葡萄舎だより

海峡の街・下関の、葡萄舎の住人・洒人 (しゃじん) が身の周りの些事片々を書き綴ります。
本人は日記のつもりです。

「幻の」白州灯台

2006年06月02日 08時47分05秒 | 燈台めぐりノート
私は、今年に入ってからの、駆け出しの灯台ファンだが、
灯台めぐりを続ける過程で、行きたくても行けない灯台が3基あることが分かった。
満珠島灯台 (長府沖)
白州灯台 (玄界灘)
水の子島灯台 (豊後水道) の3基で、いずれも、無人の島や州に立つ灯台だ。

漁船か、瀬渡し舟を手配すれば島や州に渡ることは可能だが、
ワインの楽しみ方に例えると、金の力でグラン・ヴァンを飲みあさるのは好みじゃない。
好みよりも何よりも、その金がない。
ところが、人間まじめにひたむきに生きてる(本当?)と、
いつもどこかから救いの手がさし伸ばされる。

満珠島灯台は長府の沖に浮かぶ無人島で、葡萄舎から至近の距離にある。
でも、船がなければ行けない。
先達のHPを見ても、ほとんどは対岸の部埼灯台から望遠で写した写真だ。
土地の人間として、望遠で済ませるわけには行かない。
すると、ワイン仲間の 釣り迷人さんが、釣り船を手配してくれた。
謝礼は要らない、と仰る。 これで「幻の灯台」 の1基は解決。

白州灯台を管理する若松海上保安部に出向いたら、
灯台建設の先覚者 ・ 岩松助左衛門 を顕彰する会が、年に1回、灯台を清掃すると言う。
早速、顕彰会のA氏に電話して清掃活動への参加を願い出た。 快諾をいただいた。
その、清掃活動日は明日3日だ。 灯台に登ることもできそうだ。
近づけても、到底登ることのできない白州灯台に登れる! なんという幸運。
「幻の灯台」2基目が解決する。

残るは、水の子島灯台。
この度の 「九州の灯台めぐり」 で、豊後鶴御崎まで行って、
肉眼で見れずに、双眼鏡で 「憧憬の灯塔」 を拝んで来た灯台だ。
水の子島灯台への訪問はいつになるだろう。 手立てが、無いではない。

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九州の灯台めぐり 1

2006年06月01日 10時06分29秒 | 燈台めぐりノート
photo ; 妙見埼灯台

5月20日に、博多で 「葡萄舎騎士の会」 のワイン会が設定されていた。
通常なら新幹線で往復するところだが、途中に2基の灯台があり、
せっかくだから素通りする手はないな、と思っていた。
かといって、愛車(灯台巡回車)で行けば帰りは飲酒運転になるし‥‥。
優柔不断に、ああだ、巧打を考えていたら、 「2・3日、灯台を回ってきたら?」
こういう場面ではいつも、家人の理解のあるお言葉がいただける、私は果報者なのだ。
観音様に両手を合わせて、灯台めぐりの旅に出た。


5月20日(土)
下関を朝8時30分に出て、関門海峡フェリーで彦島から小倉日明に渡り、
若戸大橋を渡り、若松北海岸を西走したら、岩屋まで、ちょうど1時間。
岩屋のはずれに簡保の保養センターがあり、そのまたはずれに灯台が立っていた。
灯台名は 「妙見埼」 だが、岬の名前は 「遠見ノ鼻」 と呼ばれている。
江戸幕府が黒田藩に命じて 遠見番所を置き、異国船の密貿易を監視させたのが
「遠見ノ鼻」 の名の起こりとされる。
灯台名を代えたのは他との混同を避けたためらしい。
白州灯台 というスター級はあるが、若松海上保安部が管理する海域に灯台は少ない。
陸路たどり着けるのは 妙見埼灯台 くらいのものだ。
ふるさとの灯台めぐりで訪れた 沿岸小型 に属するかわいらしい灯台だが、岬の風景は素晴らしい。
燈台が建てられている露出した岩肌がきれいだ。
私はそれを 森田敏隆氏の写真集で見て、知っていた。
森田氏を真似たアングルを探して、
岬の隣にある、海面すれすれに延びる岩場まで降りてみた。
それらしいアングルはあったが、
口惜しいかな、昨夜までの雨はあがったものの空模様は未だ回復しきっていなかった。
立派な一眼レフを持ちながら、使いこなせない私には、
残念ながら岩肌がきれいな写真は撮れなかった。
それにつけても、
思ったとおりのシャッターチャンスまで待てるプロの写真家が羨ましい。
負け犬の遠吠え、だけど。

妙見埼灯台を訪れれば、博多への途中、次に立ち寄るのは津屋崎鼻灯台 だ。
津屋崎には福岡県立水産高校があり、津屋崎は漁業の町なのだ。
町外れに病院が2つあって、その先に灯台はあるのだが、
国土地理院の地形図に燈台への道は記されていない。
車で進める所まで進んだが、どうも灯台への上り口を通り過ごしたみたいだ。
たまたま父子連れと出会ったので道を教えてもらい、50mほどバックした。
灯台への道は比較的シッカリしている。
妙見埼灯台を立ち去る頃から陽光が射し始め、津屋崎鼻灯台への登りでは汗ばんできた。
もう かれこれ50mは登っただろう、と思い始めて上を見上げると、木の間越しに灯塔が。
照射灯を併設した、こじんまりした灯台だ。
急な崖が海に落ち込んで、その先には瀬が見える。
港に急ぐ漁船が舵をきる場所で、難所だったのだろう。

