【子どものやる気論】について(2012/05/13改)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
今週、N市で、講演をする。
その原稿が、やっとできた。
……といっても、このまま話すのではない。
当日の雰囲気を見て、前後を入れ替えながら話す。
結論についても、同じ。
当時、主催者の方との話しあいの中で、決める。
私にとって、講演というのは、そういうもの。
原稿通りには、話さない。……話せない。
雰囲気を見ながら、笑いを入れたり、エピソードをふやしたりする。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「遊びが子どもの仕事」(中日新聞発表済み)
「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当たらずとも、はずれてもいない。
「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがある。
オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。
日本でいう砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。
また「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室の外で身につける。
実はこの私がそうだった。
私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。
今でいう帰宅拒否の症状もあったのかもしれない。
それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。
けんかのし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。
性教育もそこで学んだ。
……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。
それまでは私の過去はただの過去。
自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。
いわんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。
しかしやはり私という人間は、あの寺の境内でできた。
ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。
縄張りもあったし、いがみあいもあった。
おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離されていたということ。
たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。
山ででくわしたら最後。
石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。
相手をつかまえればリンチもしたし、つかまればリンチもされた。
しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。
あいさつをして笑いあうような相手ではないが、しかし互いに知らぬ相手ではない。
目と目であいさつぐらいはした。
つまり寺の境内とそれを包む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技場の外で争っても意味がない。
つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んでいた。が、それだけにはとどまらない。
寺の境内にはひとつの秩序があった。
子どもどうしの上下関係があった。
けんかの強い子どもや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。
そして私たちはそれに従った。
親分、子分の関係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出さなかった。
仲間意識もあった。
仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。
しかしそれは日本というより、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。
だから今、世界で起きている紛争や事件をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代とそれを結びつけて、簡単に理解することができる。
もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっただろう。
だから私の立場で言えば、こういうことになる。
「私は人生で必要な知識と経験はすべて寺の境内で学んだ」と。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●子どものいたずら
ふつう頭のよい子どもは、発想が豊かで、おもしろい。
パンをくりぬいて、トンネル遊び。スリッパをひもでつないで、電車ごっこなど。
時計を水の入ったコップに入れて遊んでいた子ども(小3)がいた。
母親が「どうしてそんなことをするの?」と聞いたら、「防水と書いてあるから、その実験をしているのだ」と。
ただし同じいたずらでも、コンセントに粘土をつめる。
絵の具を溶かして、車にかけるなどのいたずらは、好ましいものではない。
善悪の判断にうとい子どもは、とんでもないいたずらをする。
その頭をよくするという話で思いだしたが、チューイングガムをかむと頭がよくなるという説がある。
アメリカの「サイエンス」という雑誌に、そういう論文が紹介された。
で、この話をすると、ある母親が、「では」と言って、ほとんど毎日、自分の子どもにガムをかませた。しかもそれを年長児のときから、数年間続けた。
で、その結果だが、その子どもは本当に、頭がよくなってしまった。
この方法は、どこかぼんやりしていて、何かにつけておくれがちの子どもに、特に効果がある。……と思う。
また年長児で、ずばぬけて国語力のある女の子がいた。
作文力だけをみたら、小学校の3、4年生以上の力があったと思う。
で、その秘訣を母親に聞いたら、こう教えてくれた。「赤ちゃんのときから、毎日本を読んで、それをテープに録音して、聴かせていました」と。
母親の趣味は、ドライブ。
外出するたびに、そのテープを聴かせていた。
今回は、バラバラな話を書いてしまったが、もう一つ、バラバラになりついでに、こんな話もある。
子どもの運動能力の基本は、敏しょう性によって決まる。
その敏しょう性。
一人、ドッジボールの得意な子ども(年長男児)がいた。
その子どもは、とにかくすばしっこかった。
で、母親にその理由を聞くと、「赤ちゃんのときから、はだしで育てました。
雨の日もはだしだったため、近所の人に白い目で見られたこともあります」とのこと。
子どもを将来、運動の得意な子どもにしたかったら、できるだけはだしで育てるとよい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●笑い(笑いの科学と効能)
ついでに、「笑い」について。
何度も書いてきたので、ネットでさがし、その一部を紹介する。
私は、幼児を教えるとき、何よりも、「笑い」を大切にしている。
ときには、50分のレッスンの間、ずっと笑いっぱなしにさせることもある。
最近の研究では、「笑いは、心のジョギング」(小田晋、「イミダス」05年度版)とまで言われるようになった。
「質問紙法で、ユーモアのセンスを評定すると、ユーモアの感覚があり、よく笑う人は、ストレス状況下でも、抑うつ度の上昇と、免疫力の低下が抑制されることがわかっている。
たとえば糖尿病患者や大学生に、退屈な講義を聞かせたあとには、血糖値は上昇するが、
3時間の漫才を聞かせたあとでは、とくに糖尿病患者では、血糖値の上昇を阻害することがわかってきた」(国際科学研究財団・村上・筑波大学名誉教授)と。
がん患者についても、笑いのシャワーをあびせると、血液中の免疫機能をつかさどる、NK細胞が、活性化することもわかっている(同)。
子どももそうで、笑えば、子どもは、伸びる。
前向きな学習態度も、そこから生まれる。
「なおす」という言葉は、安易には使えないが、軽い情緒障害や精神障害なら、そのままなおってしまう。
私は、そういう経験を、何度もしている。
大声で、ゲラゲラ笑う。
たったそれだけのことだが、子どもの心は、まっすぐに伸びていくということ。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 子どもと遊び やる気論 カテコールアミン ほめることの重要性 子どもはほめて伸ばす 子どもは笑わせて伸ばす やる気と遊び 遊びで生まれるやる気 社会性 はやし浩司 子どものやる気)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
●ほめることの重要性byはやし浩司
+++++++++++++++++
ほめることの重要性については、
繰り返し書いてきた。
『子どもはほめて伸ばせ』が、私の
持論にもなっている。
あちこちの本の中でも、そう書いた。
このほどその効果が、アカデミック
