最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●幼児に負の数を教えてみる(BW実験教室)

2010-10-11 23:44:56 | 日記
【幼児(5、6歳児)に「負」の数を教えることができるか?】Oct 2010

BW実験教室よりの報告byはやし浩司 Hiroshi Hayashi @ BW Children's Club Hamamatsu Japan

●BLOGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司

+++++++++++++++++++++

幼児に正負の数の概念を教えることができるか。
幼児は負の数の概念を理解できるか。
それを実験的に指導してみました。
で、結果は……
前回の「分数の指導」と同じく、大成功!、でした。

(「早取り教育では?」と疑われる方も多いかもしれません。
しかしけっして早取り教育ではありません。
ビデオを観ていただければ、それがわかるはずです。
むしろ逆で、現在の固定化した幼児教育観のほうが、
おかしいのではないでしょうか。
幼児のもつ可能性をつぶしてしまうことにもなりません。
そんなこともこのビデオを観て、わかっていただければ、
うれしいです。)

幼児は決して幼稚ではありません。
幼児だから、脳の構造も幼稚と考えるのはまちがっています。
大切なのは、どう教えるか、(能力を引き出すか)、ですね。
このビデオを(1)から(4)まで、順に観てください。
みなさんがもっている幼児に対する見方が、変わると確信しています。

なお時間の関係で、途中からやや荒っぽいレッスンになりました。
あと10~20分、時間があれば、(-5)+(+3)の計算も
できるようになったはずです。

はやし浩司
BW教室、浜松

詳しくは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より(公開教室)→(2010度版)→(10月号)へとお進みください。
楽しいですよ!
子どもたちの生き生きとした学習風景を、お楽しみください。

【html版】

(1)
http://www.youtube.com/watch?v=ZcSkLPtYxQs
(2)
http://www.youtube.com/watch?v=cEJJly0siMQ
(3)
http://www.youtube.com/watch?v=BGMloiLGVz4
(4)
http://www.youtube.com/watch?v=SFXGUaKgDbg

++++++++++++++++++++++

【幼児に負の数を教える】

(1)

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(2)

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(3)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/BGMloiLGVz4?hl=ja&amp;fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/BGMloiLGVz4?hl=ja&amp;fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>


(4)

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/SFXGUaKgDbg?hl=ja&amp;fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/SFXGUaKgDbg?hl=ja&amp;fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児と負の数 正負の数の指導 幼児に負の数の概念が理解できるか 負の数の概念 指導法 幼児教育 負の数の指導法)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

1/213人の刺客に見る、日本の武士道

2010-10-11 10:33:01 | 日記
【日中経済戦争】(2010ー10-11)「顔のない国、日本!」

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中国側が、上海万博について日本側の訪問団の
受け入れを申し出てきたという。
TBSーiNEWSは、以下のように伝える。

++++++++++++++++以下、TBSーiNEWS+++++++++++++++

 尖閣諸島沖の漁船衝突事件を受けて延期されていた日本の若者1000人による上海万博の訪問が、今月27日から4日間の日程で行われることになりました。日中友好会館によりますと、中国政府から外務省に改めて招待の通知があったということです。

 この訪問団は、今年春に日本を訪れた温家宝首相の提案による交流事業の一環です。当初は、先月21日から行われる予定でしたが、直前になって中国側の受け入れ団体が延期を通告していました。(2010年10月11日02:42)

++++++++++++++++以上、TBSーiNEWS+++++++++++++++

●私なら、行かない!

 相手側の傲慢な手法で、一度は取りやめになった旅行が、今度は一転、「OK」と。
それに対して日本側は、「月27日から4日間の日程で行われることになりました」と。

 個人の立場で考えてみよう。
もしあなたが相手先の都合で、このような形で振り回されたら、あなたはそれに応ずる
だろうか。
延期されたときも、何も抗議しない。
「おいで」とやさしく声をかけられたとたん、のこのこと(おめおめと)出かけていく。
このふがいなさ。
だらしなさ。
万事事なかれ主義。
尖閣諸島問題は、何も解決していない。
していないばかりか、中国国内では、「日本の巡視船が漁船に体当たりをしてきた」と、
さかんに宣伝されている。

++++++++++++++++以下、産経新聞より++++++++++++++

 沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件で、海上保安庁が撮影したビデオ映像の公開を日本政府が先延ばし続けるなか、中国国営通信社や共産党系のインターネットサイトで、海保の巡視船側が中国漁船に衝突したとする図などが掲載されている実態が10日、明らかになった。日中首脳会談が4日に行われたにもかかわらず、中国当局も放任を続けており、中国政府の一方的な主張が“既成事実化”する恐れも強まっている。(原川貴郎)

 中国共産党機関紙、人民日報傘下の国際情報紙「環球時報」は、衝突事件の“実態”について、日本の巡視船の方から中国漁船に衝突したとする説明図を掲載してきた。中国政府の「日本の巡視船は中国の領海で中国漁船を囲み、追いかけ、行く手を遮り、衝突して損傷させた」(姜瑜・中国外務省報道官)との主張に沿ったものだ。

+++++++++++++++以上、産経新聞より++++++++++++++

 これに対して日本政府は、「これ以上日中関係を悪化させないため」という理由を
並べて、ビデオ映像の公開を中止した。
あえて「事実」を封印した。

 この正義の不在こそが、日本外交の特徴。
「自分」というものが、どこにもない。
経済第一主義というか、金(マネー)のためなら、平気で正義をかなぐり捨てる。
このふがいなさ。
だらしなさ。
万事、事なかれ主義。
だからこそ、世界中からバカにされる。
これでまた日本の外交能力は、一歩、退いた。
この先、日本がいくらもっともらしいことを主張したとしても、ますますだれにも相手に
されなくなるだろう。


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司

●「13人の刺客」(十三人の刺客)

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数日前、「13人の刺客」という邦画を観てきた。
星は2つの、★★と評価した。
前宣伝がすごかっただけに、かなり期待していたが、
がっかり。

それから数日。
いろいろ考える。

まず第一。
江戸時代の末期とはいえ、(末期であるからなおさらかも?)、命がけでクーデターを
しかける武士(役人)は、本当にいたのか?
もちろん「13人の刺客」は、フィクション。
原作は小説。
いくら相手が暴君でも、殿は殿。
命をかけるには、それ相当の背景と覚悟が必要。
その部分のプロセス描写が、甘い(?)。

たとえばドキッとするシーンは、いくつかあった。

(1)四肢を切り取られた若い女性が、突然、素っ裸で座敷に現われる。
(2)村の一部で、1人の少年が立ち小便をする。
(3)切り落とされた殿の頸が、ゴロゴロところがって、便座に横に並ぶ。
(4)若い山師が、4人、5人と村の女を抱く、など。

ほかにも1人の侍が、道場で太刀さばきをして見せる。
見事なシーンだったが、どこか取ってつけたようなシーン。
つまり全体として、どこかチグハグ。
役者の演技は、どれも見事だった。
チャンバラ映画については、ハリウッド映画でも太刀打ちできない。
(例外として、トム・クルーズが主演した、『SAMURAI』は、星5つ。)

改めて、武士道なるものについて、考える。

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ちょうど1年前(2009)に書いた原稿を
ここに載せます。

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●死の美学と隷属意識

 武士道の根幹は、死の美学と隷属意識。

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●武士道(1)

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けっして、死を美化してはいけない。
生を美化することはあっても、死を美化してはいけない。
私たちは、まず、生きることを考える。
生きて生きて、生き抜く。
死はその結果としてやってくるかもしれないが、
そのときは、そのとき。
死の向こうには、何もない。
そこは太虚の世界。
だから、死を美化してはいけない。

武士道を一言で言えば、その底流にあるのは、
死の美学ということになる。
武士の象徴が、「刀」にあるとするなら、その
刀は、人を殺すためのもの。
この原点を踏み外して、武士を論じてはならない。
武士道を論じてはならない。

新渡戸稲造は、「武士道」の中で、あの赤穂浪士を、
最大限の言葉を使って、称賛している(「武士道の世界」
イースト・プレス)。

「義士と呼ばれるこの正直な率直な男子たちの徳は、
宝石のように光り輝き、人々のもっとも高く、褒め
讃えたものだったのである」と。

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●真の勇者(?)

