気ままに人生送れたら¥$

  趣味の単車、写真、キャンプを楽しんで
   人に助けられながら、何とかかんとか¥$なくとも、 感謝!!!感謝!!!

東吉野村、七滝八壺。

2023年10月23日 10時02分32秒 | ドライブ

10月21日 土曜日 曇
天誅組の東吉野村に七滝八壺がありましたが、行かなかったのが心残りで行くことにしました。
9:00発~k13~R370~k16~k220・やはた温泉・七滝八壺(見に行かず。)~Uターン~k221~R166~R24 ~15:30帰宅。
走行:235㎞。
気温14度 曇り ちょっと寒い。

東吉野村走行図

高見川 村立東吉野中学校

七滝八壺の案内板 右折します。12.5㎞。

高見川に架かる出会い橋 東吉野村役場を過ぎた所。天誅組のモチーフが立派。

鎧兜が勇ましい。

丹生川上神社中社 ここの鳥居からも行けます。

紙垂の巻かれた縦長の石のそばに案内板

爺婆石(じじばばいし)

爺婆石(じじばばいし)
鳥居に向かって正面左側が爺石、右側が婆石で夫婦石とも呼ばれている。
かつてこの地方では、木材の搬送の主力が筏で享保年間(一七二四年頃) より紀州に送り出すのに始まったとされる。
当村より切り出された木材は筏を組み、爺婆石下の所を目安として川を せき止めて、水を溜める鉄砲ぜきをつくり、鉄砲水を送って筏を流す処 から、筏乗りは多年の経験を積んで一人前となったが、この筏にて川を 下るという事は命がけの仕事であった。
道中の安全を(人生の先輩、 知恵を持つ賢者)に祈る信仰がいつしか生まれ、それが爺婆石の姿とな った。
その後、時代の変遷と共に木材の運搬も自動車を主体としたものに移り 変わり、筏流しも見られなくなったが、道中の安全を願う心は今も変わ らない。
昨今では延命長寿・夫婦円満を願う老若男女が爺婆石をなでる 姿が見られる。
見返し

木霊神社(こだまじんじゃ)鳥居をくぐり30㎡ほどの所に林業の繁栄を願い祭祀された神社。

鉄砲ぜきをこの辺りに作り木材(材木=気をある程度用途に加工)を一気に流した。

神社を過ぎk220に入りすぐの所に東吉野キャンプ場。橋を渡り奥に「東の瀧」があります。前回は、滝からキャンプ場を見ました。

集落があります。

山奥深い事が判ります。

やはた温泉:500円

ひのき風呂、御影石を使った岩風呂

それらしい道になって来ました。

駐車場に到着ですが、スタンドがめり込んで止められません。道路に止めるのは私の趣味に合いませんので今回はここでUターンします。VOXで出直し。

「東の瀧」に戻りk221でR166へ

思った通りの林道道

休憩するところがありません。

開けた場所がありました。R166まで開けた場所はここだけでした。

何時もの見ての通りの豪華な昼食。

小雨が降りましたがこの程度です。高見山を久しぶりに見ました。R166に入り帰阪。

R24、R42も信号機のある交差点は右折車線があります。

R24、R42で危ないと思うのは、どちらも信号機のない交差点では、同じ道路の幅員で右折車線がないので右折車で車線がふさがります。危ない!!!

観光道路(街路樹、植え込み等)ではないので安全、機能を第一に工夫があればと・・・老害の域に入りました。
広島の安芸高田市議会の老害市議よりましですが。
再びVOXで七滝八壺へ!!!

