ぶうりんの希望の種まき新聞

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「不登校・当事者から学ぼう! ~当事者学のすすめ~」に参加して

2008年04月23日 | 過去の記事
 不登校体験者であり、「東京シューレ通信」の発行などに参加し、さまざまな活動をする経験から、「学校に行かない生き方」があることを実感してきた、『須永祐慈さん』を講師にお招きし、「当事者」の声に学ぶことの大切さについてお話していただきました。

2004年9月5日(日) 13:30~16:30
   福山市男女共同参画センター「イコールふくやま」

  主催:女性と子どもの支えあいの場「PROP]

 人は誰しも何かの当事者だという。女性という当事者だったり、交通事故の被害者という当事者だったり、あるいは加害者という当事者だったり。なるほどいろいろな角度から見れば、人はいろいろな意味での社会的弱者の立場の当事者になっているのかもしれません。その意味で言えば、私自身は、不登校の子どもの母親という当事者であり、子どもは、不登校の一番の当事者ということになります。
 とか言う私は、三人の子の親ですが、現在三人とも学校へ行っていません。初めに不登校を始めたのは、現在中三の長女でした。中一の終了間近という頃に、「お腹が痛い」と言って三日ほど学校を休み、その後は「学校へ行きたくないから行かない」と断言してから、ほとんど学校へ行っていません。
それは、本当に突然でした。クラブの新しい道具を買い、美容院へ行って髪を散髪し、お店の人に「かわいいね」と言われ、ニコニコしていた週末の休み明けのことでした。保育所のときも、小学校のときも、「行くのが当たり前」「言われたことはやるのが当たり前」と、毎日まじめに過ごしていた娘が、突然『学校行かない宣言』をし、毎日十時過ぎても起きてこない。友達が迎えに来ても顔を出さず「行かんって言っといて」と伝言を頼まれ、私は子どもの前でオロオロするばかりでした。学校や同居している祖父母には、「本人が行きたがらないので休ませます」と毅然として訴えるのですが、やはりどこか自身を持てず、問い詰められると、態度や返事は変わらないのですが、心の中は揺れるばかりでした。
それまでにも、今中一になる男の子と小四の男の子が、学校や保育所に、行きたくないときが続くことは、かなりありました。「行かなくったっていい」と、認めていた私でしたが、学校や保育所や祖父母から、責められることをかなり恐れていたように思います。わが子が学校や保育所に行かないことを先生や祖父母は、「育て方が悪い」「甘やかし過ぎ」「親の考え方がおかしい」「行かれないのならば連れて行くべき」などとまくしたてていました。そして、私自身、自分の子育てが本当に間違っていたのではないか、私の考え方が異常なのか、と悩み苦しんだりもしました。私にそう言ってくれる人の言葉の裏には、「本人は一歩踏み出せば行けるんだから」とか、「本当は行きたいと思っているんだから」という言葉が含まれていたからです。
でも、私はそのとき、自分の子育てや自分自身の考え方を否定することは、わが子が「間違った子育て・異常な母親の産物」と言われることを肯定することになる、と思ったし、わが子の一番近くで寄り添っていて、子どもの姿が「本当は行きたがってる」とか「学校や保育所に連れて行けば楽しく過ごせる」という状態にはとても思えませんでした。「学校に行きたくない」ということを精一杯表現しているように思えたのです。そして長い時間をかけて悩み苦しみ、私の出した結論は、「わが子はおかしくない。異常ではない。何も悪くない。イヤだと思うことを拒むことはむしろ正しい反応だ。」ということです。そして自分自身も肯定することができました。
ある日こんなことがあったのを思い出します。PTAの集まりの後に職員室に呼ばれ、先生方から質問攻めにあったことがあります。そのときに、先生は不登校の原因探しをしているようでしたが、どうもそれは母親としての不行き届きな点探し、という感じで、ついに先生の出された結論は、「お母さんがいろんなことをして忙しくしているから、親子のスキンシップや愛情の表現が不足しているからでしょう」ということになったのです。私は、あきれて帰ってきたものの、あまりにつらくて、テレビを見ていた子ども達に先生に指摘されたその言葉を「こんなん言われたんよ」と吐き出したら、三人揃って「有り得ない!」という言葉が返ってきたのです。なぜ学校に行かなくなったのか、これまで子どもに質問できずにいた私でしたが、子ども達の本音を少しでも聞き取ることができて、うれしい瞬間でした。また、不登校の原因は「私」ではないと断言してもらえたこともうれしかったのです。
須永さんが「子どもの本当の声を聴きましょう」と話してくださいました。本当の声を聴くことはとっても難しい。こちらが質問することは、単にこちら側が聞きたいことであって、子どもの話したいことではない。そんな質問に答えるには、子どもは相手の期待する言葉をさがして答えてくれるでしょう。でも、いつかこんなふうに突然に自分の本当の気持ちをぽろっと話してくれるのでしょうね。こちらが聞こうとして答えてもらうものではなく。  
社会的弱者の立場の人を苦しませる言葉は、たくさんあります。そしてそれは、「あなたのことをすごく心配してるのよ」というとても優しい言葉として、いとも簡単に使われているのではないでしょうか。「学校には行けなくても、社会に出られればいいじゃない」「今いやなことを避けて通るのは簡単だけど、社会に出たら、もっともっといやなことはいっぱいあるよ、辛抱する力をつけないと」…。
娘もいっぱいいっぱい悩んで考えてきました。今の自分をみつめて、将来をみつめて、過去も振り返って。でもそのことは、今の彼女にとってマイナスではなく、彼女の力になっていると感じるのです。須永さんも、フリースペースに通い始める前の二年半の年月が大切な時間だった、と話していました。娘もいつか自分を振り返ったときに「あの時間が必要だったんだ」と思えるようになるのだと思います。と、私が考えているよりも、すでに深く悟っているかもしれませんが…
わが子が不登校をしてくれたおかげで、私は、たくさんのことを考えてくることができました。「なぜ、学校に行っていれば安心で、行っていないと不安なのか」「将来のために今辛抱して生きることに大きな意味があるのか」…。これまで自分が生きてきた価値観を見つめなおす、私にとっても大切で必要な時間、となりました。世の中に流されず、自分の気持ちに素直になれたわが子の不登校に敬意を払いたい。
元不登校当事者という立場で、須永さんが不登校当事者の気持ちを話してくださったことで、私の目の前にあった霧がさあっと晴れたような気がしました。言葉や意識の中にあった暴力から解放された気がします。当事者が語る力強さが、きっと勇気をくれたのでしょう。私も、不登校の子の親という当事者として、誰かを勇気付けることができるかもしれませんね。とは言っても、何かあれば、また悩んだり苦しんだりしてしまう私です。そんな時は、「親の会」へ出かけていって、そっと思いを話したいので、みなさん聞いてくださいね。
            

須永さんは現在、「東京シューレ出版」を立ち上げられ、日々奔走されています。
               2008年4月23日 記す





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