 新渡戸稲造は、真の勇者について、こうも書いている。

「戦いに臨んで討ち死にすることは、難しいことではない。
それはどのような野人でもできることである。
しかし生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬることこそ、真の勇者なのである」(同
書、P18)と。

 私は一度は、新渡戸稲造の「武士道」を一度は読破しなければならないと、思ってきた。
しかしその機会はなかった。
(20年ほど前、一度、目を通した記憶はあるが……。)
断片的な知識はたくさんもっている。
しかしそれらは、断片的なものでしかない。

 で、今度、コンビニで、イースト・プレス発刊の「武士道の世界」という本を買ってみ
た。
サブタイトルに、「誇るべき日本の原点」とあることからもわかるように、この本は、武士
道を礼賛する内容の本である。

そういう本を使って、私なりに武士道のもつ矛盾を指摘するのは気が引ける。
しかし礼賛する本であるがゆえに、私の脳みそに与える刺激も大きい。
1ページ読むごとに、脳の中で、バチバチと神経細胞が火花を飛ばすのを感じた。
が、この本ほど、「死」「自害」「討ち死に」「戦」という言葉が並ぶのも、そうは多くない。

 「武士道の真髄」(P181)というところを紹介する。
「真髄」とあることからもわかるように、武士道の根幹を説明したものである。

+++++++++++++++++++

『武士道といふは、死ぬ事と見付けたり(葉隠)。

 このあまりにも衝撃的で有名な言葉は、山本常朝が口述し、田代陣基が筆記、編纂した
『葉隠』の冒頭に記された、武士道の真髄を表すものだ。
 主君のためならいつでも自分の命を捧げることができるのが、本当の武士であるという
心得を説いている。

 「武士は生と死、どちらかを選ぶ場合、必ず死を選ばなければならない」のである。
 「生き恥をさらす」と言われるように、この時代の武士道精神においては、戦に勝てな
いときは、死ぬことで忠義を果たさなければならないと考えられていた。

 しかしこの言葉には、さらに深い意味がこめられている。
生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間に、自由な自然体に到達し、その武士は本分を全
うするために生き抜くことができるという、悟りの境地を示した教えだと言えるだろう』
と。

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●命を捧げる

 この部分を読んだとき、まっさきに頭に浮かんだのが、K国の金xx。
あの独裁者。
金xxが読んだら、涙を流して喜ぶにちがいない。
あの国では、幼稚園の子どもですら、「金xx将軍様を、命をかけて守ります」と連呼して
いる。
おとなたちは、「死守」という言葉を使っている。

 それはさておき、「主君のためならいつでも自分の命を捧げることができるのが、本当の
武士である」という部分だけでも、バカげている。
もしあなたがまともな思考力をもっている人なら、あなたもそう感ずるだろう。

 主義や理想、正義や真理のためなら、命をかけることはある。
しかし「命をかける」イコール、「命を捧げる」ではない。
いわんや、相手が、人間である、「主君」?
こういう思想を、私の世界では、「隷属思想」という。

●主君の主君は?

 学生のころ、友人と、こんな議論をしたことがある。
 「主君に主君がいたら、そのばあいは、どちらに命を捧げるのか」と。

 つまりあなたの仕える主君が、あなたの住む領地を治める領主だったとする。
当然、その領主には、彼が主君とあがめる、藩主がいる。
藩主の上には、将軍がいる。

 こういうばあい、あなたという家来は、藩主や将軍に命を捧げる必要はない。
何かを命じられても、それに従う必要もない。
あなたの主君は、あくまでも領主。
領主の命令だけを聞き、その領主のために、命を捧げる。

 もう少し話をわかりやすくするために、会社組織で考えてみよう。

 あなたが営業課の係長だったとする。
あなたの直接の上司は、営業課の課長。
そんなある日、営業課が入っている制作部の部長から、直接、あなたに命令が届いた。
つまり課長の頭を通り越して、あなたに命令が届いた。

 こういうケースのばあい、あなたはその部長の命令に従う義務があるのか。
それともないのか。

 会社によって組織の運営方法が異なるので、「従わなければならない」という会社もあれ
ば、「従わなくてもいい」という会社もある。
しかしこと武士の世界では、主君というのは、先のケースでは、あくまでも領主というこ
とになる。

藩主や、将軍の命令に従う必要はない。
命を捧げる必要もない。

 これが学生時代に、私たちが知った結論である。
そのヒントを与えてくれたのが、ヤクザの世界である。
当時、(今でもそうだが……)、ヤクザの世界には、武士道の精神が、そのまま残っていた。
ヤクザの世界では、直接上にいる兄貴分が、武士の世界でいう主君ということになる。

●主従関係

 もっとも、封建時代の昔ならいざ知らず、「主君に命を捧げる」という発想は、今は、な
い。
主従関係も、西洋の契約説によって決まる。
わかりやすく言えば、「金の切れ目が縁の切れ目」。
給料がもらえなくなったら、そこで主従関係は、消滅する。

 人それぞれだが、私なら、断る。
どう考えても、主君のために命を捧げるという発想そのものが、バカげている。
つまりこんなところにも、武士道が説く、(死の美学)が見え隠れする。

 繰り返すが、死を美化してはいけない。
その延長線上に、戦争がある。
その一歩手前に、特攻隊があり、自爆テロがある。
私たちは死ぬために生きているのではない。
生きるために生きている。

 この本の著者は、「生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間に、自由な自然体に到達し、
その武士は本分を全うするために生き抜くことができるという、悟りの境地を示した教え
だと言えるだろう」と書いている。

 それにしても、「生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間……悟りの境地に達する」と
は?
いつの間にか、仏教の教えが、そのまま武士道の精神にすり替えられてしまっている?

●武士の作法

 戦国時代はともかくも、以後、日本は300年という長い年月の間、太平天国の時代を
迎える。
その間に、武士道も、当初の戦闘を目的としたものから、権威づけのための作法の「道」
として変質する。
作法に始まって、作法に終わる。
それが武士道の柱と考えてよい。
いくつかを拾ってみる。

(1)鞘(さや)当て……武士の世界で、刀と刀の鞘が当たることは、何にもまして「無
礼極まりないこと」だったそうだ。
だから武士どうしは、廊下を歩くときも、左側通行が作法と決められていた。

(2)手はぶら下げて歩く……いつでも刀を抜けるように、手荷物も持たないし、傘もさ
さない。

(3)妻は後ろを歩かせる……妻と並んで歩くなど、軟弱者の証。
   襲撃から守るという意味もある。(以上、同書)。 

 こうした作法が、ズラズラと、それこそ無数にある。
武士の刀をまたいだだけで、切捨て御免になった人も多いという。
また女性は、武士の刀に、直接手を触れることさえできなかったという。
しかしなぜ、「刀」なのか?

●武士と刀

 武士の人口は、江戸時代においては、5%前後と言われている※。
しかしこの数字には、武士の家族も含まれているため、実際には、刀を差していた武士は、
全人口の1~2%以下だったと推計される。
残りの95%のほとんどが、農民であった。
その1~2%が、為政者として、好き勝手なことをした。
その好き勝手なことをする象徴として、「刀」があった。
武士が刀に執着する理由は、ここにある。

 私はこんな話を、直接、その女性から聞いている。

 私が住んでいる山荘のある村は、400年以上もの歴史のある、由緒ある村である。
その山荘の隣人に、10年ほど前、88歳で亡くなった女性がいる。
いわく、「明治時代に入ってからも、士族の人たちは、このあたりでは刀を差して歩いてい
た」と。

 「刀の鞘どうしがカチャカチャと当たる音が、遠くから聞こえてくると、みな、道路の
脇に寄って、正座し、頭をさげた」と。

 言うなれば、95%の日本人が、5%の武士を支えるために、犠牲になっていた。
そういう世界が、いかにおかしな世界であるかは、あなた自身を、その農民の立場に置い
てみればわかる※。
あなた自身の先祖も、その農民であったはず。
(私の先祖も、農民だった。)

 一生、土地にしばられ、職業選択の自由もなかった。
当時生きていた人たちもまた、私やあなたと同じ人間であった。
犬や猿とは、ちがう。

そういう人たちを原点に考えるなら、「何が武士道か?」ということになる。
さらに言えば、この武士道が、やがてあの戦陣訓へとつながっていく。
それについては、前にも書いた。

 もちろん歴史は歴史だから、それなりの評価は必要である。
しかしそれがもつ(ネガティブな側面)に目を閉じたまま、一方的に武士道なるものを礼
賛することは、危険なことでもある。
どうして武士道が、「誇るべき日本人の原点」(本のタイトル)なのか?