終わり


高野山工事状況を見に。

2023年10月22日 14時05分45秒 | ドライブ

10月22日 日曜日 晴
R370の高野山・矢立峠までの道路工事が10月15日までとなっていたので見に行きました。
工事はしていませんが未完成で片側通行。完成とは表示されていませんでしたので間違ってはいません。
8:30発~11:20帰宅。
走行:115㎞。
道の駅万葉の里 旧車がずらり。

R480で高野山へ皆さん行かれました。私は、九度山町からR370で矢立峠へ。

9:20 道の駅 万葉の里 何時もの様にゆったりと時間が流れています。

キャンプ泊1組、デイキャンプ3組。

R370 片側通行・・・以前と同じ。

工事車両はありません。完成すれば直線になります。

アスファルトを流し込むだけ。

片側通行は全部赤信号で止まりました。

帰りのk13が渋滞をしないところで渋滞。対向車も来ません。前の車が細い裏道に行ったのでついていきました。

R424市場交差 やっぱり事故でした。道路のオイル処理に消防車が向かっています。

もう寒くなってきてからだか固まります。
事故なく今日も帰宅しました。
鶏のレバーを食べてヘモグロビンを作ります。
赤 血 球  2.00(基準値:4.35~5.55)
ヘモグロビン 6.9  (基準値:13.7~16.8)

終わり


天誅組史跡東吉野村へ。2/2

2023年10月18日 07時43分45秒 | ドライブ

10月15日 日曜日 晴曇 2/2
続き・・・

道標 右:小川谷河上道(k16)、左:いせくのま道

文化財(史跡)
伊勢街道道標
江戸時代の十一年(一八二八年)に、建立の?があり上部に常夜灯が、とりつけられている。
高見越え伊勢道、東高野山道に通じる要衝に建てられの交通の様子を示す貴重な史料である
当初の道標は、現在より四米糧前の三叉路の中心に近い道路上に有ったが、 昭和十七年頃、???となり、現在のあたり迄後退させた。
家は、当時紀州で本陣、伝馬所があり、また宇陀地方とを結ぶ交易の中として賑わった。なお 高見越え伊勢街道のなかで遠く江戸 を示す道標としては最西端に位置する。
平成元年三月 指定
東吉野村教育委員会
伝馬所:道の駅飯高駅、道の駅茶倉駅の名称が残っています。
いせくまの道 鷲家郵便局(道標から約50m)
紀州藩陣所跡の石碑。 戻る時に発見!小さくて判りませんでした。

八幡神社 間口の狭い参道。

鷲家川に架かる宮前橋から神社を見る。

本殿手前までしか行けません。後ろには大きな杉。ここで参拝したことにします。

郵便局から約30m。秋祭りの提灯が出されています。白い立て看板=天誅組の遺跡

藤本鉄石(贈正5位)、福浦元吉(贈従5位)の戦士の地 湯ノ谷墓所にお墓がありました。

Uターンをしてk220へ 鷲家川。 紅葉が楽しみです。

天誅組史跡の目印の桃太郎旗。電柱に隠れている白い案内板。鍋島米之助最後の地。

天誅組さきがけの道 島村省吾補縛地 徒歩20分 VOXですので行きます。

文久三年旧九月二十六日払暁、吉村寅太郎の命を受け主将及び本隊の その後の様子を確認する為、木津川より山越して鷲家口に下って来た 森下儀之助、森下幾馬、山下佐吉、山崎吉之助四名の内、森下兄弟は?の谷(市ノ谷)を登りましたが頂上近く紀州街道(赤谷口)に取付 いた時どうしたはずみか兄儀之助は左へ進み小名峠を越して脱出しましたが、 幾馬は右に進み首つり峠を越して鷲家赤谷を下る途中、折か?? 藤堂藩西荘源左衛門の隊に遭遇、その銃弾で戦死しました。
10mほど登って辞めました。舗装をしているようですが?苔がびっしり滑りました。
急坂・・・勇気ある撤退。JAFは呼べません。

k220の交差点に来ました。左折。

k220 趣のある空き家。

天誅組史跡の白い看板

きわめて趣のある家

天誅組遺跡
文久三年旧九月二十四日、天珠組前勢の隊長那須信吾 は碇屋前の彦根陣所を突破して四条儀兵宅前まで進み 彦根の部将大館孫左衛門を手練の槍で討ち取るや直ぐに踵をかえして又碇屋前の敵弾に肉迫した。
此の時碇屋の 格子の間から彦根藩士佐藤長三郎の銃が火を吹いた。
信吾は之に槍を投げつけるなり大刀を引抜いて追ったが 続く二弾三弾に信吾は満身血達磨となり此の附近で無念 の最期を遂げた。
味の店 いかり屋 たばこ ギフト 自動販売機宮業中 たばこ