夕方から始まる博多でのワイン会まで 海ノ中道 と 志賀島で時間をつぶした。
博多湾を形作る海ノ中道と、その先端にある 「金印」 で有名な志賀島には、
地図には載っていなくても、灯台の一つくらいあるだろうと期待したのだが、
防波堤の灯台しかなかった。

ワイン会を終えて、夜は福岡空港の国際線駐車場で1泊。
朝、大宰府I.C. に出るには最高の立地だ。
何よりも、24時間の駐車が1000円、というのが魅力だ。

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九州の灯台めぐり 2

2006年06月01日 09時59分15秒 | 燈台めぐりノート
photo ; 関埼灯台

5月21日(日)
5時に起きて、大分自動車道を大分宮河内まで走る。
日曜日の朝だから、自動車道も一般道も、道は私のためにあるようなものだ。
佐賀関のシンボル ・ 日鉱金属の大煙突を眺めるといよいよ着いたと思うのだが、
灯台がある地蔵崎までの海岸沿いの道は結構ある。
速吸(はやすい)瀬戸をはさんで四国の佐田岬と対峙し、
周防灘と外洋とを分けるこの地は「関サバ」 「関アジ」 で有名だが、
日曜の早朝では食することもできない。
なに、サバとアジなら下関だってふんだんにある、などと意地を張ってみる。
いつか、佐田岬に渡る日があれば、佐賀関からフェリーに乗ることになるだろう。
食べるとすればそのときか。

関崎灯台のレンズは、当初は第3等フレネルレンズだったが、
17年遅れて建った佐田岬灯台に移され、
以後、大正7年に第4等不動白光となり、昭和45年に明暗白光となって現在に至っている。
明治期の灯塔は、ブラントンの影響を受けているのか、六連島や部埼と似た形状だ。
但し、鉄製だから、叩けば鉄特有の音がする。 石造の重厚さはないが、これはこれでいい。
門柱も扉もあって、威厳のある灯台だ。

今回の灯台めぐりでは 11基の灯台を訪ねる予定だ。
訪ねる灯台に序列をつけたくはないが、鶴御埼灯台は、どうしても訪れたい灯台だった。
早朝の大分自動車道を走る間もそうだったが、
豊後鶴見崎に向かう車中では鳥羽一郎の 「男の港」 がガンガンと鳴り続けた。

     ♪ 高く掲げた 大漁旗を
     待っているだろ 紅椿
     松浦港は もうすぐ近い
     ありがとう 黒潮の幸よ
     豊後 鶴御崎 男の港 

     ♪ 躍る銀鱗 しぶきの華に
     親父譲りの 腕がなる
     照らせ 男の この晴れ舞台
     ありがとう 水の子の灯台(あかり)
     豊後 鶴御崎 男の港「男の港」
         詞 穂積 淳 ・ 結城 忍

歌詞の中に 「水の子島灯台」 が詠み込まれているのが気に入って、
2ヶ月前に丸暗記し、カラオケの十八番となった演歌だ。
豊後水道の真ん中の岩にそそり立つ水の子島灯台は、
いつかは、どうしても訪ねたい憧憬の灯台だ。
鶴御埼灯台から見えるかもしれない。 恋人が待つ海に駆けつける心境だ。
車は松浦港を通り過ぎた。 もうすぐ、のはずだ。
でも、行けども行けども道は続く。
やっと駐車場に車を停めて、灯台までの坂道をやたら長く感じながら登る。

豊後鶴御崎は九州の最東端だ。 戦争中は砲台が築かれ、要塞になっていた場所だ。
灯台は戦後25年を経て建てられている。 新しい灯台だ。
灯台に隣接して展望台がある。 展望案内図の真ん中に水の子島灯台が記されている。
その方向を眺めても、海霧にさえぎられて何も見えない。
展望台には、おあつらえ向きに双眼鏡があったので、覗いた。
ボンヤリと、しかし紛れもなく白黒縞模様の水の子島灯台が岩にしがみついて立っている!
夢に見た灯台だ。 いつまでも、何度も、覗いた。 まぶたに刻み込んだ。
故障なのか、サービスなのか、双眼鏡はいつまでも閉じなかった。

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九州の灯台めぐり 3

2006年06月01日 09時52分04秒 | 燈台めぐりノート
photo ; 細島灯台

鶴御埼灯台の佐伯市から10号線を南下して、延岡を過ぎ、日向市までの遠いこと!
やっとのことで日向に入り、ホッとしたのが運の尽きで、道に迷った。
地理学を専攻して、方向感覚はシッカリしている、との自負から、
カーナビの助けをかたくなに拒んできたが、そろそろ購入を考えるか。
道に迷い込みながらも、目的の場所に近づいている確信はあった。
そこで、眼に飛び込んできたのが、「馬ヶ背灯台」 という案内板。
馬ヶ背灯台、聞いたことはないが、「灯台」 という字に、ハンドルは自然に反応する。
次に出てきた案内看板は 「日向岬灯台」。
肝心の、「細島灯台」 という文字にお目にかからないまま走らせていると、
なにやら立派な燈台が眼に入ってきた。
この際、灯台なら何でもいい。 行け!
燈台の周辺は土地のレジャースポットになっているのだろう、
ゲートボール大会をはじめ、行楽客が多い。
灯台がある山の周回道路はハイキングコースだが、
誰に聞いても、「この灯台が 細島灯台」 と言う人は一人もいない。
灯台の敷地は展望公園になっていて、入り口に燈光会の看板が立っている。
読めば、「細島灯台」。
私の勝手な判断だが、地元の方は 「馬ヶ背灯台」 と呼び、
日向市の観光課は「日向岬灯台」 を使い、
海上保安庁は 「細島灯台」 を採用している、らしい。 ややこしい話だ。
尚、細島灯台の初点灯は昭和16年だが、
明治43年5月10日には、宮崎県が小さなレンガ造りで航海安全の灯を灯している。
柱状節理の断崖 ・ 馬ヶ背を訪れる人は多いが、灯台を訪れる人は少ない。
いい灯台なのに。

