最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

(2)

2009-11-15 11:39:04 | 日記


++++++++++++++++++

さらに2年前に書いた原稿を
添付します。
内容が重複しますが、お許しください。

++++++++++++++++++

●自己の統合性

++++++++++++++

私は何をすべきか。
まず、それを考える。

つぎにその考えに応じて、
では、何をすべきか、
それを考える。

考えるだけでは足りない。
現実の自分を、それに
合わせて、つくりあげていく。

これを「統合性」という。

つまり(自分がすべきこと)と、
(現実に自分がしていること)を、
一致させる。

老後を心豊かに生きるための、
これが、必須条件ということに
なる。

+++++++++++++

●自分は何をすべきか

 定年退職をしたとたん、ほとんどの人は、それまでの(自分)を、幹ごと、ボキッ折られてしまう。

 ある日突然、ボキッ、とだ。

 とたん、それまでの自分は何だったのか、と思い知らされる。金儲けだけを懸命にしてきた人も、そうだ。年をとれば、体力が衰える。気力も衰える。思うように金儲けができなくなったとたん、心は、宙ぶらりんの状態になってしまう。

 そこで「自己の統合性」ということになる。

 (自分がすべきこと)を、(現実にしている人)は、自己の統合性があるということになる。そうでない人は、そうでない。

 似たような言葉に、「自己の同一性」というのがある。こちらのほうは、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)が一致した状態をいう。青年期には、ほとんどの人が、この同一性の問題で悩む。苦しむ。

 「自分さがし」とか、「私さがし」とかいう言葉を使う人も多い。自分のしたいことは、そこにあるのに、どうしても手が届かない。そういう状態になると、心はバラバラになってしまう。何をしても、むなしい。自分が自分でないように感ずる。

 しかし統合性の問題は、同一性よりも、もっと深刻。いくら悩んだとしても、青年期には、(未来)がある。しかし老年期に入ると、それがない。たとえて言うなら、断崖絶壁に立たされたような状態になる。先がない。

 そこで多くの人は、その段階で、「自分は何をすべきか」を考える。「何をしたいか」ではない。この年齢になると、(したいことをする)ということのもつ無意味さが、よくわかるようになる。

 高級車を買った……だから、それがどうなの?
 家を新築した……だから、それがどうなの?
 株で、お金を儲けた……だから、それがどうなの、と。

 モノやお金、名誉や地位では、心のすき間を埋めることはできない。成功(?)に酔いしれて、自分を忘れることはできる。が、そこには限界がある。(酔い)は、(酔い)。一時的に自分をごまかすことはできても、そこまで。その限界を感じたとき、人は、こう考える。

 「これからの余生を、どう生きるべきか」と。その(どう生きるべきか)という部分から、「自分はどうあるべきか」という命題が生まれる。

 しかし大半の人は、そんなことを考えることもなく、老後を迎える。ある日、気がついてみたら、退職、と。冒頭に書いたように、ある日突然、ボキッと、幹ごと折られたような状態になる。

 では、どうするか?

 多くの心理学者は、こうした作業は、40歳前後から始めなくてはいけないと説く。40歳という年齢を、「人生の正午」という言葉を使って説明する学者もいる。

50代に入ってからでは遅い。いわんや、定年退職をしたときには、遅い。働き盛りといわれる40歳前後である。

 つまりそのころから、老後に向けて、自分の心を整えておく。準備をしておく。具体的には、(自分を何をすべきか)という問題について、ある程度の道筋をつけておく。つまりそれをしないまま、いきなり老後を迎えると、ここでいうような、(ボキッと折られた状態)になってしまう。

 繰りかえすが、(したいこと)を考えるのではない。(自分がすべきこと)を考える。この両者の間には、大きな隔(へだ)たりがある。というのも、(自分がすべきこと)の多くは、(したいこと)でないことが多い。(すべきこと)には、いつも苦労がともなう。

 たとえば以前、80歳をすぎて、乳幼児の医療費無料化運動に取り組んでいた女性がいた。議会活動もしていた。賛同者を得るために、いくつかのボランティア活動もこなしていた。その女性にしてみれば、乳幼児の医療費が無料になったところで、得になることは何もない。が、その女性は、無料化運動に懸命に取り組んでいた。そこで私は、その女性に、こう聞いた。

 「何が、あなたを、そうまで動かすのですか?」と。

 するとその女性は、こう言った。「私は生涯、保育士をしてきました。どうしてもこの問題だけは、解決しておきたいのです」と。

 つまりその女性は、(自分がすべきこと)と、(現実に自分がしていること)を、一致させていた。それがここでいう「自己の統合性」ということになる。

●退職後の混乱 

 しかし現実には、定年退職してはじめて、自分さがしを始める人のほうが、多い。大半の人がそうではないのか。

 中には、退職前の名誉や地位にぶらさがって生きていく人もいる。あるいは「死ぬまで金儲け」と、割り切って生きていく人もいる。さらに、孫の世話と庭いじりに生きがいを見出す人も多い。存分な退職金を手にして、旅行三昧(ざんまい)の日々を送る人もいる。

 しかしこのタイプの人は、あえて(統合性の問題)から、目をそらしているだけ。先ほど、(酔い)という言葉を使ったが、そうした自分に酔いしれているだけ。

 ……と書くと、「生意気なことを書くな」と激怒する人もいるかもしれない。事実、そのとおりで、私のような第三者が、他人の人生について、とやかく言うのは許されない。その人がその人なりにハッピーであれば、それでよい。

 が、深刻なケースとなると、定年退職をしたとたん、精神状態そのものが宙ぶらりんになってしまうという人もいる。そのまま精神を病む人も少なくない。会社員であるにせよ、公務員であるにせよ、仕事一筋に生きてきた人ほど、そうなりやすい。

 私の知人の中には、定年退職をしたとたん、うつ病になってしまった人がいる。私は個人的には知らないが、ときどきそのまま自殺してしまう人もいるという。つまりこの問題は、それほどまでに深刻な問題と考えてよい。

●では、どうするか?