な立場で、証明された。
その記事を、そのままここに、
記録用として、保存させてもらう。
+++++++++++++++++
++++++++以下、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++
親にほめられたり、やさしい言葉をかけられた乳幼児ほど、主体性や思いやりなど社会適応力の高い子に育つことが、3年以上に及ぶ科学技術振興機構の調査で分かった。
父親の育児参加も同様の効果があった。
「ほめる育児」の利点が長期調査で示されたのは初という。
東京都で27日午後に開かれる応用脳科学研究会で発表する。
調査は、大阪府と三重県の親子約400組を対象に、生後4カ月の赤ちゃんが3歳半になる09年まで追跡。
親については、子とのかかわり方などをアンケートと行動観察で調べた。
子に対しては、親に自分から働きかける「主体性」、親にほほ笑み返す「共感性」など5分野30項目で評価した。
その結果、1歳半以降の行動観察で、親によくほめられた乳幼児は、ほめられない乳幼児に比べ、3歳半まで社会適応力が高い状態を保つ子が約2倍いることが分かった。
また、ほめる以外に、目をしっかり見つめる▽一緒に歌ったり、リズムに合わせて体を揺らす▽たたかない▽生活習慣を整える▽一緒に本を読んだり出かける--などが社会適応力を高める傾向があった。
一方、父親が1歳半から2歳半に継続して育児参加すると、そうでない親子に比べ、2歳半の時点で社会適応力が1.8倍高いことも判明した。
母親の育児負担感が低かったり、育児の相談相手がいる場合も子の社会適応力が高くなった。
調査を主導した安梅勅江(あんめときえ)・筑波大教授(発達心理学)は「経験として知られていたことを、科学的に明らかにできた。
成果を親と子双方の支援に生かしたい」と話す。【須田桃子】
++++++++以上、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 ほめる ほめる効用 子どもをほめる ほめることの大切さ はやし浩司 子どもはほめて伸ばす 伸ばせ 子供はほめて伸ばせ)
++++++++++++++++++++
●2007年4月の原稿より
【子どもを伸ばす】
●やる気論
人にやる気を起こさせるものに、二つある。
一つは、自我の追求。もう一つは、絶壁(ぜっぺき)性。
大脳生理学の分野では、人のやる気は、大脳辺縁系の中にある、帯状回という組織が、重要なカギを握っているとされている(伊藤正男氏)。
が、問題は、何がその帯状回を刺激するか、だ。
そこで私は、ここで(1)自我の追求と、(2)絶壁性をあげる。
自我の追求というのは、自己的利益の追求ということになる。
ビジネスマンがビジネスをとおして利潤を追求するというのが、もっともわかりやすい例ということになる。
科学者にとっては、名誉、政治家にとっては、地位、あるいは芸術家にとっては、評価ということになるのか。
こう決めてかかることは危険なことかもしれないが、わかりやすく言えば、そういうことになる。
こうした自己的利益の追求が、原動力となって、その人の帯状回(あくまでも伊藤氏の説に従えばということだが)を刺激する。
しかしこれだけでは足りない。
人間は追いつめられてはじめて、やる気を発揮する。
これを私は「絶壁性」と呼んでいる。
つまり崖っぷちに立たされるという危機感があって、人ははじめてやる気を出す。
たとえば生活が安定し、来月の生活も、さらに来年の生活も変わりなく保障されるというような状態では、やる気は生まれない。
「明日はどうなるかわからない」「来月はどうなるかわからない」という、切羽つまった思いがあるから、人はがんばる。
が、それがなければ、そうでない。
さて私のこと。私がなぜ、こうして毎日、文を書いているかといえば、結局は、この二
つに集約される。
「その先に何があるかを知りたい」というのは、立派な我欲である。
ただ私のばあい、名誉や地位はほとんど関係ない。
とくにインターネットに原稿を載せても、利益はほとんど、ない。
ふつうの人の我欲とは、少し内容が違うが、ともかくも、その自我が原動力になっていることはまちがいない。
つぎに絶壁性だが、これはもうはっきりしている。
私のように、まったく保障のワクの外で生きている人間にとっては、病気や事故が一番、恐ろしい。
明日、病気か事故で倒れれば、それでおしまい。
そういう危機感があるから、健康や安全に最大限の注意を払う。
毎日、自転車で体を鍛えているのも、そのひとつということになる。
あるいは必要最低限の生活をしながら、余力をいつも未来のためにとっておく。
そういう生活態度も、そういう危機感の中から生まれた。
もしこの絶壁性がなかったら、私はこうまでがんばらないだろうと思う。
そこで子どものこと。
子どものやる気がよく話題になるが、要は、いかにすれば、その我欲の追求性を子どもに自覚させ、ほどよい危機感をもたせるか、ということ。
順に考えてみよう。
(自我の追求)
教育の世界では、(1)動機づけ、(2)忍耐性(努力)、(3)達成感という、三つの段
階に分けて、子どもを導く。
英語国では、「灯をともして、引き出せ」という。
幼児期にとくに大切なのは、動機づけである。
この動機づけがうまくいけば、あとは子ども自身が、自らの力で伸びる。英語流の言い方をすれば、『種をまいて、引き出す』の要領である。
忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。
そのためには、『子どもは使えば使うほどいい子』と覚えておくとよい。
多くの日本人は、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽をさせること」が、「子どもをかわいがること」「親子のキズナ(きずな)を太くするコツ」と考えている。
しかしこれは誤解。まったくの誤解。
3つ目に、達成感。
「やりとげた」という思いが、子どもをつぎに前向きに引っぱっていく原動力となる。
もっとも効果的な方法は、それを前向きに評価し、ほめること。
(絶壁性)
酸素もエサも自動的に与えられ、水温も調整されたような水槽のような世界では、子ど
もは伸びない。
子どもを伸ばすためには、ある程度の危機感をもたせる。
(しかし危機感をもた
せすぎると、今度は失敗する。)日本では、受験勉強がそれにあたるが、しかし問題も多い。
そこでどうすれば、子どもがその危機感を自覚するか、だ。
しかし残念ながら、ここま
で飽食とぜいたくが蔓延(まんえん)すると、その危機感をもたせること自体、むずかしい。
仮に生活の質を落としたりすると、子どもは、それを不満に転化させてしまう。
子ど
もの心をコントロールするのは、そういう意味でもむずかしい。
とこかくも、子どものみならず、人は追いつめられてはじめて自分の力を奮い立たせる。
E君という子どもだが、こんなことがあった。
小学六年のとき、何かの会で、スピーチをすることになった。
そのときのE君は、はたから見ても、かわいそうなくらい緊張したという。
数日前から不眠症になり、当日は朝食もとらず、会場へでかけていった。
で、結果は、結構、自分でも満足するようなできだったらしい。
それ以後、度胸がついたというか、自信をもったというか、児童会長(小学校)や、生徒会長(中学校)、文化祭実行委員長(高校)を、総ナメにしながら、大きくなっていった。
そのときどきは、親としてつらいときもあるが、子どもをある程度、その絶壁に立たせるというのは、子どもを伸ばすためには大切なことではないか。
つきつめれば、子どもを伸ばすということは、いかにしてやる気を引き出すかということ。
その一言につきる。この問題は、これから先、もう少し煮つめてみたい。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●生きがいを決めるのは、帯状回?
脳の中に、辺縁系と呼ばれる古い脳がある。
脳のこの部分は、人間が原始動物であったときからあるものらしい。
イヌやネコにも、たいへんよく似た脳がある。
その辺縁系の中に、帯状回とか扁桃体と呼ばれるところがある。
最近の研究によれば、どうやら人間の「やる気」に、これらの帯状回や扁桃体が関係していることがわかってきた(伊藤正男氏)。
たとえば人にほめられたりとすると、人は快感を覚える。
反対にみなの前でけなされたりすると、不快感を覚える。
その快感や不快感を覚えるのが、扁桃体だそうだ。その快感や不快感を受けて、大脳連合野の新皮質部が、満足したり、満足しなかったりする。
一方、その扁桃体の感覚を受けて、「やる気」を命令するのが、帯状回だそうだ(同氏)。
やる気があれば、ものごとは前に進み、それに楽しい。しかしいやいやにしていれば、何をするのも苦痛になる。
これは脳のメカニズムの話だが、現象的にも、この説には合理性がある。
たとえば他人にやさしくしたり、親切にしたりすると、心地よい響きがする。
しかし反対に、他人をいじめたり、意地悪したりすると、後味が悪い。
この感覚は、きわめて原始的なもので、つまりは理屈では説明できないような感覚である。
しかしそういう感覚を、人間がまだ原始動物のときからもっていたと考えるのは、進化論から考えても正しい。
もし人間が、もともと邪悪な感覚をもっていたら、たとえば仲間を殺しても、平気でいられるような感覚をもっていたら、とっくの昔に絶滅していたはずである。
こうした快感や不快感を受けて、つぎに大脳連合野の新皮質部が判断をくだす。
新皮質部というのは、いわゆる知的な活動をする部分である。