私がこれまでに接してきた宮崎県人は数少ないが、宮崎の県民性に一つの思い込みがあった。
自分を主張せず、周囲にあわせて、物静か‥‥。
このたび、日向路(10号線)を北から南まで走って、その認識を変えた。
最初に断っておくが、それは他愛もないことで、宮崎県人を悪く言うつもりは全く、ない。
国道10号は単調な路線だ。起伏も、曲折も少ない。 交通量も少ない(日曜だから?)。
道路の改良が進みつつあるのか、登坂車線や片側2車線の区間も多い。
片側2車線の区間で、走行車線には 「ゆずり車線」 の標識まであるのだが、
「ゆずり車線」 を走る車は、まず、いない。
みんな、追い越し車線を1列になって走っている。 ついでに、登坂車線を走る車もいない。
日程上、先を急ぐ私は、ゆずり車線と登坂車線を走りきることで、相当数の車を追い抜いた。
ゆずり車線は、「私のために譲ってくれる車線」 だったのだろう。

九州山地の一番山深い椎葉、西米良から流れ出す一ツ瀬川は大量の土砂を運び、
日向灘に打ち寄せる波は新富町の河口付近に大きな砂州を形成する。
その砂州から平地が広がり、1kmほど離れた場所に、
「鬼付女峰」 という、なんとも怖い名前の丘がある。標高58m。
ブルゴーニュのワインが好きな方ならすぐに思い浮かぶだろうが、
地形図で見る限り、「コルトンの丘」 の形状だ。
今回の灯台めぐりからすれば、パスする灯台だが、丘の形状が気に入って寄り道をした。
車で丘を一周したが、上り口らしきものが2箇所ある。
私は石段を選んだ。 これが間違いの始まり。
中腹の祠で石段は途切れた。 あとはがむしゃらに 「藪こぎ」。
ふるさとの低山歩きで何度も藪をこいだ経験が生きた。しかし、茨の多い藪だった。
土地の人は 「観音山」 と呼ぶらしい。 たくさんの石像が並んで、公園になっている。
日向灘沿岸には航路標識が乏しく、細島灯台と戸崎鼻灯台の中間地点として、
「日向のコルトンの丘」を選んだのだ、という。

今日の予定は宮崎市まで入れればいい、と思っていたが、
ひたすら走ったおかげで、日南海岸まで来てしまった。
すると、欲が出るから、都井岬まで足を延ばせたら‥‥、となる。
そうなると、鵜戸埼灯台は単なる通過点になる。 鵜戸神宮への参詣はパスせざるを得ない。
とにかく灯台へ。
鵜戸神宮の駐車場の手前から海岸線を走ると、あっけないほど簡単に灯台前に着く。
鵜戸神宮の参道にふさわしく、
周囲の景観にマッチするように設計されたのが石灯籠型の灯塔だ、と案内板にある。
頂上の擬宝珠が灯器になっている。
伊豆大島にはアンコ像の燈台があり、川奈にはゴルフボールの灯台、
小田原の波止場には小田原提灯の灯台。
これらをデザイン灯台、と呼ぶらしいが、私は、灯台は灯台らしいのがいい。
好みの問題だろうが。
鵜戸埼の石灯籠型の燈台が、
灯台ファンになった私が見た最初のデザイン灯台だったことは記憶に留まるだろう。
そういえば、下関の 「あるかぽーと防波堤」 にも賑々しい燈台があるが。

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九州の灯台めぐり 4

2006年06月01日 09時41分49秒 | 燈台めぐりノート
photo ; 朝5時の都井岬灯台

都井岬では「岬馬」を放牧している。 馬が逃走しないようにゲートが設けられているが、夜間は無人だ。 
で、車から降りて開閉し、岬に乗り入れなければならない。
都井岬灯台には、夜8時半を過ぎてたどり着いた。
途中、日南市を通過した。
道中でコンビニの一軒くらいはあるだろう、と車を走らせたら、ついに都井岬まで店はなかった。
一旦灯台前の駐車場について、串間市までビールと食べ物を買いに走った。
往復の40㎞ は苦痛だったが、空腹には代えられないし、
何よりも、灯台を眺めながらの一泊には代えられない。

再度、灯台前の駐車場に戻った。
駐車場には車がなく、ラインを無視して、フロントガラスを灯台の正面に向けて車を停めた。
一般公開されている都井岬燈台だが、夜間は門扉で閉ざされ、灯台の敷地には入れない。
開門は朝9時だ。 それまで待てないから、チョットばかり失礼した。
隣接する土産物屋の壁に脚立が立てかけてあったもので‥‥。スイマセン。