 今、武士道を、教育の柱にしようとする動きが活発になっている。
またその種の本が、100万部単位で売れている。
これを民主主義の後退と言わずして、何と言う?
忘れてならないのは、新渡戸稲造が活躍した時代と、同じ時期に、福沢諭吉がいたという
こと。
福沢諭吉らは、やがて明六社に合流し、日本の封建主義を清算しようとした。

 私は、福沢諭吉らのしたことのほうが、正道だと思のだが……。
それに「原点」とは何か?
何も原点にこだわる必要もない。
原点が正しいわけでもない。
大切なことは、おかしな復古主義にとらわれないこと。
私たちはいつも新しい原点を求めて、前に進む。

 ……と、少し頭が熱くなったので、この話は、ここまで。
なお本書(「武士道の世界」)は、つぎのように結んでいる。
 『おわりに……そんな現代であるからこそ、日本人としての精神的意識が必要なのであ
る。

不道徳な世相を嘆いていても何も始まらない。
世界に通じる精神体系・武士道を心に携え、今こそ日本人としてのアイデンティティを世
界に発信してほしい』と。

(※注1)明治6年1月調べ・・・旧武士数は平民の16分の1にして総数408,823戸、
1,852,445人であった。幕末においてもこの数字と大差なかったものと考えられる。人口構
成は概数的に6.25%である。(土屋喬雄「幕末武士の階級的本質」)
 どの藩も武士の数は軍事機密になっていた。したがって、今となってはその人口は、推
計する以外にない(筆者注)。

(※注2) 徒士といえども、家老に対しては下駄を脱がざるをえなかったのが実情で、
城下において百姓町人は、足軽以上に出会えばまず平伏・土下座など屈辱的敬礼を強いら
れた。どの階層に属するか、着衣や服装で判断できる社会の仕組みになっていた。(「社会
構造と現代社会HP」より)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 武士道 武士の作法 武士道精神 武士の数 葉隠 忠臣蔵 新渡戸稲造の「武士道」)

●真の勇者

 繰り返す。
新渡戸稲造は、真の勇者について、こう書いている。

「戦いに臨んで討ち死にすることは、難しいことではない。
それはどのような野人でもできることである。
しかし生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬることこそ、真の勇者なのである」と。

 生きるべきときに生きるのは当然であるとしても、「死ぬべきときに死ぬ」とは?
この思想が、後の、『戦時訓』につながっていった。

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戦陣訓について書いた原稿です。
(2009年3月記)

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2/2

2010-10-11 10:32:25 | 日記


●文明の衝突(2)

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少し前、「文明の衝突」について、書いた。
それを読みなおす。
読みなおして、それをワイフに話す。
(090412)

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●日本vsアジア

「黄色い白人」と呼ばれて、一時、日本人が得意になったことがあった。
日本が高度成長の波に乗り、破竹の進撃をつづけていたときのことである。
事実、当時、日本で、「自分はアジア人」と思っている子どもはいなかった。
「ぼくはアジア人ではない。日本人だ」と。
それについては、先の原稿に書いたとおりである。

しかし私たちは今も昔も、立派なアジア人である。
容姿、顔つき、肌の色、すべてが、立派なアジア人である。
むしろ日本人のほうが、骨相学的には、貧相と言われている。
島国で、長い間、鎖国をつづけ、「血の交流」をしなかったためと考えてよい。

で、昔、こんなことがあった。
私がオーストラリアで学生生活を送っていたときのことである。
中国からの留学生が何人かいた席で、だれかが私にこう言った。
「ヒロシ、君たちは中国人に、どんなイメージをもっているか。
それを絵に描いてみてほしい」と。

で、私は、目が釣りあがり、歯が飛び出た中国人を描いてみせた。
当時、新聞など出てくる中国人は、みな、そのような顔をしていた。
が、それを見て、みなが、ドッと笑った。
「ヒロシ、それは日本人の顔だよ」と。

●異種文明

こうした文明のちがいを克服するためには、どうしたらよいのか。
あるいはどうして文明の対立が起きるのか。
異種文明にも距離感がある。

(1) 隣接文明(隣接している文明)
(2) 非隣接文明(隣接していない文明)

先の原稿の中で書いたように、ドイツ人のロシア嫌いには定評(?)がある。
「どうしてそんなにも嫌うのか?」と思うほど、嫌う。
同じように、中国人の日本嫌いにも、定評(?)がある。
「どうしてそんなにも嫌うのか?」と思うほど、嫌う。

それには先の侵略戦争が大きく影響している。
が、それだけではないようだ。
「文明の衝突論」を当てはめてみると、それがうまく説明できる。
中国は、儒教文明圏に属する。
一方、この日本は、儒教文明圏に身を置きながら、西洋文明圏に属する。
つまりそこで「文明の衝突」が起きている。

が、日本とロシア、さらに日本とイラク、イランとの対立は生まれない。
(一部、日本とロシアは、対立しているが……。)
ロシアは、スラブ文明圏に属する。
イラク、イランは、アラブ文明圏属する。
なぜか。
それが「文明の距離」ということになる。

わかりやす言えば、文明の衝突は、それぞれの文明が接したところで起こる。
離れたところでは起きない。
たとえば今度は、スラブ文明とアラブ文明については、それぞれが接している。
だからたがいに仲が悪い。
アラブ人のロシア嫌いにも、これまた定評(?)がある。

非隣接文明についていえば、それは(情報)でしかない。
たとえば私たちがアラブ文明に触れたとき、それは(もの珍しさ)でしかない。
そのため文明の衝突は起きない。

●融和

問題はどうやって、隣接文明と融和していくかということ。
国と国の対立は、それぞれの国同士という(単体)の話しあいで解決できる。
しかし文明の対立となると、そうはいかない。

たとえば日本は、自らを西欧文明の中に身を置き、儒教文明と鋭く対立している。
日本は、儒教文明圏に属しながら、その一方で、自らを西欧文明圏に置いている。
この対立構造が、日本を現在の今、孤立させている。

このことは、相手の立場で考えてみると、よくわかる。
一度、ペキン(北京)という、中国の首都に、視点を置いてみるとよい。
日本は、はるか東の海上。
中国から見れば、大陸の端にへばりついているように見える。
それはたとえて言うなら、東京から、佐渡島を見るようなものではないか。

その日本が、ひとり、「私たちは西洋人」と主張している。
それから生まれる違和感というか、(滑稽さ)には、相当なものがある。
中国人が、日本を受け入れない本当の理由は、そんなところにもある(?)。

では、どうするか?

●儒教文明

最初に書いておきたい。
「儒教文明の再構築」といっても、復古主義的なものであってはいけない。
それについては、あとで「情報革命」のところで書く。
私たちはアジア人であることを再確認する。
それが儒教文明の再構築ということになる。

現在の今、私たちがこうして漢字を使っていること自体、その証拠ということになる。
中に「平仮名やカタカナは、日本人すばらしい発明」と書いている人がいる。
しかしそれはどうか?
平仮名にせよ、カタカナにせよ、漢字の簡略版にすぎない。
略字にすぎない。
「発明」などという大げさなものではなく、一バリエーションに過ぎない。
漢字で、「波也此」と書くより、「はやし」と書いたほうが楽に決まっている。
当時の人たちなら、だれしもそう考えただろう。

つまりこと日本人に関して言えば、私たちは、中国文明圏に属している。
まずそれを率直に認めること。
(だからといって、中国に隷属せよと、そういうことを書いているのではない。
誤解のないように!)