たとえば正直に生きたとする。
すると、そのあとすがすがしい気分になる。
このすがすがしい気分は、扁桃体によるものだが、それを受けて、新皮質部が、「もっと正直に生きよう」「どうすれば正直に生きられるか」とか考える。
そしてそれをもとに、自分を律したり、行動の中身を決めたりする。
そしていよいよ帯状回の出番である。
帯状回は、こうした扁桃体の感覚や、新皮質部の判断を受けて、やる気を引き起こす。
「もっとやろう」とか、「やってやろう」とか、そういう前向きな姿勢を生み出す。
そしてそういう感覚が、反対にまた新皮質部に働きかけ、思考や行動を活発にしたりする。
●私のばあい
さて私のこと。
こうしてマガジンを発行することによって、読者の数がふえるということは、ひょっとしたら、それだけ役にたっているということになる。
(中には、「コノヤロー」と怒っている人もいるかもしれないが……。)
さらに読者の方や、講演に来てくれた人から、礼状などが届いたりすると、どういうわ
けだか、それがうれしい。
そのうれしさが、私の脳(新皮質部)を刺激し、脳細胞を活発化する。
そしてそれが私のやる気を引き起こす。
そしてそのやる気が、ますますこう
してマガジンを発行しようという意欲に結びついてくる。
が、読者が減ったり、ふえなかったりすると、扁桃体が活動せず、つづいて新皮質部の機能が低下する。そしてそれが帯状回の機能を低下させる。
何とも理屈っぽい話になってしまったが、こうして考えることによって、同時に、子どものやる気を考えることができる。
よく「子どもにはプラスの暗示をかけろ」「子どもはほめて伸ばせ」「子どもは前向きに伸ばせ」というが、なぜそうなのかということは、脳の機能そのものが、そうなっているからである。
さてさて私のマガジンのこと。
私のばあい、「やる気」というレベルを超えて、「やらなければならない」という気持ちが強い。では、その気持ちは、どこから生まれてくるのか。
ここでいう「やる気論」だけでは説明できない。
どこか絶壁に立たされたかのような緊張感がある。
では、その緊張感はどこから生まれるのか。
●ほどよいストレスが、その人を伸ばす
ある種のストレスが加えられると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まる。
このア
ドレナリンが、心拍を高め、脳や筋肉の活動を高める。
そして脳や筋肉により多くの酸素を送りこみ、危急の行動を可能にする。
こうしたストレス反応が過剰になることは、決して好ましいことではない。
そうした状態が長く続くと、副腎機能が亢進し、免疫機能の低下や低体温などの、さまざまの弊害が現れてくる。
しかし一方で、ほどよいストレスが、全体の機能を高めることも事実で、要は、そのストレスの内容と量ということになる。
たとえば同じ「追われる」といっても、借金取りに借金の催促をされながら、毎月5万円を返済するのと、家を建てるため、毎月5万円ずつ貯金するのとでは、気持ちはまるで違う。
子どもの成績でいうなら、いつも100点を取っていた子どもが80点を取るのと、いつも50点しか取れなかった子どもが、80点を取るのとでは、同じ80点でも、子どものよって、感じ方はまったく違う。
私のばあい、マガジンの読者の数が、やっと100人を超えたときのうれしさを忘れることができない一方、450人から445人に減ったときのさみしさも忘れることができない。
100人を超えたときには、モリモリとやる気が起きてきた。
しかし445人に減ったときは、そのやる気を支えるだけで精一杯だった。
●子どものやる気
子どものやる気も同じに考えてよい。そのやる気を引き出すためには、子どもにある程度の緊張感を与える。
しかしその緊張感は、子ども自身が、その内部から沸き起こるような緊張感でなければならない。
私のばあい、「自分の時間が、どんどん短くなってきているように感ずる。
ひょっとしたら、明日にでも死の宣告を受けるかもしれない。
あるいは交通事故にあうかもしれない」というのが、ほどよく自分に作用しているのではないかと思う。
人は、何らかの使命を自分に課し、そしてその使命感で、自分で自分にムチを打って、前に進むものか。
そうした努力も一方でしないと、結局はやる気もしぼんでしまう。
ただパンと水だけを与えられ、「がんばれ」と言われても、がんばれるものではない。
今、こうして自分のマガジンを発行しながら、私はそんなことを考えている。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●私とは何か
「私」とは何かと考える。どこからどこまでが私で、どこからどこまでが私ではないかと。
よく「私の手」とか、「私の顔」とか言うが、その手にしても、顔にしても、本当に「私」なのか。
手に生える一本の毛にしても、私には、それを自分でつくったという覚え(意識)がない。あるはずもない。
ただ顔については、長い間の生き様が、そこに反映されることはある。
だから、「私の顔」と言えなくもない。
しかしほかの部分はどうなのか。あるいは心は。
あるいは思想は。
たとえば私は今、こうしてものを書いている。
しかしなぜ書くかといえば、それがわからない。
多分私の中にひそむ、貪欲さや闘争心が、そうさせているのかもしれない。
それはサッカー選手が、サッカーの試合をするのに似ている。
本人は自分の意思で動いていると思っているかもしれないが、実際には、その選手は「私」であって「私」でないものに、動かされているだけ?
同じように私も、こうしてものを書いているが、私であって私でないものに動かされているだけかもしれない。
となると、ますますわからなくなる。私とは何か。
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。映画『タイタニック』に出てくる、ジャックとローズを思い浮かべてみよう。
彼らは電撃に打たれるような恋をして、そして結ばれる。
そして数日のうちに、あの運命の日を迎える。
その事件が、あの映画の柱になっていて、それによって起こる悲劇が、多くの観客の心をとらえた。
それはわかるが、あのジャックとローズにしても、もとはといえば、本能に翻弄(ほんろう)されただけかもしれない。
電撃的な恋そのものにしても、本人たちの意思というよりは、その意思すらも支配する、本能によって引き起こされたと考えられる。
いや、だいたい男と女の関係は、すべてそうであると考えてよい。
つまりジャックにし
てもローズにしても、「私は私」と思ってそうしたかもしれないが、実はそうではなく、もっと別の力によって、そのように動かされただけということになる。
このことは、子どもたちを観察してみると、わかる。
幼児期、だいたい満四歳半から五歳半にかけて、子どもは、大きく変化する。
この時期は、乳幼児から少年、少女期への移行期と考えるとわかりやすい。
この時期をすぎると、子どもは急に生意気になる。
人格の「核」形成がすすみ、教える側からみても、「この子はこういう子だ」という、とらえどころができてくる。
そのころから自意識による記憶も残るようになる。
(それ以前の子どもには、自意識による記憶は残らないとされる。
これは脳の中の、辺縁系にある海馬という組織が、まだ未発達のためと言われている。)
で、その時期にあわせて、もちろん個人差や、程度の差はあるが、もろもろの、いわゆるふつうの人間がもっている感情や、行動パターンができてくる。
ここに書いた、貪欲さや闘争心も、それに含まれる。
嫉妬心(しっとしん)や猜疑心(さいぎしん)も含まれる。
子ども、一人ひとりは、「私は私だ」と思って、そうしているかもしれないが、もう少し高い視点から見ると、どの子どもも、それほど変わらない。
ある一定のワクの中で動いている。
もちろん方向性が違うということはある。
ある子どもは、作文で、あるいは別の子どもは、運動で、というように、そうした貪欲さや闘争心を、昇華させていく。
反対に中には、昇華できないで、くじけたり、いじけたり、さらには心をゆがめる子どももいる。
しかし全体としてみれば、やはり人間というハバの中で、そうしているにすぎない。
となると、私は、どうなのか。
私は今、こうしてものを書いているが、それとて、結局はそのハバの中で踊らされているだけなのか。
もっと言えば、私は私だと思っているが、本当に私は私なのか。
もしそうだとするなら、どこからどこまでが私で、どこから先が私ではないのか。
……実のところ、この問題は、すでに今朝から数時間も考えている。
ムダにした原稿も、もう一〇枚(1600字x10枚)以上になる。
どうやら、私はたいへんな問題にぶつかってしまったようだ。
手ごわいというか、そう簡単には結論が出ないような気がする。
これから先、ゆっくりと時間をかけて、この問題と取り組んでみたい。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●私とは何か
たとえば腹が減る。
すると私は立ちあがり、台所へでかけ、何かの食べ物をさがす。
カップヌードルか、パンか。
そのとき、私は自分の意思で動いていると思うが、実際には、空腹という本能に命じられて、そうしているだけ。
つまり、それは、「私」ではない。
さらに台所へ行って、何もなければどうする?
サイフからいくらかのお金を取り出して、近くのコンビニへ向かう。
そしてそこで何かの食物を買う。
これも、私であって、「私」ではない。
だれでも多少形は違うだろうが、そういう状況に置かれた同じような行動をする。
が、そのとき、お金がなかったどうする?
