独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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言論の自由とは        公園小父さん

2018-08-04 14:31:47 | 日記
 言論の自由とは、特別にことばを職業にしている人たちだけの問題ではない。人間であれば、誰でもさまざまな思いに暮れ、悩みをかかえ、主張を持つのである。生活活動から引退していて散歩するだけの人間であっても“考え事”という脳活動は止む事はないのである。
 しばらく振りに、太極拳の舞の環のなかに入ってみて驚いた。二十四式があり、一式からニ式、ニ式から三式、その繋ぎのほんのちょっとした鎖にあたる振りが出てこないのだ。その繋ぎの舞が出来ないと棒立ちになるしかない。ごまかしがきかないのである。十三年もやったのだから自分ではすぐ出来ると思っていた。それが甘かった。また環にくわわるためには一式から、二十四式まで通して、一人で完璧に舞うことができる様になるまで稽古をしなくてはならなかった。かつて訓練に使用したプリントを出して空き地の隅で稽古をかさね、二十日後、再び「揚名時太極拳」の環の中に加わる事が出来る様になったのであった。「一日とは言えない」と導師はおっしゃっておられた。「二日休めば傍目には分かる、三日休めばぎこちなさが現れ、自分でもおかしいと気づくようになる」と。足のカガト、と爪先の違い、手首、指先のひねり、伸ばしなどのちょっとした違いで、もう形は大きく乱れるのである。
 太極拳は片足立ちが随所にでてくる。一日、一分間でいい,片足で立つ健康法というのが言われている。太極拳の舞の流れのなかでの片足立ちは、エクササイズも合わせれば一分以上はある。と言う訳で、また生活行動圏が広がりを見せた。ところで、前回のつぶやきは自分でも不完全と思うところがあった。不完全とは難しいという事である。今度も難しいのは難しいのであるが、自分なりに納得がいくことが起きたのである。
 また新聞を見ていたら、「文化文芸欄」に、丸山眞男のことが載っていた。若い頃彼の新書を読んだ事があったが、書いてあった内容は憶えていない。かすかに、日本の知識人のあるタイプを「たこつぼ型」と形容したことだけが記憶にある。それがなにを意味するかはまったくおぼえていない。
 目を止めたのは、「はじめに異端ありき」という言葉である。新聞にも書いてある様に、「正統に対して異端がくるのではなく、まず異端が現れ、これではいけないと、正統がはっきりするのだという。」と書いてある。私は政治学には興味がないので、新聞から引用しての意見は何も無いのであります。まことに、申訳ありません。まず謝っておきます。
 日本文学を眺めて、自然主義及び私小説(異端)を否定した人達が正統を作り、現代の文壇を形成したいきさつがぴったりだと思っただけです。文壇の主流の人達は歪みを糺し、やっと伝統らしきものを造り上げたと思っているらしいということです。どうやら大江健三郎さんは、その中には入っておらないようです。世界の潮流であるモダニズムを超えて日本文学も包み込んで、新しい世界を築こうとめざしておられるように思われます。
 太極拳から帰って来ると、びっしょり濡れた下着を取り替えて、まずコップの水を飲み干します。そうして、もう一杯…