●日本史論

ついでに日本史論。
これについては、すでにたびたび書いてきた。
つまり日本では、日本史を東洋史と切り離して教える。
「日本は日本、東洋とは一線を画す」という思想が、その底流にある。
しかしこれがいかに偏狭なものであるかは、アジアの諸国をながめてみれば、わかる。
韓国を例に出すまでもない。

ほかに若いころ、タイへ行ったときにも、それを感じた。
タイという国は、そういう意味では奇異な国と考えてよい。
私たち日本人から見ると、同じ東南アジア諸国の一員ということになる。
しかし彼らは、そうは思っていない。
タイの人たちは、自分たちの歴史を、東南アジア全体から切り離して考えている。

日本史を東洋史と切り離してしまったところに、日本の歴史の悲劇性が潜む。
少し前も、ニセ石器に踊らされ、歴史の本そのものを書き換えてしまったことがある。
そのとき韓国の人たちは、こう言って笑った。
「日本に、韓国(中国)より古い歴史があるわけがない」と。

しかし日本史を東洋史の中に置いてみると、歴史観が一変する。
あの縄文時代にしても、弥生時代にしても、中国からの渡来民が深く関係している。
戦乱を逃れて、多くの民が、中国大陸から流れてやってきた。
そういう人たちが、大陸の文化を、日本に伝えた。

さらに天皇家のルーツにしても、そうだ。
少なくとも隣の韓国では、天皇家の祖先は、朝鮮からの騎馬民族ということになっている。
日本の天皇ですら、「ゆかり」という言葉を使って、それを臭わせたこともある。
しかし日本史を東洋史と切り離している間は、日本はいつまでも日本のまま。
日本が東洋と融和することは、ありえない。

●情報革命

が、悲観的なことばかり言っていてはいけない。
ここで人類は、第二の産業革命とも言える「武器」を手にした。
「情報革命」という武器である。

以前、恩師の田丸先生がこう話してくれたことがある。
「情報革命が進めば、国はなくなりますよ」と。

具体的にはこうだ。
「年々、向こうの若者たちが日本の若者と区別できなくなってきた」と。
「姿、容姿、着ている服装など、「区別ができない」と。
つまりそういう形で、国と国は融合し、やがて文明の対立も解消される、と。
言い換えると、いかにこの情報革命を利用するかという問題に行き着く。

昔は、隣町どうしが、言い争った。
それが県どうしになった。
それが国
さらに文明。

情報革命は、その間を融和させる。
言葉の問題もあるにはある。
しかしたった10年前と比較しただけでも、その進歩にはめざましいものがある。
たとえば私が発行しているHPにしても、外国の人たちが読んでいる。
その中には「米軍」というのもある。
まだ10%程度だが、「10%にしても、すごい!」。

情報革命が進めば進むほど、国どうしの垣根も低くなる。
文明の衝突も、起きにくくなる。
その例が、あのEUである。
ほんの65年前にははげしい戦争を繰りかえしていた。
が、今は、ひとつの国になった!

●文明の衝突

私たちが警戒しなければならないのは、偏狂な民族主義。
その台頭。
「武士道こそ、日本が世界に誇るべき、日本人のアイデンテティ」と説く。
しかし今、どうしてこの日本で、武士道なのか?
仮にそれが「道」であったとしても、それは武士の世界での話。
しかも武士の本質は、軍人。
軍人で悪いなら、官僚。
あるいは警察、役人、特権階級。
何でもよいが、ともかくも支配階級。

私たちの先祖の94、5%は、農民であり、わずかな数の商人、工人であった。
それを忘れて、「武士道」とは?
あの江戸時代にしても、世界でも類を見ないほどの暗黒政治の時代であった。
さらに戦陣訓を例にあげるまでもなく、一方的に礼讃するのはどうか?
「生きて虜囚の……」とかいう、あの戦陣訓は、武士道の精神を拝借している。
そのため、どれだけ多くの日本人が犠牲になったことか!
「負の遺産」に目を当てることもなく、武士道を礼讃するのは、危険なことでもある。

つまり私たちが偏狭な民族主義にこだわればこだわるほど、互いの文明の溝を深くする。
あのアインシュタイン博士も、田丸先生への手紙の中で、「exaggerated nationalism」
という言葉を使って、強く戒めている。
「exaggerated nationalism」、つまり「誇張されたナショナリズム」=「偏狭な
民族主義」ということになる。

●過去から学ぶ

こう書いたからといって、どうか、誤解しないでほしい。
私は何も日本の歴史を否定しているのではない。
歴史は歴史として、当然、評価されなければならない。
しかしここにも書いたように、その「負の遺産」に目をくれることもなく、あの封建時代
を一方的に、美化してはいけない。

もっと言えば、悲しいかな、私たち日本人は、かつてただの一度も、あの封建時代を
清算していない。
たとえば「明治維新」にしても、英語では、「Meiji Restoration」と翻訳されている。
英語で、「レストレーション」というと、「王政復古」をいう。
革命でも、何でもない。
つまり「王政復古」である。
そういうものをもって、日本は近代化の道を歩み始めたとか、さらには江戸時代を清算
したなどとは、思ってはいけない。

清算していないばかりか、ここにも書いたように、むしろ、それを美化している。
この静岡県でも、徳川家康の出身地ということもあるが、徳川家康について悪く書くのは、
いわばタブー視されている。
この静岡県では、敬愛の念をこめて、「家康公」と呼ぶ。

が、こういう姿勢では、私たちは過去から何も学ぶことはできない。
できないばかりか、へたをすれば同じような歴史を繰り返すことになる。
今の今も、国盗り物語よろしく、政治を、己の出世欲を満たすための道具として
利用している人は、いくらでもいる。

●過渡期

話を戻す。
平等という言葉がある。
しかし「平等」というのは、たがいに高い次元で、認めあうことをいう。
民族の融和にしても、さらには文明の融和にしても、その平等感覚がなければならない。

「わが民族は優秀である」と思うのはその人の勝手だが、だからといって、相手に
向って、「あなたがた民族は劣っている」と思ってはいけない。
民族には上下はないし、今はもう民族をうんぬんする時代ではない。
むしろ問題なのは、その上の段階の「文明意識」ということになる。

もう一度、私が書いた、段階論を見てほしい。

家族意識(先祖意識)
    ↓
 同郷意識
    ↓
 同国意識
    ↓
 民族意識
    ↓
 文明意識(無意識)
    ↓
 人間意識(無意識)
    ↓
 生命意識(無意識)

つまり今は、(民族意識)から、(文明意識)への過渡期ということになる。
さらに進めば、(人間意識)→(生命意識)となるが、それはさておき、
この段階あたりで、ウロウロしている。
それがこの極東アジアでも、もろもろの紛争の火種となっている。

●では、どうするか?