私は何かの仕事をして、そのお金を手に入れる。
となると、働くという行為も、これまた必然であって、やはり「私」でないということになる。
こうして考えていくと、「私」と思っている大部分のものは、実は、「私」ではないことになる。そ
のことは、野山を飛びかうスズメを見ればわかる。
北海道のスズメも、九州のスズメも、それほど姿や形は違わない。
そしてどこでどう連絡しあっているのか、行動パターンもよく似ている。
違いを見だすほうが、むずかしい。
しかしどのスズメも、それぞれが別の行動をし、別の生活をしている。
スズメにはそういう意識はないだろうが、恐らくスズメも、もし言葉をもっているなら、こう考えるだろう。
「私は私よ」と。
……と考えて、もう一度、人間に戻る。そしてこう考える。
私たちは、何をもって、「私」というのか、と。
街を歩きながら、若い人たちの会話に耳を傾ける。
たまたま今日は日曜日で、広場には楽器をもった人たちが集まっている。
ふと、「場違いなところへきたな」と思うほど、まわりは若さで華やいでいる。
「Aさん、今、どうしてる?」
「ああ、多分、今日、来てくれるわ」
「ああ、そう……」と。
楽器とアンプをつなぎながら、そんな会話をしている。
しかしそれは言葉という道具を使って、コミュニケーションしているにすぎない。
もっと言えば、スズメがチッチッと鳴きあうのと、それほど、違わない。
本人たちは、「私は私」と思っているかもしれないが、「私」ではない。
私が私であるためには、私を動かす、その裏にあるものを超えなければならない。
その裏にあるものを、超えたとき、私は私となる。
ここまで書いて、私はワイフに相談した。
「その裏になるものというのを、どう表現したらいいのかね」と。
本能ではおかしい。潜在意識では、もっとおかしい。
私たちを、その裏から基本的に操っているもの。
それは何か。ワイフは、「さあねエ……。
何か、新しい言葉をつくらないといけないね」と。
ひとつのヒントが、コンピュータにあった。コンピュータには、OSと呼ばれる部分がある。
「オペレーティングシステム」のことだが、日本語では、「基本ソフト」という。
いわばコンピュータのハードウエアと、その上で動くソフトウエアを総合的に管理するプログラムと考えるとわかりやすい。
コンピュータというのは、いわば、スイッチのかたまりにすぎない。
そのスイッチを機能的に動かすのが、OSということになる。
人間の脳にある神経細胞からのびる無数のシナプスも、このスイッチにたいへんよく似ている。
そこで人間の脳にも、そのスイッチを統合するようなシステムがあるとするなら、「脳のOS」と表現できる。
つまり私たちは、意識するとしないにかかわらず、その脳のOSに支配され、その範囲で行動している。
つまりその範囲で行動している間は、「私」ではない。
では、どうすれば、私は、自分自身の脳のOSを超えることができるか。
その前に、それは可能なのか。可能だとするなら、方法はあるのか。
たまたま私は、「私」という問題にぶつかってしまったが、この問題は、本当に大きい。
のんびりと山の散歩道を歩いていたら、突然、道をふさぐ、巨大な岩石に行き当たったような感じだ。
とても今日だけでは、考えられそうもない。このつづきは、一度、頭を冷やしてから考える。
(02-10-27)※
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●私とは何か
「私」というのは、昔から、哲学の世界では、大きなテーマだった。スパルタの七賢人の一人のターレスも、『汝自身を知れ』と言っている。自分を知ることが、哲学の究極の目的というわけだ。
ほかに調べてみると、たとえばパスカル(フランスの哲学者、1623~62)も、『パンセ』の中で、こう書いている。
「人間は不断に学ぶ、唯一の存在である」と。別のところでは、「思考が人間の偉大さをなす」ともある。
この言葉を裏から読むと、「不断に学ぶからこそ、人間」ということになる。
この言葉は、釈迦が説いた、「精進」という言葉に共通する。
精進というのは、「一心に仏道に修行すること。
ひたすら努力すること」(講談社「日本語大辞典」)という意味である。
釈迦は「死ぬまで精進しろ。
それが仏の道だ」(「ダンマパダ」)というようなことを言い残している。
となると、答は出たようなものか。
つまり「私」というのは、その「考える部分」ということになる。
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。
あなたが今、政治家であったとする。
そんなある日、一人の事業家がやってきて、あなたの目の前に大金を積んで、こう言ったとする。
今度の工事のことで、私に便宜(べんぎ)をはかってほしい」と。
このとき、考えない人間は、エサに飛びつく魚のように、その大金を手にしながら、こう言うにちがいない。
「わかりました。私にまかせておきなさい」と。
しかしこれでは、脳のOS(基本ソフト)の範囲内での行動である。
そこであなたという政治家が、人間であるためには、考えなければならない。
考えて、脳のOSの外に出なくてはいけない。
そしてあれこれ考えながら、「私はそういうまちがったことはできない」と言って、そのお金をつき返したら、そのとき、その部分が「私」ということになる。
これはほんの一例だが、こうした場面は、私たちの日常生活の中では、茶飯事的に起こる。
そのとき、何も考えないで、同じようなことをしていれば、その人には、「私」はないことになる。
しかしそのつど考え、そしてその考えに従って行動すれば、その人には「私」があることになる。
そこで私にとって「私」は何かということになる。
考えるといっても、あまりにも漠然(ばくぜん)としている。
つかみどころがない。考えというのは、方法をまちがえると、ループ状態に入ってしまう。
同じことを繰り返し考えたりする。いくら考えても、同じことを繰り返し考えるというのであれば、それは何も考えていないのと同じである。
そこで私は、「考えることは、書くことである」という、一つの方法を導いた。
そのヒントとなったのが、モンテーニュ(フランスの哲学者、1533-92)の『随想録』である。彼は、こう書いている。
「私は『考える』という言葉を聞くが、私は何かを書いているときのほか、考えたことがない」と。
思想は言葉によるものだから、それを考えるには、言葉しかない。
そのために「書く」ということか。
私はいつしか、こうしてものを書くことで、「考える」ようになった。
もちろんこれは私の方法であり、それぞれの人には、それぞれの方法があって、少しもおかしくない。
しかしあえて言うなら、書くことによって、人ははじめてものごとを論理的に考えることができる。
書くことイコール、考えることと言ってもよい。
「私」が私であるためには、考えること。
そしてその考えるためには、書くこと。
今のところ、それが私の結論ということになるが、昨年(〇一年)、こんなエッセーを書いた。
中日新聞で掲載してもらった、『子どもの世界』(タイトル)で、最後を飾った記事である。
書いたのは、ちょうど一年前だが、ここに書いた気持ちは、今も、まったく変わっていない。
++++++++++++++++++++
~02年終わりまでだけでも、これだけの
原稿が集まった。
それ以後も、現在に至るまで、たびたび、
私は辺縁系について書いてきた。
最後に、こんな興味ある研究結果が公表されたので、
ここに紹介する。
「いじめは、立派な傷害罪」という内容の
記事である。
++++++++++++++++++++
東北大学名誉教授の松沢大樹(80)氏によれば、「すべての精神疾患は、脳内の扁桃核に生ずる傷によって起きる」と結論づけている。
松沢氏によれば、「深刻ないじめによっても、子どもたちの扁桃核に傷は生じている」というのである。
傷といっても、本物の傷。最近は、脳の奥深くを、MRI(磁気共鳴断層撮影)や、PET(ポジトロン断層撮影)などで、映像化して調べることができる。実際、その(傷)が、こうした機器を使って、撮影されている。
中日新聞の記事をそのまま紹介する(07年3月18日)。
『扁桃核に傷がつくと、愛が憎しみに変わる。さらに記憶認識系、意志行動系など、およそ心身のあらゆることに影響を与える。……松沢氏は、念を押すように繰りかえした。
『いじめは、脳を壊す。だからいじめは犯罪行為、れっきとした傷害罪なんです』と。
今、(心)そのものが、大脳生理学の分野で解明されようよしている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
扁桃体 辺縁系 扁桃核 心 心の傷)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●子どものやる気論
【子どものやる気論】自発的行動(オペラント)
●ほめる
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子どもは、ほめて伸ばす。
これは家庭教育の大鉄則!