 満40歳になったら、ここでいう自己の統合性を、人生のテーマとして考える。何度も繰りかえすが、「私は何をしたいか」ではなく、「私は何をすべきか」という観点で考える。

 そのとき重要なことは、損得の計算を、勘定に入れないこと。無私、無欲でできることを考える。仮にそれが何らかの利益につながるとしても、それはあくまでも、(結果)。名誉や地位にしてもそうだ。

 ほとんどのばあい、(すべきこと)には、利益はない。あくまでも(心の問題)。というのも、(すべきこと)を追求していくと、そこには絶えず、(自分との闘い)が、ある。その(闘い)なくして、(すべきこと)の追求はできない。もっとわかりやすく言えば、この問題は、(自分の命)の問題とからんでくる。追求すればするほど、さらに先に、目標が遠のいてしまう。時に、そのため絶望感すら覚えることもある。

 損得を考えていたら、(自分との闘い)など、とうていできない。

たとえば恩師の田丸先生は、先日会ったとき、こう言っていた。「私がすべきことは、人を残すことです」と。

 そこで私が、「先生は、名誉も、地位も、そして権力も、すべて手にいれた方です。そういう方でも、そう思うのですか」と聞くと、「そうです」と。高邁(こうまい)な人物というのは、田丸先生のような人をいう。

 そこで……というより、「では私はどうなのか」という問題になる。私は、自分の老後はどうあるべきと考えているのか。さらには、私は、何をなすべきなのか。

 実のところ、私自身、自分でも何をすべきなのか、よくわかっていない。あえて言うなら、真理の探究ということになる。私は、とにかく、この先に何があるか知りたい。が、この世界は、本当に不思議な世界で、知れば知るほど、そのまた先に、別の世界が現れてくる。ときどき、自分が無限の宇宙を前にしているかのように錯覚するときもある。

 すべきことはわかっているはずなのに、それがつかめない。つかみどころがない。だからよく迷う。「こんなことをしていて、何になるのだろう」「時間を無駄にしているだけではないのか」と。

 つまり、自己の統合性が、自分でもわかっていない。できていない。つまり私の理論によれば、私は、この先、みじめで暗い老後を送ることになる。

 だから……というわけでもないが、繰りかえす。

 40歳になったら、ここでいう「統合性」の問題を、真剣に考え始めたらよい。「まだ先」とか、「まだ早い」と、もしあなたが考えているとしたら、それはとんでもないまちがいである。子育てが終わったと思ったとたん、そこで待っているのは、老後。50代は、早足でやってくる。60代は、さらに早足でやってくる。

 さあ、あなたは、自分の人生で、何をなすべきか? それを一度、ここで考えてみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 統合性 統合性の一致 統合性一致 自己統合性 自己の統合性 すべきこと 人生の目標)

【付記】

 もうひとつの生き方は、何も考えないで生きるという方法。あるいはどこかのカルト教団に身を寄せて、そこで生きがいを見出すという方法もある。

 しかし人間は、考えるから、人間なのである。もし、何も考えない人がいたとしたら、その人は、そこらに住む動物と同じ。明日も今日と同じという日々を送りながら、やがてそのまま静かに自分の人生を終える。

 そのことは、頭のボケた母を見ていると、わかる。母は、今、自分がどこに住んでいるかさえ、ときどきわからなくなる。ワイフの顔を見て、別の人の名前で呼んだりする。しかし食欲だけは、人一倍旺盛。食事の時間になると、血相を変えて、その場所にやってくる。

 そういう私の母には、もう目標はない。何のために生きているのかという目的すら、ない。何かにつけて、自己中心的で、もちろん、自分がすべきことなど、何も考えていない。毎日、ものを食べるために生きているだけ。しかしそんな人生に、どれほどの意味があるというのか。価値があるというのか。

 もちろん母は母で懸命には生きている。それはわかる。が、それでも、ただ、生きているだけ。つまり考えないで生きるということは、今の母のような状態になることを意味する。母は、高齢だからしかたないとしても、私やあなたが、そうであってよいはずはない。

 私たちはこの世に生まれた以上、何かをなすべきである。その(なすべきこと)は、人、それぞれ。みな、ちがう。しかしそれでも、何かをなすべきである。またそういう使命をみな、負っている。

 要するに、ここで私が言いたいことは、老後になってから、その(なすべきこと)をさがそうとしても、遅いということ。老後といっても、長い。人によっては、30年近くもある。20歳から50歳までの年数に等しい。

統合性の問題は、いかにその期間を、有意義に過ごすかという問題ということになる。決して、安易に老後を迎えてはいけない。それだけは、確かである。

コメントを投稿