コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

「3.11」を迎えるために

2012-03-08 22:54:59 | 日常雑感

「3.11」今、日本でこの数字を見てピンと来ない方はいないだろう。
この日が近づくにつれて、新聞やテレビ、雑誌の記事や政府刊行物などで様々な特集や取り組みが知らされる。

実は、ちょっと違和感を持っている。

この災害が未曾有なものだったこと、まだまだ復興は終わっていないこと、なにより悲しみ・苦しみの中に居る人が一杯おられることは、なんら否定することでもないし、そのための多くの活動を批判するつもりは無い。
ただ、この「3.11」に話題が集中することになんともいえない感じをぬぐえないのだ。

このブログでも震災後立て続けに思いを言葉にしていた。
それと同じことを今も考えているのだなと振り返っている。

先日、あるキーワードでニュースを検索をしてみた。
「ニュージーランド 地震」
昨年の2月22日に起こった地震だ。
この頃、連日のように現地の様子がレポートされ、遺族の悲しみが伝えられ、救助隊の活躍が報道されていた。

3.11以降、報道の目は東北に向いた。
話題になることが無くなった。
では、ニュージーランドで被災した遺族の悲しみは無くなったのか…
「もっと多くの方が亡くなったのだから、私は我慢しなければ」なんて思えるだろうか。

昨年の2月の終わりに祖母を亡くした。
3.11の災害によって、「私は祖母を一人亡くしただけだから、多くの家族や知人を一度に亡くした人の悲しみより軽い」なんて思えるだろうか。

悲しみ、苦しみに、深い浅いの差はない。
その人にとっては、悲しみでしかなく、苦しみでしかない。


それと同じこととして、3.11に悲しみ・苦しみを味わった人も居る。
多し少ないではなく”居る”
そして、その悲しみ苦しみは終わっていないのだろう。

3.11を迎えるにあたって、その日をイベントのように扱って満足するのではなく、忘れていたものとして思い返す日になればいい。
それは報道のように、無理やり感情を喚起させるものではなく、悲しみ・苦しみに寄り添うことを思い返すだけでいい。
そして、3.11以外にも悲しみ・苦しみがあり、終わっていないことが一杯あることを思い返してみたい。

震災から1年だからって特別にしなくても、日々出来ることもある。
毎日同じ時間にそっとお念仏される方も居る。
何度も被災地に渡って、直接的な活動をされる方も居る。
そういう人が居ることを、なんらかの形で知らせてもらうことで、思いをはせることも出来る。

そういう思いも抱きながら、3.11というキーワードに合わせて、当日活動される知人たちと時間を過ごしたいと思っている。

京都では「京都マラソン」がこの日行なわれます。
いろんな寺院で追悼の鐘を鳴らすようです。
各地で街頭活動が行なわれるようです。
私は四条河原町で基金をするPTAのもとに、子どもと一緒に赴こうと思っています。

東北のことを軸に、多くの悲しみ・苦しみに寄り添う気持ちで。
そして、私自身の悲しみ・苦しみに寄り添う時間として。

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