++++++++++++++++
●灯をともして引き出す
欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を意味する(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」という単語に由来する。
その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。
そのせいか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。
参観している私のほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。
発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、それが強化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。
●脳内ホルモンが脳を活発化させる
このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。
好きなことをしているときには、脳内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活動を活発化し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。
このとき大切なことは、得意分野をほめること。
不得意分野や苦手な分野には、目をつぶる。
たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。
すると脳
内ホルモンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、伸び始める。
これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よくみられる現象である。
が、それだけではない。
ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。
こんなことがあった。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
今週、N市で、講演をする。
その原稿が、やっとできた。
……といっても、このまま話すのではない。
当日の雰囲気を見て、前後を入れ替えながら話す。
結論についても、同じ。
当時、主催者の方との話しあいの中で、決める。
私にとって、講演というのは、そういうもの。
原稿通りには、話さない。……話せない。
雰囲気を見ながら、笑いを入れたり、エピソードをふやしたりする。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「遊びが子どもの仕事」(中日新聞発表済み)
「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当たらずとも、はずれてもいない。
「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがある。
オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。
日本でいう砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。
また「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室の外で身につける。
実はこの私がそうだった。
私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。
今でいう帰宅拒否の症状もあったのかもしれない。
それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。
けんかのし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。
性教育もそこで学んだ。
……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。
それまでは私の過去はただの過去。
自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。
いわんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。
しかしやはり私という人間は、あの寺の境内でできた。
ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。
縄張りもあったし、いがみあいもあった。
おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社会が、ほかの社会と完全に隔離されていたということ。
たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。
山ででくわしたら最後。
石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。
相手をつかまえればリンチもしたし、つかまればリンチもされた。
しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。
あいさつをして笑いあうような相手ではないが、しかし互いに知らぬ相手ではない。
目と目であいさつぐらいはした。
つまり寺の境内とそれを包む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技場の外で争っても意味がない。
つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んでいた。が、それだけにはとどまらない。
寺の境内にはひとつの秩序があった。
子どもどうしの上下関係があった。
けんかの強い子どもや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。
そして私たちはそれに従った。
親分、子分の関係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を出さなかった。
仲間意識もあった。
仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。
しかしそれは日本というより、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。
だから今、世界で起きている紛争や事件をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代とそれを結びつけて、簡単に理解することができる。
もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっただろう。
だから私の立場で言えば、こういうことになる。
「私は人生で必要な知識と経験はすべて寺の境内で学んだ」と。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●子どものいたずら
ふつう頭のよい子どもは、発想が豊かで、おもしろい。
パンをくりぬいて、トンネル遊び。スリッパをひもでつないで、電車ごっこなど。
時計を水の入ったコップに入れて遊んでいた子ども(小3)がいた。
母親が「どうしてそんなことをするの?」と聞いたら、「防水と書いてあるから、その実験をしているのだ」と。
ただし同じいたずらでも、コンセントに粘土をつめる。
絵の具を溶かして、車にかけるなどのいたずらは、好ましいものではない。
善悪の判断にうとい子どもは、とんでもないいたずらをする。
その頭をよくするという話で思いだしたが、チューイングガムをかむと頭がよくなるという説がある。
アメリカの「サイエンス」という雑誌に、そういう論文が紹介された。
で、この話をすると、ある母親が、「では」と言って、ほとんど毎日、自分の子どもにガムをかませた。しかもそれを年長児のときから、数年間続けた。
で、その結果だが、その子どもは本当に、頭がよくなってしまった。
この方法は、どこかぼんやりしていて、何かにつけておくれがちの子どもに、特に効果がある。……と思う。
また年長児で、ずばぬけて国語力のある女の子がいた。
作文力だけをみたら、小学校の3、4年生以上の力があったと思う。
で、その秘訣を母親に聞いたら、こう教えてくれた。「赤ちゃんのときから、毎日本を読んで、それをテープに録音して、聴かせていました」と。
母親の趣味は、ドライブ。
外出するたびに、そのテープを聴かせていた。
今回は、バラバラな話を書いてしまったが、もう一つ、バラバラになりついでに、こんな話もある。
子どもの運動能力の基本は、敏しょう性によって決まる。
その敏しょう性。
一人、ドッジボールの得意な子ども(年長男児)がいた。
その子どもは、とにかくすばしっこかった。
で、母親にその理由を聞くと、「赤ちゃんのときから、はだしで育てました。
雨の日もはだしだったため、近所の人に白い目で見られたこともあります」とのこと。
子どもを将来、運動の得意な子どもにしたかったら、できるだけはだしで育てるとよい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●笑い(笑いの科学と効能)
ついでに、「笑い」について。
何度も書いてきたので、ネットでさがし、その一部を紹介する。
私は、幼児を教えるとき、何よりも、「笑い」を大切にしている。
ときには、50分のレッスンの間、ずっと笑いっぱなしにさせることもある。
最近の研究では、「笑いは、心のジョギング」(小田晋、「イミダス」05年度版)とまで言われるようになった。
「質問紙法で、ユーモアのセンスを評定すると、ユーモアの感覚があり、よく笑う人は、ストレス状況下でも、抑うつ度の上昇と、免疫力の低下が抑制されることがわかっている。