言うまでもなく大切なことは、文明の融和である。
そのために第一に、情報の交換をする。

その国の内部の人たちは、外の世界を知る。
外の世界の人たちは、その国の内部を知る。
これを頻繁に、行う。

これができれば文明の融和はできる。
できなければ、できない。
ひとつの例として、あのK国を見ればよい。
今のこの時代にあって、情報を遮断している。
国外に向けてもすらも、ニセ情報を流す。
国内に向けてもすらも、ニセ情報を流す。
その結果、アインシュタインの言った、「exaggerated nationalism」だけが、
異常なまでに肥大化してしまった。

もうおわかりのことと思うが、私たちは、その逆のことをすればよい。
私たちは自分の考えていることを、外の世界に向って、どんどんと発信していく。
と、同時に、外の世界の情報を、どんどんと取り込んでいく。
その結果として、私たちは人間のレベルを、つぎのステージにもちあげることができる。

最後に、よく「インターネットは、第二の産業革命」と言われる。
それが最終的に評価されるのは、もう少し時代を経てからになるが、私はそう断言して
よいほど、インターネットには、秘められた力がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
民族意識 文明意識 民族主義からの脱却 インターネット 文明の衝突 誇張された
民族主義 はやし浩司 文明論 民族論)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司
Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

●13人の刺客

 江戸時代の末期においてさえ、主君にたてつくには、それ相当のエネルギーが必要で
あったはず。
「13人の刺客」の中では、暴君が弓矢で、子どもも含めて、打ち殺すというシーンが
出てくる。
つまり(流れ)としては、昔のチャンパラ映画そのもの。

 悪役の殿を徹底的に「悪」に仕立て、それに抵抗する武士を美化する。
忠臣蔵でも、吉良上野介を徹底した「悪」に仕立てている。
そして最後は、善人対悪人の一騎打ち。
つまりその(流れ)があまりにもありきたりだったので、かえって興ざめしてしまった。

 もっとも映画の主題は、もっと別のところにあったよう。
「切って、切って、切りまくれ!」と。

 が、そのシーンが長すぎた。
13人に対して、相手は200人。
それはわかるが、切っても切っても、つぎつぎと新手の侍が現われる。
そのシーンがうんざりするほど、長くつづく。
あの映画を観て、スカッとしたという人は、まずいない。
泥まみれ、血まみれ……。
最後は糞まみれ(?)。

 ……昔の話をしてはいけない。
しかし三船俊郎の『七人の侍』はよかった。
市川雷蔵の『忍びの者』はよかった。
勝新太郎の『座頭市』はよかった。

 今回、『13人の刺客』を観て、日本のチャンパラ映画が、かえって後退してしまった
かのように感じた。
そういう点では、残念な映画だった。


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

1/2子供による平和宣言

2010-10-11 08:22:06 | 日記
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      10月   11日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司

●9月16日(木曜日)

●20世紀フランス絵画の美」展

昨日(9月15日)は、午前中は美術館で「20世紀フランス絵画の美」という
展覧会を見てきた。
星は文句なしの5つ。
圧倒された。
すばらしかった。
展覧会を通して、なぜピカソがピカソなのか、はじめて理解できた。
シャガール、ビュッフェ、ミロ……など、巨匠と言われる画家たちの絵画と
比較してみると、それがよくわかる。(……わかった。)
徹底した技巧の放棄……それがピカソ。
ほかの画家たちは、(あくまでもピカソとの比較においてだが)、どこか技巧に
こだわっている。
媚を売っている。
が、ピカソにはそれはない。
ありのままを、そのままに描いている。
見る人を意識しないで描いている。
そのちがいが、ピカソということになる。
今回、それがわかっただけでも大収穫だった。

(補記)
幼児はときとして、ハッと驚くようなすばらしい絵を描く。
幼児もまた、見る人を意識していない。
媚を売らない。
それがそういうすばらしい絵につながる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●WTT演奏会

 夜は、WTT演奏会に行ってきた。
(演奏会というよりは、音楽会?)
U国(アフリカ)の子どもたちの「歌と踊りの演奏会」ということだった。
チケットは、前売り券で1500円。
当日券で2000円。
浜松のC会館(定員1200人)は、ほぼ満席だった。
(これだけで、実収入、200万円前後?)

 が、コンサートとしては、かなり期待はずれ。
楽器は太鼓だけ。
あとはマラカスとか小楽器。
その程度。
あらかじめ録音された伴奏と斉唱に合わせて、舞台上の子どもたちが歌を歌いながら
踊った。
それだけ。

ゴスペル(黒人霊歌・福音歌)のコンサートということは、わかっていた。
そのため、最初から最後まで、「神よ……」「神よ……」の一色。
キリスト教の信者の人たちには、それでもよかったのかもしれない。
が、私たちのように、一歩はずれてその外にいる者たちにとっては、耳障りでしか
なかった。
おまけに運悪く(?)、どこかの熱心な信者らしき人にはさまれてしまった。
その人たちは始終、涙をこぼしながら、狂ったように大きな手拍子を加えていた。
それが耐えられないほど、うるさかった。

 気になったのは、数曲ごとに、子どもたちが順にWTTのすばらしさを口上したこと。
が、これまたWTT賞賛一色。
「WTTのおかげで……」「WTTがなかったら……」「WTTに救われて……」と。

 子どもたちが自分の頭で、自分で考え、自分の言葉としてそれを言うのなら、よい。
しかしまさに(ヤラセ)。
WTTの趣旨の尊さは理解できる。
またそういう活動の崇高さも認める。
しかし貧しい子どもを利用してはいけない。

 よい例が毎年広島で開かれる、子どもによる平和宣言。
子どもたちの未来を守るのはおとなの責務。
それを子どもに「宣言」という形でさせる。
それについての原稿は以前にも書いたので、あとで添付しておく。

 で、最後に募金の勧誘。
募金袋は最初に配られていた。
驚いたのは、パンフレット(14~6ページ前後の冊子)が、超豪華なオール
カラー版だったこと。
紙質もよく、分厚い印刷用紙を使っていた。
どこかチグハグ?
違和感を私は覚えた。

 で、私も募金をするつもりだったが、最後に、司会者がこう言ったとき、その気持ちは
失せた。

「これからこの子どもたちは東京へ向かいます。
新幹線に乗って行きます。
その旅費をどうか募金してください」(聞き覚えなので、内容は不正確)と。
(そんなはずはない!)

 全体としての私の印象は、こう。

 「アフリカの子どもたちは不幸」という前提で、私たちはものを考えやすい。
実際、WTTの演奏会では、繰り返し、それが語られた。
しかし本当に、そうか?
私たちがそう思うのは、私たち日本人のもつ幸福感を基準にしているから。
つまり私たちにも、ある種の思い上がりがある。
「子どもたちは、こうあるべき」という思い上がりである。

 たとえば教育にしても、日本式の教育法は貧しい国々では、ことごとく拒否されている。
理由は、その背景に受験につながる競争主義があるからにほかならない。
またそういう教育をもって、日本人は、最高の教育と思いこんでいる。
(それ以外の教育法を知らないのだから、当然と言えば、当然だが……。)

 同じようにエイズが蔓延し、戦争と飢餓で苦しんでいるU国。
それはわかるが、その問題と、子どものもつ幸福感とは別問題。
たとえば同じコンサートを通して、こんなことも言っていた。
「U国は、チャーチルにも『アフリカの真珠』と評されるほど、美しい国です」と。
ならば聞くが、都会のビルの隙間で、受験勉強をしている日本の子どもが幸福なのか
ということになる。
心はすでに氷のように冷たい。

 つまり私たちは先進国の人間がもつ(おごり)を、けっして貧しい国の人たちに、
押しつけてはいけない。
同時にそういう子どもたちを救済している団体にしても、自分たちの価値観を、
私たちに押しつけてはいけない。
「私たちは正しいことをしている」と思うのはその人たちの勝手。
しかしその返す刀で、「あなたたちは、救済すべきだ」というのは、ここでいう
(押しつけ)。

 とても残念だが、どこか押しつけがましい音楽会だった。

+++++++++++++++++++++

7年前に書いた原稿より

+++++++++++++++++++++ 

【子どもによる平和宣言】

あどけない小学生に、平和宣言など、させてはいけない。
平和を守るのは、私たちおとなの責務。
こういう場で子どもを利用するのは、どこかのテロ組織が、自爆攻撃用にと、
子どもを利用するのと同じ。
「平和目的ならいい」「戦争目的は、だめ」というのは、おとなの勝手な論理に
すぎない。
あるいはどこでどう、線を引くというのか?

++++++++++++++++++++

7年前に書いた原稿を、そのまま紹介します。

+++++++++++++++++++++++++++

●子どもによる平和宣言(Declaration for Peace by Children)

+++++++++++++++++++++++++++

今年も、広島、長崎で、子どもを使った
平和宣言がなされた。
それについて、私はかねてより、「子どもに
そんなことをさせてはいけない」と書いて
きた。
平和を守るのは、おとなである私たちの
責任。
子どもたちの未来を守るのも、おとなで
ある私たちの責任。
子どもを使うのは、卑怯だ!

