最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

(1)山荘にて、雑感

2010-10-27 08:50:27 | 日記
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      10月   27日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「オレも年だから……」(老齢期のセルフ・ハンディ・キャッピング)

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同じ仲間でも、ことあるごとに、
「私も年だから……」と言う人がいる。
「この年になったから、もう1人前の
ことはできない」と。

こういうのを心理学では、「セルフ・
ハンディキャッピング」という。
自分からハンディがあることを先に言い、
できないことを前もって、自己弁護する。
人の同情を買うときも、同じように言う
ことがある。

もう何十年も前の話だが、私が電話する
たびに、1人の叔母はこう言った。
「オバチャンも、年だからねエ……」と。
「高齢者になったから、何とかしてほしい」と。

で、今でもその叔母は健在である。
年齢を逆算すると、その叔母は当時は50代。
私自身の50代を振り返っても、私は
そういうような言い方をしたことがない。
(同情を買いたくても、買う相手がいない
こともあるが……。)

で、ここでいう「セルフ・ハンディキャッピング」
というのは、あくまでも自己弁解、自己弁護の
ために使うことをいう。
先手を打って、自分にはハンディがあることを、
強調する。
たとえばテニスに試合前に、「いやあ、最近、
不眠症になってねエ」とか言うのが、それ。

試合に負けても、それは自分の実力のせいではない。
不眠症のせい、と。

これも老人心理のひとつかもしれない。
加齢とともに、こうした言い方が多くなる。
実のところ、この私もふと油断したようなとき、
似たようなことを言うようになった。
瞬間「まずい!」とは思うが、先に口から
出てしまう。

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●生き様の後退性

 生き様が後退的になると、前を見ることよりも、うしろを見ることのほうが、
多くなる。
心理学の世界では、「回顧性」「展望性」という言葉を使って、それを説明する。
55歳前後で、回顧性と展望性が交差するとも言われている。
55歳を過ぎるころから、未来を見るよりも、過去を見ることのほうが多くなる。
冒険よりも保身を好み、革新よりも保守を求めるようになる。

 もちろん若々しく生きるためには、つねに前を見て生きた方がよい。
言い替えると、老後は、(この言葉が好きな人はいないと思うが……)、常に
後退性との闘いということになる。
いかに後退性と闘っていくか。
老後の生き様は、それで決まってくる。

●後退性

 後退性といっても、中身は様々。
先に書いたように、年齢を自己弁護、自己弁解のために使うのも、そのひとつ。
体力的にはそうであっても、ほかの面ではそうであってはいけない。
またそうである必要は、まったくない。
いわんやセルフ・ハンディキャッピングのために、年齢を口実にしてはいけない。

 実は数日前もこんなことがあった。
高校3年生のA子さんが、学校の宿題を出し、「先生、これね……」と言った。
数学の問題だった。
それを見てほぼ反射運動的に私は、こう言ってしまった。
「今朝、旅館の温泉に入ってね……」と。

 そのとき私はかなり体力を消耗したような状態になっていた。
その少し前から、ほどよい睡魔が繰り返し私を襲っていた。
つまり私はそう言うことによって、「その問題を解けないかもしれない」という布石を
したことになる。

●展望性

 そんなこともあって、私は来年度は挑戦的に生きることにした。
いくつかの目標を立てた。
何も「年だから……」という理由で、遠慮することはない。
遠慮してはいけない。
遠慮する必要もない。

 その計画は、今から立てなければならない。
(具体的な内容は、企業秘密!)
その準備にとりかかった。

 今も仕事はたいへんだが、20代のころよりは私を取り巻く環境は、ずっと
よくなっている。
あのころは未熟で未経験だった。
何を書いても、また何を訴えても、だれも相手にしてくれなかった。
が、今はちがう。
相手が親でも、平気で説教できるようになった。
親もまた、耳を傾けてくれる。
こんなチャンスはまたとない。

 が、「敵」は、私自身だけではない。

●郷里の身内

 数日前も、あるいとこから電話がかかってきた。
私が法事で手を抜いていることや、実家の近隣の人たちの葬儀に顔を出さないこと
について、身内の人たちが悪く言っている、と。

 弁解するつもりはないが、(というのもそれこそ生き様の問題だから)、そういうのを
回顧性という。
法事とか、葬儀とか……。
そういうことだけが、一生の一大事と思い込んでいる!
高校を卒業して以来、実家の近隣の人たちとの交際はない。
それに実家は、昨年売却した。