狭い運転席で、缶ビールとかっぱえびせん、裂きイカ、おむすび3個の晩餐は惨めだけど、
なに、どんな役者にも勝る 灯台の、規則正しい燈光の旋回がある。
最高のディナーショーを特等席で独り占めできる.。
さあ、灯台の前で晩餐(?)だ。
呑みながら眼を上げれば、夢に描いた都井岬灯台の閃光が
 (正確には30秒で1回転だが、レンズが2個あるから) 15秒ごとに回転する。
なんという満足感だ!
かっぱえびせん と 裂きイカをかじりながら眼を上げれば、尊い灯光が15秒ごとに回転する。
なんという至福だ!
夜中に目覚めてフロントガラスを見れば、
船と船人の命と財産を守る灯が15秒ごとに回転を続けている。
しかも、100mの至近距離で。
灯台ファンにとって、こんな贅沢はない。 私が最高に感激する盛大な晩餐で、嬉しい寝床だ。

5月22日(月)
朝6時起床が私の日常だから、5時に目覚まし時計をセットするのは いと易いことだ。
北緯31度付近の夜は、寝袋を必要としないほどだったが、
ガラスで囲まれた車の中は夜明けの明るさで目覚まし時計も必要としなかった。
灯台の灯りは、まだ旋回を続けている。
勿論、人影はない。 昨夜お借りした土産物屋の脚立をまた拝借して塀を乗り越えた。
不法侵入者を歓迎するかのように、
蜂の一種だろうか、図体の大きいのが8匹、私の周りから離れない。
思い通りの写真が撮れなかったのは、蜂のせいだ。
蜂が怖くて退散したら灯台ファンの沽券にかかわるから、果敢にシャッターを押し続けた。
都井岬灯台は、全国に14基ある 「のぼれる灯台」 の一つだから見学者も多かろうが、
この、蜂の歓迎には大騒ぎをするだろう。
期待していた朝日は、雲に覆われてどこから昇るのかも分からなかったが、
一瞬間だけ顔をのぞかせた。
シャッターを押し続けたがいい写真にはならなかった。
この厚い雲は佐多岬まで続いた。

都井岬から佐多岬まで、どのルートを選ぶかは判断に迷うところだ。
内之浦町には宇宙空間観測所があることは知っていたが、
火崎の先端に 火埼灯台があると知れば、ロケットよりも灯台に立ち寄るために、
ルートはおのずから決まってくる。
これまでに訪れた 岬の灯台 のほとんど全てがそうだったが、
内之浦の町から火崎の先端まで、地図の上ではでは簡単だが、
実際に走ってみると距離は想像を超えて長い。
前日、その日のうちに都井岬までたどり着きたい一心から、
日南海岸のいくつかの灯台を素通りしてきたので、
小さい灯台だが、火埼灯台訪問は欠かしたくなかった。
かなりの時間を費やし、車幅すれすれの道を心細くたどった、としても。
蘇鉄の自生地には鳥居と祠があって、小さな灯台が立っていた。
都井岬灯台と佐多岬燈台という、スター級の灯台を訪問しながら立ち寄れば、
そのかわいらしさはいよいよ際立つのだが、
灯台に規模や、灯質の差はあっても、灯台の重要さに差はない。
足元が軟らかい斜面を滑らないように気をつけてたどり着いた瞬間の喜びは、また格別だ。

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九州の灯台めぐり 5

2006年06月01日 09時32分50秒 | 燈台めぐりノート
photo ; 佐多岬灯台

佐多岬は九州本土最南端に位置する。
昨日訪れた豊後鶴御崎は九州の最東端で、最北端の門司崎は下関の対岸だから、
これで、未踏は最西端を残すのみとなった。
これも、灯台めぐりがなせる業で、灯台ファンでなければ、果たして岬の先端まで行っただろうか。
車は南へ南へと大隈半島の中央部を縦断して、はるか遠くまで来たもんだ、の感が強い。
佐多岬がいよいよ近づいてきた。
佐多岬灯台といえば、江戸条約に基づいて建てられた8基の燈台の一つだ。
初代は明治4年10月18日が初点灯だ。
太平洋戦争で破壊され、昭和25年に再建された灯台とはいえ、由緒ある灯台で、
今回の灯台めぐりの白眉だ。

その灯台にこれから行こう、というのに、なぜか気持ちの高揚がイマイチなのだ。
都井岬で、一瞬間だけ顔を出した太陽が、その後は雲に隠れたままのせいだろうか?
そうじゃない。 私には分かっている。
佐多岬灯台は、岬の先端には、ない。
岬の先端の岩礁 ・ 大輪島の頂上に建っている。 歩いては行けない。
初点プレートも写せなければ、
灯塔の壁を撫でて、叩いて、「ご苦労さん」 と語りかける、
私の、いつもの儀式ができないじゃないか。
そんなことは、灯台ファンになったときから分かっていることなのに、
がむしゃらに車を走らせて、イザ、燈台が近づいてくると、なんとなく無念なのだ。
「岬ファン」 である前に 「灯台ファン」 である私の、ここがビミョーなところだ。
ロードパークの終点、駐車場に着く前に小さな突端で右カーブを回ったら、
突然、海を隔てて灯台が眼に飛び込んできた。
写真で見慣れた、大輪島に立つ佐多岬灯台だ。
南緯31度を越えて、ついに、来た!
駐車場に車を停めて、歩き始めたら薄日が射して来た。 麦藁帽子が役に立った。
神社で引いたお御籤は末吉。
   吹き荒れし あらしもいつかおさまりて 軒端に来鳴く うぐいすの声
日も射して来た。 うぐいすも鳴いている。 次第に良いこともあろう。

九州本土最南端。名にしおう、絶景を見た。
   黒潮の 海にのぼりて あまつ日は 佐多岬をひねもすてらす  (川田順)


