独りぐらしだが、誰もが最後は、ひとり

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賑わっている道は         名久井良明

2018-01-17 00:04:10 | 日記
 日本人はなかなか自己主張ができない。「自分」がまずもてないのである。親も先生も保育園から、うっかりすると大学まで、社会をなによりも優先させてここに子供や生徒達を意識的に、又は無意識的に順応させていく。幼いときから繰り返し繰り返し長い歳月をかけてこうされることによって「自分」を持って生きる事が下手になり恥ずかしい事となってしまう。この社会性、つまり集団性はある程度必要だが反面では人の存在を大きく潰し、歪める事を認識すべきだ。こんな集団組織(しゃかい)から自己を分離することが「自分」なのである。
 発明王エジソンはその少年時代、分からない問題があるとそこに激しくこだわってその先に進めなかった。先生には「君の脳味噌は腐っている」などと言われ。退学した彼に母親が勉強を教えたのである。
「母ほど自分を認め、信じてくれた人はいない。これなくしては、決して発明家としてやっていけなかった気がする。」と彼は述懐している。
 郵便物に宛名を書くにも私達は県、市、町村を書き、最後に、氏、そして名を書く。欧米人達はまずもって自分をよく表している愛称や名を書き、次に氏を書く。そして段々と自分から遠い所番地、そして州名や国名を書く。彼等にとっては「自分」が何よりのものであって社会や国家は異常事態でもない限り抽象的なものになっている。
 狩猟民族の彼等は獲物を捕る体力や気力が有るかどうかが大切なので「How are you?」と言う。農耕民族の我々は稲の発育にかかわる天候が共通の関心事なので「今日はいいお天気ですね!」とか「よく降りますね」などの挨拶をする。「I」を言い「You」を言う欧米人にとって自分を主張するのはお手のものだ。日々こう生きているからである。
 古代ローマ帝国が滅んだように現代文明社会が滅んでいく今、私達はこの悲惨で不毛な状況に巻き込まれないために、はっきりと「自分」を持って生きるべきだ。時代や社会がいかに当てにならないかはC・チャップリンの
次の言葉でも分かる。
「戦争の時代では敵を一人でも多く殺せば英雄だ。しかし、平和な時代ではそれは殺人であり死刑になる」
 私達は戦争の反対を「平和」と呼び,今日(こんにち)を平和とみなしているが現代の状況をよく見れば戦争の時代と大差ないことがわかる。戦争が無いだけの今日(こんにち)は、平和ではなく和平と呼ぶべきだ、平和とは例え戦争の時代にあっても個人の心の奥深くに赤々と確認されるものであって、あの良寛の生き方にこれを見ることが出来る。名主の跡継ぎなど昼行灯(ひるあんどん)の彼にはまったく不向きであった。旅の僧、国仙の講話に熱く感動した彼は同行して岡山の円通寺で人一倍の修行を積んだ。彼の愚直さに感服した国仙は「大愚」の名を与えた程だ。越後に帰っても生家の敷居を跨がず、乞食坊主として五合庵や乙子神社の草庵などに住んで超俗の日々を生きたのである。良寛の人柄を見抜いた若き貞心尼は足繁く訪れてその最期を看取った。良寛は見抜いていた。同時代、同社会の正体が何であるかを見抜いていた。だから大愚の己を益々発揮して村の子供達と隠れんぼうや手鞠に夢中になって遊んだのだ。
 人間は文明礼讃の悪夢を悪夢とも弁(わきま)えず追求してここまで来た。金銭や物がものを言い、社会的な地位、名誉名声、権力が幅を利かせるこんな世は生き地獄に他ならず、実際大変な自殺や他殺が起き、山ほどの病人を生んでいるのである。賑わっている道は不毛の道だ。文明礼賛、繁栄社会賛美の催眠術から私達は目覚めねばならない。良寛ははっきりと詠っている。

 ますらをの踏みけむ世々の古みちは荒れにけるかも行く人なしに