横、横……」という歌である。
その歌が、ある幼児教育雑誌に、紹介されていた。
楽譜も載っていたが、「似ている」という程度だった。
もともとの私の歌い方とはちがう。
が、その歌詞について、何と、「作者不詳」となっていたのには、やはり驚いた。

 ほかにも、「道づくりゲーム」がある。
正方形のカードに、(直線道路)(三叉路)(十字路)(曲がった道)が描いてあり、
それをつなげて遊ぶというものである。
このゲームは、私は20代のころ、学研の「幼児の学習」という雑誌で発表した。
たいへん好評で、その1、2年後、同じ付録が、復刻版で出た。
たしか当時、学研で、実用新案として申請、登録されたと思う。
(発案者には、権利はない。
申請者に、権利が残る。
発案者は、「はやし浩司」、申請者は、「学研」だったと思う。)

 そのあと、そのゲームは、「ヘビ・ゲーム」とか、「水道管ゲーム」に変形され、
市販化された。
が、今では、このゲームは、あちこちで無断で(?)、使われている。

 ほかにもある。

 東京の私立小学校で使われている入試問題の何割かが、私が考えたものである。
ウソだと思う人がいたら、「主婦と生活」(1975年11月号の巻末付録)を見て
ほしい。
ちょうど35年前である。
それを見た人は、こう思うだろう。
「私立小学校の入試問題と同じ」と。
(そのときの私のHPに、収録しておく。)
 
 それ以前に、どこかの小学校の入試に、似たような問題が使われていたとしたら、
私がまねて、雑誌に発表したことになる。
が、そういうことは、ない。

 ……ということで、いろいろ書きたいことはあるが、ここまで。
書けば、どうしてもグチになる。

●文化

 私だけではない。
いろいろな人が、いろいろな立場で、無数の文化を創りあげている。
それが積み重なって、また別の文化を創りあげている。
そのときには、もう「私」はいない。

 あのお絵描き歌にしても、「道作りゲーム」にしても、入試問題にしても、
はやし浩司の痕跡は、どこにもない。
考えてみれば、さみしく思わないわけではないが、その一方で、私は無数の人たちの、
これまた無数の文化を継承している。
「団塊の世代」という言葉にしても、もとは、ある評論家の考え出した言葉である。
そういう言葉を使いながら、それがだれの考えた言葉かは、いちいち考えない。
それが「文化」ということになる。
  
 大切なのは、そのときは意識しないかもしれないが、常に前向きに創りあげていく
ということ。
どんなことでもよい。
何でもよい。
その積極性が、人間の文化を前へ前へと、進歩させる。

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Hayashi 林浩司 BW 文化 文化論 道作りゲーム 道づくりゲーム 時計のお絵描き
歌 はやし浩司 濃い男 薄い男)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●心の壊れた人たち

++++++++++++++++++

他人の不幸を、楽しんでいる人がいる。
さも同情しているかのような顔をして聞き、
内心では笑う。
心が壊れた人というのは、そういう人をいう。

自己中心性が肥大化すると、自己愛につながる。
自己愛に陥った人を、「自己愛者」という。
「自分を大切にする人」という意味ではない。
「自分のことしか考えない、愚かで、あわれな人」
という意味である。

このタイプの人のやっかいな点は、演技がうまいこと。
さも同情したフリをして、他人の不幸話を聞き出す。
誘導の仕方が、うまい!
聞き出し、それを酒の肴(さかな)にして、楽しむ。
うわさ話をしながら、「あいつはダメだ」とか、「こいつは
バカだ」とか言って、笑う。

あるいは自分は人格者であるかのように振る舞う
こともある。
むしろほかの人よりも、高邁で立派な人に見える。
が、年季が入っているから、ちょっとやそっとでは
見抜けない。
10年くらいつきあって、「?」と思う。
20年くらいつきあって、やっと、そういう人とわかる。