佐多岬を後にして北上、地図を逆さにしなくて済むだけ気は楽だ。
車は、錦江湾をはさんだ対岸の指宿を目指している。
地図では、指宿への最短距離の 根占 からフェリーがあるのだが、最近は廃止されている。
そうなると垂水から桜島のそばを通って鹿児島に渡るしかない。
ずいぶんと大回りになるナァ、と思いながら走っていると、
なんと、根占から山川へのフェリーが復活した、とのこと。 天佑、我にあり!
    (但し、このフェリーの就航は未確定要素が多いので、事前に確認が必要)
フェリーの出航まで1時間待たされたが、大回りを考えれば何のことはない。
港の近くのレストランで、早くて安くて美味いものは何? と聞いたら アラ炊き定食だと言う。
それを注文して、アラ炊きだけを単品で追加注文する。 美味い。
根占は カンパチの産地だという。 港の外では養殖をしているのだろう、筏が浮いている。

指宿に渡る理由は、長崎鼻灯台を訪ねること、開聞岳を眺めること、天然砂蒸し温泉に入ること。
だが、灯台ファンとしては口が曲がっても言えないが、
砂蒸し温泉 を体験するのが、永いあいだひそかな夢だった。
フェリーから眺める開聞岳はかすんでいて、長崎鼻まで近づいても、山頂は雲の中。
最後まで山容の全てを見せてはくれなかった。
灯台までの歩道は土産物店街を通り抜けるのだが、これといった坂道もないのにやたら疲れた。
2泊3日の強行軍が、ボディブローのように効いてきたのかも知れない。
待望の砂蒸し温泉に入って、身も心もホッとしたら、
これから先、坊津の灯台まで行く気力が途端に萎えた。
鹿児島まで一般道、そこから九州道で下関まで帰った。 熊本からは、強い雨に変わった。
指宿16時30分。 下関10時。 11基の灯台めぐりは終わった。

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灯台への鎮魂歌

2006年05月12日 10時40分34秒 | 燈台めぐりノート
「梅雨の中休み」 は聞くけど、「梅雨のはしりの中休み」 なんてあるのだろうか。
あってもなくても昨日はそんな一日だった。
昼前から雲が切れ始め、青空の下でのドライブにいざなった。
時間的には市域の外は無理だろう。 彦島へ。

かつて、関門海峡沿いの海岸にはいくつもの灯台が並んでいた(という)。
海峡の北西の入口 ・ 六連島に始まり、台場鼻、山底ノ鼻、金ノ弦岬、大山ノ鼻、
巌流島、火ノ山下、東南の入口に満珠島、ざっと8基。
対岸の北九州市側にも数基あるから、さしずめ灯台銀座だったが、その多くが廃れた。
おびただしい数の灯浮標を設置することで燈台の存在理由がなくなった、
これが直接の理由だ。
現役で船の航行を見守っているのは、六連島、台場鼻、満珠島の3基だけになった。

灯標として海中に設置され、陸に上がって灯台となり、廃止の決定を下され、
文化財として生きながらえている 金ノ弦岬灯台 は当ブログで取り上げた。
灯塔が撤去され、跡地が潮流信号所に転用された 火ノ山下灯台 は
親サイトで取り上げている。
この2基はいい。
文化財として保存されるのも、時代の要請に応えて形を変え船の航行に貢献するのも。

巌流島灯台が数年前に撤去されたのは知っていた。
撤去と前後して島が整備され、市民に開放されたイベントとの島として再開発するなら
赤白に塗り分けられた灯塔は格好のシンボルになったろうに‥‥。
大体において長州人は、いとも簡単に建造物を撤去するのが好きだ。
萩城の天守閣など、他藩に先駆けて率先して解体撤去してしまった。
保存し、現存していれば、萩市の観光収入はもっと多かったろうに。

あと2基、私が確認していない灯台がある。
大山ノ鼻灯台、山底ノ鼻灯台。 共に彦島にある。
現存しているという人も居れば、撤去されたという人も居る。 一見にしかず。

採石場の傍らに大山ノ鼻灯台はあった(という)。
採石場の管理人(らしき人)が、海面を指差して、
「ここに3年前まで燈台があった。 業者が撤去して行った」
打ち寄せる波間に、基礎部分だったのだろうコンクリート片が転がっていた。
やはり、無くなっていたか‥‥!

造船で栄え、造船業の衰退と共に不況に陥った下関を象徴するように、
無様にドックの形骸をさらした造船所跡地に隣接して山底ノ鼻灯台はあった(という)。
その海岸に初老の男性が携帯用の椅子に腰掛けている。
聞けば、「謡いの練習をしているのだ」 と言う。
ひと気の無いところで、薫風に吹かれ、
聞こえるのは波の音と、海峡を行きかう船のエンジン音。 ここなら迷惑はかかるまい。
謡いのおじさんも、海面を指差して、在りし日の山底ノ鼻灯台を語ってくれた。

結局、私が灯台めぐりに立ち上がるのが、3年遅かった!
今は、礎石が海岸に散乱して波に洗われているだけだった。
2基の灯台は無念だろうが、波の下を照らしている、と思うことにしよう。
ここは壇ノ浦に連なる大瀬戸だ。
平知盛に敗戦を告げられた二位の尼が、孫である安徳天皇を抱いて入水している。
数え年8歳の安徳天皇が 「尼御前、私をどこに連れていくのか」 と問うと、
二位の尼は 「波の下にも都はございましょう」 と答えた場所だ。
波の下を照らしてやればいい。

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金ノ弦岬灯台

2006年04月23日 20時41分26秒 | 燈台めぐりノート
4月に入って、燈台めぐりのペースが落ちた。
一番の理由は、1・2時間で行ける身近な灯台を全て回ってしまったから、だ。