+++++++++++++++++

8月8日、韓国で奇妙な事件が起きている。
どこかに立てこもった一群の中の子どもたちが、韓国の大統領である、イ大統領を
口汚く、ののしっているという。
文章を簡潔にして、紹介させてもらう。

+++++++++以下、朝鮮N報++++++++++++

「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」

 先月23日、体験学習のためソウルにやってきた地方の小学生たちが、曹渓寺(ソウル
市鍾路区)に立てこもっている、「狂牛病(BSE)の危険のある米国産牛肉の全面輸入に
反対する国民対策会議」(以下、対策会議)の芳名録に書いた、文や動画が公開され、
韓国社会は衝撃を受けた。

この小学生たちは10歳前後、小学3~5年生の子どもたちだった。「立てこもっている人
たちがけしかけた」という学校側の主張と、「自発的に書いた」という対策会議側の主張は
食い違っている。
これについては警察の捜査で明らかになるだろう。

+++++++++以上、朝鮮N報++++++++++++

少しわかりにくい話なので、解説してみる。
現在、ソウルの曹渓寺というところに、アメリカ産の牛肉の輸入に反対する団体が、立て
こもって、それに反対しているという。
その寺の芳名録に、その小学校を訪れた子どもたちが、芳名録に書き込みをした。
それが冒頭にあげた、文章である。
「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」と。

これについて、(1)立てこもっている人たちが、子どもたちにけしかけた。(2)子ども
たちが自主的に書いたと、意見が分かれているという。
が、どちらであるにせよ、つまりけしかけられたにせよ、自主的に書いたにせよ、その背
後には、(おとなたちの意思)が、感じられる。

少なくとも、こうした言葉は、子どもたちだけの発想では生まれない。
そこで日本の子どもたちによる、平和宣言。
私は、平和宣言がまちがっているというのではない。
それ自体は尊いものであり、世界に向かって宣言して、当然である。
しかし、子どもを使って、それをしてはいけない。
5年前(03年)に、こんな原稿を書いたことがある。

++++++++++++++++++

●子どもによる平和宣言

 よくどこかの会場で、小学生くらいの子どもが、平和宣言をすることがある。「私たちは、
平和を守り……。戦争に反対し……。核兵器を廃絶し……」とか。たいていは、……とい
うより、ほとんどは、おとなたちが用意した原稿を、子どもが読みあげているだけ。たま
たま、この原稿を書いている今日も、「地雷をなくそう、全国子どもサミット」(03年2
月8日)があった。疑問がないわけでもないが、しかしそういうのなら、私も、まだ理解
できる。

 しかし子どもを使って、平和宣言など、子どもに言わせてはいけない。子どもをそうい
うふうに利用してはいけない。それはあまりにも酷というもの。だいたいそんな子どもに、
戦争だとか、平和がわかるわけがない。だれだって、戦争より平和のほうがよいと思って
いるに決まっている。

しかし平和というのは、それを求めて積極的に戦ってこそ、得られるもの。皮肉なことに、
戦争のない平和はない。ただ「殺しあいは、いやだから」という理由だけで、逃げまわっ
ている人には、平和など、ぜったいにやってこない。世界は、そして人間が本来的にもつ
性(さが)は、そんな甘いものではない。

 たとえば戦後、つまりこの58年間、日本がかろうじて平和を保つことができたのは、
日本人がそれだけの努力をしてきたからではない。日本人が平和を愛したからでもない。
日本が、戦後、58年間という長きにわたって平和を保つことができたのは、アメリカと
いう強大な軍事力をもった国に、保護されていたからにほかならない。

もし日本がアメリカの保護下になかったら、60年代には、中国に。70年代には、
韓国や北朝鮮に、そのつど侵略されていただろう。台湾やマレーシアだって、だまってい
なかった。フィリッピンに袋叩きにされていたとしても、おかしくはない。日本は、そう
いうことをされても文句は言えないようなことを、ほかの国に対して、してしまった。
しかももっと悪いことに、いまだに、公式には、日本はその戦争責任を認めていない。中
には、今でも「あの侵略戦争は正しかった」と言う日本人すら、いる。今の北朝鮮を容認
するわけではないが、彼らが日本を憎む理由には、そういう時代的背景がある。

 わかりやすく言えば、子どもが平和宣言をして、それで平和な国がやってくるというの
は、まったくの幻想。平和というのは、それ自体は、薄いガラスでできた箱のように、も
ろく、こわれやすい。ときには、戦争そのもののように、毒々しく、醜い。仮に今、平和
であるとしても、その底流では、つぎの戦争を求めて、人間のどす黒い欲望が渦巻いてい
る。つまり、平和を口にするものは、一方で、そういうものと戦わねばならない。その戦
う意思、その戦う勇気のあるものだけが、平和を口にすることができる。

子どもを使って平和宣言をさせるというのは、子どもを使って宣戦布告するのと同じくら
い、バカげている。それがわからなければ、子どもに、援助交際反対宣言をさせてみれば
よい。子どもに、政治家の汚職追放宣言をさせてみればよい。あるいは覚せい剤禁止宣言
でもよい。環境保護宣言でもよい。

そういうものが何であるかもわからないまま、無知な子どもに、そういうことを言わせて
はいけない。そうそう、あのK国では、幼児までもが、「将軍様を、命がけで守ります」な
どと言っているという。幼児が自分の意思で、自分で考えてそう言うのなら話はわかるが、
そんなことはありえない。繰りかえすが、子どもを、そういうふうに利用してはいけない。
 そんなわけで、私は、小学生や中学生が、片手を空に向けて平和宣言をしている姿を見
ると、正直言って、ぞっとする。あるいはあなたは、アメリカやヨーロッパや、
オーストラリアの子どもたちが、そういうふうに宣言をしている姿を、どこかで見たこと
があるとでもいうのだろうか。残念ながら、私はないが、ああいうことを子どもに平気で
させる国というのは、全体主義国家か、あるいはその流れをくむ国と考えてよい。

 「地雷をなくそう、全国子どもサミット」では、ある子ども(滋賀の小学生)は、つぎ
のように話している。
「地雷でケガをした人を見るのは初めてで、結構びっくりしたからそんなにしゃべったり
できなかったけれど、何かちょっとずつだけど、声がかけられるようになったからよかっ
たと思っています」(TBS報道)と。私たちが聞きたいのは、子どもたちのそういう生の
声である。

子どもたちのために平和を守るのは、私たちおとなの義務なのだ。どこまでいっても、私
たちおとなの義務なのだ。それを忘れてはいけない。
(030209)

++++++++++++++++++

さらに進むと、自爆攻撃がある。
テロリストたちは、まだあどけない子どもを利用して、アメリカ軍などに対して、ゲリラ
攻撃をしかけている。

一度、その指導風景がテレビで紹介されていたが、指導者らしき男は、子どもたちに向か
ってこう説明していた。

「死んでも、この世とまったく同じ世が、向こうの世界にある。だから恐れるな」と。
もしそうなら、テロなどしても意味はないということになるのだが、それはともかくも、
子どもを使うということは、そういうことをいう。
平和宣言だからよい。
ゲリラ戦だからよくない。
そういうふうに線引きすること自体、まちがっている。
それこそ「平和のための戦争」ということになれば、どんな戦争だって、
肯定されてしまう。

どうであるにせよ、おとなたちは、自分が信ずる「正義」に従って、子どもを利用する。
それぞれのおとなたちは、それぞれの思惑をもって、子どもを利用する。
つまり「正義」ほど、いいかげんなものもない。
私はそれがおかしいと言う。
それがわからなければ、もう一度、最初に引用した、朝鮮N報の記事を読みなおしてみる
ことだ。

(子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子
供による平和宣言 子どもの平和宣言)


(補記)

++++++++++++++++++++

 この原稿を書いて、4か月になる(03年)。いろいろな原稿を書いているが、4か月前
に書いた原稿という気がしない。遠い昔に書いたような気がする。ただ子どもに平和宣言
させることに、全面的に反対というわけではない。子どもに戦争の悲惨さを教え、ついで
平和の尊さを確認させるという点では、意味がある。しかしそれでも、私は、「それでいい」
とは、どうしても思えない。

