タマシイの宝庫ですぞ
〘梁山泊〙主宰の、名久井良明先生からのお便りの中に、まぎれ込むように上野霄里先生宛ての、H・ミラ—について書かれたアメリカ人の手紙がありました。これは貴重なものだと思いました。『H・ミラー、上野霄里往復書簡集』の上梓が今は望めないと分かっている。完全に諦めては居ないが先生の御意志はそうとう固そうなのだ。上野霄里著『単細胞的思考』は丁度五十年前に発刊を見、全国の書店で発売された。いまも、ネット販売されているし、都内中野区にある『明窓出版株式会社』から平成十四年に復刻出版さている。著者の上野霄里先生には勿論、著書そのものに惚れ込んだ社長増本氏自らが懇願して実現したものだった。知性圏を戦慄させた【禁書】、著者は隠者か、極悪人か! と帯に謳っている。しかし現代ではそのハードさも、かなり普通さに変わって来ているかも知れない。ただそのH・ミラーとの書簡であるが、ハードとかソフトとかいう観点からではなく、上野霄里先生自身の自己革命の真直中での出来事だった。牧師という上着だけではない,内部の“カミシモ”をかなぐり捨て、毎日を家族と共に生きていく元牧師先生となって、山の中に入っていった訳ではなかった。昨日と同じ暮らしを、人の目や耳や、日常の地続きの中での今まで以上に厳しい暮らしである。奥さんが用意する新聞に挟まってくる広告紙をB5の大きさに切って急いで用意しなければならない。先生は猛烈なスピードで書きまくるからである。まるで編集者が先生のものは売れに売れて、上司からどやされて、大勢が顔を上気させて詰めかけて来ているみたいだ。実情は、その逆である。誰も来ないし、誰も知らない。売るとか、出版とかは今子奥様は一度も耳にした事はない。毎日二十枚の広告紙に書いた原稿を読んで聞かせてくれるだけである。これが、いつしか『単細胞的思考』と呼ぶ様になった日記。
ある日、アメリカの文豪であるヘンリー・ミラーから手紙が舞い込んだ。先生がミラーの著作を読んで、その感想を送った返事がきたのである。「君は私の本を読んでセックス描写が多いが何故かと訊ねて来たが、私の全著作を読んだのか。君の云う描写の部分は十パーセントもないだろうよ」と。(これは,上野先生からの聞き書きである)。上野先生は原書もふくめて、手に入るものことごとく読破し、それを機にミラーとの文通が始まったという。
このように「単細胞的思考」という手記と併記されるかたちで数十年にわたって行われた“文通というドキュメンタリー”を誰もが、ましてや『単細胞的思考』を通読された方はなおさら読みたいと思う筈です。
「佐藤さん、私が管理しているので大丈夫ですよ」と仰っていた今子奥様。しばらくして、ある日、先生と電話で話している時、その件に及ぶと、厳しい口調になり、「私が死んでからにしましょう」と言われた。増本社長もいっしょでしたが、二人で頷く他はなかった。「よきにはからえ」と、たいがいの事に対してOKを出す先生でしたから、一度拒絶反応を示されるとどうにもならないと思うのでした。
次に、冒頭に記した、アメリカの方の、H・ミラーと上野霄里先生に関して書かれたお手紙を紹介致します。第三者によって二人の文通が証明された初めての物です。1966年〜1980年の間、一千通以上と言われるお互いに交わされた信書の存在。タマシイの宝庫と言わないで何と言いましょう。その中の一通について書かれているのです。
1997.1.31(平成9年)
上野霄里様
突然、貴方の許可を頂こうと、このような手紙をさしあげること、お許し下さい。
巨大なピアニストであった亡父、ヤコブ ギンペルは、ヘンリー ミラーと深い交友関係にありました。そういった二人の文通の合間に、ミラーは父に、彼が貴方に宛て書かれた手紙のコピーを渡したことがあります。その手紙の日付は1966年5月23日となっており、その中でミラーは、音楽に対する熱い思いと、音楽に対して抱いていた彼自身の認識論に関して述べているのです。亡父の持っていた書類の中から、このコピーをみつけ、これを『ミラー・キンベル書簡集』に入れたいと思ったのですが勿論、貴方の許可を頂くことなく、これを出すような事はしたくありません。是非頂きたいのです勿論、この本の出版の暁には一冊、そちらに送らせて頂きます。カルフォルニヤ大学のロスアンゼルス分校にある、ミラー文学コーナーでミラーファイルを探して貴方の住所を知りました。例のミラーの手紙を貴方に送りたいと思っていましたが、貴方とミラーとの文通の時代が余りにも前のことでもあるので、一度、貴方にお伺いを立ててからの方が良いとも考えたのです。
ミラーは亡父に宛てた手紙の中で、貴方のことをひどく尊敬し、暖かい念いで書いています。
貴方と貴方のご家族の健康を願いつつ……
心を込めて
