独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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 言論の不自由について         公園小父さん

2018-08-09 11:31:20 | 日記
 三人で話すと私以外の二人は互いに同調しあう。私に対して共同戦線をはるようになる。相手が、三人、四人、もっと大勢でも同じような現象がおきてしまう。「そうじゃないと思うな、なあ、そうだろう?」と私以外の人と顔を見合わせ、私と対立する構図ができてしまうのである。決して一対一のとき角は立ちません。この文章も、読んだ人はそうなるような気が致します。
 子供の頃からそうでした。子供の頃は、悩みましたが、文学(ブンガク)と出会い風向きが変わりました。作家も詩人も、とくに外国は、単独者、つまり個人なのです。日本は、派閥や門閥があったりで社会性の片鱗がくっついていますが、あちらは、単独なのです。
 私はいつも一人であり(これには色んないきさつや、理由があったが此処では省きます)精神的に“独りの世界”のなかで生きて来ました。(なんか、カッコいいですが、それは違います)「お前は、エゴだ、誰もお前のことなど、理解などしないさ」。そういう声が、いつも聞こえていました。
 ところが、《文学》を知ると、私の出逢った作家も詩人も、みな独りだという事が分かりました。一般的に、特に政治的に反社会性とか、反社会勢力とかいわれるのは、社会の中で中央に背を向けたもう一方の群れだった者等です。「文学」の場合、現実的な怒りの対象ではありません。「地獄の季節」を書いた詩人のA・ランボー(映画のランボーではありません)とか、「マルドロールの歌」を書いた詩人ロートレアモンは、何一つ社会にアピールすることもなくポエムに殉じたのでした。社会的に役立つ、良い事は何一つ書いていないにもかかわらず、一流の芸術家が最晩年に、夢中で読み耽る内容を持つ、彼等にとっての「快楽書」なのです。一流の芸術家は数人だとしても、いまでいうミリオンセラーよりも問題にならないほどの価値なのです。しかも、それを書いた二人はどちらも、自分の詩集を目にする事も無く、アフリカの砂漠で武器商人として生きたし、もうひとりは、見本刷りを数冊受け取った数日後に突然死亡したのです。
 そういう文学は、群れないし、後ろ盾もありません。なのに、とてつもない力、起死回生のごとき援助を心の内部から与えてくれるのです。
 時代は、学生運動たけなわの頃でしたが、田舎に住む私とは関係ありません。時々上京することもあり、スクラムを組んでワッショイ,ワッショイという掛け声を交わす学生群とすれ違っても、私は全くひと事でした。
 しかし、そういう文学から受けた影響もあって、多少言動や、文章の表現等も過激になっていたのは事実です。出版などに関係していると、コーアンの手先みたいな人間が、いつの間にか横に忍び寄っていました。警察はじめ、どの省庁のコーアンも、絶対に姿を見せないといわれているが、私の身辺も調べ尽くしたか、今は出版からも離れ五百キロも離れた町での新聞配達夫だし、大丈夫だろうと気を許したのか、「盾の会」に潜り込もうと、三島由紀夫に面接を受けたがダメになった事や、四国の議員秘書と連絡を密にしていることを話した。やがて彼は、どさ回りの「アングラ劇団」に潜り込んで、幌つき大八車と共に、九州から青森まで旅暮らしもした。それから、千葉県で宗教団体に入ったと風聞で知ったが、それきりになった。秘密裏に動く義人の一面、実は卑劣な奸物であったことが私の許から居なくなって数週間して判った。それは、気づかれる筈は無いと彼が思ったとしても当然のことだった。
 それから三十年も経って、ネットへ侵入する者が現れた。やっぱり私のプライバシーも彼の通報で“リスト入り”していたという訳か。深夜、パソコンに入り込んで、日記文の箇所を弄っている現場を見つけてしまった。私としてはめずらしく数少ない政治に関するコメントや、ある作家のキモにあたる文章など、全く別の言葉に改変されていく。見ている前での作業であった。高度で精密なスキルに依る操作だった。
 あまりこういう事を呟いていると、精神に異常をきたしているとみられる。為政者はどこの國も何百年も前から、やることは同じなのだ。しかし全くの勘違いが始めにあったとすれば、だが、それも何百年も前から有る悲喜劇なのだ。
 私のポエム的直観が言わせるのだが、夏目漱石もどうやら時の政府にとって監視というときつくなるが、注意対象者だったのではないか。こういう事は、学者には嗅ぎ出す事は難しいと思う。彼等に出来るのは、せいぜい、「精神に異常をきたしていた」という情報に注目し、その方面からの「調査」と「究明」くらいである
 夏目漱石はロンドンにいるときから、彼等の監視下(?)にあったとみるのは私だけか。彼等とは勿論,夏目漱石を選抜してイギリスへ「派遣留学生」として送る決定をした、日本国政府文部省であった。「夏目狂セリ」という噂がたったのは、彼等の依頼者がたてた可能性もある。土井晩翠を密偵あつかいしては気の毒だが「夏目狂セリ」とは晩翠の訪問で漱石の異変を知った岡倉由三郎が文部省へ発信した電文であった。大学で同級だった菅虎雄も、当時,一高の教授をしいたが、鏡子夫人の話しや、自分の印象から「彼もまた金之助の発狂を信じていた。」『漱石とその時代』(江藤淳)
 帰国してもつづいた。借家住まいの漱石の隣家に、密偵らしき者が、学生の身なりをして住み着いていた。鏡子夫人の手記か、それとも本人の日記だったろうか、漱石は朝起きると、まず窓辺に行き、隣家の二階にむかって「おい、探偵クン、きょうの調子はどうかね」というような言葉をかけていたという。益々被害妄想の疑念をもたれたことだろう。漱石が明治44年、当時の政府(文部省・西園寺公望首相)が授与しようとする〔博士〕を辞退というより、拒絶したのはそういう事情を知れば、反射的な自然な行為であったことが分かる。(*博士問題とマードック先生と余 *博士問題の成行き *学位問題に就いて)。
 まさか、私と漱石を同列にしている訳ではない。漱石の精神疾患に関するものは学者の論文で目にするが、国家による注意対象者だったという漱石の最も屈辱的な面に注目した論文はまだ読んだ事はない。漱石自身はどうだろうか。
 しかし、何もなし、であっても彼の最晩年「則天去私」という言葉を遺したこと、それが総てを語っている様にも思える。
 今道友信先生の『西洋哲学史』に、「プラトンが『パイドロス』で、〔人間のすることの中で偉大なことというのは狂気によってのみ生じてくる……〕というのです」とあります。「病気による狂気というのは、プラトンは価値としては否定する。しかし、それとは別に神がかりの狂気というのがあるとプラトンはいうのです。」夏目漱石の後年の約十年間の作家活動、その偉業は、精神疾患のままでは出来なかったであろう。まさしく神懸かりの狂気が為したと考えるべきである。不自由な言論ながら私はそう思った。