 いつだったか、どこかのカルト教団の取材に行ったときのこと。全国大会とかで、全国
から数万人の信者が集まっていた。その席でも、やはり小学生代表が、こう叫んでいた。
「私たちは、○○導師様の教えを守り、この信仰を、世界に広めていきます!」と。小学生
による平和宣言などというものは、私には、その延長線上にあるとしか思えない。

 繰りかえすが、平和を守り、子どもたちを守るのは、私たちおとなの義務である。しか
しその平和というのは、自ら戦って、勝ち得るもの。「殺しあいはいやだ」と逃げてまわっ
ていては、平和は絶対に守れない。

 同じく繰りかえすが、平和主義には、二つある。「殺されても、抵抗しません。文句を言
いません」という平和主義。もう一つは、「平和のためなら、命すらおしくない。いざとな
ったら、戦争も辞さない」という平和主義。ここにも書いたように、「殺しあいはいやだ」
と逃げてまわるのは、平和主義でも何でもない。ただの逃避主義でしかない。

 また先の原稿の中で書いたように、戦後の日本がかろうじて平和を保つことができたの
は、それだけ日本人が平和を守ったからではない。また日本人が平和を愛したからでもな
い。日本がかろうじて平和を保つことができたのは、たまたまアメリカという国に占領さ
れ、その保護下にあったからである。

 私は60年代に、交換留学生として、韓国に渡ったが、彼らがもつ反日感情というのは、
感情というレベルを超えた、「憎悪」そのものだった。今でも基本的には、その構図は、変
わっていない。仮に北朝鮮が日本にめがけて核ミサイルを撃ち込んだとしても、それを喜
ぶ韓国人はいても、悲しむ韓国人はいない。そういう現実を前にして、小学生を仕立てて
平和宣言をする。そのオメデタサは、いったいどこからくるのか。(だからといって、私が
戦争を求めているのではない。どうか誤解のないように!)

今朝の報道によれば、あの北朝鮮は、すでに核兵器を数個もち、さらに今後、半年の間に、
5~6発の核兵器を製造する能力があるという。さらに今年の終わりには、核実験もする
かもしれないという(クリントン政権時代の北朝鮮担当官・ケネス・キノネス氏)。そうな
れば日本は、もうおしまい。金XXの影におびえながら、毎日ビクビクしながら、生活を
しなければならない。

 小学生による平和宣言の話を書いているうちに、またまた頭が熱くなってしまった。私
の悪いクセだ。しかし、これだけは言える。どんな形であるにせよ、おとなたちは自分た
ちの政治的エゴを追求するために、子どもを利用してはならない。子どもには、子どもの
人権がある。その人権だけは守らねばならないということ。決して、子どもたちを、
猿まわしのサルのように利用してはいけない。
(030628) 

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
平和論 日本の平和 日本人 広島 原爆の日 はやし浩司 子どもによる平和宣言 子
供による平和宣言)

++++++++++++++++++++

併せて、もう1作、6年前に書いた原稿を
添付します。

【SKさんからの反論に答えて……】

++++++++++++++++++++

●平和教育について



【SKより、はやし先生へ……】



今日(8月6日は朝のサイレンがなり、それがきっかけで、

娘に「広島」について話をする

機会がありました。もう、来年で60周年。今の国際情勢を

考えると、広島の原爆も、昔話になってしまうのでしょうか。



さて、メルマガにあった文章で、気になったことについて

書き添えたいと思います。





<国旗、国歌について>



(国旗について……)「日本は、そもそも単一民族だから、国旗や国歌にこだわる必要はな

のではないか。国旗や国歌が必要なのは、多民族国家である。そういう国では、国をまと
めるために、国旗や国歌が必要である。しかし日本には、そもそも、その必要性がない。
なりゆき
に任せればいい」(53歳・男性)





この意見を読んで、日本人は、単一民族である、

という発想がまだまだ強いところがこわいなぁ、と

思いました。



国旗、国歌が必要になってくるのは、自分の国にいるときではなく、

「外国にでた」ときだと私は考えます。自分が「どこの」所属かを

相手に明確にするためのものですよね。



浜松で、浜松祭りで、どこの町の法被を着ているか、のように。



だからこそ、自分の国から一歩もでない、鎖国状態の人には

「必要が無い」で済むのかもしれません。



アメリカで、高校の英語の授業でも、歌舞伎や能を扱うことが

あります。イギリスの作家でも、能の影響を受けて劇を書いている

人もいますし。(アイルランドのイエイツ、ノーベル賞作歌もそのひとり)



授業で、「能について、知っていることを教えてください」と

問いかけを先生からされたときに、答えることができない日本人と

しての所在のなさ! 今でも忘れません。



日本に帰ってきてから、能について、勉強をしていないところに私の

怠慢がありますが……。

2/2子供を使った平和宣言

2010-10-11 08:21:14 | 日記




国旗を、国旗といえない国には、どうしても問題があると思うのです。

幼稚園でも小学校でも「ひのまるのうた」を歌ってきます。じゃ、

どうして「国旗」と言わずに、「ひのまる」というのでしょう。

国歌も、「きみがよ」という別名をもうけてあります。



主人が柔道を趣味でしているので、彼の恩師に警察大学校で教壇に

立っている方がいます。主人が会話の流れで「日の丸」と言ったときに、

先生は毅然と、「ひのまるではない! 国旗だ!」と言ったそうです。

会話の流れとはいえ、選ぶ言葉は「意識」の問題である、と。



国の、国民としての、自覚の問題ですね。考え方は十人十色かも

しれません。



国旗の扱いについても、日本人は自覚がなさすぎることはよく

指摘されていることです。主人の手伝いで、かれこれ10年ぐらい前に

千葉の幕張で行われた柔道世界選手権の舞台裏を覗いたことがあります。



国旗の扱いはどこまでも丁重に。日本人だと、たたむときに、床に

べろーーん、と広げてから畳んだりしてしまいます。もう、こんな

ことが相手国の人々の目にとまれば、大政治問題です。



降ろすときも、畳むときも、複数の人間が各角をもち、角をあわせて

畳みます。決して床にはついてはいけない。



国旗を重ねてしまう事があろうものなら、その順序(どちらが上、

どちらが下)も、神経質になります。あくまでアルファベット順に徹する

などの工夫が必要です。



しまうときも、「くっつかないように」ひとつひとつビニール袋に入れて

しまいます。国旗そのものが、お互いにくっつかないように。



レプリカをつくって、シャツのデザインにしたり、なんていうのは

「相手国に対する冒涜」なんです。こういう視点で国旗を考えた

ときに、小学校の運動会でかかっている「万国旗」には、つい、

意味を考えたくなってしまいます。



国旗、国歌の議論が必要がない、とおっしゃる方は、くれぐれも

渡航中にトラブルに巻き込まれないようにお気をつけいただきたい

ものです。



日本人、国旗、国歌。日本をでれば、みなが日本の代表ですので。



ふと、サッカーアジアカップの、日本・中国の決勝が頭をよぎります。

とても、とても、恐ろしい政治の問題です。





<平和宣言>



私が大学生のとき、大学生協の平和活動に参加をしていました。

全国津々浦々の大学生協から、学生達が集まって平和アピールを

するという主旨のものです。



東京だと、江戸川区にある、第五福竜丸のおいてあるところから

平和アピールが始まります。8月6日の、広島の式典にあわせて

行進をし、たすきをつないでいくというものです。ピースウォークという

名称のものでした。



それに参加するほど根性はなかった私は、6日に広島入りをしました。

で、大学生どうしで、ひたすら「平和ってなあに?」という話し合いを

して、「ほら、平和って大事だよね。」と言い合って終わるのです。



完全に、自己満足の世界です。「ふつうの大学生とちがって」、自分は

「平和のことを考えている」というのをお互いに認め合うための会合

です。それも、広島で、大集会と化して。大声で平和をイメージした

歌を歌ってみたりして。



大学生協だけでもかなりの規模ですし、各地生協、平和団体などなど

集まってきます。海外からも、水素爆弾禁止運動をしているフランス人

やら、いろんな人がいました。それはそれは、8月6日だけは、きっと

残り364日の広島の景色とは違ってしまうのでしょう。



朝の式典は、原爆の投下された時間の黙祷で始まります。そのために

平和公園に集まるために、寝ぼけ眼で、大学生達がタクシーに

乗って「すべりこみセーフ」で式典に、参加するのです。(と、集会の

人ごみにまぎれているだけなのですが。)