たとえば糖尿病患者や大学生に、退屈な講義を聞かせたあとには、血糖値は上昇するが、
3時間の漫才を聞かせたあとでは、とくに糖尿病患者では、血糖値の上昇を阻害することがわかってきた」(国際科学研究財団・村上・筑波大学名誉教授)と。
がん患者についても、笑いのシャワーをあびせると、血液中の免疫機能をつかさどる、NK細胞が、活性化することもわかっている(同)。
子どももそうで、笑えば、子どもは、伸びる。
前向きな学習態度も、そこから生まれる。
「なおす」という言葉は、安易には使えないが、軽い情緒障害や精神障害なら、そのままなおってしまう。
私は、そういう経験を、何度もしている。
大声で、ゲラゲラ笑う。
たったそれだけのことだが、子どもの心は、まっすぐに伸びていくということ。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 子どもと遊び やる気論 カテコールアミン ほめることの重要性 子どもはほめて伸ばす 子どもは笑わせて伸ばす やる気と遊び 遊びで生まれるやる気 社会性 はやし浩司 子どものやる気)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
●ほめることの重要性byはやし浩司
+++++++++++++++++
ほめることの重要性については、
繰り返し書いてきた。
『子どもはほめて伸ばせ』が、私の
持論にもなっている。
あちこちの本の中でも、そう書いた。
このほどその効果が、アカデミック
な立場で、証明された。
その記事を、そのままここに、
記録用として、保存させてもらう。
+++++++++++++++++
++++++++以下、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++
親にほめられたり、やさしい言葉をかけられた乳幼児ほど、主体性や思いやりなど社会適応力の高い子に育つことが、3年以上に及ぶ科学技術振興機構の調査で分かった。
父親の育児参加も同様の効果があった。
「ほめる育児」の利点が長期調査で示されたのは初という。
東京都で27日午後に開かれる応用脳科学研究会で発表する。
調査は、大阪府と三重県の親子約400組を対象に、生後4カ月の赤ちゃんが3歳半になる09年まで追跡。
親については、子とのかかわり方などをアンケートと行動観察で調べた。
子に対しては、親に自分から働きかける「主体性」、親にほほ笑み返す「共感性」など5分野30項目で評価した。
その結果、1歳半以降の行動観察で、親によくほめられた乳幼児は、ほめられない乳幼児に比べ、3歳半まで社会適応力が高い状態を保つ子が約2倍いることが分かった。
また、ほめる以外に、目をしっかり見つめる▽一緒に歌ったり、リズムに合わせて体を揺らす▽たたかない▽生活習慣を整える▽一緒に本を読んだり出かける--などが社会適応力を高める傾向があった。
一方、父親が1歳半から2歳半に継続して育児参加すると、そうでない親子に比べ、2歳半の時点で社会適応力が1.8倍高いことも判明した。
母親の育児負担感が低かったり、育児の相談相手がいる場合も子の社会適応力が高くなった。
調査を主導した安梅勅江(あんめときえ)・筑波大教授(発達心理学)は「経験として知られていたことを、科学的に明らかにできた。
成果を親と子双方の支援に生かしたい」と話す。【須田桃子】
++++++++以上、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 ほめる ほめる効用 子どもをほめる ほめることの大切さ はやし浩司 子どもはほめて伸ばす 伸ばせ 子供はほめて伸ばせ)
++++++++++++++++++++
●2007年4月の原稿より
【子どもを伸ばす】
●やる気論
人にやる気を起こさせるものに、二つある。
一つは、自我の追求。もう一つは、絶壁(ぜっぺき)性。
大脳生理学の分野では、人のやる気は、大脳辺縁系の中にある、帯状回という組織が、重要なカギを握っているとされている(伊藤正男氏)。
が、問題は、何がその帯状回を刺激するか、だ。
そこで私は、ここで(1)自我の追求と、(2)絶壁性をあげる。
自我の追求というのは、自己的利益の追求ということになる。
ビジネスマンがビジネスをとおして利潤を追求するというのが、もっともわかりやすい例ということになる。
科学者にとっては、名誉、政治家にとっては、地位、あるいは芸術家にとっては、評価ということになるのか。
こう決めてかかることは危険なことかもしれないが、わかりやすく言えば、そういうことになる。
こうした自己的利益の追求が、原動力となって、その人の帯状回(あくまでも伊藤氏の説に従えばということだが)を刺激する。
しかしこれだけでは足りない。
人間は追いつめられてはじめて、やる気を発揮する。
これを私は「絶壁性」と呼んでいる。
つまり崖っぷちに立たされるという危機感があって、人ははじめてやる気を出す。
たとえば生活が安定し、来月の生活も、さらに来年の生活も変わりなく保障されるというような状態では、やる気は生まれない。
「明日はどうなるかわからない」「来月はどうなるかわからない」という、切羽つまった思いがあるから、人はがんばる。
が、それがなければ、そうでない。
さて私のこと。私がなぜ、こうして毎日、文を書いているかといえば、結局は、この二
つに集約される。
「その先に何があるかを知りたい」というのは、立派な我欲である。
ただ私のばあい、名誉や地位はほとんど関係ない。
とくにインターネットに原稿を載せても、利益はほとんど、ない。
ふつうの人の我欲とは、少し内容が違うが、ともかくも、その自我が原動力になっていることはまちがいない。
つぎに絶壁性だが、これはもうはっきりしている。
私のように、まったく保障のワクの外で生きている人間にとっては、病気や事故が一番、恐ろしい。
明日、病気か事故で倒れれば、それでおしまい。
そういう危機感があるから、健康や安全に最大限の注意を払う。
毎日、自転車で体を鍛えているのも、そのひとつということになる。
あるいは必要最低限の生活をしながら、余力をいつも未来のためにとっておく。
そういう生活態度も、そういう危機感の中から生まれた。
もしこの絶壁性がなかったら、私はこうまでがんばらないだろうと思う。
そこで子どものこと。
子どものやる気がよく話題になるが、要は、いかにすれば、その我欲の追求性を子どもに自覚させ、ほどよい危機感をもたせるか、ということ。
順に考えてみよう。
(自我の追求)
教育の世界では、(1)動機づけ、(2)忍耐性(努力)、(3)達成感という、三つの段
階に分けて、子どもを導く。
英語国では、「灯をともして、引き出せ」という。
幼児期にとくに大切なのは、動機づけである。
この動機づけがうまくいけば、あとは子ども自身が、自らの力で伸びる。英語流の言い方をすれば、『種をまいて、引き出す』の要領である。
忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。
そのためには、『子どもは使えば使うほどいい子』と覚えておくとよい。
多くの日本人は、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽をさせること」が、「子どもをかわいがること」「親子のキズナ(きずな)を太くするコツ」と考えている。
しかしこれは誤解。まったくの誤解。
3つ目に、達成感。
「やりとげた」という思いが、子どもをつぎに前向きに引っぱっていく原動力となる。
もっとも効果的な方法は、それを前向きに評価し、ほめること。
(絶壁性)
酸素もエサも自動的に与えられ、水温も調整されたような水槽のような世界では、子ど
もは伸びない。
子どもを伸ばすためには、ある程度の危機感をもたせる。
(しかし危機感をもた
せすぎると、今度は失敗する。)日本では、受験勉強がそれにあたるが、しかし問題も多い。
そこでどうすれば、子どもがその危機感を自覚するか、だ。
しかし残念ながら、ここま
で飽食とぜいたくが蔓延(まんえん)すると、その危機感をもたせること自体、むずかしい。
仮に生活の質を落としたりすると、子どもは、それを不満に転化させてしまう。
子ど
もの心をコントロールするのは、そういう意味でもむずかしい。
とこかくも、子どものみならず、人は追いつめられてはじめて自分の力を奮い立たせる。
E君という子どもだが、こんなことがあった。
小学六年のとき、何かの会で、スピーチをすることになった。
そのときのE君は、はたから見ても、かわいそうなくらい緊張したという。
数日前から不眠症になり、当日は朝食もとらず、会場へでかけていった。
で、結果は、結構、自分でも満足するようなできだったらしい。
それ以後、度胸がついたというか、自信をもったというか、児童会長(小学校)や、生徒会長(中学校)、文化祭実行委員長(高校)を、総ナメにしながら、大きくなっていった。
そのときどきは、親としてつらいときもあるが、子どもをある程度、その絶壁に立たせるというのは、子どもを伸ばすためには大切なことではないか。
つきつめれば、子どもを伸ばすということは、いかにしてやる気を引き出すかということ。
その一言につきる。この問題は、これから先、もう少し煮つめてみたい。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●生きがいを決めるのは、帯状回?
脳の中に、辺縁系と呼ばれる古い脳がある。
脳のこの部分は、人間が原始動物であったときからあるものらしい。
イヌやネコにも、たいへんよく似た脳がある。
その辺縁系の中に、帯状回とか扁桃体と呼ばれるところがある。
最近の研究によれば、どうやら人間の「やる気」に、これらの帯状回や扁桃体が関係していることがわかってきた(伊藤正男氏)。
たとえば人にほめられたりとすると、人は快感を覚える。
反対にみなの前でけなされたりすると、不快感を覚える。
その快感や不快感を覚えるのが、扁桃体だそうだ。その快感や不快感を受けて、大脳連合野の新皮質部が、満足したり、満足しなかったりする。
一方、その扁桃体の感覚を受けて、「やる気」を命令するのが、帯状回だそうだ(同氏)。
やる気があれば、ものごとは前に進み、それに楽しい。しかしいやいやにしていれば、何をするのも苦痛になる。
