ま、それでもとりあえずは当方の昨日のミスの訂正から・・・。
「Gは自己言及文のまま進展させることが可能で、たとえばG⇔(G⇔(G⇒¬P))とやったら⇔(G⇒¬P)だから二回に一回は定義に使えるが、¬Gは元が自己言及文の形でないからか、¬G⇔(¬G⇔(G⇒P))とやったら右辺が⇔G∨¬Pなのが原因となってG⇔¬Gになってしまうのだ。」
これは
G⇔(G⇒¬P)⇔((G⇒¬P)⇒¬P)⇔・・・, and so on.
が正しく
¬G⇔(G⇒P)だが⇔((G⇒¬P)⇒P)が成立しない!
ぐらいが正しいだろう。ま、自己言及性が非対称だという問題意識かな。
「もちろん述語文を命題論理のまな板に乗せていいかどうかの問題が残るとしてもゲーデル命題だって具体的な命題だったのである。具体的な数学命題がひねくれた自己言及文「この命題は証明できない」と同値だとしたら~、という世界だというのが本来の姿である。」
この件は昨日は問題提起ぐらいだったが今夜はメインである。数学命題の形で書けるもののうち「この命題は証明できない」というものがあったとして証明できるのか、否か、ってゆうゲーデルの気色悪い問題提起あたりから疑ってかかるという算段である。
G「Gは決定不可能」をG⇔(G⇒¬P)と表わすことにします。
論証により「Gをかように定義すること自体がG∧¬P」なんです!
さらに、
背反する命題として選ばれた¬G「Gは決定可能」は¬G⇔(G⇒P)です・・・。
論証により「¬Gをかように定義すること自体がG⇒¬P」
つまり「¬Gをかように定義すること自体がG」なんです!―――――ア)
「Gをかように定義してのG」⇔G∧(G∧¬P)⇔G∧¬P
「¬Gをかように定義しての¬G」⇔¬G∧(G⇒P)⇔¬G∧P―――――イ)
これで定義するだけで「Gであり決定可能」と「¬Gであり決定不可能」は可能性がなくなりました・・・。さらに「Gと¬Gとはまったくの背反」ですから論証によってG∧¬Gは導かれることがなくなりました。
ゆえに不完全性定理は証明できない!
さて、
その前にア)がありますから「¬Gをかように定義すること自体が決定不能」すなわちゲーデルは決定不能な定義を用いて論議を進めていたことが判明します。その意味においても不完全性は定理ではなくてゲーデルによる希望的観測の入り混じった予想に過ぎないと断言できます・・・。
また、イ)を参考にして¬Gの別の定義を試みると、
「¬G⇔(¬G⇒P)によって¬Gを定義すること自体が¬G∧P」
まったく驚くべきことに「¬Gは、¬Gは証明できると同値」としても「¬Gは、Gは証明できると同値」のいずれの定義を用いても定義される¬Gは集合としてまったく同一なのです・・・。おまけにゲーデルの用いた前者の定義は決定不能ですから勝手に使ってはなりません。
後者のGと同じ構成をした自己言及文だけが同値であってしかも決定可能な定義です!
以上より、
G「Gは決定不能」に対して使える¬Gの定義は¬G「¬Gは決定可能」だけになり、すなわち「ゲーデル命題には述語論理の算術を使ってはならない」ことが判明したのですよ・・・。まったくこれが恐るべきことでなくてなんでしょうか?
よしんばG∧¬Gを仮定してみたところで
「Gは決定不能であり¬Gは決定可能」
これはなんら矛盾した文章ではございません・・・。
強いていえばこの最後の件について集合論的基礎を与えることが今後の課題でしょうか?
「Gは自己言及文のまま進展させることが可能で、たとえばG⇔(G⇔(G⇒¬P))とやったら⇔(G⇒¬P)だから二回に一回は定義に使えるが、¬Gは元が自己言及文の形でないからか、¬G⇔(¬G⇔(G⇒P))とやったら右辺が⇔G∨¬Pなのが原因となってG⇔¬Gになってしまうのだ。」
これは
G⇔(G⇒¬P)⇔((G⇒¬P)⇒¬P)⇔・・・, and so on.
が正しく
¬G⇔(G⇒P)だが⇔((G⇒¬P)⇒P)が成立しない!
ぐらいが正しいだろう。ま、自己言及性が非対称だという問題意識かな。
「もちろん述語文を命題論理のまな板に乗せていいかどうかの問題が残るとしてもゲーデル命題だって具体的な命題だったのである。具体的な数学命題がひねくれた自己言及文「この命題は証明できない」と同値だとしたら~、という世界だというのが本来の姿である。」
この件は昨日は問題提起ぐらいだったが今夜はメインである。数学命題の形で書けるもののうち「この命題は証明できない」というものがあったとして証明できるのか、否か、ってゆうゲーデルの気色悪い問題提起あたりから疑ってかかるという算段である。
G「Gは決定不可能」をG⇔(G⇒¬P)と表わすことにします。
論証により「Gをかように定義すること自体がG∧¬P」なんです!
さらに、
背反する命題として選ばれた¬G「Gは決定可能」は¬G⇔(G⇒P)です・・・。
論証により「¬Gをかように定義すること自体がG⇒¬P」
つまり「¬Gをかように定義すること自体がG」なんです!―――――ア)
「Gをかように定義してのG」⇔G∧(G∧¬P)⇔G∧¬P
「¬Gをかように定義しての¬G」⇔¬G∧(G⇒P)⇔¬G∧P―――――イ)
これで定義するだけで「Gであり決定可能」と「¬Gであり決定不可能」は可能性がなくなりました・・・。さらに「Gと¬Gとはまったくの背反」ですから論証によってG∧¬Gは導かれることがなくなりました。
ゆえに不完全性定理は証明できない!
さて、
その前にア)がありますから「¬Gをかように定義すること自体が決定不能」すなわちゲーデルは決定不能な定義を用いて論議を進めていたことが判明します。その意味においても不完全性は定理ではなくてゲーデルによる希望的観測の入り混じった予想に過ぎないと断言できます・・・。
また、イ)を参考にして¬Gの別の定義を試みると、
「¬G⇔(¬G⇒P)によって¬Gを定義すること自体が¬G∧P」
まったく驚くべきことに「¬Gは、¬Gは証明できると同値」としても「¬Gは、Gは証明できると同値」のいずれの定義を用いても定義される¬Gは集合としてまったく同一なのです・・・。おまけにゲーデルの用いた前者の定義は決定不能ですから勝手に使ってはなりません。
後者のGと同じ構成をした自己言及文だけが同値であってしかも決定可能な定義です!
以上より、
G「Gは決定不能」に対して使える¬Gの定義は¬G「¬Gは決定可能」だけになり、すなわち「ゲーデル命題には述語論理の算術を使ってはならない」ことが判明したのですよ・・・。まったくこれが恐るべきことでなくてなんでしょうか?
よしんばG∧¬Gを仮定してみたところで
「Gは決定不能であり¬Gは決定可能」
これはなんら矛盾した文章ではございません・・・。
強いていえばこの最後の件について集合論的基礎を与えることが今後の課題でしょうか?
ゆえに¬Gを仮定することは「¬Gは証明できる」を仮定することである。
またGを仮定することは「Gは証明できない」を仮定することである。
両者が同時に導かれることはあり得ない。
ゆえに
ゲーデルの論証は本質的に意味をなさない!