タクシーの運転手さんがつぶやいてました。「今日だけはね、どこも

かしこも、馬鹿騒ぎでね。ほんとに広島の人とか、戦争関係の

人なんていないだろうよ」って。広島に来た自分が、おろかだったなと、

痛感した瞬間でした。



8月6日の広島。それは、青空の広がる暑い夏だったはずです。

今年は、台風やらの影響での独特な湿気。こうやって感覚がずれて

いくのでしょうか。





<マガジンについて>



先生のマガジンを通して、日常の忙しさにかまけて、考えないような

話題がたくさん提示されています。ほんとに、たくさん。思うことが

あっても、返信できないほどです。



今年の暑さは、例年とは明らかに違います。どうぞ、お身体を第一に

なさってください。このうえで、楽しいマガジンの配信をお願します。





<読書感想文>



娘の宿題の読書感想文を眺めながら、ふと思ったことがあります。

そういえば、私がアメリカでいたときの5年間、読書感想文って

書いただろうか? 書いてない!(そうか、だから娘に指導できない

んだ!って開き直ったほどです。)



日本は識字率が高いので、こういう宿題が可能だと思いますが、

それだけが理由なのでしょうか。



私が過ごした5年間でこなした作文課題といえば…。

ショートストーリーを書く、詩を書く、俳句を書く、などでした。

いわゆる creative writingです。 

エッセーといっても、レポートと同じように「批評する」文章でした。



日本の、いわゆる読書感想文の、「○○に感動しました。☆☆が

面白かったです。私にもこういう経験があります。この本を読んで

とても心が打たれました」的なものではなかったです。



本について書く文書といえば、ブックレビューでした。これも、

本の批評です。critical writingといわれていました。それこそ、

作品の中の、フレーズや単語ひとつを、とことん批評するという

ような主旨のもの。または、作品の歴史背景等を鑑みた批評など。



アメリカの、私が住んでいた町だけ読書感想文の指導がなかった

のでしょうか。よその国でも、日本の読書感想文にあたるような

もの(原稿用紙3枚ぐらいの分量のもの)があるのでしょうか。



ふと、気になってしまいました。





とてもとても長くなりました。適当に読み流していただけると

幸いです。



SKでした。



【はやし浩司よりSKさんへ……】



 昨夜(8・7)は、アジアカップの決勝戦が、ペキンでありました。私の教室の父親が、
2人、出場しているということで、ふつうでない緊張感を覚えました。(いつもなら、菓子
をポリポリ食べながら、気楽に観戦していたと思いますが……。)



 中国の人たちのもつ、根深い反日感情を知るにつけ、改めて、「国とは何か」を、考えさ
せられました。選手の人たちは、若い人ばかりです。戦前の日本とは、関係のない人ばか
りです。



 それが、戦後60年近くもたった今、ペキンで、反日攻撃の矢面に立たされている!



 私も、1967年に、UNESCOの交換学生で、韓国に行きましたが、歓迎されたの
は、当初の1日だけ。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされました。戦後生
まれの、私が、です。



 国歌斉唱のとき、またまた大ブーイング。それを見ていたとき、何もしてこなかった私
たちの世代。それを知り、申し訳ない気持ちにかられました。多分、選手の奥さんたちや、
生徒たちも観客席にいるでしょう。何か、ものを投げつけられなければよいがと、どこか
ハラハラして見ていました。



 あんな気持ちで、サッカーの試合を観戦したのは、はじめてです。



 で、日本が優勝。何ごともなかったようです。(もし2対1なら、大抗議が起きていたか
もしれませんね。うち日本の1点は、どこかファウルゴールぽかったですから……。しか
し実際には、3対1で、勝った! これなら中国側も文句を言えない!)



 よかった! 



 広島の原爆について、「小学生に平和宣言などさせるものではない」と書いた私の意見に、
やはり反論してきた人がいました。



 わかります。



 私は平和宣言に反対しているのでは、ありません。「平和を、つぎの世代のための子ども
たちのために用意するのは、私たち、おとなの役目だ」と書いたのです。「そのために、子
どもを利用してはいけない」と。



 同じようなテーマに、環境問題があります。おとなの私たちが、さんざん、環境をよご
し放題よごしておいて、子どもたちに向かって、「環境を守れ」はないとと思います。



 それともSKさんは、アメリカで、子どもが、平和宣言しているような光景を見たこと
がありますか? 子どもが自分で考えて、そう言うならまだしも、子どもを操り人形のよ
うに、操ってはいけない。それが私の意見です。(何なら、幼児に平和宣言させてみればよ
いのです。どうしても、子どもにさせたいのなら……。)



 平和の問題は、高度に政治の問題であり、それゆえに、それは純粋に、おとなの問題な
のです。たとえば今、天然ガスの採掘をめぐって、日中関係がギクシャクしています。た
がいに、まさに(やられたら、やり返す)の応報を繰りかえしています。こうした応報が、
やがて戦争につながらないとは、いったい、だれに言えるでしょうか。



 「平和を守ります」と、子どもに宣言させて、それで平和を守ることにはならないので
す。



 私は、こうした、つまりおとなたちの責任をタナにあげ、子どもを利用する行為が、ど
うにもこうにも、許せないのです。プラス、どうにもこうにも、理解できないのです。



 そうそう、その「日本人には、国旗はいらない」と言ってきた人は、現在、インドネシ
ア在住の男性(50歳)です。前後を少し省略しましたが、彼が言うのは、こういう意見
です。



 「インドネシアは、いろいろな民族でなりたっている。そういう国を一つにまとめるに
は、国旗が必要だ。しかし日本は、そもそもそういふうに、一つにまとめる必要はない。
少なくとも、インドネシアのようにはない」と。



 それで冒頭のような意見を書いてくれました。少し、誤解があったかもしれません。



 「能」で思い出しましたが、私が学生時代、2年間だけですが、その能(私は声を出す、
謡)をしました。加賀宝生流です。京都の能舞台で、うなったこともありますよ。



 外国へ行くたびに、何かの場で、披露しています。ああいうのを、何か一つ、得意芸と
して、身につけておくと、よいですね。「これがジャパンだ」と、誇ることができます。



 またアメリカには、(ライブラリー)という授業があります。週1回程度、図書室で、指
導を受けるというものです。ご存知のように、アメリカでは、読書指導が、教育の柱にな
っています。



 驚いたのは、(ライブラリー)の指導だけは、修士号をもった教師でないと、できないと
いうことです。(ほかの教科は、学士号で、教壇に立つことができますが……。)



 「図書館の司書」というと、日本では、どうしても「下」に見られますが、欧米では逆
のようですね。オーストラリア人の友人も、オーストラリアのM大学の図書館で、司書を
していますが、教授と同じあつかいです。あらゆる教授の相談にのるという意味で、重要
な仕事と考えられているようです。



 SKさんのメールを読みながら、改めて、ナットクしたというわけです。ありがとうご
ざいました。



 言うまでもなく、(作文)が、文字、言葉教育の目標であり、要(かなめ)ですね。本を
読んで、作文を書く。これから日本でも、もっと重要になってくると思います。



 メール、ありがとうございました。またまたマガジンへの掲載を、許可していただけれ
ば、うれしいです。(すでに発行予約してしまいましたので、事後承諾になります。どうか、
お許しください。9月6日号に、掲載します。よろしかったでしょうか。)



 そうそう、きのう、「スパイダーマン」を見ました。ああいう映画は、肩がこらなくて、
よいですね。ハハハと笑って見ました。

(040808)


Hiroshi Hayashi+++++++Sep. 2010++++++はやし浩司


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

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