宝泉寺 天誅義士菩提寺 四郷街道(よごうかいどう)

天誅義士記念石碑

明治谷(みょうじだに)墓所 維新の魁 天誅義士
吉村寅太郎・・・
緒霊 永眠之處
(明治谷)

相当な急な坂ですので何時もの様に行きません。

丹生川上神社中社

丹生川上神社中社 丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により、創祀。神社の前は高見川

境内

拝殿

左下段の石燈籠は1264年に造られたもので国の重要文化財

大麻(おおぬさ)「ぬさ」というのは本来神様にお供えする布。日本の大麻は麻薬の効果が無い。

龍玉=願いを込め三度息を吹き込み「東の瀧」に投げ入れる。穢れを取り去り、運気が開ける。

恋うらない。占いの水

樹齢1000年を超える



本殿左側にも大杉

相生の杉(夫婦杉)あちこちに有ります。奈良県の玉置神社にもあったと思います。

願の大杉

神社から100m

R220 丹生川上神社摂社



丹生川上神社
日本最古の水で水神社である。(水神を祭る神社)
祭られた初め は何時代か分からめ位古く、恐らく神 天皇の頃はこの辺りに神式の神として られていた。
最初武守の神として 出されたが天武天皇の時初めて社殿を 建て神社としての形が出来上った、この 以後は天下に良さを振らせ また大石 を止める水神の神徳が上下の人々からに 仰せられてから良時代にかけて歴代 天皇の行幸五十回近くあって、その泊り 給うところか吉野離宮であった。
平安朝 になってから行幸が絶え吉野離宮も荒廃 したので現在の地に神社を移して壮大な る建築に代ったが戦国の狂乱に及び・ 灰墟に帰し僅かに御神はその他の一部が 成のみで往年の影は失なわれた。 近世になって農業耕作に落の窓の神と して一般の信仰が驚くから本初談 新してか刺した。
現在水を最も必要と する電源開発、電力会社及び各都市の 水道方面から篤く信仰されている(補正なし。)

東の瀧 高見川、四郷川、日裏川が交わるところで、日裏川に「東の瀧があります。」

日高川に架かる「夢橋(ゆめはし)」を渡ります。しっかりしていて揺れません。

夢橋から この辺りも紅葉が奇麗でしょう。

一旦東の瀧の上流に上りました。奥にキャンプ場があります。しんどいのでここまで。

赤い橋から東の瀧を見る。ここに「龍玉」を願いを込めて三度息を吹きかけ投げ込めば大願成就!
これ以上願うものがありませんので感謝を込めて写真をパチリ。

滝から「蟻通橋」方向 今回は、七滝八壺には時間がないので行きませんでした。

和歌山県橋本市の秋祭り だんじりを引いています。対向は、500mの渋滞。

史跡、遺跡等いろんな案内板でどれが正しいのか判りませんでした。
まもなく秋の紅葉です。
今回も楽しいツーリングでした。
VOXではちょっと時間がかかりました。
少し体調が良くなりました。
今までの薬が効かなくなったので、来月から抗がん剤が変わります。
※本年1月10日の数値
 CEA     : 623.1 癌細胞または癌に対するからだの反応によって作られ、血液や尿、組織などで増加している物質。
 CAⅠ9-9: 47            治療効果をみるのに役立つ検査です。
10月17日の数値

生きてるだけで丸儲け!感謝!感謝!