近場で一つだけ行っていない灯台がある。 正確には、旧灯台の建造物だ。
灯台として機能していない建造物を 「燈台めぐり」 に加えるのは「?」 だが、
ためらいなく 「島の燈台めぐり」に加えた。

彦島の突端だから、下関の最南端に 旧・金ノ弦岬(かねのつるみさき)灯台 はある。
この灯台は数奇な運命をたどった灯台だ。
誕生は明治4年。関門海峡の浅瀬に「俎(まないた)礁標」 として建造された立標だ。
灯塔は荒削りの石造で、古武士の風格を漂わす、いい燈台だ。
設計者は、かの ブラントン。 日本で最初の海上標識だった。
大正9年に陸に移され、灯台として海峡の航行を見守った。
2000年には、海峡の航路幅を示す浮灯標 (ブイ) が設置され、灯台としての役目も終えた。
海上保安庁は、使用しない灯台は撤去する方針で、解体の運命にさらされながら、
「文化的価値が高い」 との地元の保存要請に、市が国から15万円で購入して、存命が決まった。
私が知る限り、下関市が歴史的文化的建造物保存に動いた、数少ない例だ。

灯台を訪れて立ち去るときはいつも、灯塔の壁を叩いてつぶやく。
「達者でナ。がんばれよ」
金ノ弦岬灯台の場合は違った。 「よくがんばったな。 ご苦労さん」

次は、宇部市の理容院に行くついでに、山口市秋穂の 草山埼灯台 だ。

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島へ、燈台へ、六連島燈台へ

2006年03月08日 14時10分49秒 | 燈台めぐりノート
昨日の、「蓋井島燈台訪問記」 も中途半端のまま、
本日も4月中旬の陽気、という天気予報につられて六連島燈台に出かけた。

今朝の新聞によると、昨日の視界が悪い天候は、靄(もや)だった。
雨の後に晴天になると、放射冷却で空気中の水蒸気が冷やされて発生する靄だ、という。
冬から春への季節の変わり目には、特に多く見られる、という。
いわれれば、確かに黄砂のかすみ方とは違う。

ところで今日は雨上がりでもないのに、やはり靄。
夜と昼の温度の日較差が大きいために発生したのだろう。
くっきりしない眺望のまま、六連島に行って、帰って来た。
六連島航路は一日4往復だから、1時半過ぎには帰宅できた。

昨日の「蓋井島訪問記(続き)」 と 今日の 「六連島燈台」 はHPに掲載予定。
蓋井島燈台訪問を機に、HPに新コンテンツを設けようと思っている。
取り敢えずは仮題で、「島へ、岬へ、燈台へ」 とでもしようか。
10日までには何らかの形になるだろう。


島へ、燈台へ、蓋井島燈台へ。

2006年03月07日 21時44分05秒 | 燈台めぐりノート
今日は良い天気だ。 風は昨日から無い。
ということは、響灘(日本海)の波も静かなはず。
ということは、島に渡る絶好のチャンスじゃないか!

それとなく、家人に今日の昼間の予定を聞いたら、「別に何も(ない)」
この機を逃さず、『北北西に針路をとれ!』
長府の北北西には 蓋井島 (ふたおいじま) がある。
(本当は西北西、です)
山口県の西海岸、響灘に浮かぶ人口200人の蓋井島にも燈台がある。

蓋井島の北には、ブラントン設計で第1等レンズを備え、
日本の燈台50選に選ばれた血統書つきの角島燈台があり、
南には、慶応3年の大坂約定に基づく歴史的燈台で、
現存する明治期の燈台では4番目に古い六連島灯台がある。
角島燈台、六連島燈台、更に関門海峡東口の部埼燈台 (5番目に古い)を並べて、
私は私の狭い範囲での 「燈台スター海道」 と呼んでいるが、
その中にあって、蓋井島燈台もまた、遜色のない歴史と実績を持っている。

本土側の吉見港から船に乗った。
3月までは一日1往復の連絡船で、出発時刻は確認済みだ。
35分で蓋井島に着く。
波は、無い。 ベタ凪、というのか。 鏡の海、というのか。
しかし視界は悪い (2km 程度?)。 急激な気温上昇で霧が発生しているのか。
後で考えるに、霧プラス黄砂じゃないだろうか。

10時過ぎに島に上陸。 目指すは山の上の燈台。

(この続きを書き足すことになるのか、HPに取り掛かることになるのか不明、です)

取り敢えず、本日はここまで。 (スイマセン)


この続きは、親サイト「葡萄舎彩々」 → 燈台賛歌 → 燈台紀行 1
でご覧ください。 ( 2006/03/16 追記 )

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満珠島燈台 下関市長府沖

2006年02月25日 17時45分25秒 | 燈台めぐりノート
日本全国で、燈台の数は 3300余 といわれている。
船舶航行の大動脈であり、海上交通の難所でもある関門海峡に望む下関には、
歴史的価値を持つ燈台や、海峡航行に欠かせない重要な燈台が配置されている。
北から、角島(つのしま)燈台、六連島レ(むつれじま)燈台、台場鼻(だいばはな)燈台、
対岸の北九州には、部埼(へさき)燈台、等々で、 どれもみんな好きな燈台だ。

私が住む、下関市長府 から最も近い燈台は、満珠島(まんじゅしま)燈台 だ。
長府の沖合い, 2.3km に浮かぶ無人島に建てられている。
燈台ファンになって、真っ先に訪ねたい燈台だったが、
船がなければ近づけないから、私には「近くて遠い燈台」 だ。
ワイン仲間で、HN が 「釣り迷人」 さんにこの話をしたら、
2・3日うちに釣り船を用意してくれた。 持つべきは 飲み友達 だ。

船は朝9時に出港。
満珠島の周囲は岩がゴロゴロしていて、満潮でなければ桟橋に近づけないとのこと。
なるほど、餅は餅屋、だ。
10分で到着。 船さえあれば、こんなに簡単に来てしまうんだ!