ピーター ギンペル
〘梁山泊〙主宰の、名久井良明先生からのお便りの中に、まぎれ込むように上野霄里先生宛ての、H・ミラ—について書かれたアメリカ人の手紙がありました。これは貴重なものだと思いました。『H・ミラー、上野霄里往復書簡集』の上梓が今は望めないと分かっている。完全に諦めては居ないが先生の御意志はそうとう固そうなのだ。上野霄里著『単細胞的思考』は丁度五十年前に発刊を見、全国の書店で発売された。いまも、ネット販売されているし、都内中野区にある『明窓出版株式会社』から平成十四年に復刻出版さている。著者の上野霄里先生には勿論、著書そのものに惚れ込んだ社長増本氏自らが懇願して実現したものだった。知性圏を戦慄させた【禁書】、著者は隠者か、極悪人か! と帯に謳っている。しかし現代ではそのハードさも、かなり普通さに変わって来ているかも知れない。ただそのH・ミラーとの書簡であるが、ハードとかソフトとかいう観点からではなく、上野霄里先生自身の自己革命の真直中での出来事だった。牧師という上着だけではない,内部の“カミシモ”をかなぐり捨て、毎日を家族と共に生きていく元牧師先生となって、山の中に入っていった訳ではなかった。昨日と同じ暮らしを、人の目や耳や、日常の地続きの中での今まで以上に厳しい暮らしである。奥さんが用意する新聞に挟まってくる広告紙をB5の大きさに切って急いで用意しなければならない。先生は猛烈なスピードで書きまくるからである。まるで編集者が先生のものは売れに売れて、上司からどやされて、大勢が顔を上気させて詰めかけて来ているみたいだ。実情は、その逆である。誰も来ないし、誰も知らない。売るとか、出版とかは今子奥様は一度も耳にした事はない。毎日二十枚の広告紙に書いた原稿を読んで聞かせてくれるだけである。これが、いつしか『単細胞的思考』と呼ぶ様になった日記。
ある日、アメリカの文豪であるヘンリー・ミラーから手紙が舞い込んだ。先生がミラーの著作を読んで、その感想を送った返事がきたのである。「君は私の本を読んでセックス描写が多いが何故かと訊ねて来たが、私の全著作を読んだのか。君の云う描写の部分は十パーセントもないだろうよ」と。(これは,上野先生からの聞き書きである)。上野先生は原書もふくめて、手に入るものことごとく読破し、それを機にミラーとの文通が始まったという。
このように「単細胞的思考」という手記と併記されるかたちで数十年にわたって行われた“文通というドキュメンタリー”を誰もが、ましてや『単細胞的思考』を通読された方はなおさら読みたいと思う筈です。
「佐藤さん、私が管理しているので大丈夫ですよ」と仰っていた今子奥様。しばらくして、ある日、先生と電話で話している時、その件に及ぶと、厳しい口調になり、「私が死んでからにしましょう」と言われた。増本社長もいっしょでしたが、二人で頷く他はなかった。「よきにはからえ」と、たいがいの事に対してOKを出す先生でしたから、一度拒絶反応を示されるとどうにもならないと思うのでした。
次に、冒頭に記した、アメリカの方の、H・ミラーと上野霄里先生に関して書かれたお手紙を紹介致します。第三者によって二人の文通が証明された初めての物です。1966年〜1980年の間、一千通以上と言われるお互いに交わされた信書の存在。タマシイの宝庫と言わないで何と言いましょう。その中の一通について書かれているのです。
1997.1.31(平成9年)
上野霄里様
突然、貴方の許可を頂こうと、このような手紙をさしあげること、お許し下さい。
巨大なピアニストであった亡父、ヤコブ ギンペルは、ヘンリー ミラーと深い交友関係にありました。そういった二人の文通の合間に、ミラーは父に、彼が貴方に宛て書かれた手紙のコピーを渡したことがあります。その手紙の日付は1966年5月23日となっており、その中でミラーは、音楽に対する熱い思いと、音楽に対して抱いていた彼自身の認識論に関して述べているのです。亡父の持っていた書類の中から、このコピーをみつけ、これを『ミラー・キンベル書簡集』に入れたいと思ったのですが勿論、貴方の許可を頂くことなく、これを出すような事はしたくありません。是非頂きたいのです勿論、この本の出版の暁には一冊、そちらに送らせて頂きます。カルフォルニヤ大学のロスアンゼルス分校にある、ミラー文学コーナーでミラーファイルを探して貴方の住所を知りました。例のミラーの手紙を貴方に送りたいと思っていましたが、貴方とミラーとの文通の時代が余りにも前のことでもあるので、一度、貴方にお伺いを立ててからの方が良いとも考えたのです。
ミラーは亡父に宛てた手紙の中で、貴方のことをひどく尊敬し、暖かい念いで書いています。
貴方と貴方のご家族の健康を願いつつ……
心を込めて
ピーター ギンペル