 また法事については、今はそんなことで心を煩わせたくない。
身内の人たちは、ことあるごとに、「実家」「本家」「林家」という言葉を使う。
墓参りのことをとやかく言う人もいる。
しかし墓参りをしないことで、バチが当たるのは、この私。
私のことは心配しないで、どうか放っておいてほしい!
……というのは言い過ぎ。
世間には世間のしきたりというものがある。
私は何も、そのしきたりまで否定しているわけではない。

 が、私は死ぬまで……ギリギリまで前だけを見て生きていく。
55歳前後で展望性と回顧性が交差するというが、それは死ぬ間際でよい。
死ぬ間際になったら、過去を振り返り、法事もし、墓参りもする。
寺にあとの始末を、きちんと頼む。

●賢者の言葉

 で、こういうふうに迷ったときは、いつも世界の賢者たちがどう考えているか、
それを知るとよい。
私はういつもそうしている。

What is life? We are born, we live a little and we die.
EB White、"Charlotte's Web "
人生って何か? 私たちは生まれ、少しだけ生き、そして死ぬ。

To live is so startling it leaves little time for anything else.
Emily Dickinson
生きることは、驚くべきことだ。それは生きること以外に、ほとんど時間を残さない。
(=生きることで精一杯)。

People's whole lives do pass in front of their eyes before they die. The process is called
'living'.
Terry Pratchett、 "The Last Continent"
人々の全人生は、彼らが死ぬ前に目の前を通り過ぎる。その「過程」を「生きている」と
いう。

Life is one big road with lots of signs. So when you riding through the ruts, don't
complicate your mind. Flee from hate, mischief and jealousy. Don't bury your thoughts,
put your vision to reality . Wake up and live!
Bob Marley、 In Music、Bob Marley
人生というのは、たくさんの看板の立った道のようなもの。そんなわけでわだち(車の跡)
を走っているときは、心をわずらわせないこと。憎しみ、悪戯や嫉妬から逃げろ。自分の
思想を埋めるな。計画を現実のものにせよ。目を覚まして、生きろ!

Life is very interesting, if you make mistakes.
Georges Carpentier、 In Humanity
人生というのは、まちがいを犯すからおもしろい。

Life is raw material. We are artisans. We can sculpt our existence into something
beautiful, or debase it into ugliness. It's in our hands.
Cathy Better, In Art/The Artist
人生というのは、ナマの材料。私たちは芸術家。それを彫って美しいものにすることもで
きる。醜いものにすることもできる。それは私たちの手にかかっている。

Life is a mystery, not a problem to be solved
Albert Einstein、In Mystery
人生は神秘。解こうとして解けるような問題ではない。

●人生は60歳から

 ワイフはときどき、こう言う。
「私は50歳になって、はじめて人生が何であるかわかったような気がする」と。
で、私も最近、こう思う。
「人生は60歳から始まるのではないか」と。

 若い人たちにこういう話をしても信じないかもしれない。
しかし事実だから、話す。

 パソコン雑誌などにも、ときどき若い女性のヌード写真のようなものが載っている。
ああいうものを見て、「美しい」と思うのは、若い人たちだけ。
私はすぐそういった女性の顔を見る。
その奥にある知性をさがす。
が、どれもバカ面(ずら)、アホ面(ずら)、化粧バカ。
脳みそのひとかけらも感じない。
とたんそういった女性の肉体が、ただの脂肪の塊に見えてくる。

 同時にそういったまやかしの(美しさ)に踊らされ、惑わされた自分を思い出す。
が、60歳を過ぎた今はそれがない。
以前、「性欲からの解放」という原稿を書いたことがある。
人は性欲から解放されてはじめて、それまでの自分がいかに性欲の奴隷であったかを知る。
60歳になって、私たちは独立を勝ち取る。
だから「60歳」となる。
「人生は60歳から始まるのではないか」となる。

●人生の無駄

 だからこそ、ここは前向きに生きる。
やっと自分を取り戻した。
自分が自分らしくなった。
自分の「輪郭」が、はっきりしてきた。
どうしてそんなすばらしい人生を、過去のために振り向けなければならないのか。
が、それこそ時間の無駄。
人生の無駄。

 ……ということで、「年だから……」というセルフ・ハンディキャッピングは、
若い人こそ、それを自覚して使うべき。
「私はまだ若いですから……」と。
さらに言えば、若さこそ恥ずべきことであって、自慢すべきことではない。
若い人ほど、人生に謙虚になったらよい。
謙虚にならなければ、人生は、門を開かない。
少なくとも何も老人が使うべき言葉ではない。