ところで
地元の人は、満珠島 などと呼ばない。 満珠干珠(まんじゅかんじゅ) だ。
長府沖 1km に浮かぶ、もう一つの小島との総称だが、
満珠と干珠、諸説あって、2つの島の名前で、どちらがどちらかはっきりしていない。
いまどき珍しい話だ。
私は 「満珠島灯台」 のプレートをつけた燈台がある島を 満珠 と呼ぶ。
私の基準は灯台だから、当然のことだ。
なお、満珠干珠は 長門一ノ宮 ・ 住吉神社の神域でもある。
神様には島の名前はどうでもいいのだろう。

満珠島灯台。
見ようと思えば、いつでも見れる燈台だが、船がなければ近づけない。
近くて遠い、「わたしの」 燈台だ。

北緯 33°59' 41", 東経 131°01' 36"
白色 塔形 コンクリート造
単閃白光 毎4秒に1閃光
2000カンデラ
光達距離 13海里
地上~頂部:15.9m、水面~灯火:16m
初点灯 昭和9年10月20日
改築 昭和61年2月

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ふるさとの燈台 川尻岬灯台

2006年02月23日 22時24分01秒 | 燈台めぐりノート
山口県人はどうだか知らないが、長州人は政治好き、だ。
力のある政治家を輩出したことも手伝ってか、山口県の道路はすこぶる良い。
それは幹線道路よりも、地方道、農道において顕著だ。
A代議士の墓がある油谷町(現 ・ 長門市油谷) の道路は、それは立派なものだ。
私の高校時代、大学時代を通じての友人F は、向津具半島川尻の生まれだが、
あの頃はまだ道路事情が悪くて、彼は高校の近くに下宿していた。 
今なら、楽に通学できただろうに。

彼が生まれ育った川尻に川尻岬があって、燈台が建っている。 
川尻岬燈台。 正式には長門川尻岬燈台という名称だ。
川尻の集落で二人の土地の人に、川尻岬燈台への道を聞いたが、教えてくれる内容が違う。
それも、直進していい、と言う人と、バックしろ、と言う人だから、
こちらは股裂きの刑にあったようなものだ。
山に登っていた頃、道に迷ったら元の場所に戻れ、と教わったのを思い出して、
二択でバックを選んだ。

道は良いから、数キロのバックは苦にならない。
海があって、緑が多くて、道が良くて‥‥。 
後背に大都会があれば格好の別荘地だろうに!
川尻岬は公園になっていて、そこまで車でいける。
潮場の鼻燈台と今岬燈台と、2つの山道を駆け上り駆け下った後だから、
楽ができるのは嬉しい。 公園から、岬の突端に燈台が見える。 
初めての土地で、目標が視認できるのはこれまた嬉しいことだ。

しかし、燈台が遠望できるのも考え物で、なまじっか見えるから、
気ばかりあせっても脚がついていかない。もどかしい。
下って上って、たどり着いた燈台の敷地からの眺望は、一方向を除いて、悪い。
驚いたのは、普通、燈台にたどり着けばそこが行き止まりで、
それから先は海に転落するのがオチだが、
川尻岬燈台の場合、道は燈台の脇からさらに先に伸びている。
ここは海釣りのメッカ、なのだ。 
燈台への UP DOWN の途中で海岸を見下ろすと、岩場に何人もの釣り人がいる。
ニュースで、時折、遭難が知らされる。 高波にさらわれて命を絶った人は数知れない。
故人にはお気の毒だが、自制が効かない人間に、灯す燈台は、ない。

北緯 34°26' 27", 東経 130°58' 24"
白色 塔形 コンクリート造
明暗白光 明4秒暗2秒
6,000カンデラ
光達距離 20海里
地上~頂部:8.6m、水面~灯火:70m
初点灯 昭和4年11月30日

ふるさとの燈台 今岬燈台

2006年02月22日 22時04分26秒 | 燈台めぐりノート
かつての大津郡日置町黄波戸は、長門市日置黄波戸と変わったが、
変わったのはそれだけで、他は何も変わっていない。
高校時代、一番信頼した友人宅も昔のままだ。
この友人宅には想い出がある。 彼の結婚披露宴で司会を頼まれ、
彼のために勿論受諾したのだが、
打ち合わせに行って、そのあと酒を飲むことになった。
彼の父君も交えての酒盛りとなり、一晩呑み続けて朝まで飲んだ。
その量、4升5合! 私が2升飲んだらしい。 いまだに破れていない私の記録だ。

長門市から黄波戸の集落を眺めれば、その突端に筍状の岩肌が見える。 今岬 だ。
最近まで、今岬 に燈台があるなんて知らなかった。
ある、と知ってから郷里の友人に尋ねたら、「あるけど、歩いて遠いゾ」
しかし、3ヶ月前の私ならイザ知らず、今の私に躊躇はない。