そんなわけで、価値観、幸福感も相対的。
他人が自分より不幸であれば、「私は幸福」と
喜ぶ。
笑う。
他人が自分より幸福であれば、「私は不幸」と
嘆く。
ねたむ。

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●「私はふつう」

 一度壊れた心は、生涯、なおらない。
そう思って、ほぼまちがいない。
心というのは、そういうもの。
作るのは、むずかしい。
壊すのは簡単。
ほんの1、2年、はげしい受験勉強を経験させるだけで、壊れる。
あるいは、不幸にして不幸な家庭に育った子どもも、そうだ。
愛情飢餓、虐待、無視、冷淡、さらに嫉妬や日常的な欲求不満を経験すると、子どもの心
は壊れる。

 が、ここから先が、心の恐ろしいところ。
壊れた心をもちながら、壊れていることに気づく人は、まず、いない。
自分では、「ふつう」と思い込んでいる。
あるいは「他人も、自分と同じ」と思い込んでいる。
その一方で、心の暖かい人が理解できない。
そういう人が近くにいても、その人を信ずることができない。
何かのことで親切にされても、それを素直に、受け入れることができない。
どこまでも心のさみしい、かわいそうな人ということになる。
が、それも、このタイプの人には、わからない。

●不信

 こういう心の状態を、心理学では、「基本的不信関係」という言葉を使って説明する。
多くは、乳児期の母子関係の不全によって、そうなる。
わかりやすく言えば、相手に対して、心を開けない。
心を許さない。
疑い深く、嫉妬深い。
心のクッションが薄いから、ささいなことで激怒したり、相手を必要以上に嫌ったり、避
けたりする。

 が、「不信」である分だけ、「孤独」。
だから勢い、たとえば、「信じられるのは、お金だけ」となる。
名誉や財産、地位や学歴にしがみつく。
ときに孤独に耐えかねて、集団の中に入る。
大判振る舞いをする。
しかし気が抜けない。
疲れる。
そういう生きざまになる。
言い換えると、そういう生きざまの人は、すでに何らかの形で、心が壊れている人と考え
てよい。

●受験競争

 ひょっとしたら、この文章を読んでいるあなた自身も、その(心の壊れた人)かもしれ
ない。
程度の差はあるだろうが、私たちの生活は、何らかの形で、お金に毒されている。
「私は、そんなまちがったことできません」などと言おうものなら、社会そのものからは
じき飛ばされてしまう。
子どもの受験勉強にしても、そうだ。
あんな子どもが、点数だの、成績だの、順位だので追いまくられて、まともに育つはずが
ない。
ないことは、子どもを年中児から高校3年生まで教えてみるとわかる。

 子どもによっては、夏休みの間、どこかの受験塾が主催する夏期講習に入っただけで、
激変する。
親は、そういう子どもを見て、「やっとうちの子も、(受験を)自覚できるようになりまし
た」と喜んでいるが、とんでもない誤解。
あるいは親自身も、心が壊れているから、それに気づかない。
心の壊れた親が、自ら、自分の子どもの心を壊している。
受験塾の講師にしても、そうだ。
ああいった指導(教育ではないぞ!)が、平気でできる人というのは、そのレベルの人と
考えてよい。
まともな心の持ち主なら、ぜったいにできない。

 人間が人間に点数をつけ、順位をつけ、進学指導の指導(?)をする。
もちろん金儲けのため。
しかもそんな汚い仕事を、20代とか30代の、人生が何であるかもわからないような若
い講師がする。
まずもって、その異常さに、みなが気がついたらよい。

 まわりくどい言い方をしたが、受験競争の弊害を、心という面から、考えてなおしてみ
た。
さらに一言付記するなら、そうした受験競争をうまくくぐり抜けた人ほど、社会のリーダ
ーとなっていくのは、まさに悲劇としか、言いようがない。
現在のこの日本が、まさにそうであると断言してよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 受験競争の弊害)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

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