コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

華光大会 ~満ち満ちたお働き

2010-11-24 19:22:11 | 真宗

3日間の華光大会が終わりました。
ご一緒させていただいた皆様、ありがとうございます。

今年も大いなる刺激をいただきました。
一味を深め合う仲間も、求め悩み苦悩する仲間も、そういう様々な”熱”が繰り広げられることによって、私がご聴聞させていただく場でありました。

終えてから振り返ると、いろんな側面で余韻が残ってます。
何回かに分けて書き記そうかなって言う気持ちがあるんですが、いろいろかまけて実現するかは…
でもまずは、法の部分から。


今回、座談会の担当ではあったんですが、自分が先生として入るものと、他の先生と組ませてもらうものと(しかも日によって違う先生)あったりして、それぞれアプローチが違ってちょっと私の中の継続性が弱い感じがありました。
でも、一貫してベースに流れているものは間違いなく同じものですね。

私が先生として関わらせてもらった2回の座談会では、そのベースとなるものが特に強く表れた気がします。
”わたし”の側の求めているもの、法悦であったり体験であったり、納得であったり理解であったり、そういうものと仏法で聞かせてもらうものとは違うと言うこと。
わが身を知ることは大事ではあるけれど、そこは突き詰めれば「聴けるはずのない身」であり、「堕ちていくしかない身」であると言うことで、そこが変わったり良くなったりすることはないですね。
だから「仏様はなんとおっしゃってる?」というところに翻していくんですが、言葉だけでやり取りするとそれも方法論に陥ってしまう。
根本である”仏願”は、私が求めるだとか、私が聞き開くだとか、そういう次元ではないところで、常に・すでに働き続けてるものなんですね。

よく「そのままのお救い」って言葉が使われますが、それは私が「何もしないでそのまま」という自分で放棄することではなくて、「何も出来ない私」という前提の上で、「出来ないものが何もしなくてもOK」という大いなる力が私に働いているからこその「そのまま」なんですね。
その「お働き」を抜きにして、「どうやったら自力を捨てられる」だとか「どうやったら阿弥陀様に向き合える」だとか、自分のありようを何とかしようとする・・・がんばって「そのまま」になることでは決してないんですね。

その「お働き」を感じれば自分の何かが変わると思って探ったり待ったりするんですけど、それも実は大間違い。
こちらが知覚することが出来ないところで、常に・すでに働き続けている。
こっちがそれを分からないだけなんです。
もちろん、分かる力もありません。

でも、よーく振り返ってみると、何かの縁に触れてふと「ありがたいなぁ」とか「うれしいなぁ」とか「申し訳ないなぁ」とか、思わず(自分で動かそうとせず)心が動くことはないでしょうかね。
時には思わず「南無阿弥陀仏」と口をつくことがないでしょうかね。
そんな動きの意味を求めても、仕組みを求めても仕方ありませんよ。
私が知覚し得ない働きがあって、動かされているんですから。
ついつい口から「南無阿弥陀仏」が飛び出す…
私の力でありえるはずがないんです。

それを、やれこれは自力だとか他力だとか、喜びが伴ってないとか叫びあがるものでないとか、そういうありようにとらわれて自分で”判断”しようとしている。
そんなこちらの枠に収まるもんじゃないんですけどね。

こんな私の口からお念仏が飛び出してくることほど、知覚しようのない働きがあるってことの証拠はありませんよ。


この華光大会で、最後のご法話は増井信先生でしたが、まさにこのことを分かりやすく力強くおっしゃってくださいました。
私の言いたいことと同じことを法話してくださるとは流石だなと。
いや、これは冗談ですが…
というか、単なる冗談ではなく、人間的なところでは同じことを考え、同じことを伝えようとすることは偶然のようにも思えるんですが、大元の阿弥陀様の願いがハッキリしているんだから、表現は変わることがあれど、「機の真実・法の真実」は変わりようがないんですね。
(真実がいくつもあったら困ります)

もちろん、その真実を増井信先生はじめ、多くの先生方から繰り返し教えてもらっているのですから。
でも、ただ教えてもらったことを覚えて話しているのではなく、教えてもらったことがこの身にかかっていることが在り難い。
考えて相手の方に伝えるのではなく、湧き上がってくる願い・思いが、言葉になって表れ、相手ではなくこの私自身が聞かされていくんですから、こんなにすばらしいご縁はありません。

この私自身はざるで、教えてもらったことも、気づかせてもらったことも、ましてや阿弥陀様の願いすらすぐに忘れて・・・いや忘れる以前にわからないまま、今ここにいます。
でもそんな聞けない・分からないやつが、常に・すでに働いている法の海に浸っていることで、ざるがざるのまま本願にかなっていける。

私が、法に浸っていることを知らないだけなんです。


増井信先生のお話は、ご自身のブログでも触れられています。

かりもんの実践的!真宗法座論