 私たちは今まで、堂々と生きてきた。
これからも生きていく。
顔にシワがふえ、体はたるんできたが、それは私のせいではない。
DNAのせいである。
何も恥ずべきことではない。

 だから……今朝も自分の心に誓う。
「私は、『年だから……』という、情けない言葉は使わない」と。

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Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司

●2010年、10月1日(金曜日)
満63歳まで、あと20数日弱

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今日から10月。
初日は、まあまあ。
平凡な滑り出し。
ただここ数日、朝起きがけに、
悪夢に悩まされる。
悪夢といっても、オカルト的な夢ではない。
飛行機に乗り遅れそうになる夢とか、
おかしな連中にからまれて、喧嘩ごしに
なるとか、
そういう夢。
たいていハラハラした状態で、目が覚める。

たぶん私も睡眠時無呼吸症候群とかいう病気に
かかっているのかもしれない。
ワイフがときどき、そう言う。
目が覚めたとたん、ハーハーと深呼吸を繰り返す。
つまりその瞬間、ハラハラドキドキしながら、呼吸を止めている。
そのとき悪夢を見る。
(これは私の素人判断。)
精神状態は、あまりよくないようだ。

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●山荘にて

 今夜は夜遅く、こうして山荘へやってきた。
ひとりでやってきた。
バスを乗り継いで、やってきた。

で、先ほど村祭りの祝い金を、班長に届けてきた。
10月の第一土曜日か第二土曜日か、いずれかの日に、祭りがある。
明日は第一土曜日。
あわてて祝い金を届けてきた。
が、班長が、「祭りは来週です」と言ってくれた。
ほっとした。

●ひとりぼっち

 美空ひばりの名曲に、「♪悲しい酒」がある。
その歌詞に、「ひとりぼっちが、好きだよと・・・」という箇所がある。
私もひとりぼっちが好きというわけではない。
しかしときに、こうしてひとりぼっちになる。
ひとりぼっちになって、自分の時間をつくる。

 時刻は10時20分になったところ。
軽い頭痛がする。
こういうときは、まず水で頭を冷やす。
ついで湿布薬を貼る。
そのあとまだ頭痛がするようであれば、何かを食べる。
そのあと、頭痛薬をのむ。
幸い、偏頭痛ではなさそうだ。
偏頭痛の痛さは、経験したものでないとわからない。

●孤独

 孤独にも、2種類ある。
肉体的、つまり物理的にひとりぼっちという意味。
これは耐えられる。
もうひとつは、信じられる者がいないという意味。
これは苦しい。
だれにも相手にされないというのも、それに含まれる。
だれにも愛されないというのも、それに含まれる。
つまり、「心の孤独」。

 ときどき私は生徒たちにこう聞く。
「先生(=私)が死んだら、悲しいか?」と。
すると生徒たちはみな、「うれしい」と答える。

それが本音だろう。
私はもともと嫌われ役。
嫌われ役を代行しながら、親たちからお金を受け取る。
だから(教えること)で、孤独がいやされるなどとは思っていない。
実際には、その反対。
生徒たちと面していると、ときどき、言いようのない孤独感に襲われる
ことがある。
生徒は生徒。
とくに私の生徒は年少者が多い。
人間関係を結んだり、育てたりするということができない。

●Sさん

 そう言えば、先週、Sさん(高3)が大学入試に合格した。
小さな声で、「合格が確定しました」と。
もの静かで、理知的な子である。
私の教室に、年中児のときから、14年間、通ってくれた。
Sさんにとってもそうだろうが、私にとってもSさんは、私の人生の一部。

 来週、食事会を開くつもり。
Sさん、おめでとう!
うれしかったよ!

●仕事

 2011年度の仕事を考え始めている。
来年(2011年)は、さらに仕事に没頭してみたい。
「してみたい」ではなく、「する」。

 同時に身のまわりの整理をする。
私は若いころ、骨董品だとか、置き物に凝った。
そういったものが、あちこちにゴロゴロしている。
売るといっても、売り方がむずかしい。
そのうちヒマ(閑)になったら、ネットオークションに、順に並べて
みる。
そういう手もある。

 が、いちばんよいのは、生徒にそのつどあげること。
もっていても、仕方ない。
どうせ死ぬときは、裸。
それも2年前に死んだ、母が教えてくれた。
あれほどモノにこだわった母だが、死ぬときはささいな身のまわりの
日常品だけ。
モノのもつむなしさを、いやというほど、母を通して知った。
・・・学んだ。
 