終わり


天誅組史跡東吉野村へ。1/2

2023年10月17日 07時24分07秒 | ドライブ

10月15日 日曜日 晴曇
VOXで天誅組跡終焉の地へ行きました。
8:30発~R24~五條市・櫻井寺、五條仮政府~R370~k16・終焉の地~k220・丹生川上神社中社、東の瀧~16:40帰宅。
走行:181㎞。
※ コロナワクチン(7回目)発熱。
 12日、ワクチン・ファイザーを注射。
 13日、38.8℃の熱で病院へ行き、ワクチンの副作用とのことで解熱剤を飲む。
 14日、終日寝る。
 15日、平熱になったので走る。
櫻井寺(さくらいじ) 
天誅組本陣跡 (櫻井寺)
桜井寺は天暦年間(947 ~957) 桜井康成の創建と伝える古刹。
五條代官所を襲った天誅組は続い てここを本陣として五條仮政府と号しました。

境内に通じる参道。
天誅組本陣跡の石碑
櫻井寺は、幕末期には五條で 有数の規模を誇った寺だった。
天誅組は代官所(五條市役所、寺から約500m)を焼き払った八 月十七日から、「八月十八日の政変」を受け急いで天辻へ本陣を 移す二十日(いずれも旧暦)までの間、この寺に「御政府」の 看板を掲げ本陣とした。
寺には、 代官の首を洗ったとされる水盤 が残されている

境内から山門 山門左に「首洗いの石」



五條代官の首を洗った「首洗いの石手水鉢」

本堂:コンクリート造り。法事中でお経が聞こえていました。大阪方面の車が駐車。

本堂から境内方向。趣のないお寺でした。

R370 岩神(いわがみ)神社 祭神は、岩穂押開神。小さな本殿の後ろに巨岩。

境内から



岩神神社
岩神神社の祭神は、岩穂押開神と伝える。
岩穂押開神は、『古事記』に記される国津神石押 分のことで、この神は、神武東征に際して吉野で 神武天皇を迎え、「吉野の国巣の祖」とされ、『日 本書紀』では「吉野の国樔部の始祖」とされる。
同社は現在矢治の氏神である。
吉野川に面して南を向いて鎮座する社殿の背後 に、境内からでは全容が見渡せないほどの巨岩 が聳え、社名に相応しい威容を誇っている。
岩神 神社の巨岩は、近隣でも類を見ない巨岩で、同 社への信仰は、元来はこの巨岩に対する信仰に由 来すると考えられている。
社殿は春日造、素木の一間社、覆屋を設け、神門 玉垣が付属している。
神社には、元禄四辛未年(1691年)九月九日/和州吉野郡矢治岩神大明神御湯釜」と刻銘のある湯釜が 伝わっており、その形式などから元禄四年(一六 九一)に奈良県内で鋳造されたもので、湯立て神事などに供せられていたと考えられる。
この湯釜が「岩神」という神社名を確認できる最古の資 料である。
また、境内には、元禄三年・寛政十二年(一八〇〇) 文化元年(一八〇四) 天保十四年(一八四三)・安 政三年(一八五六)の銘のある石灯籠が奉献され ている。
矢治自治会

1お社の床面~お社左手の小さな岩の頂上                        約10m70cm   
2お社の床面~お社背面の大岩、階段下から最頂部              推定13~14m
3 お社の床面~お社背面の大岩、割れ目手前まででの最頂部   推定15m60cm
4お社の床面~お社背面の大岩、全体の最頂部                   約22m30cm

趣のある灯篭 左:天保14年(1843年)、右:寛政12年(1800年)

本殿前の石灯篭

本殿。巨岩と覆屋がなければ小さな祠。

k16 もう少し秋が深まれば紅葉を楽しめます。

鷲家’(わしか)川 川岸が少しだけ色づいています。

k16 天誅組終焉の地。吉村寅太郎の墓

天誅組史跡案内板



東吉野村は、幕末の当時、憂国の?士が幕藩体制を排して国家の 的改革を目指して、その思想と???殉じた地である
 即ち文久三年(一八六三年) 八月、孝明天皇の神武山に、倒幕の先鋒と称して、中山忠光卿を主将とし、藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎の三士を総裁とした「天誅組が五条に旗挙げしたが、「七卿の都落ち」に象徴される政変に依り、事、志に違い幕軍の追討を受けて吉野山間を転戦、同年九月二十四日から二十七日にかけて、当村内に於いて三総裁以下十五志士が戦死、「天誅組」は、茲(ここ)に終焉を見る
しかし、やがて 時を経ずして展開された明治維新大業の魁となり、現代日本繁栄の原動力となった事は、その後の歴史が物語つている
東  吉  野  村
東吉野村天誅組顕彰会
吉村寅太郎の墓へ。鷲家川を渡る。