これは脳のメカニズムの話だが、現象的にも、この説には合理性がある。
たとえば他人にやさしくしたり、親切にしたりすると、心地よい響きがする。
しかし反対に、他人をいじめたり、意地悪したりすると、後味が悪い。
この感覚は、きわめて原始的なもので、つまりは理屈では説明できないような感覚である。
しかしそういう感覚を、人間がまだ原始動物のときからもっていたと考えるのは、進化論から考えても正しい。
もし人間が、もともと邪悪な感覚をもっていたら、たとえば仲間を殺しても、平気でいられるような感覚をもっていたら、とっくの昔に絶滅していたはずである。
こうした快感や不快感を受けて、つぎに大脳連合野の新皮質部が判断をくだす。
新皮質部というのは、いわゆる知的な活動をする部分である。
たとえば正直に生きたとする。
すると、そのあとすがすがしい気分になる。
このすがすがしい気分は、扁桃体によるものだが、それを受けて、新皮質部が、「もっと正直に生きよう」「どうすれば正直に生きられるか」とか考える。
そしてそれをもとに、自分を律したり、行動の中身を決めたりする。
そしていよいよ帯状回の出番である。
帯状回は、こうした扁桃体の感覚や、新皮質部の判断を受けて、やる気を引き起こす。
「もっとやろう」とか、「やってやろう」とか、そういう前向きな姿勢を生み出す。
そしてそういう感覚が、反対にまた新皮質部に働きかけ、思考や行動を活発にしたりする。
●私のばあい
さて私のこと。
こうしてマガジンを発行することによって、読者の数がふえるということは、ひょっとしたら、それだけ役にたっているということになる。
(中には、「コノヤロー」と怒っている人もいるかもしれないが……。)
さらに読者の方や、講演に来てくれた人から、礼状などが届いたりすると、どういうわ
けだか、それがうれしい。
そのうれしさが、私の脳(新皮質部)を刺激し、脳細胞を活発化する。
そしてそれが私のやる気を引き起こす。
そしてそのやる気が、ますますこう
してマガジンを発行しようという意欲に結びついてくる。
が、読者が減ったり、ふえなかったりすると、扁桃体が活動せず、つづいて新皮質部の機能が低下する。そしてそれが帯状回の機能を低下させる。
何とも理屈っぽい話になってしまったが、こうして考えることによって、同時に、子どものやる気を考えることができる。
よく「子どもにはプラスの暗示をかけろ」「子どもはほめて伸ばせ」「子どもは前向きに伸ばせ」というが、なぜそうなのかということは、脳の機能そのものが、そうなっているからである。
さてさて私のマガジンのこと。
私のばあい、「やる気」というレベルを超えて、「やらなければならない」という気持ちが強い。では、その気持ちは、どこから生まれてくるのか。
ここでいう「やる気論」だけでは説明できない。
どこか絶壁に立たされたかのような緊張感がある。
では、その緊張感はどこから生まれるのか。
●ほどよいストレスが、その人を伸ばす
ある種のストレスが加えられると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まる。
このア
ドレナリンが、心拍を高め、脳や筋肉の活動を高める。
そして脳や筋肉により多くの酸素を送りこみ、危急の行動を可能にする。
こうしたストレス反応が過剰になることは、決して好ましいことではない。
そうした状態が長く続くと、副腎機能が亢進し、免疫機能の低下や低体温などの、さまざまの弊害が現れてくる。
しかし一方で、ほどよいストレスが、全体の機能を高めることも事実で、要は、そのストレスの内容と量ということになる。
たとえば同じ「追われる」といっても、借金取りに借金の催促をされながら、毎月5万円を返済するのと、家を建てるため、毎月5万円ずつ貯金するのとでは、気持ちはまるで違う。
子どもの成績でいうなら、いつも100点を取っていた子どもが80点を取るのと、いつも50点しか取れなかった子どもが、80点を取るのとでは、同じ80点でも、子どものよって、感じ方はまったく違う。
私のばあい、マガジンの読者の数が、やっと100人を超えたときのうれしさを忘れることができない一方、450人から445人に減ったときのさみしさも忘れることができない。
100人を超えたときには、モリモリとやる気が起きてきた。
しかし445人に減ったときは、そのやる気を支えるだけで精一杯だった。
●子どものやる気
子どものやる気も同じに考えてよい。そのやる気を引き出すためには、子どもにある程度の緊張感を与える。
しかしその緊張感は、子ども自身が、その内部から沸き起こるような緊張感でなければならない。
私のばあい、「自分の時間が、どんどん短くなってきているように感ずる。
ひょっとしたら、明日にでも死の宣告を受けるかもしれない。
あるいは交通事故にあうかもしれない」というのが、ほどよく自分に作用しているのではないかと思う。
人は、何らかの使命を自分に課し、そしてその使命感で、自分で自分にムチを打って、前に進むものか。
そうした努力も一方でしないと、結局はやる気もしぼんでしまう。
ただパンと水だけを与えられ、「がんばれ」と言われても、がんばれるものではない。
今、こうして自分のマガジンを発行しながら、私はそんなことを考えている。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●私とは何か
「私」とは何かと考える。どこからどこまでが私で、どこからどこまでが私ではないかと。
よく「私の手」とか、「私の顔」とか言うが、その手にしても、顔にしても、本当に「私」なのか。
手に生える一本の毛にしても、私には、それを自分でつくったという覚え(意識)がない。あるはずもない。
ただ顔については、長い間の生き様が、そこに反映されることはある。
だから、「私の顔」と言えなくもない。
しかしほかの部分はどうなのか。あるいは心は。
あるいは思想は。
たとえば私は今、こうしてものを書いている。
しかしなぜ書くかといえば、それがわからない。
多分私の中にひそむ、貪欲さや闘争心が、そうさせているのかもしれない。
それはサッカー選手が、サッカーの試合をするのに似ている。
本人は自分の意思で動いていると思っているかもしれないが、実際には、その選手は「私」であって「私」でないものに、動かされているだけ?
同じように私も、こうしてものを書いているが、私であって私でないものに動かされているだけかもしれない。
となると、ますますわからなくなる。私とは何か。
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。映画『タイタニック』に出てくる、ジャックとローズを思い浮かべてみよう。
彼らは電撃に打たれるような恋をして、そして結ばれる。
そして数日のうちに、あの運命の日を迎える。
その事件が、あの映画の柱になっていて、それによって起こる悲劇が、多くの観客の心をとらえた。
それはわかるが、あのジャックとローズにしても、もとはといえば、本能に翻弄(ほんろう)されただけかもしれない。
電撃的な恋そのものにしても、本人たちの意思というよりは、その意思すらも支配する、本能によって引き起こされたと考えられる。
いや、だいたい男と女の関係は、すべてそうであると考えてよい。
つまりジャックにし
てもローズにしても、「私は私」と思ってそうしたかもしれないが、実はそうではなく、もっと別の力によって、そのように動かされただけということになる。
このことは、子どもたちを観察してみると、わかる。
幼児期、だいたい満四歳半から五歳半にかけて、子どもは、大きく変化する。
この時期は、乳幼児から少年、少女期への移行期と考えるとわかりやすい。
この時期をすぎると、子どもは急に生意気になる。
人格の「核」形成がすすみ、教える側からみても、「この子はこういう子だ」という、とらえどころができてくる。
そのころから自意識による記憶も残るようになる。
(それ以前の子どもには、自意識による記憶は残らないとされる。
これは脳の中の、辺縁系にある海馬という組織が、まだ未発達のためと言われている。)
で、その時期にあわせて、もちろん個人差や、程度の差はあるが、もろもろの、いわゆるふつうの人間がもっている感情や、行動パターンができてくる。
ここに書いた、貪欲さや闘争心も、それに含まれる。
嫉妬心(しっとしん)や猜疑心(さいぎしん)も含まれる。
子ども、一人ひとりは、「私は私だ」と思って、そうしているかもしれないが、もう少し高い視点から見ると、どの子どもも、それほど変わらない。
ある一定のワクの中で動いている。
もちろん方向性が違うということはある。
ある子どもは、作文で、あるいは別の子どもは、運動で、というように、そうした貪欲さや闘争心を、昇華させていく。
反対に中には、昇華できないで、くじけたり、いじけたり、さらには心をゆがめる子どももいる。
しかし全体としてみれば、やはり人間というハバの中で、そうしているにすぎない。
となると、私は、どうなのか。
私は今、こうしてものを書いているが、それとて、結局はそのハバの中で踊らされているだけなのか。
もっと言えば、私は私だと思っているが、本当に私は私なのか。
もしそうだとするなら、どこからどこまでが私で、どこから先が私ではないのか。
……実のところ、この問題は、すでに今朝から数時間も考えている。
ムダにした原稿も、もう一〇枚(1600字x10枚)以上になる。
どうやら、私はたいへんな問題にぶつかってしまったようだ。
手ごわいというか、そう簡単には結論が出ないような気がする。
これから先、ゆっくりと時間をかけて、この問題と取り組んでみたい。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●私とは何か
たとえば腹が減る。
すると私は立ちあがり、台所へでかけ、何かの食べ物をさがす。
カップヌードルか、パンか。
そのとき、私は自分の意思で動いていると思うが、実際には、空腹という本能に命じられて、そうしているだけ。
つまり、それは、「私」ではない。
さらに台所へ行って、何もなければどうする?
サイフからいくらかのお金を取り出して、近くのコンビニへ向かう。
そしてそこで何かの食物を買う。
これも、私であって、「私」ではない。
だれでも多少形は違うだろうが、そういう状況に置かれた同じような行動をする。
が、そのとき、お金がなかったどうする?