 で、仕事。
2011年は、自分を完全燃焼させてみたい。
今、いちばん力を入れているのが、幼児教室のビデオ撮影。
「こんな教え方もある」ということを、世界の人たちに見てもらいたい。
この世界には、誤解と偏見が満ち溢れている。
幼児教育というと、先取り教育か受験教育。
さもなければ、子どもをしごく、悪徳教育と考える人は多い。
その偏見と誤解を解いてほしい。

 幼児はたしかに未熟で未経験だが、それを除けば、立派な人間である。
それをわかってほしい。

 また私がこわいのは、(流れ)が止まること。
仕事がその柱というか、「川」になっている。
これが止まったら、私はそのまま腐ってしまう。
だからつづける。

●車の運転

 今、明日はどうしようかと考えた。
どうしようか?
たぶん朝早く山をおり、県道を走るバスに乗って、街まで行く。
私は車を運転しない。
だからいつもそうしてバスや電車を利用する。
あとはワイフに頼んで、あちこちへ連れていってもらう。

 が、実のところこのところワイフの運転が、こわくてならない。
2週間前には、バックをしているときコンビニのポールに激突。
今日、車がやっと修理されてきたと思ったら、さっそく駐車場で、壁に衝突。
勘が悪いというか、鈍ったというか・・・。
とくに右折がめちゃめちゃ。
すぐ前に対向車が迫っていても、その前を横切る形で、平気で右折する。
相手の運転手にクラクションを鳴らされたり、怒鳴られることも、しばしば。 

「お前には運転は無理だね」と言うと、すかさず、「相手が悪い」と
切り返す。
「向こうが止まればいいのよ」と。
ワイフは、他罰型。
他責型ともいう。
子どもにも多い。
机の上のお茶をこぼしたりすると、すかさず、こう言い返す。
「先生が、こんなところにお茶を置いておくから悪い!」と。
「ごめんなさい」という言葉が、口から出てこない。
脳が、そういう構造になっていない。
がんこで、融通がきかない。
だから車の運転が、下手!
(私はもっと下手。ハハハ。)

 だからあまりそのことを責めると、いつもこう言い返される。
「私はあなたの運転手じゃないのよ。自分で運転したら!」と。

●思慮深さ

 ワイフだけが一例というわけではない。
しかし総じてみると、脳の老化は、思慮深さの欠落から始まる。
そう考えてよい。

 たとえば先日も、車のドアが内部から開かなくなってしまった。
そこで私が「おい、車のドア、開かないぞ」と声をかけると、すかさず、・・・
つまり私の話もロクに聞こうとしないうちから、「あなたのやり方が
おかしいんじゃない?」と切り返す。

 もう何年も乗った車である。
ドアの開け方など、まちがえるはずがない。

 が、若いころのワイフはそうでなかった。
もう少し思慮深かった。
私の言ったことを聞いてから、おもむろに自分の意見をはさんだ。

 こうした現象は、50歳を超えると、たいていの人に見られるようになる。
中には自分がボケたのを隠すために、わざと利口ぶって見せる人がいる。
さらにアルツハイマー病か何かになると、とりつくろいや、つじつま合わせ、
言い訳、弁解が多くなる。
病気を隠そうとするためである。

 しかし思慮深さの欠落は、それとは趣(おもむき)を、やや異(こと)にする。
脳みそが薄っぺらくなったような感じになる。
もちろんワイフは、それに気づいていない。
脳のCPU(中央演算装置)に関する問題だけに、自分でそれを知るのはむずかしい。

 で、こうして文章にして書いておく。
ワイフのことだから、たぶん、これを読んでも、即座に否定するだろう。
自分では思慮深い人間と思い込んでいる。

 一般論として言えることは、要するに思慮深い人は、口が重い。
逆に言えば、思慮深くない人は、口が軽い。
思いついたことを、ペラペラと口にする。
つまりそうなったら、脳の老化が始まっているとみてよい。
よい例が、観光バスの中などで、間断なく、しゃべりつづけるオバちゃんたち。
一度、ああいう人たちの会話に耳を傾けてみるとよい。

●不眠症

 幸い頭痛が軽くなってきた。
眠いはずなのに、あまり眠くない。
昨日は、4~5時間しか眠っていない。
悪夢のせい。
だから今朝は、4時ごろ目を覚まし、そのまま起きてしまった。

 「不眠症」という言葉がある。
私もその不眠症だが、ここ10年は、居直って生きている。
「無理に眠ることはない」と。
人間という動物は、2、3日なら、眠らなくても、どうということはない。
「不眠、不眠」と悩むと、かえってストレスがたまってしまう。 
万事、成り行き任せ。
眠くなかったら、起きていればよい。
眠くなったら、眠ればよい。


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