見返し

吉村寅太郎の墓

ここも大きな岩

湯ノ谷墓所 カギはかかっていません。トイレと同じように開けたら閉める。

維新の魁(さきがけ) 天誅義士
藤本津之助(鉄石) 福浦元吉 松本謙三郎(奎堂) 村上万吉 森下猪久馬(幾馬)
諸霊 永眠之處 (湯ノ谷)
川を渡ってすぐ左。

墓石に従四位から正五位と刻まれています。

背面から

お墓から入口方向

厳重にフェンスで囲われた桜。今年で天誅組義拳から160年。

松本奎堂生誕の地の桜 
東吉野村と愛知県刈谷市は明治維新の魁となった「天誅組」ゆかりの地です。
平成25年(2013年) 7月1日、文久3年(1863年)の天誅組義拳から150年を 契機として、天誅組の研究・顕彰事業を中心に、両自治体の友好を更に深 め、歴史・文化を大切にしたまちづくりを進めるため「ゆかりのまち友好 市町村盟約」を締結しました。
この桜は、 刈谷市出身の天誅組総裁 松本奎堂生誕の地の桜から取り木されたもので、盟約を記念して平成27年(2015年)12月に植樹しました また、同年11月には、本村の松本奎堂戦死の他(大字伊豆尾)の桜の種から 育てた苗木が、刈谷市のセントラルパーク、松本堂生誕の地及び亀城公園に植樹されました。
さらに平成30年(2018年)5月には、奎堂戦死の地よ り挿木したカスミザクラと本村指定の天然記念物 宝蔵寺のシダレザクラ を培養した苗木が刈谷市歴史博物館に植樹されました。
5,6人の大人が川を見るでもなく何もしないで立っています。

キノコの様な何の暖簾のかかったお店からエプロンをしたおばさんが立っている人に声をかけ店の中へ。

残りの人も連れられてお店に入っていきます。
奇麗な車が何台も駐車していた理由が判りました。食事の順番待ちでした。
店の右端に積み上げてあるのはキノコの栽培用のビンの様です。

前半終了。
17日は抗がん剤点滴ですから2日間は完全にダウン、さらに2日間は無気力になります。








天誅組本陣へ。

2023年10月12日 10時53分06秒 | ドライブ

10月11日 水曜日 晴
ソフテイルで天誅組本陣跡の案内板がR168の道の駅吉野路大塔近くにあるのを見たので行きました。
9:05発~k13~k55~k39。吉野川沿い・ラフティング~フルーツロード・新高梨~k20・樺の木峠、天誅組堡塁(ほるい=とりで)跡~R168・道の駅吉野路大塔~天誅組本陣跡・道通行止め~R168~k64・雄ノ山峠~14:40帰宅。
走行:181㎞。
紀の川市 稲の藁をこのあたりではこんな風に干します。もう秋も深まりました。ジャンバーを着ていますが少し寒いです。