私は何かの仕事をして、そのお金を手に入れる。
となると、働くという行為も、これまた必然であって、やはり「私」でないということになる。
こうして考えていくと、「私」と思っている大部分のものは、実は、「私」ではないことになる。そ
のことは、野山を飛びかうスズメを見ればわかる。
北海道のスズメも、九州のスズメも、それほど姿や形は違わない。
そしてどこでどう連絡しあっているのか、行動パターンもよく似ている。
違いを見だすほうが、むずかしい。
しかしどのスズメも、それぞれが別の行動をし、別の生活をしている。
スズメにはそういう意識はないだろうが、恐らくスズメも、もし言葉をもっているなら、こう考えるだろう。
「私は私よ」と。
……と考えて、もう一度、人間に戻る。そしてこう考える。
私たちは、何をもって、「私」というのか、と。
街を歩きながら、若い人たちの会話に耳を傾ける。
たまたま今日は日曜日で、広場には楽器をもった人たちが集まっている。
ふと、「場違いなところへきたな」と思うほど、まわりは若さで華やいでいる。
「Aさん、今、どうしてる?」
「ああ、多分、今日、来てくれるわ」
「ああ、そう……」と。
楽器とアンプをつなぎながら、そんな会話をしている。
しかしそれは言葉という道具を使って、コミュニケーションしているにすぎない。
もっと言えば、スズメがチッチッと鳴きあうのと、それほど、違わない。
本人たちは、「私は私」と思っているかもしれないが、「私」ではない。
私が私であるためには、私を動かす、その裏にあるものを超えなければならない。
その裏にあるものを、超えたとき、私は私となる。
ここまで書いて、私はワイフに相談した。
「その裏になるものというのを、どう表現したらいいのかね」と。
本能ではおかしい。潜在意識では、もっとおかしい。
私たちを、その裏から基本的に操っているもの。
それは何か。ワイフは、「さあねエ……。
何か、新しい言葉をつくらないといけないね」と。
ひとつのヒントが、コンピュータにあった。コンピュータには、OSと呼ばれる部分がある。
「オペレーティングシステム」のことだが、日本語では、「基本ソフト」という。
いわばコンピュータのハードウエアと、その上で動くソフトウエアを総合的に管理するプログラムと考えるとわかりやすい。
コンピュータというのは、いわば、スイッチのかたまりにすぎない。
そのスイッチを機能的に動かすのが、OSということになる。
人間の脳にある神経細胞からのびる無数のシナプスも、このスイッチにたいへんよく似ている。
そこで人間の脳にも、そのスイッチを統合するようなシステムがあるとするなら、「脳のOS」と表現できる。
つまり私たちは、意識するとしないにかかわらず、その脳のOSに支配され、その範囲で行動している。
つまりその範囲で行動している間は、「私」ではない。
では、どうすれば、私は、自分自身の脳のOSを超えることができるか。
その前に、それは可能なのか。可能だとするなら、方法はあるのか。
たまたま私は、「私」という問題にぶつかってしまったが、この問題は、本当に大きい。
のんびりと山の散歩道を歩いていたら、突然、道をふさぐ、巨大な岩石に行き当たったような感じだ。
とても今日だけでは、考えられそうもない。このつづきは、一度、頭を冷やしてから考える。
(02-10-27)※
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●私とは何か
「私」というのは、昔から、哲学の世界では、大きなテーマだった。スパルタの七賢人の一人のターレスも、『汝自身を知れ』と言っている。自分を知ることが、哲学の究極の目的というわけだ。
ほかに調べてみると、たとえばパスカル(フランスの哲学者、1623~62)も、『パンセ』の中で、こう書いている。
「人間は不断に学ぶ、唯一の存在である」と。別のところでは、「思考が人間の偉大さをなす」ともある。
この言葉を裏から読むと、「不断に学ぶからこそ、人間」ということになる。
この言葉は、釈迦が説いた、「精進」という言葉に共通する。
精進というのは、「一心に仏道に修行すること。
ひたすら努力すること」(講談社「日本語大辞典」)という意味である。
釈迦は「死ぬまで精進しろ。
それが仏の道だ」(「ダンマパダ」)というようなことを言い残している。
となると、答は出たようなものか。
つまり「私」というのは、その「考える部分」ということになる。
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。
あなたが今、政治家であったとする。
そんなある日、一人の事業家がやってきて、あなたの目の前に大金を積んで、こう言ったとする。
今度の工事のことで、私に便宜(べんぎ)をはかってほしい」と。
このとき、考えない人間は、エサに飛びつく魚のように、その大金を手にしながら、こう言うにちがいない。
「わかりました。私にまかせておきなさい」と。
しかしこれでは、脳のOS(基本ソフト)の範囲内での行動である。
そこであなたという政治家が、人間であるためには、考えなければならない。
考えて、脳のOSの外に出なくてはいけない。
そしてあれこれ考えながら、「私はそういうまちがったことはできない」と言って、そのお金をつき返したら、そのとき、その部分が「私」ということになる。
これはほんの一例だが、こうした場面は、私たちの日常生活の中では、茶飯事的に起こる。
そのとき、何も考えないで、同じようなことをしていれば、その人には、「私」はないことになる。
しかしそのつど考え、そしてその考えに従って行動すれば、その人には「私」があることになる。
そこで私にとって「私」は何かということになる。
考えるといっても、あまりにも漠然(ばくぜん)としている。
つかみどころがない。考えというのは、方法をまちがえると、ループ状態に入ってしまう。
同じことを繰り返し考えたりする。いくら考えても、同じことを繰り返し考えるというのであれば、それは何も考えていないのと同じである。
そこで私は、「考えることは、書くことである」という、一つの方法を導いた。
そのヒントとなったのが、モンテーニュ(フランスの哲学者、1533-92)の『随想録』である。彼は、こう書いている。
「私は『考える』という言葉を聞くが、私は何かを書いているときのほか、考えたことがない」と。
思想は言葉によるものだから、それを考えるには、言葉しかない。
そのために「書く」ということか。
私はいつしか、こうしてものを書くことで、「考える」ようになった。
もちろんこれは私の方法であり、それぞれの人には、それぞれの方法があって、少しもおかしくない。
しかしあえて言うなら、書くことによって、人ははじめてものごとを論理的に考えることができる。
書くことイコール、考えることと言ってもよい。
「私」が私であるためには、考えること。
そしてその考えるためには、書くこと。
今のところ、それが私の結論ということになるが、昨年(〇一年)、こんなエッセーを書いた。
中日新聞で掲載してもらった、『子どもの世界』(タイトル)で、最後を飾った記事である。
書いたのは、ちょうど一年前だが、ここに書いた気持ちは、今も、まったく変わっていない。
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~02年終わりまでだけでも、これだけの
原稿が集まった。
それ以後も、現在に至るまで、たびたび、
私は辺縁系について書いてきた。
最後に、こんな興味ある研究結果が公表されたので、
ここに紹介する。
「いじめは、立派な傷害罪」という内容の
記事である。
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東北大学名誉教授の松沢大樹(80)氏によれば、「すべての精神疾患は、脳内の扁桃核に生ずる傷によって起きる」と結論づけている。
松沢氏によれば、「深刻ないじめによっても、子どもたちの扁桃核に傷は生じている」というのである。
傷といっても、本物の傷。最近は、脳の奥深くを、MRI(磁気共鳴断層撮影)や、PET(ポジトロン断層撮影)などで、映像化して調べることができる。実際、その(傷)が、こうした機器を使って、撮影されている。
中日新聞の記事をそのまま紹介する(07年3月18日)。
『扁桃核に傷がつくと、愛が憎しみに変わる。さらに記憶認識系、意志行動系など、およそ心身のあらゆることに影響を与える。……松沢氏は、念を押すように繰りかえした。
『いじめは、脳を壊す。だからいじめは犯罪行為、れっきとした傷害罪なんです』と。
今、(心)そのものが、大脳生理学の分野で解明されようよしている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
扁桃体 辺縁系 扁桃核 心 心の傷)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●子どものやる気論
【子どものやる気論】自発的行動(オペラント)
●ほめる
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子どもは、ほめて伸ばす。
これは家庭教育の大鉄則!
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●灯をともして引き出す
欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を意味する(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」という単語に由来する。
その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。
そのせいか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。
参観している私のほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。
発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、それが強化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。
●脳内ホルモンが脳を活発化させる
このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。
好きなことをしているときには、脳内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活動を活発化し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。
このとき大切なことは、得意分野をほめること。
不得意分野や苦手な分野には、目をつぶる。
たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。
すると脳
内ホルモンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、伸び始める。
これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よくみられる現象である。
が、それだけではない。
ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。
こんなことがあった。