車は茅刈(かやかり) などと、刈干切唄みたいな集落の集会場まで。
途中までは比較的はっきりした下りの坂道だが、それからはただの踏み跡をたどるだけ。
海はベタ凪で潮騒も聞こえないが、最近備わりつつある 「勘」 で、
海に突き出た地形のどこかを歩いているのだ、と自分に言い聞かせるしかない。
頼りの電柱も電線も見当たらない。
それでも突き進んだら、これまでの灯台めぐりでは見たこともない建造物が。
太陽電池の発電装置だ。 これも、時代の流れだろう。
どうりで、電柱も電線もないはずだ。 
ほとんど下りばかりで燈台にたどり着いた、ということは、帰りは上りばかり、ということだ。
ただ、知らない道を疑心暗鬼で下るよりも、
一度通った道を上る方が早かったのは気のせいだろうか。

東には海上アルプスと称する青海島が、西には千畳敷の発電用風車が、北には見島が。
いい眺めだ。 長門市から筍状に見えた岩は、眼下に見下ろす格好だ。

位置  本州北西岸 北緯 34°24' 50", 東経 131°08' 01"
塗色及び構造  白色 塔形 コンクリート造
等級及び灯質  郡閃白光 毎10秒に2閃光 [Fl (2) W 10s]
光度  6,000カンデラ
光達距離  20海里
高さ  地上~頂部:6.6m、水面~灯火:74m
初点灯  昭和34年1月 [1.1959]
備考  昭和59年1月 改築

部埼(へさき)燈台 北九州門司区

2006年02月12日 20時40分01秒 | 燈台めぐりノート
昨日のワイン会は、夕方6時半に始まって、お開きは深夜0時だった。
さすがに眠くて朝寝をしたが、天窓から差し込む陽射しはやたら明るく、空も青い。
空が青ければ海も青いだろう。 燈台日和じゃないか!

昼過ぎに関門橋を渡った。 目指すは 「部埼(へさき)燈台」
部埼は関門海峡の東の入り口にあって、
豊予海峡方面、瀬戸内海方面と分岐 ・ 合流する海上交通の要衝にある。
海岸道路を進めば、
海に向かって松明(たいまつ)をかざす 「清虚(きよかげ)像」 が目に入る。
清虚は天保年間の僧で、下関から高野山に向かう途中、この海の難所にさしかかり、
高野山での修行を断念、山頂に結んだ庵で火を焚いて往来の船の目印とし続けた。
清虚の志は明治になって洋式燈台の建設として実を結んだ。

九十九折の石段を上り詰めると燈台の敷地だ。
こじんまりとしているが、歴史のある、重要なポイントにある灯台だ。
日本の燈台50選に数えられている。
旧官舎は潮流信号所となって、潮の早さ、方向、傾向を知らせる電光表示板が建つ。
燈台の正面は小野田の火力発電所に向いている。
目を左に転じれば、長府の火力発電所。 海岸の神戸製鋼所に隠れて見えないが、
その陰には、葡萄舎があるはずだ。 いや、実際に、ある。
我が街 ・ 長府を海越しに眺める感激。
関門国道トンネルで往復400円。 関門橋で700円かかるが、
手ごろな距離だし、なんたって長府の街が遠望できるのがいい。
部埼燈台には、何度か足を運ぶことになりそうだ。


瀬戸内海西部-関門海峡 北緯 33°57' 22", 東経 131°01' 31"
白色 円形 石造
3等小型(750W) 連成不動閃白光 毎15秒間に1閃光
閃光:180,000カンデラ 不動光:7,000カンデラ
光達距離 17.5海里(約32km)
地上~頂部:9.7m、水面~灯火:39.1m
初点灯 明治5年1月22日

虎ケ埼灯台 (萩市笠山)

2006年01月27日 09時26分56秒 | 燈台めぐりノート
下関から2時間の須佐まで出かけて、最低3つの灯台めぐりはしなくっちゃ、
そう思っていたのだが、高山岬と大平瀬で思いのほか手間取った。
下関へ直帰することも考えたが、萩市笠山の虎ケ埼なら少し寄り道すればいい、
そう思い直したのが間違いの始まり。 ドジを踏んだ。

子供の頃、笠山は世界で一番小さい火山だ、と教わった。
展望台からは、日本海にお盆を伏せたように並ぶ6つの島が俯瞰できる。
麓には海の魚が泳ぐ明神池や、夏も涼しい風穴などもあって、観光ポイントだ。
4年生のとき、修学旅行はここだった。
職を失った頃、笠山の中腹に関西の商社がホテルを建てると聞き、
その話に希望をかけた時期もあった。
好きだった毛利36万石の城下町 ・ 萩。 私の人生では結局、縁がなかった。

笠山の先端、虎ケ埼は、椿の原生園やコウライタチバナの自生地もあって、
比較的最近整備されたエリアだ。
車道の終点には駐車場と売店(食堂)がある。
そこに案内板があって、現在地の表示から少し東に灯台が描かれている。
歩いて5分と判断した。 ところが、行けども行けども灯台は現れない。
10分ほど歩いて引き返した。
すれ違った人に尋ねたら、「売店の後ろにあるよ」 ガァ~ン!
帰途を急いでいるときに、この20分の無駄は大きい。

売店の後ろ、松林越しに白い灯台が見える。
高波が来たら飲み込まれそうな、岬のそのまた岬に灯台は建っている。
小さいながらも貫禄のある灯台だ。
6つの島に囲まれて、ロケーションは抜群。 松の木を配して風情もある。
波打ち際にひっそりと立つ灯台の典型、かな。

北緯 34°27' 25", 東経 131°24' 00"
白色 塔形 コンクリート造
単閃白光 毎4秒に1閃光
5,800カンデラ
光達距離 12海里
地上~頂部:9.9m、水面~灯火:14m
初点灯 昭和34年9月

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