11:05 何時も休憩する吉野川。ラフティングです。

漕いでる人もいればじっとしている人も。

無事通り抜けたので岸に上がって記念撮影。ボートから業者の方が撮影。

ボートが先に行き、一人一人川に飛び込みます。ドライスーツを着ています。

川に流されて楽しい体験。この後再びボートに乗り下って行きました。

1㎞ほど行くと天誅組の橋本若狭生誕の地の碑。この辺りは昔滝村でした。立派なお家(益田家)の敷地に建てられています。

橋本若狭生誕地之碑

贈正五位天誅組義士橋本若狭生誕地之碑
御士益田藤左衛門の第四子として文政五年(一八二二年)十二月宇智郡滝村に生まれる。
幼名を藤 馬 通称を綱幸と称し後に若狭と改 万延元年(一八六〇年)三月三十八歳の時、吉野郡丹生村 長谷の丹生川上神社下社祠官橋本信政の後継となる。
砲術の技を修業するため 幼少より武芸を修め、当時「滝の今弁慶」とさえ言われた。
常に各地を巡歴する中、諸藩の形勢や国情を探 形勢や国情を揺り歩いた一方、特に柔術に長し自ら「二葉天明流」を興し、神職のかたわら練武場を設け近隣の者たちへ武芸を救えながら熱く勤王の志を説いた。
 文久三年(一八六三年)八月十七日 五條に主将中山忠光卿(前侍従)吉村寅太郎(土佐)松本奎堂(参州)藤本鉄石(備前)等三 いる天誅組の義挙が起こると妻子を残し、同志中山元定(越前)や欣求寺良厳等を引き連れ参陣 祀官として皇軍戦勝を祈騰する一方で自らも武人として栃原 樺の木峠、広橋峠で彦根藩、郡山藩を相手に奮闘、一時的に勝利を手にするも敗色濃厚となり無念の撤退、丹生川上神社下社も焼かれ起死回生の秘策として下市の敵陣営の夜襲を決行し快勝。
しかし 本隊の退却や離脱者も相次き ここに至り天誅組は事実上解散した。
九月末の東吉野村家口での最後の戦をかろうじて脱出、その後も勤王の志は何ら衰えす三河の村 上忠順宅に潜伏、元治元年(一八六四年)大阪にて大阪屋豊次郎と称して材木仲買商を営みながら同 志たちとの策を続ける中、十一月ついに幕吏に捕縛され翌慶応元年(一八六五年)六月京都六角獄 て処刑された、時に享年四十四才
慶応三年(一八六七年)に大政奉還、ここに明治維新の大業が成り橋本若狭の回天の志は見事成就 された
明治二十五年(一八九二年)五月靖国神社に合祀の栄典に浴し、同三十一年(一八九八年)七月正五位を賜る
若狭は資性沈着にして一旦発すれば大義を論して譲らず、挺身実行、敏速にして的確同志たちを して些かも迷わしめることがなかった。
今、天誅組の義拳より百四十年目にあたり若狭の誕生の地に碑を建立しその遺徳を称え、長く後世 に語り伝えんとするものである
    川上の 神の心を こころにて
         濁れる世には 澄むとそ思う
                      綱幸
平成十五年七月吉日 五條市滝町三五九 若狭実兄 益田吉兵衛子孫 益田𠮷博 𠮷仁 建立
五條市滝町 碑から約100m 旧滝小学校跡 南阿太(みなみあだ)小学校。吉野川北側の高台は阿太峰高原(梨を買いに行きました。)

今回も梨子本果樹園まで登って来ました。新高梨しかありません。14日、日曜日から柿だそうです。
ソフテイルで登るのはちょっと神経を使います。対向ができない農道です。

甘くておいしかった~。デカい!!!
樺の木峠 天誅組堡塁跡(とりで)

今は面影はありません。木の右側の道が道路拡張前の道。狭いです。昔はもっと狭かったでしょう。

シイタケの販売。

まだ暑い(痛むから)のでシイタケはありませんでした。500円と300円の二種類です。後ろの家が持ち主で両替しますのメモ。

R168に出て南下。五新線宗川橋梁

道の駅吉野路大塔手前100m北に天誅組本陣跡の看板。 坂を上がります。

50mほどで通行止め。天誅組本陣跡(維新歴史公園)まで約1㎞。石碑があるだけです。

通行止めの場所から見返し。行ったことにしました。

帰りに柿を買いました。

B級品500円 おいしかったです。

このあたりのお祭りは、万国旗を道路沿いにかけます。R480沿いにある蟻通(ありとおし)神社の祭礼。



大分ガソリンも安くなりました。ハイオク:163円。

今日も楽しいツーリングでした。
原付ばかり乗っていたので感覚が戻りません。年をますます感じます。
生きてるだけで丸儲け! 感謝!感謝!

終わり